エペソ書からの説教(その5)

 

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テキストの範囲

まず内容から判断してみます。が、内容というのはかなり主観に左右されるので、かならずしも正しいとは言えません。でも、主観がいけないのではない。主観が無ければ機械になってしまうから。

3章は前半でパウロの異邦人伝道の意義について「奥義」という言葉で説明しています。後半はパウロの読者のための祈り。どこで区切るかは、おそらく14節の「こうして」という接続詞によると考えて良いと思います。前半はクリスチャン(特に異邦人)が与えられた恵みを示し、後半は祈りを通してクリスチャンの目指すべき恵みが語られていて、この両者は、関連はありますが別々に取り扱うべきでしょう。したがって、2:1ー13が今回の範囲となります。

もちろんここまでの話はかなりおおざっぱなもので、いくつかの問題があります。まず、一節で「こういうわけで」と始まっているのは、前章とどのような関係を意味しているのか。また、「パウロが言います」といって述べようとしている内容は何なのか。後者については3章の前半、後半、あるいは4章を指す可能性があり、3章の前半でないとすると、2節から13節は挿入と見ることができ、1節で「囚人」と自己紹介したパウロがその言葉から読者がネガティブなイメージを受けないように補則されたと思われます。しかし、2章後半の「(ユダヤ人と異邦人の)和解」というテーマと、3章前半の「(異邦人がユダヤ人と共に)共同相続人となる」というテーマが強く結びついていることから、むしろ「奥義」について説明するために、あえて自分の「囚人」である状況を持ち出して主題を発展させたと考える方が良さそうです。

この意図的な「挿入」は13節で結論づけられ、さらに、そのような恵みを受けている異邦人クリスチャンにさらなる恵みに進んで欲しくて、14節以降の祈りが加えられていると思われます。これら二つの恵みを基盤として4章からいよいよ本論である教会論が展開していきます。そして4:3−7にあるように教会論の根底となる「一致」は、2章の和解、そして3章の「奥義」が土台となっている訳です。こうして、2章から4章にかけては主題的な結びつきがあることが分かります。繋がりが見えたなら、では、どのような区別があるのでしょうか。

2章後半と3章前半は共にユダヤ人対異邦人の問題を扱っている点では共通しています。しかし、よく読むとそこに違いがあります。まず、2章の「和解」はユダヤ人と異邦人との関係以上に人間と父なる神との間の和解です。それに対して、3章の「奥義」は「共同の相続者」として両者が等しい身分となることに強調点が置かれています。もちろん、その複線は2:19で「同じ国民」と述べられていることから引かれていますが、そのテーマを展開したのが3章前半です。その意味で3章は2章の和解をもう一歩進めた内容となっています。また、4章の「一致」は、その後の「多様性」とのバランスの上に成り立っており、キリストの体である教会の特性として語られています。この「身分としての同格」から「体としての一致」を結ぶのが3章後半の「神の愛を知る」事です。このようにそれぞれの部分が異なる主張を述べつつ、教会論が展開されていっています。

少し長くなりましたが、とにかく、今回の範囲は3章1節から13節とします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

さて、ここまではテキストの前後を含む部分の構造(ここの関係)を考えてきましたが、今度はテキスト、今回はエペソ3:1−13、の内部構造をみたいと思います。(しかし、今回のは結構難しい....)

1節は「こういうわけで」と2章とつなげつつ、2節以下を導入しています。2節からはパウロの務めと「奥義」について。2節、3節の「すでに聞いた」、「先に書いた」はおそらく1章、2章のことを指すと思われます。5節と6節はこの「奥義」を説明しています。7節はその奥義(福音)とパウロの関係を述べ、8節から10節ではパウロにその指名が与えられた目的が明らかにされています。11節は、その続きであり、同時にキリストにおける神の「計画」(1章参照)と関係させています。この、神の御旨の実現であるキリストを軸として12節に進み、その結果として13節の結論が導き出されます。

こうした流れを見てくると、明確な「区切り」が見いだしにくいことが分かります。むしろ、テーマを織り交ぜながら、徐々に話題が発展していくように見受けられ、したがってわかりやすい構造では無いことになります。ですから最初は展開される主題を探る方が良いかも知れません。

