ヘブル書からの説教(その1)

ヘブル書1章1節から2章4節、9月3日礼拝にて
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ヘブル書を選んだ理由

私は(父のスタイルに倣って)旧約と新約を交互に開くことにしています。民数記の前は黙示録でした。新約聖書は、それまでに使徒の働き、パウロ書簡のうちいくつか、福音書から学んできていて、今回はどれかの書簡にするつもりでした。教会で他のメッセンジャーが扱った箇所もあるので、それと重ならないようにすることも考えながらヘブル書を選びました。
ヘブル書というのはご存じのように旧約聖書とのつながりが多く、創世記、出エジプト記、民数記と学んできた教会にとってはなじみの少ないものではない、と言うのも理由の一つです。また、旧約から語っていると、キリストについて間接的にしか取り扱うことが出来ないので、よりストレートにキリストによる救いを語る必要もあります。
祈りつつ、思いめぐらしている中で、ますますこの書をひもといてみたくなりました。そんな訳で、いよいよヘブル書のスタートです。

説教箇所の範囲を決める前に

新しい書に入って最初の説教は、少なくとも始まりは決まっているからラク?かといえば、実は結構悩みます。というのはいつもそのときの箇所を決めつつ、必ず次とその次の箇所もある程度決めながら進むので、一度シリーズが始まれば結構スムーズです。ところが最初の時は、今回の区切り方が後々に影響を与えるので慎重になります。
一回の分量は長すぎると扱いが難しい(民数記を初め、旧約では長くなりやすい)し、短すぎるとその書を終えるのに長くかかってしまう。ちょうど良い長さというのが結構困ります。新約でしたら短くても一段落、長くても1章(+アルファ)くらいが良いと思います。ただ、段落の区切りや章(節も)の区切りは後から付け加えられたものですから、結局は自分で考えなければならないことが多いようです。

ヘブル書は区切りにくい?

ところで、聖書というのは現代の学術書のようにはっきりとした区切り方をすることよりも、書物全体が一つの流れを持つように書かれていることが多いようです。ヘブル書も例外ではなく、どこで区切るかはかなり難しい問題です。
例えば、(うまく区切れたとして)パート1とパート2を見ると、パート1の終わりの方にはパート2のテーマが顔を覗かすことがあり、逆にパート1で扱ったことをパート2でちょっとだけ触れたりする事があります。またパート1とパート2の間につなぎの部分があって、それはどちらのパートにも結びつけることができる、なんていうことも少なくありません。
また区切った各部分が必ずしも説教の一回分とは限らないこともあります。結局は、暫定的に区切っておいて後から必要に応じて修正することも考慮に入れるようになります。
今回は、とりあえず、1:1〜2:4として、細かい分析はそれより後の部分も含めて見ることとします。

テキストの範囲を決める

 さて、まず最初に自分の聖書(あるいは教会で使われている聖書、ほとんどの場合日本語と思いますが)を読みながら、説教箇所の構造を考えます。もちろん後から細かいところを原文と当たりながら修正して行きますが。
 ヘブル書の最初の部分(1〜3または4)は一つの段落と言うよりも書全体の序文のような印象を受けます。預言者たちを通して神が語ったことから、この書の大きな特徴である旧約聖書からの数多い引用の前提を作ります。また、本書の中心主題である御子を神との関係において紹介していますが、この御子の至上性はこの書の最初の2章におけるテーマとなっていきます。
 4節は「相続」というキーワードによって1〜3節と結びつき、「御使いよりまさる」というテーマにおいて5節以降とも結びついています。従って4節はその前後を結びつけるブリッジのような働きをしているようです。(4節の前後で文章や段落の区切り方が翻訳によって様々なのはこの4節の固有の働きによるものでしょう。)
 「よりまさる」という表現によって、(1)預言者よりまさる御子(1〜3節)、(2)御使いより勝る御子(1:4〜2:18)、(3)モーセに勝る(3:1〜6)、(4)ヨシュアにまさる(3:7〜4:16)、とする区切り方も良いのですが、これに忠実に従うと一回の説教箇所を1:1〜3または1:1〜4:16としなければならず、いずれも短すぎるか長すぎます。話の展開としての構造としては良いのですが、区切りのためにはもう少し別の観点から区切った方がよさそうです。
 5節から13節は旧約聖書の引用を神と御使いならびに御子との関係を示す証言として綴っています。これは4節の主張の証明であり、14節の主張の根拠となっています。5〜13節の内部では御子に関することと御使いに関する事とが入れ替わり立ち替わり出てきています。
 2章1〜4節は読者に対する勧告(本書における第一のもの)が出てきます。1章での議論を論拠として2節から3節前半の主張がなされています。1節の勧めがその上に立っています。3節後半から4節では「救い」ということが新しい主題として加えられ、これについては本書のその後で展開されていきます。
 5節に再び「御使い」が取り上げられていますが、明らかに「後の世」という新しい話題を付け加え8節の「万物」へと話を進めています。その意味で1章のように御子の御使いに対する優位性というテーマから一歩進んで、その御子の謙卑(ないしは受肉)とそれに基づく救いという2:6〜18の主題へと道を開いています。その意味で2:5節もまた前後をつなぐブリッジです。
 2:5以降は、そういうわけで2:4までのテーマと無関係ではないにしても新しい展開を持っているようです。そこで今回は1:1〜2:4をひとまとまりと見ていきます。

