エペソ書からの説教(その1)

 

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テキストの範囲

(久しぶりにここに書いてます。ずいぶんと長いことお休みしてしまいました。イースターは復活についての説教で、シリーズものではなかったので、今回からまた通常に戻ります。このページも以前のように、と思うのですが、無理のないように、ぼちぼち続けたいと思います。説教には関係ありませんが、気分を変えるために壁紙も替えました。学生らしく(?)方眼紙っぽくなりました。読みにくいかな?)

さて、今回から新シリーズです。前回が旧約だったので今回は新約。で、どこにするかをずいぶん前から考えていました。福音書、という案もあったのですが、今回はいろいろな思いもあってエペソ書に決めました。「キリストの体なる教会」をテーマとするこの手紙を通して、教会とは何か、いえ、私たちはこれからどうあるべきか、を考えていきたいと思います。

さて、いつものように、最初は説教のテキストとなる聖書箇所を決めます。今回は第一回ですから1章の始めから始まるのは当たり前ですが、ではどこまでか。目安となるのは「ある程度のまとまりをもったテキストで、説教が可能な限り長目にする」ということ。つまり1節だけでも説教のテキストとすることは不可能ではありませんが、著者が読者に訴えようとしていることができるだけ反映するように少なくとも一段落、あるは一章くらいを視野に入れなければなりません。同時に究極的には手紙全体が一つのメッセージを持っているのですが、それでは内容を読みとるのが大変で、表面的になりやすい。(それにシリーズが一回で終わってしまう。) そこで「適当な長さ」を考えなければならない。

ちょっと前置きが長くなりましたが、今回は書簡です。書簡はどれもそうですが、特にパウロの手紙は、内容が濃い。旧約のように長いストーリーを通して何かのメッセージを伝えるのではなく、手紙そのものが著者が読者である教会にメッセージをかたるものですから、よりストレートです。また、著者が教会の実状を知っていて、伝えるべきメッセージが多くあり、また「手紙」という媒介の性質上、極端に長くはできないので、必然的に内容は「コンデンス」されたものとなります。ですから1章でも長すぎるかもしれないので、おそらく1章を2回か3回に分けて語るくらいになるでしょう。

では1章を見てみます。1、2節は手紙としての形式的挨拶です。これは独立したものとして、今回の説教では取り扱いません。もちろん、その中にもすばらしい内容が含まれていますが。3節から、著者は神への賛美のような言葉によって本文を始めています。もちろん、これは形式的なものではなく、むしろ手紙全体の序文として、その内容の前提となる神学的メッセージでもあります。書かれていることは主に「神による救いの計画」についてです。15節からは読者に関することに話が移行して行きます。

もう一つ、日本語訳では15節は「こういうわけで」(新改訳)で始まっており、15節移行が14節までの議論に基づいていることを示しています。この接続詞は、14節までと15節移行の関連を示すとともに、それぞれの内容と併せて考えると、新しい主題の導入にもなっている。つまり連続性と不連続性を同時に示しています。手紙に限りませんが、詩編などの詩文学形式を除くと、多くの場合、聖書は各部分が完全に独立し互いに無関係なことがらの集まりではなく、関係を持ちつつ様々な内容を伝えているようです。ですからその連続性にも留意しつつ、テーマの変化を読みとることが、テキストの範囲を決める上で重要になってきます。

今回は1節(あるいは3節)から14節までが範囲となりそうです。内容的にも3節で「神が褒め称えられ」ることで始まり、6節、12節、14節で「褒め称える」ことを語っていて、全体として統一された箇所であることが明らかです。ですから、まず最初は1節から14節と考えます。

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テキストの構造と説教のアウトライン

範囲が決まったら、次はテキストの構造と説教のアウトラインを考えます。まず、構造を見てみます。1、2節は別にして、3節からの最初の部分では「父なる神の計画」が主に語られます。途中から、その計画の実現として「キリストによる贖い」がでてきます。最後に「聖霊の証印」が語られている。したがって、全体を3つに分けてよいでしょう。具体的には3節から6節が「神の計画」、7節から12節が「キリストによる贖い」、13、14節が「聖霊の証印」となっており、それぞれの部分の最後に「褒め称える」という言葉がまとめとして書かれています。

もちろん、「計画」は9節や11節にもでてきますし、13節にも「キリスト」が含まれており、また11節と14節で「御国を受け継ぐ」ということが語られています。ですから、この三つはお互いに関わりあったテーマとして描かれています。でも話題の進展としては、先に挙げた3つを軸に勧められていると思われます。

構造は以上のようですが、主題、あるいは中心メッセージは何か。神を誉め讃えるということが何回も出てくるのでこれが中心かというと、ちょっと違うように思います。誉め讃える「ために」とあるように、「誉め讃える」は目的です。では何を言っているか。

3節から6節では、神が私たちを祝福されたこと、そしてその祝福とは私たちを神の子とするために予め選んでくださったことです。つまり私たちを救う神の計画を語っています。そのように私たちを救おうとされる神の愛を考えるならば、このお方の栄光を賛美するようになる。それが6節の結論です。

7節からは御子によってなされたことが挙げられています。一言で言えば「贖い」(7節)ですが、単に罪の赦しだけではない、と著者は言っています。それは「奥義」(9節)、すなわち世の終わりには一切のものが一つに集められ、私たちは御国を受け継ぐ、ということです。すなわち、ここで語られているのは、終末の天国の恵みです。神の救いの計画は今現在の救いだけではなく永遠の祝福である、ということを考えるなら、神を誉め讃えないではいられないのです。

