(先週末からコンピューターの調子が悪くて、時間も足らなかったので、ここには書き込めませんでした。今日から再開、でもまだ設定ができていないので、手直ししながらアップロードしています。)
14節まででパウロは神の計画について語りました。「私たち」や「あなた方」という言葉を使っていますが、内容は一部のクリスチャンに関してではなく、すべてのクリスチャンに関わることでした。15節から、より特定のこと、すなわち「あなたがた」のことがでてきますが、20節前後から再び一般的真理が主題となります。もちろん、このような手紙(を用いた説教ないし教え)においては「あなたがた」は特定の教会だけでなくすべてのクリスチャンを対象としています。ただ、著者は読者の注目を引き、また説得しやすいように各所で特定的に「あなたがた」と呼びかけています。同時にこのような語りかけは話題の転換にも役立っているようです。14節までの三位一体的な救済計画から、「あなたがた」のための祈りを経由してキリスト論的なこと、特に教会との関係へと展開しています。
2章1節からは「罪と救い」という新しい話題が始まるので、新しいテキスト範囲と考えられます。では15節から23節がひとつのテキストか、というと、15節から19節は祈りに関してであり、20節移行はキリストの権威に関してです。しかし、「全能の力」という言葉で両者は結びつけられており、19節までの土台の上に20節からの議論が建てられている。その点で両者は続いていると思われます。また、「あなたがた」から始まり、神、キリストにポイントが移っていき、最後にまた教会に戻ってくることで、話が脱線しないようになっています。
以上から今回は15節から23節をテキストとして準備を進めます。
(パウロの手紙に限らず、新約の手紙、正式には書簡、あるいは手紙形式の説教・教え、というのは短い範囲でも多くの内容を盛り込んであり、様々なことを教えようとしている印象があります。ですから今回のように9節だけであっても、内容的には豊富であり、構造も複雑です。これくらいの長さが適当でしょう。)
上にも述べたように、全体の構造は2つに分けられます。まず、15節から19節はパウロの祈りです。その中で、15節、16節は祈りの事実、17節から19節は祈りの内容です。その内容とは一言でいえば読者が神の力を知るように、ということ。その力によって復活したキリストへと話題が展開して、20節移行はキリスト論です。そのうち、20節から22節はキリストがすべてに勝る存在であり、すべての支配者であること、そして22節途中から23節は、そのキリストと教会との関係が述べられています。
日本語訳(新改訳)では、この構造が次のような言葉によって理解できます。15節、16節は主語が「私」であって著者が祈っていることが書かれています。17節からは「どうか」という言葉で始められ、「ように」という言葉が2回現れ、祈りの形式をとっています。20節からは「神」が主語となってキリストが目的語(間接目的語、でしょうか)になっています。22節後半ではキリストが直接目的語で教会が間接目的語(「キリストを教会に」)となり、23節では教会が主語となっています。
細かい点は後でギリシャ語で確認しなければなりませんが今のところこのような構造と見なします。
さて、この構造からどのような説教のアウトラインが浮かぶでしょうか。アウトラインも2ポイント、それぞれが二つに分けられる、ということでもよいのですが、もう少しつっこんで考えます。問題は、このテキストを用いて著者は読者に何を訴えようとしているか、です。
まず最初の部分、15節と16節。ここは14節までの「神の救いの計画」を受けて、読者がそのような救いに預かっていることへの感謝を述べています。彼らの救いは、彼らのキリストへの信仰と聖徒への愛によって確認できるからです。そして、そのような救いを受けたのだからもうそれでおしまいではなく、さらに祈り求めています。したがって、ここでは読者に彼らの救いを確信させて励まし、さらなる成長を促しているわけです。
17節からは、その祈りの内容です。もちろん、「絶えず」と書かれている日常の祈りそのものではありませんが、パウロがどのような祈りを捧げているかを知らせることで、読者が目指すべきことを示していると思われます。祈りは人に聞かせるためではなく、神様へのものですが、それを書き表すことで、読者にもパウロが大切と考えて祈る求めていることを知らせている訳です。
その内容とは、神を知るようになること(17節)、救いの豊かさを知ること(18節)、そして神の力の偉大さを知ること(19節)です。救われた者たちはさらに神を知る人生へと進むのです。ヨハネの福音書の中で、イエスが「永遠の命とは神を知ること」と述べたことを思い出させます。
神を知ることは、それが後に続く議論の土台だからです。20節で、神の全能の力はキリストの復活と昇天において表されていることが書かれています。これら、特に復活は、神の力の「証明」でもありますし、また「帰結」でもある。復活によって神の力が疑うことのないものであると示されたし、神が全能のお方であるから復活も昇天も起きたのです。
21節は、その同じ力こそが、キリストに最高の地位と主権とを与えられた力であることを述べています。神の偉大さからすれば当然のことと言えます。まとめとして「いっさいのものをキリストの足の下に従わせ」、したがって教会もその足の下にあるべき存在ですが、同時に教会にとってキリストは「かしら」でもあります。実は、このことこそ、ここまで述べてきたことを目的ではないでしょうか。神の偉大さ、キリストの偉大さ、すべては教会のかしらであるキリストに導くためでした。
もっとも、このキリストと教会に関しては、2章ではなく、もっと後で展開されていく主題です。罪からの救い、キリストによる和解、といったことも「キリスト論的教会論」(あまり上手い用語ではありませんが)の重要な前提です。したがって、目的、ということからいえば、1章は本書の主題への前提の一つを語るだけでなく、2章以降で取り扱われる話題への布石ともなっているようです。と言うのは、1章に出てきた言葉、たとえば「奥義」が、後からまた展開される(3章など)からです。1章全体は本書の様々な内容への導入となっており、その中で今回のテキストは「キリスト論的教会論」への布石となっている気がします。
長くなりましたが、以上のような流れを考えると、このテキストを通して著者が訴えようとしているのは、次のようになります。
まず、神を知ることの重要性。この場合、救いへの感謝は導入となります。救われたものにとって何よりも大切なのは、神様をもっと知ること。それがクリスチャンの生き方を変えるからです。
次に、キリストの主権。キリストこそ世界の主である、というのは神を知るようになったキリスト者の信仰です。
最後に、そのキリストが教会の主であること。キリストが世界の主であることは教会、ないしクリスチャンが支配者であることとは違います。キリストが主であるなら、誰よりもキリストの体である教会こそが従わなければならない。この主題については、また本書の後の方で扱うのですが、今回は少し先取りして語りたいと思います。
上の著者の主張に沿ってアウトラインを組み立てると、 1 神を知る 2 主なるキリスト 3 体なる教会 となるかと思います。
時間切れでここまでしか書けませんでしたので、直接説教原稿へ。