まず、1、2節は導入ですので別にして、3節から6節は「奥義」について。その中でも3節から5節は奥義の啓示に関して、6節は奥義の内容に関して書かれています。7節は、その奥義なる福音とパウロとの関係に関してで、2節とつながっており、また8節と共にパウロにこの務めが与えられたことを語っています。8節の後半から10節はパウロにこの務めが与えられた目的。11節で、この目的と神の計画の関係を述べ、12節はその結果として読者が受けている恵みを述べています。その恵み故に、12節では「パウロが囚人であること」(1節)の結論が述べられています。

こうしてみると、3節から6節が「奥義」、7節から10節がパウロの務め、12節と13節で読者の受けた恵み、というテーマで進展しているようです。1、2節、7節、11節は導入やつなぎと考えられます。おおざっぱですが、テキストの構造です。

メッセージのアウトラインですが、このテキストの構造に沿って考えます。まず、第一に、啓示された奥義。異邦人の救いが旧約聖書の時代には人間には理解できなかった神の計画であることを見ていきます。第二に、実現された奥義。それはキリストにおいて実現し、パウロにおいて(そして同じ務め、すなわち宣教に召されている全てのクリスチャンによって)具体化して行くものです。第三に、私たちに与えられた奥義。神に近づける事、苦しみが栄光となる事、などは私たちがこの奥義である福音を頂いた結果です。

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テキストの分析(エペソ3:1−13)


1節 「こういうわけで」は2:19(一般的な「従って」)とは違う言葉で、「このことの故に」。「このこと」は2章で述べられた異邦人の救いのことだろうか。 1章では「キリスト・イエスの使徒」と自己紹介したパウロが、今度は「キリスト・イエスの囚人」と自分を述べている。実際に囚人であった(3:13、4:1、特に6:20)事を示すと共に、彼がローマ帝国の囚人ではなく、実はキリストに捕らえられた存在であることをも含んでいる。 特に彼は「(あなたがた)異邦人のため」の囚人である。これは読者に恩を着せるのではなく、2章で素晴らしい救いに与った異邦人を指しており、パウロの働きの栄光を示唆していることが後(13節)で明らかにされる。
2節 「務め」は1:10では「この時のためのみこころが実行に移され」と意訳されている言葉(1テモテ1:4でも同様に訳されている)。家の管理者の務め(ルカ16:2−4参照)を指す言葉で、定められた働きを忠実に実行する務めを意味する。パウロが「神の恵み」によってこの務めを受けたということは7節以下に展開される。 「あなたがたはすでに聞い」たとは1:1、10などを指すのか、あるいは先に回覧された手紙(パウロの手紙は地域の教会に回し読みされていた)の事か、あるいはパウロがエペソにいたときに語ったことか。具体的にはパウロが異邦人の使徒であることだから、いろいろな機会に聞かされていただろう。
3節 同様に、「先に書いた」はこの手紙の1、2章を指すとも、あるいは他の手紙を指すとも考えられる。パウロが異邦人の使徒としての務めを与えられたこと、すなわち神が彼を使わしたのは異邦人の救い、すなわち「奥義」のためであることは1章でも述べられている。 パウロがこの奥義を知ったのは、神の啓示による。この啓示はパウロの回心という特別な出来事においてだけでなく、その後に彼が(旧約)聖書から教えられたことも含んでいると思われる。
4節 パウロは手紙の中でたびたび「奥義」について語った。特に、第一コリント(6回)、コロサイ(4回)、そして本書(6回)が顕著。それは異邦人の救いだけではなく、パウロの福音理解の様々な面にわたって書かれている。本書では異邦人の救いとそれによりユダヤ人と異邦人が一つとされてキリストの体なる教会を形成すること。
5節 「前の(直訳は別の)時代」に人々に「今と同じようには」知らされていなかったのは、全く啓示が無かったのではなく、ユダヤ人の旧約聖書の読み方では理解できなかった。新約時代になっても「御霊によって」でなければ分からなかった。 「預言者」は旧約のそれではなく、使徒たちのように教会のなかの職分の一つ。
6節 福音に従い、キリストにおいて、異邦人が与えられた恵みを3つの言葉で表現している。「共同相続者」、「一つの体」、そして「約束の共有者」である。別々の事ではなく、全体として一つのことだろう。
7節 パウロ自身のことに話題が移る。前節の福音に対して彼は仕える者とされた。執事、管理者などとも訳される言葉。彼の「異邦人の使徒」としての働きは、神の恵みとして賜物として神から与えられたものであり、神の力がそうしたのである。パウロは神の任命としての使命であることを主張している。しかし、それは権威のためではない。
8節 彼は神からの使命を与えられつつも自分の事を「全ての聖徒(クリスチャン)のなかでもっとも小さな者」と「小さい」の最上級を用いて述べている。この彼の自覚は、自身が迫害者であったことだけでなく、救いの後にも深められていったものである。 そんな彼に恵みとしてこの務めが与えられたことの理由が以下に続く。迫害者が宣教者となり、ユダヤ人のなかでも特にパリサイ派であった者が異邦人伝道に使わされるということにより、キリストの救いの恵みの豊かさを知らせるため。「測りがたい」は、人間の心には理解できないということ。
9節 「実行に移す務め」は3:2の「務め」と同じ語。彼の働きは神の計画を忠実に果たすものだった。しかし、単なる実行者ではなく、彼自身が恵みを受け、恵みを表す存在でもあった。
10節 さらに、神の豊かな知恵を示す、すなわちキリストにあって万物を一つにする(1:10)という奥義は神の知恵の表れであった。この知恵は「天(の世界)にある支配と権威」、すなわち天使たちにも知らされていなかった奥義であり、教会を通して示される。
11節 この奥義は永遠の計画であって、キリストにおいて実現された。その計画にそってパウロの働きは進められていったのである。
12節 奥義を実現したキリストにおいて、そして「彼の信仰」(あるいは彼を信じる信仰)によって、私たちは確信を持って「大胆さ」と「入る自由」を持っている。どこに入るかは書かれていないが、御国(1:11)であり、「父の御元に近づく」(2:18)ことであろう。
13節 前節に書かれている異邦人が受けた恵みと、7節から10節にあるパウロの働きの素晴らしさを考えて、パウロが苦難を受けているという表面的な姿によって落胆しないように願っている。「苦難」(複数形)を「それ」(単数形)で受けているので、他の事とも考え得るが、文脈からパウロの苦難を指すと見る。彼の苦難は異邦人の栄光である。キリストにあっては苦難は栄光となる。