13、14節は、その天国の約束の保証として聖霊が与えられていることを取り上げています。天国の約束が空手形ではないことを神自ら保証するため、私たちが御言葉を聞いて信じることができるように、聖霊が働いて下さった。だから、不信仰な人間が信じて救われたことで神の証印が押されたことが分かる。ですから神を誉め讃えるのです。

こういった流れを見てくると、神を誉め讃えるのは、私たちが神の救いの計画をしることの結果であると言えます。したがって今回のテキストの中心テーマは「神が私たちを救うように計画され、実行され、保証して下さった」、つまり「神の救いの確かさ」です。この確かな救いを学ぶときに、そしてそこに表された神の愛と恵みを知るときに、私たちは神を誉め讃えるものとされるのです。「神を誉め讃えるために」必要なのは、神の救いのご計画を知る事なのです。

このテーマを軸に説教を進めると考えると、以下のようなアウトラインが出てきます。

まず、神は天地創造の前から私たちの救いを考えていて下さった、ということ。ここでは「予定論」のような神学的な議論ではなく、救われて初めて理解する神の愛の深さ、という側面を考えたいと思います。第二に、この救いは贖いによる罪の赦しに始まり天国での祝福につながっている、ということ。最後に、この救いの約束は聖霊によってすでに保証されていること。

しかし、こういった話しはともすると神学の授業のようになりがちです。一つは救いの恵みとしての理解、もう一つはエペソ書のテーマである教会との関係にまで展開を広げるかもしれません。

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テキストの分析(エペソ1:1−15)


上の初期的観測を土台として、テキストを原語聖書で読み、細かい点を分析します。

1節 パウロが使徒となったのは神の意志によるもので、パウロ自身から出ているのではない。「から」は原文には無いが、手紙の形式なので、日本語訳では付け加えられる。「聖徒」、パウロはクリスチャンを、ユダヤ人、異邦人の区別無く、聖徒と呼ぶ。「忠実な」は彼らの性質を表すか、あるいは「(キリストを)信じている」と言う意味で用いられているかもしれない。幾つかの写本で「エペソの」を欠いているものがあるが、手紙の内容自体は全ての教会に当てて書かれたようなものだから、例え読者がエペソ教会で無かったとしても大きな問題は無い。最初には書かれていた宛先が書き写す途中で落ちたのか、あるいは最初は宛先が自明だったので書かれていなかったのが途中から宛先を書き残す必要が生まれて書き加えられたのか、いずれだろう。
2節 「恵みと平安」はしばしば手紙の挨拶で書かれている。どちらも神から来るもの。神を「私たちの父」と呼ぶことはイエスの教えであった。
3節 日本語訳では「誉め讃えられる」(新改訳)だが、正確には「祝福があるように」という言葉。しかし、人間が神を祝福するのは変なので、その場合は「ほめたたえる」と訳して良い。5節以降の「ほめたたえる」とは違う言葉だが、どちらも賛美に関わる点では同義語と見ていい。むしろ、本節では最初の「祝福」と、神が私たちを「祝福」して下さったこととが、並列されているに注目するほうが良い。「天にある」は「天的な」あるいは「天的な世界(霊的な領域)において」という言葉。この節には主動詞は無く、関係節の中で(つまり分詞形で「神」を修飾するかたちで)「祝福した」とあるのみ。
4節 前節から続いていて、神が祝福(賛美)される理由が挙げられ、従属節となっている。あるいは、前節の「祝福」がどの程度のものであるかの説明と解することもできる。「キリストのうちに」は本当は「彼のうちに」だが、前節で「キリストにあって」と書かれているので、「彼」がキリストを指すのは明らか。「世界の基の置かれる前」は直訳すると「宇宙の創造の前」。私たちを選んだ目的を不定詞を使って後半で表す。それは聖くなること。「傷の無いもの」は、批判されるところが無い、ということ。彼(神、あるいはキリスト?)の前で批判されることが無いのは、私たちが罪を犯さなかったからではなく、「(神の)愛において」。この最後の「愛において」という句は次の節に属していると見ることもでき、新改訳はそのように理解している。
5節 「定めた」は分詞形だが、前節に結びつくと考えると、「定めてから、選んだ(14節)」と時間的順序を示すと理解でき、新改訳は「あらかじめ」という言葉を補っている。しかし、3節の「祝福した」と平行していると見ると、神が定めて下さったのだから誉め讃える、と解釈できる。前者の方がスムーズと思う。神が定められたのは、私たちがキリストを通して養子とされることであり、このことは神の意志による。「みこころのままに」は「彼の意志の求めるところに従って」。この「求めるところ(あるいは、善意、願い、目的、選択、など様々に訳される)」は9節にも出てくるが、日本語訳では表現し難い。
6節 「賛美のために」、前置詞を用いて目的を表している。「愛する方」はキリストを指す。3節からの流れをもう一度見ると以下のようになる。
  神に祝福(賛美)を! それは神が私たちを祝福したから。(3節)
  その祝福とは、創造以前から私たちを救いに選んだこと。(4節)
  その選びは、神が定めたことであり、私たちを養子にすること。(5節)
  

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