エペソ書からの説教(その3)

 

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テキストの範囲

(また間が空いてしまいました。コンピューターの設定がまたすんでいない所為もあるのですが、これを書くペースが一回崩れてしまうと元に戻るのが難しいことが分かりました。勢いと習慣で続けていた訳です。また慣れるのにしばらくかかりそうです。)

1:23と2:1との間に区切り目があるのは(例え、章の区切りがなくても)内容から分かります。むしろ、この前後がどのように関係しているかのほうが難しそうです。おそらく1章後半でキリストの体としての教会について語った後で、そのような光栄ある教会の姿と比較して、以前の「あなたがたは」罪の中に死んでいた、と述べているようです。キリストの体なる教会に加えられたのは、罪による死の状態からキリストの復活に与った(5、6節)ことと述べて、教会論から救済論への話を展開させています。

1節と5節の「罪科(と罪)の中に死んでいた」、また4節から9節の「あわれみ、愛、恵み」と言った範疇の言葉がこの箇所を結びつけています。つまり、罪と死から、神の恵みにより救われた、という主題です。恵みによる救いの補足説明としてその逆の「行いによる救い」を否定(9節)する部分もここに加えられるでしょう。

11節以降が新しい範囲であることは、「思い出してください」という命令形によって区切られているばかりでなく、内容的にも変化が見られます。11節からは今まで出てこなかった「異邦人とユダヤ人」というテーマが現れ、キリストの救いを敵対する者たちの和解として描いています。そして、その和解のにキリストの体なる教会が組み合わされて建てあげられている(22節)。こうしてエペソ書の中心主題である教会論と結びつくわけです。

今回の範囲を決める上で考えなければならないのは、従って、「恵みによる罪からの救い」と「(旧い)契約による敵意からの和解」という二つのテーマを別々に扱うか、それとも教会論(キリスト論)を中心として一つと見るか、です。どちらも可能ですが、「救い」も「和解」も、二つとも大きなテーマですので分けて扱うことにします。

今回は2:1から10節までを説教のテキストとします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

1節から3節は、「かつて」の罪の状態について扱っている点で一続きです。4節は「しかし」と始まり、その罪からの救いを述べ始めているので、新しい部分の始まりと考えられます。5節から7節は「キリスト」における救いの御業、8節、9節は恵みとしての救いを述べています。9節と10節はともに「行い」が出てくる点で関係しているようですが、その取り扱いにおいては正反対のように見えます。

ここまでを「流れ」として見ると、まず過去の状態を「罪に死んだ」と述べた(1,2)あと、その罪故に滅びるべき存在(3)を神は憐れんで(4)、キリストを通して救ってくださった(5−7)。その救いは神の恵みによる(5,7,8)のであり、自分の行いによるのではない(8,9)。しかし、(行いは救いのためではないが)、神の作品として良い行いをすることが求められている(10)。この流れの中で、10節だけがやや分離しているように感じます。

こうした流れの中にあっても、書かれているテーマとしては、罪(1−3)、救い(4−9)、良い行い(10)と分けることができます。また、救いについての部分は「キリストによる救い」(5ー7)と「信仰による救い」(8,9)と分けられます。

以上から、この部分の構造として二種類のことが浮かびます。まず第一は、罪(1−3)、救い(4−9)、良い行い(10)と分けるやり方。第二は、「罪」(1−3)、「キリストのよる救い」(4−7)、「信仰と行い」(8−10)と見るやり方です。後者の方が長さのバランスが良いのですが、神の恵みという7節8節の関係を落としてしまいます。もう少し詳しくは後でギリシャ語で読んだ時に考えます。

さて、メッセージのアウトラインですが、第一の構造は「罪」「救い」の後、キリスト者の生き方としての「行い」を述べる点で、教会論と関係してくるのが勝っているように感じます。第二の構造では、最後の10節がおろそかになってしまいます。そこで、今の時点では第一の構造に沿ってアウトラインをくんでみます。すなわち、「1.罪の中に死んでいる人間」、「2.恵みによる救い(その中に「キリストによる救い」と「信仰による救い」の両者を含む)」、「3.救われた者たちの生き方」という線で進めます。

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テキストの分析(エペソ2:1−10)