テキストの構造

  では1:1〜2:4の内部の構造ですが、すでに書いたように1:1〜3、5〜13、2:1〜4を大きな区分とし、1:4は前後を結ぶブリッジとしてどちらにも属する、また14節はやはり前後をつなぐと共に、「救いの相続者となる人々」という後々につながっていく主題も提示しています。
  第一部分(1:1〜3、+4)は本書の中心主題の一つであるキリストを御子として、すなわち(父なる)神との関係において紹介しています。啓示者としての御子(1節から2節前半)、創造主としての御子(2節後半〜3節前半)、そして救済主としての御子(3節後半)、と見ることができるでしょうか。もちろん明確な三区分ではなく他の要素も含みつつ互いに関わり合っていると思います。また「大能者の右の座」というのは後に出てくる「大祭司なるキリスト」という主題の布石をなしているようです。
  第二部分は御子が御使いよりも優れたものであることを旧約聖書をいくつも引用しながら説いています。これらの個々の引用については後にまた考えるとして、議論の進展としては次のようになると思います。まず、御使いについて(1a)御子と違って神の子ではないこと(5節)、(1b)御子に対して御使いは拝み使える者であること(6〜7節)が示されます。次に御子について(2a)支配者であり(8〜9節)、(2b)永遠不変の存在であること(10〜12節)が述べられています。最後に御使いは御子と違い「神の右の座に座る者」ではないこと(13節)が示され、結論として御子に対してだけでなく救いを相続する人々に使える存在であること(14節)が述べられます。これらの言及は御子と御使いの関係について語られているので、御子のステイタスについてのことは同時に御使いのステイタスを否定的に定め、またその逆もあり得ます。したがって、「ここからここまでは御子、ここからは御使い」というように明確に分けられるものではありませんから、今までの簡単な説明はあくまで便宜的なものです。
  第三部分は御子の優越性に基づいての勧告です。1節で勧めの中心、「(キリストの救いに)しっかりと留まること」が「押し流されないように」という表現で示されています。2節から3節前半では、御使いに勝る御子の救いをないがしろにしてはいけないことが警告されています。そして3節後半から4節は、その救いが確かなものであることを神御自身が証していることが述べられ、御子による救いの重要性をサポートしています。ここでは御子による救いの内容よりも、啓示について注目されていることも分かります。救いの方法や中身についてはこれから本書の中で徐々に明らかにされていく話題なので、著者は上手にそのことを(ほのめかしつつも)伏せて話を進めています。

説教のアウトライン(最初の)