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説教の中心とアウトライン

自分が囚われの身であることを心配しないように、というのがパウロのメッセージではないでしょう。むしろ、そのような状況をも用いて、福音の奥義を読者に訴えていると考えられます。すなわち、彼が苦しみを受けていることさえも実は素晴らしい意味を持っているという事です。それを説明するためにパウロは「奥義」を中心に話を展開します。

従って、パウロのメッセージの中心は「神の奥義の素晴らしさ」だと言えます。彼は、それを三つのポイントに従って語っています。まず、奥義の内容、それは異邦人の救いであり、旧約時代には理解できなかったほどの大きな恵みだと言うこと。次に、パウロはそのための務めに召されており、迫害者であった彼が伝道者となったこと自体が奥義を指し示していると言えます。最後に、その奥義なる恵みによって救われ祝福に与っている読者とパウロにとって苦難すらも栄光となることを語っています。

このパウロのメッセージは、今の教会にとってどんな意味を持っているでしょう。特に、ペンテコステに当たり、教会の存在意義と結びつけて考えたいと思います。聖霊が下り教会が誕生したのは、世界宣教のためでした。それは単に一つの宗教が拡大すると言うような次元のことではなく、パウロの言葉によるなら、神の計画された奥義の実現であって、罪によって堕落し神から離れていた被造物、特に人間が、異邦人とユダヤ人の区別無くキリストにあって一つとされ、神のもとに集められるという神の知恵の具現だったのです。その宣教の流れの中で私たちは救いに与り、また自分たち自身が宣教の働きに召されています。それは時には苦難をも伴うことですが、この働きと与えられ、また約束された祝福の豊かさを知るときに、苦難すらも無意味ではなく、栄光に満ちたものとなるのです。

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