ヘブル書からの説教(その2)

ヘブル書2章5節から2章18節、9月10日礼拝にて
(メニューに戻ります)

1、テキストの範囲を決める


 まず、テキストとなる聖書個所の範囲を決めます。前回は2:4まででしたから、2:5からとするのが自然です。
 もっとも、もし2:1〜4が前後を結ぶブリッジであり、どちらの側にも属する場合は、2:1から始めることもありえます。でも、今回は2:5は御使いが(御子よりも)劣るという話題を受け継いでいる点で1章からの続きであり、2:1〜4の勧告から本題に引き戻す働きを果たしています。同時に、御子の優越性という1章の話題から低くされたキリストという新しい話題への移行でもあるということで、2:5が2番目の個所の始まりとするのは妥当だと思います。
 次にテキストの終わりを考えます。テーマとしては2章は低くなった救い主であるのに対し、3章の始めでモーセとの関わりが導入されていることから、2:18でこのセクションが終わると思えます。もちろん、2:17と3:1は「大祭司キリスト」という言葉で結ばれていますが、このテーマは後(5章以降)で詳しく取り扱われるので、ここでは簡単な「予告編」に過ぎません。また、3:1の「したがって」は、3章の導入としての1節をそれまでの議論と結び付ける働きをしていますが、3章(少なくとも前半)と2章今半を結び付けるものではなく、3:1が「ブリッジ」であることを示すと考えるほうが良さそうです。
 もう少し細かく見るためには、2:5〜18の内部における結びつきを考えるのが必要です。その場合、どのような「語」が繰り返して使われているかをチェックするのが一つの方法です。コンコルダンスを用いても良いのですが、短い個所なので自分で見ることもできます。本当は言語で確認する方が正確ですが、今のところ日本語でも大体のことは大丈夫です。
 5節の「後の世」はこの前後では現れなく、1:2に出てくる「終わりの日」の「世界」を指すものと思われ、1章からの話題を簡単に思い起こさせる(「話している」も同じ)だけです。ここでは「従わせる」がキイです。この語は8節(3回)に繰り返されています。6節の「人間」や「人の子」つまり「人」はこの後たびたび出てきます。「御使い」は2:5の後、7、9、16節に出てきますが中心的な話題ではないようです。それに対し、「人間」は重要な話題のようです。「低い」は7、9節に出てきます。これらの語は主に6節から9節を結び付けています。ここは詩編8編からの引用を中心に展開しています。9節に出てくる「イエス」はヘブル書では初めての出現です。その後は「救いの創始者」、「主」として出てきます。「苦しみ」は9、10、18節、「死」は9(2回)、14(2回)、15節に出てきます。この2つの語は同義ではないにしてもこの個所では強く結びついているようです。その意味で、2:5〜18全体を結び付けるテーマの一つのようです。このテーマは少なくとも1〜3章ではここだけに出てくるので、これもこのテキストがその前後と区別できる材料です。
 こういった分析を(できればギリシャ語で)続けるとそれだけでこの個所の構造や展開が見えてくるのですが、今はテキストの範囲を決めるのが目的ですから、これくらいにします。

2、テキストの構造を考える


 次に、テキストの構造と説教のテーマを(初期的に)考えます。先に見てきたように、5節は1章の話題である「御使い」を取り上げつつ、新しい話題である「従う」を導入しています。しかしこれは本当のテーマではありません。6節から9節は詩編8:5の引用とその解釈という点でひとかたまりです。その中で「死」、すなわち「苦しみ」を味わわれた「イエス」が紹介されます。この「受難のキリスト」が18節まで続くこの個所の中心テーマのようです。9節でキリストの「死」がすべての人のため、すなわち救いのためであることが告げられ、これが10節および14〜18節で展開します。10節はキリストの苦しみを「全うする」という概念で積極的に評価しています。こうして5〜10節を第一の区分とします。あるいは9節までを第一区分とし、10節は第二以降へのつなぎと見ても良いでしょう。
 次に11節からは「人となられた主」というテーマが中心となります。特に15節までは、それによって死を滅ぼし、死の恐怖から人々を救うということが主な話題です。16節では話題が変わりアブラハムの子孫の救い、また18節では試みの中にいるものたちの助けということが語られています。17節は11節の議論である「兄弟」という話題をもう一度取り上げ、これまでのまとめをし、同時に5章以降の「大祭司」のテーマを予告しています。ここの部分の分けかたはちょっと簡単ではないようです。一つは、11〜13で「兄弟となられた主」について語り、その目的として14〜15で「死からの救い」、また16・18節で「試みにおける助け」という事をあげています。これら全体を一つの区分と見るか、3つの区分と見るかは、おそらく前者でしょう。もう一つは11〜15を死からの救いとしてまとめ、16以降を次のまとまりとすることです。
 テキストの構造が単純ではありませんので、説教の展開もいくつかの可能性があります。第一ポイントは、明らかに、5〜9(10)節の「受難のキリスト」でしょう。第二ポイントとして、「死からの解放」、そして第三ポイントとしては11節を含めて、「兄弟の助け」というテーマが浮かんできます。少しテキストの展開と順番が前後しますが、わかりやすくするためにこのような区分も考えられるところです。