 説教のアウトラインとしては次のような「たたき台」を作ってみます。
 まず、第一にヘブル書の主題として「私たちへの啓示なるキリスト」ということを見ていきたいと思います。キリスト論の重要な話題がこの最初の3節の中に凝縮されています。
 第二に、御子の御使いに対する優位性ということ。これは恐らくユダヤ人あるいは一部の異邦人キリスト者の中にもあったと思われる天使崇拝のようなものを前提にしている議論のようです。ですから、現代の私たちにとっては直接に関わることではありません。しかし、御子の至高性と、御子以外の何者も御子に変わるものとなりえないことは、教会にとって大切なメッセージです。
 第三に、キリストを通して示された救いに堅く立つこと。本書の書かれた時代背景などについては様々な節があることと思いますが、たびたび挿入されている勧告から、信仰から離れる危険性にさらされていた様子がくみ取れます。それが外的な迫害か、内的な堕落によるかは、今のところはっきりしません。でもいつの時代にも、また誰にとっても、キリストによる救いを固持することの重要性は変わらないことです。
 こうしたテキストの構造とメッセージのアウトライン、また、本書全体及び(本書から推し量りうる)背景との関わりを「たたき台」として細かい部分を読んでいきたいと思います。
 では、いよいよギリシャ語で読んでみましょう(久しぶりなので、大丈夫かな?)