1節 「あなた達」が強調されて、「しかし、あなた達は」と書かれている。これは何かに比べて「あなた達は」ということ。「(死んで)いる」は現在分詞であり、1:23でキリストが「充ち満ちておられる」のが現在分詞であるから、そのようなキリストと比較したときに、「あなたたちは死んでいる」と言っている。日本語訳では過去形として翻訳しているのは間違いではないが、それは次節の「かつて」による。ここでの現在分詞はそのような状態に居続けている連続性を示していると思われる。二種類の「罪」という言葉が使われている。一つ目は「悪い行い」を意味し、エペソ書では1:7と2:5にも出てくる。二つ目はより一般的な用語で、罪の故に支払わなければならない購いの犠牲を指すこともある。しかし、ここでは用語の違いより罪の状態の強調のために2つを用いていると思われ、その後で「罪」について大きな展開はない。「(罪の)なか」というよりも「罪に関して」、あるいは「罪のよって」。
2節 前節の「罪」を受けて、「その中で」。罪の中に歩んでいる状態を二つの「従って」によって表現している。二つのことは接続詞「そして」ではなく並列されているので、別々のことというより同じ事を二つの面から叙述していると思われる。罪の中に歩んでいるとは「この世のアイオーン」に従うことであり、「空中の権威の支配者」にしたがうこと。「アイオーン」には様々な解釈がある。エペソ書の中では、1:21で来る世に対する「この世」、2:7では来ようとしている「世」、3:9では永遠の「世」、3:11と21では「永遠」、などと主に「時代、世」といった意味で使われている。しかし、これだと前後に合わない(この世の「世」)ので、人格化して「この世を支配する者」(新共同訳)か、意訳して「ながれ」(新改訳)、「ならわし」(口語訳)と解する必要が出てくる。正確な意味を一回の説教の準備で決定することは難しいし、時間がやたらととられてしまう。ここでは、翻訳を尊重しつつ、前後から「悪魔の支配下にあるこの世の流れ」と考える。「空中」は天と地の間のことだろうか。直訳は「空中の権威の支配者」。次の「霊」も含めて、すべてサタンを指している。罪の中を歩むのは、サタンの支配する世の流れに身をゆだね、その権威に支配され、他の罪人を動かしている霊に従うこと。
3節 前節の描写は世の人や読者を批判するためでなく、「私たち自身もまた」その中で生きていた告白へとつながる。「肉の欲」は他ならぬ「自分の」であり、その肉と思いの望むことを行ったとは自分の思いを行ったこと。「(生まれながらの)怒りの子」は、人間が怒ることを指すのか、神の怒りを受けるべきことを指すのか、多くの訳は後者を取る。後者の方が文脈に合っていると思われるのは、次の節で、そのような怒りを受けるべき私たちを神が憐れんで愛してくださったという対比から。
4節 憐れみの豊かさと愛の「大きさ」は同じ語源から派生した言葉。
5節 死んでいたものを神は生かしてくださった。「(死んでいた者)でさえも」と訳すのが良い。キリストにおいてともに生かしてくださった。「ともに生かす」は一つの動詞。「キリストにおいて」は次の節にも現れ、救い全体がキリストにおけることを示す。挿入的に「あなた方が....」(完了分詞を用いている)とあるが、文章的には挿入句がない方が「キリストにおいて」がはっきりする。それにも係わらず、ここに挿入されているのは、突発的に「思わず」述べたのか、あるいは8節の伏線を引いているのか。どちらにしてもキリストとともに生かされたのは、異邦人である読者にとってはただ恵みによることを思い出させている。
6節 「ともに甦らせ」「ともに座らせる」はどちらも一語。神の怒りを受けるべき存在が神の御子とともに天上に座すことができるとは驚くべき救いである。
7節 目的や結果を示す接続詞ヒナで始まっている。6節までのキリストによる救いの目的が「恵みを、表す」ことなのか、結果として恵みが表されるのか。前者を、「神が自分の良さを誇示するために」という感覚で「目的」と見るのは間違い。神の無条件の愛(4節)が原動力となって救いがなされたのだから、その救いを通して神の恵みが表されるのは当然のこと。来るべき世において表されるのは私たちの復活と「天の座に着」くのは新しい「世」において実現するから。
8節 「恵み」には定冠詞がついているのは、前節までで説明された恵みを指している。「恵み」は与格を用いて手段・道具を意味するのに対し、「信仰」は前置詞ディアを用いて「(信仰を)通して」。この前置詞は手段をも意味するが、「恵み」の場合とは違う機能としてとらえるべき。神の恵みによる救いと人間の信仰による救いとは同次元の「による」ではない。「これ」は中性代名詞なので、前の「信仰」や「恵み」(共に女性名詞)ではなく、救われたことを指す。救いは「あなた達」から出たのではないから、その意味で信仰が救いの源泉ではない。そうではなく徹頭徹尾、神の「賜物」である。
9節 二重否定を用いているが、すなわち、行いによって救われるのなら私たちは誇ることができる、ということ。そうならないために、神は恵みによる救いを賜物として与えてくださった。
10節 神の作品は巧い訳。「キリストにおいて」、あるいは「キリストの内に」。後者とすると、私たちの新しい存在としての姿はキリストの中に形作られているのであり、救われた者はキリストの姿に変えられていく、という事かも知れない。「良い行い」の前の前置詞エピは様々な用法があるので、意味を決定しにくい。この「良い行い」は、9節の「行いによる救い」の行いではなく、神が造られた行い。私たちはそれを「行う」のではなく、神の造られた良い行いの中を「歩む」。

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今回も、ここまで。あとは説教の原稿へどうぞ。
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