3、テキストを分析する


 さて、もう少し細かくテキストを見ていきます。
5節。前置詞ガルは普通理由を表すのですが、「ですから」とも「実に、実際」などとも訳すことができ、それほど強い結びつきでない場合もあるので、新改訳のように訳さなくても良いでしょう。「後の世」は先に書いたように1章の「終わりの日」の「世界」か、「来るべき世」(新共同訳)、つまり再臨後の世界かわかりません。が、ポイントは「天使ではない」にあります。世界は御使いたちに支配されるものではない。では誰にか、それが6節以降の展開になります。
6〜7節。詩編8編の4〜6節(ヘブル語聖書では5〜7節)のギリシャ語訳からの引用。ダビデ王の歌であり、よく人間とは何かを考える上で引かれる。本来はダビデが自分の事として歌った内容であり、それから人間一般についても当てはまる事です。ところがヘブル書の著者は「ある個所で、ある人が」と誰がこの詩を造ったかではなく、旧約聖書に含まれるメシア預言として捕らえています。真の人としてのキリストを示すものと考えるとこの解釈は妥当でしょう。問題は普通「神(よりも低く)」と訳されているところを七十人訳では「御使い(よりも)」と訳されていること。確かに「エロヒーム」は神と訳されることが多いのですが、本来は「神々」でもよく、「高貴な人々」「神的な存在(つまり天使)」と訳すこともできます。おそらく、神に対する畏れから、「神よりも少し低い」とすることをためらって「天使より」となったのかもしれません。どちらにしても他の動物などの被造物よりは上で、神よりは低いという事を示しているのには違いなく、ダビデが自分(そして人間)をそれほどまでに神が目にかけてくださったことへの驚きを語っていることになります。「しばらくの間」も時間的にとることも程度(つまり、「いくらか」)と取ることもできます。キリストが人間となられたことで一時的、そして部分的にせよ、神より(そしてある意味で天使より)低い存在となられたこととして作者は受け止めています。
8節。「万物を...」。実際には万物が人間の支配下にあるのではないことから、著者はこの詩編が人間一般に関して述べているのではないと論じ、そこから人間と同じように低くなられた主キリストをさしているとの結論(9節)に展開させています。人間(低い存在)でありながら主(万物の支配者)であるというキリスト論です。
9節。このキリストが「栄光と栄誉の冠」を受けたのは「死の苦しみのゆえ」であるとして、この部分の主要テーマを持ち出します。この8〜9節における議論の進め方はちょっと分かり難い気もしますが、神学的もしくは数学的な議論ではなく、むしろ説教であると考えると、論理より話の展開として受け止めることができます。このキリストの死は「全ての人のため」、身代わりとしての死です。それが「神の恵み」により行われた、救いの業であることが語られています。
10節。「万物の存在の目的であり原因である方」とは実にうまい訳です。原文では同じ前置詞と異なる格を使って書かれていて(「全ては彼のため、また全ては彼を通して」)、なんとも訳し難いところです。救い主が死の苦しみにより「全うされた」というのは、キリストの死の意義付けとしては奥深いものです。キリストは御子でありながら天使(あるいは神)より低くされたが、死まで経験することで全ての者の主としてパーフェクトとなられた、ということでしょうか。その詳しい理由はこの後に展開されていきます。ですから、最初の部分では御子の謙卑(けんぴ)、すなわち私たちの救いのために下ってきてくださり、人となられ、死まで味わってくださった神の御子というのがポイントとなりそうです。
11節。「聖」というテーマは9章以降で展開されていきますので、ここではまだ予告にすぎません。ですから10節の「救い」の同義語として扱って良いでしょう。救う方(キリスト)も救われる者たちも「元は一つ」とは、もちろんキリストが父から出ているという哲学的にも難しい意味と、被造物として神から出ている人間との違いはここでは考えられていません。むしろ、その後の「兄弟」を導くための言い回しです。キリストは救われる者たちを「兄弟と呼ぶことを恥とはしない」。キリストの謙卑は、私たちを兄弟、すなわち私たちを神の子とするためでした。その目的は14、15節です。
12、13節はキリストとキリスト者の「兄弟」であることのサポートとしての旧約聖書からの引用です。最初のはわかりますが、13節の二つはちょっと理解しにくい。12節の引用で、「わたし」はキリスト、「あなた」は父なる神をさしていることを考えると、ここでもキリスト(わたし)が父なる神(彼)に信頼し、人間を「わたし」に与えられた「子ら」と呼んでいることになります。人間が神に信頼するようにキリストも真の人として神に信頼されたのであり、キリストのものとされた人々は神から与えられた「子ら」である、すなわちキリストと共にいるものである、と言おうとしているのでしょうか。元のイザヤ書での意味合いと少し違うようにも見えますが、イザヤ書8章でイザヤだけでなく彼の子らもその存在をもって神のメッセージ(「イスラエルでのしるし」イザヤ8:18)を伝えるものとされていることから、「わたし」と「子ら」との同一性が述べられていると考えることもできます。どのような意味にせよ、キリストが私たちを兄弟としてくださり、すなわち神の子としてくださったことを言っているのは確かです。
14、15節。キリストと人間との同一性は肉体(血と肉)を持つことに及ぶ。それは死ぬことで死を滅ぼし、死の恐怖につながれている人間を解放するため。ここにキリストの謙卑の目的があります。
16節。「解放」から「助ける(手を取って導く、8:9)」に話題が推移する。「アブラハムの子孫」は直接的にはユダヤ人(ヘブル人)だが、アブラハムの信仰にならう者たちに適応するのは、11章から考えて無理ではない。
17節。「神のことについて」は、確かに冠詞がついているのでそう訳せなくないが、少し分かり難い。「神の前で」とする方がすっきりする。5:1で同じ表現が、やはり大祭司に関して使われるので、そこでもう一度考えることにします。(わからない事は先延ばし、というか、流れの中で明らかになることもある。) キリストの「助け」は罪の贖いであり、憐れみ深い大祭司の働きに通じるものです。民と同じ立場に立てる大祭司は、上から支配するのではなく、神の前でとりなしをささげる事ができる、その意味で憐れみ深く、同時に忠実な働きができるのでしょう。
18節。「試み」は様々な事に結びつく。特にキリストが人間として歩まれた生涯において受けられた全ての試みを考えることができます。肉体的な試み(たとえば空腹)だけでなく、悪魔による信仰的な試みもあるでしょう。「助ける」は16節とは違う語で、いろいろな意味で使われる言葉です。肉体的助けから霊的助けまで幅広く使われています。(新約中に8回)
 翻訳は、若干の問題を除けば、ほとんど妥当な訳です。むしろ、論理の展開そのものが理解を難しくしているようです。