テキストの分析

1節 二つの副詞(「様々な部分で」、「様々な方法で」)から始まり、節全体が分詞構文として2節に従属している。また2節と対称となるような要素が並べられている。「(預言者たちを)通して」の前置詞は2節の「(御子に)よって」と同じ「エン」、方法や道具、あるいはエージェントを示す。ここでは預言者達に対する御子と優越性を強調するよりも、「昔」と「今」での違いが中心である。御子において語られていることは旧約聖書の時代に預言者達をとおして神が語られてのと同じように神からの語りかけである。
2節 「この終わりの時」は当時の終末意識の表れ。旧約聖書で預言されてきた「主の日」、すなわち「終わりの時代」にすでに突入していることを自覚していた。2節後半から3節は、その御子がどのような存在かを関係詞を用いて書き並べている。まず、(1)神は御子を万物の相続者と定めたこと、つまり全ては御子のものであり彼はその主である。次に(2)御子を通して世界を作られたこと。創造の業は御子によってなされたことを示している。
3節 御子に関する3つ目の説明は一つの主文に先だって3つの分詞構文が挿入されている。中心となる主文は(3)「高いところの全能者の右の座に着かれた」こと。すなわち御子は今神と共に主権者として座しておられる。その主権者たる御子をさらに書き表して、(3a)「御子は神の栄光の輝き、神の存在の完全な現れ」であること、すなわち御子は神と等しい存在、(3b)御子は「力ある言葉により(創造された)世界を保持しておられること、そして(3c)「罪の清めの業をなしとげられた」ことが上げられている。
この最初の3節で告げられていることは、前半では神が御子を通して語られたこと、後半ではその御子が神そのものを表す存在であることである。旧約の預言者が単に神の言葉を伝える「メッセンジャー」以上に、彼らの存在自身を通して神の存在を指し示したように、そしてそれ以上に御子は、ご自分の言葉によって神のメッセージを語った以上に彼の存在そのものが神の啓示であり、それは不完全な人間(預言者)のメッセージとは違い、完全なものである。その意味では御子は預言者に勝る者であるが、比較の対象であるよりもむしろ、完全な啓示であることが示されている。
4節 この節は御子についての記述という点では3節の続きであるが、構文の構造においては区別のできるものである。また最初の「このように」という指示代名詞が3節までの御子に関する説明を受けつつ、新しい内容の提示が始まることを示唆している。この節により、御子の素晴らしさ(1〜3節)が、今度はそれと天使との比較という新しいテーマへの橋渡しされている。御子に関しては、その素晴らしさ(1〜3節)の故に優れた「名」を相続された。単に、御子という名(ラベル)ではなく、その実質の現れであり、また(旧約)聖書において書かれている数々の預言のことをさしているとも思われる。「相続」は今回の箇所の全体を貫く言葉である。御子は万物の相続者として世界の主であり(1〜3)、御使いに勝る名を相続され(4〜13)、そして今度は我々が御子による素晴らしい救いを相続するものとされ(14節)、その救いをないがしろにしてはならないとの勧告(2:1〜4)へとつながっていく。このテーマ(相続)は6章や9章で「約束のものを受け継ぐ」としてさらに展開されて行くが、ヘブル書の前半では御子、すなわちキリスト論が中心テーマとなっているのでまだ簡単にしか触れられていない。
5〜13節 本来、旧約聖書からの引用がされている場合はその引用箇所だけでなくその旧約聖書の中での前後関係まで調べて、旧約の中での意味の引用されている文脈における意味を比較し関連づけていくことが有効だが、この箇所のように引用が続けていくつもされている場合、実際的にすべての旧約箇所を詳しく調べることは膨大な作業になるし、引用している者自身も、ひとつひとつの引用に深い思索を巡らすことを読者に求めているというより、すでにメシア預言として広く受け入れられている箇所を次々と示して読者に議論に対する確信を深めさせようとしているように思われるので、ここでは全体の流れに注目していく。
5節 最初の二つの引用はどちらもイエスが神の御子であることの証明として求められていた箇所と思われる(特に一つ目)。ここでは彼が御子の地位を持っていることを神が自ら語らって証言されたのに比べて、天使達は神の「子」ではないことが論じられている。
6、7節 御子なるキリストに対し、天使達は彼を礼拝し仕える存在である。(6節のセプチュアジントからの引用とヘブル語聖書との違いについてはここでは触れない。新約時代のクリスチャンにとってはどちらも権威ある神の言葉であり、それほど細かい違いにとらわれていなかったようである。むしろ、このギリシャ語訳聖書の多用から、読者あるいは著者がギリシャ語聖書に慣れ親しんでいたという、本書の背景に関わることを知ることが出来る。)
8、9節 再び御子についての引用により、彼が永遠の支配者であることが、天使の仕える存在と比較して強調されている。単に支配者であることが書かれているだけでなく、正しい支配者であり(9節前半)、共に立つ者(天使のこと?)以上に神に信任されていることも併せて告げられている。
10〜12節 御子が世界の創造者であること、そしてこの世の一過性に対して彼の永遠性が示されている。
13節 最後に再び天使について、御子が神の右の座につけられたのに対して彼らはそうではない事が語られている。
これらの天使と(主に)御子に関する説明は、比較する形で両者に触れているため、「ここは御子、ここは天使」というように区別するのではなく、御子について語りつつ、天使と比較している、と見る方が良い。御子に関して語られている内容は、1〜3節で語られたキリスト論と関連していることが分かる。相続者(息子)であることが2節と5節で語られている。創造主であることは2節及び10節で、また神の右の座に着かれていることについては3節と13節で触れられている。1〜3節では明確に述べられていなかったこととして5から13節で表れていることは、天使が仕える者であるのに対して御子は主権者であること(7、8節)。したがってキリスト論と共に、この第二部分では、御子に比べて天使は仕える存在であることが話題となっていることがはっきりする。
14節 この天使の従属性は御子に対してだけでなく、「私たち」クリスチャンとも関わっていることが新しく言われる。これによって救いという話題が登場し、2:1〜4への橋渡しがされている。ここで、御使いが「仕える霊」であるのと「救いの相続者である人々に仕える」と言っているのでは「仕える」というのに違う言葉が使われている。正しくは、「...人々のために奉仕する(あるいは助ける)ように任命された」のであり、人間に仕えるのではなく、その救いのために奉仕するのが天使の働きである。
2章1節 1章の議論を受けて(「したがって」)、1〜4節が展開して行くが、その中心は1節前半である。「聞いたこと」は1章で「語られた」こと、すなわち御子による啓示である。その啓示の内容は2,3せつで明らかにされる救いに関することである。その救いの言葉を「心に留めなければならない」というのが勧告の中心。「さもないと」、押し流されてしまう。これは比喩的な表現のため、その意味するところはあいまい。救いから離れてしまうことか、世の中の流れに流されることか。著者は読者にその適用を委ねている。どちらにしても、離れることが主題ではなく、離れないように堅く結びつくことがメッセージの本意である。
2節 ここは「もしも」という仮定の複文であり、それに対して3節の前半の修辞的疑問文(「...できるか、いやできない」)が本論である。すなわち「御子による救いをおろそかにしたら罰を免れることはできない」のだから、1節の「その言葉を心に留めよ」とつながっている。日本語では「なぜなら」という接続詞が抜けている。「御使いたちを通して語られた御言葉」とは具体的には旧訳聖書のことであり、律法である。その律法の言葉は旧約聖書の歴史を通して不変であり、それに対する違反者(すなわちイスラエル民族)には罰(捕囚)が与えられたことが読者には明らかである。
3節 「偉大な」は「救い」にかかる修飾語と見るのが文法的には正しいが、位置的には離れているため(もちろん、ギリシャ語の表現ではよくあることなのであるが)、もし「救い」を修飾していないとすると、その対象が明示されていない動詞「逃れる」の目的語かもしれない。その場合「(旧約での捕囚という罰よりも)恐ろしいことを逃れることはできない」という意味になる。しかし、おそらく支持は少ない解釈だろう。では何から「逃れる」のか? 明言されていないが2節で上げられている違反と不従順への罰がそれにあたると思われる。「ないがしろ」は字義通りには「拒否する」こと。
 3節後半から4節にかけて、この救いの詳しい説明がなされる。この救いは、まず御子を「通して」(ディアであってエンではない)語られた後に、それを聞いた人々によって私たちに確認された。(このことから「私たち」は福音を最初に聞いた人々ではなく第二世代と推測され、それと共に著者も主から直接福音を聞いたのではないと考えられているが、著者が読者と自分を同一させているのであって必ずしも著者自身は第二世代とは限らないが、著者問題はここで簡単に触れることができるような問題ではない。)
4節 人間が証明しただけでなく、神御自身が証して確かなものとされた。それは奇跡などと、もう一つは聖霊の賜物(あるいは聖霊自身)が与えられたこと。救いの確信は人間の証だけでなく、神の証により確認されたものである。だから、キリストによる救いの言葉を堅く保つべきである。

テキストの意図を探る

さて、ここまでは著者が何を語っているかを見てきた。つぎにこのテキストを通して著者は何をしているかを考える。テキストの内容は御子による救いの重要性が中心である。したがって、読者は御子による救いを再度確認することが求められている。しかし、具体的にはそれは何を意味するかというと、再三出てくる「天使」への言及がそのカギとなる。もしも読者が題名(後から付けられたものだが)が示すようにユダヤ人であるなら、彼らの中にこの時代はやっていたと思われる天使崇拝に対する戒めであろう。あるいは、天使崇拝もしくは礼拝はユダヤ人だけでなく当時の異邦人教会の中でも例が見られたことがパウロの手紙から推測される。(現代のアメリカでも天使崇拝は見られることより、時代民族を越えた現象であると言える)。
 なぜ著者は天使崇拝を戒めているのか。それは御子による救いを歪める可能性が強いからであろう。また、なぜ人間が天使を初めとする媒介者による救いを求めるのかを考えるのが大切である。そこには直接神または御子にすがることへの怖れ(神への畏敬)という面もあろうが、何らかの中間的存在を求める傾向が人間にあることも事実である。そこにあるのは、救いを低くすることで自分の力で到達しようとする自力救済かもしれないし、自分の罪を甘く見てくれることへの期待かもしれない。全能の神の前に出るとき、人間は自分の罪深さを認め、自分の無力さを受け入れて、神に全面的に頼る信仰を必要とする。しかし、そうしなければならないほどに人間の罪は深刻なのである。天使崇拝あるいは御子以外の者を求めることは、この点を曖昧にする。
 また、「押し流されてはならない」という警告は、外的な迫害や内的な間違った信仰、あるいは世の誘惑に対する人々の弱さを考えさせる。そうあってはいけないが、人間は真の救いから離れやすい弱さを持っている。そのような中にいる読者を励まし戒めて、キリストによる救いを全うさせたい、それも著者の意図であろう。それはキリストの言葉(口から出た言葉だけでなく、キリストの生涯を通して示された神の言葉、すなわち受肉・十字架・復活・昇天の全体を通して示された救いの言葉)を堅く握るしめることで可能となる。素晴らしい、そして誰よりも勝る存在である、御子イエス・キリストを堅く仰ぎ見ること、これが著者のメッセージであり、この後(2章5節以降)で展開されていくキリスト論を学ぶ理由となっている。
 (なんだか、もう説教口調になってしまいましたが、今回は少し早めに準備を終わらせたいので、このまま明日には原稿に取り組みたいと思います。もうちょっと時間をかけて思考し、練り上げたいのですが。)

説教の中心は?


 神学校時代に教授が「君の(日曜日にした)説教は一言で言うと何だ」と問われたことがあります。自分が一言でまとめられないなら、聞いている人はもっと分からない。中心がはっきりしていなければなりません。
 さて、今回のメッセージですが、書の冒頭であるためか、序論的になりがちです。もちろん、キリストこそ救い、というのが中心テーマと思うのですが、具体的なキリスト論は2章以降に語られていくのであって、1章自体では著者はわざと全てを明らかにせずにちょっとだけ見せている。予告編みたいです。
 そんな訳で、説教でも具体的にキリストについて触れるのは限られてしまいます。テキストから離れるのみならず、冗長になってしまうからです。
 したがって天使(あるいはあらゆる仲介者)に勝るキリストという理由以外にキリストによる救いの大切さをサポートする要素が必要です。今回はそれを2:3,4における救いの確かさに求めてみました。
 テキストの分析をしているうちにメッセージの元となるポイントがいくつも浮かんでくるのは、昨日のところで見えますが、その後からも、テキストを反芻している間に様々な事が浮かんできます。結構そういった後からのポイントが説教では生かされることが多いので、テキストの分析の時と違うことを語っているように見えるかもしれません。でも、テキストの研究に基づいてのポイントですから、まあ仕方ないでしょう。
 今回の説教の中心は、「キリストによる救いは何ものにも代えられない大切なもの」というところでしょう。展開としては、まず「キリスト(御子)において神が啓示されている」、次に「そのキリストは全てに勝るお方である」、そして最後に「そのキリストの救いは確かなものである」という順序で語っていきます。
 今回は説教の後に聖餐式ですので、キリストの救いを聖餐を通して考える機会もありますので、そこで説教のまとめとなるかもしれません。キリスト論の欠け(後から述べられると言うこと)を「視覚教材」によって補うことが出来ると思います。

説教の展開と肉付け


 三つのポイントが固まったところで、主にテキストの展開に従って説教をまとめていきます。テキストそのものが説教であり論理が展開されていく今回の場合のようなケースでは、テキストの説明が多くなります。物語部分ならば読むだけで在る程度の内容は理解できますから説明は最低限に出来ますが、ヘブル書の場合は一見理解しにくい論理も少なくないのでどうしても説明が増えてしまいます。
 あとは牧会的配慮と神学的配慮をしながら細かい表現を決めていきます。牧会的というのは、テキストの中で著者が指摘している読者の中の問題に近い状況にいる人々には自分が責められているような印象を与えるからです。聖霊が本人に示されるのでなければ人間的な攻撃は決して良い結果にはならない。天使ではないにしても人間につきやすい弱さを持ったクリスチャン、まだ御子の救いを受け入れておらず「ないがしろ」にしているのではとプレッシャーを感じている求道者、これらの人たちにとってこの聖書箇所は悔い改めにも後退にもつながる箇所です。
 神学的というのは、短い(?)説教の中で例えばキリスト論を全て語ることはできませんから、時には表現が不適切になることもありえます。例えば、キリストが御子であることの中には三位一体にあり方に関することが関わってきますから、あまり細かい議論に入らずに、しかし神学的に間違ったことを教えないように気を付けます。またヘブル書の中のいくつかの警告が神学的立場によっては問題となる場合もあるので、そこをどのようにカバーするかも必要です。
 聖書のテキストが語っていることを曲げるのではなく、しかし教会におけるさまざまな配慮を忘れることなく、大胆かつ繊細な説教を語るというのは、芸術的なことで、まだまだ経験を積まなければならないなと感じます。
 とにかく、後は実際に原稿を書いていくだけ。できあがった原稿は教会のホームページで見て下さい(月曜以降になります)。今回はこれでおしまい。

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