4、テキストの展開・構造を再考する


 これまで調べてきたことに基づいて、テキストの構造や話の展開をより深く見ていきます。と言っても、今回は最初からかなり細かくテキストを観察しながら最初の構造を作ったので、大きく変わることはないかもしれません。
 5節は1章とのつなぎであり、6節以降の話に不可欠ではないので、6節から始めます。6節から10節は詩編からの引用の解説を軸として結論である9節が中心となります。その意味で6〜8節は9節の、そして全体の導入の役目を果たしています。よく知られている詩編の言葉に注意を向けさせ、それがメシア預言であることを示し、本題である「死を味わわれたキリスト」に読者の考えを集中させています。低くされた故に栄光を受けたという詩編の言葉が、人となり死を味わわれたことで栄光を受けられたキリストにつながっています。その意味で栄光と苦しみとは不可分な関係にある、そこで人々を栄光(救い)に導く「救いの創始者」が苦しみを受けないとすれば片手落ちであり、キリストはその苦難を受けたことによって何一つかけたところのない救い主となられた。すなわち「全うされた」という10節に結びつくわけです。10節の「全うされた」という主張は17節の「あわれみ深い、忠実な(すなわち完璧な)大祭司」へとつながる布石となっています。しかし、助け主という16〜18節のテーマへと移行する前に、「低くなった」ことの意味をさらに展開させて、死からの解放という次の話題に移る必要があります。
 10節と11節はテーマも用語も違うことから明らかに異なるセクションです。ただ、登場人物はキリスト(救いの創始者、聖とする方)、人々(多くの子ら、聖とされる者たち)、神、の三者であるセッティングは同じですから、状況はそのままで次の話題に移っていくのが分かります。特に、キリストと救われた人々との関係に視点が集中して行きます。ここでもう一度旧約からの引用が3つ続けられ、「兄弟」について語られます。三つの引用はキリストと救われた者たちが兄弟であることをサポートしているのですが、その中でも徐々にポイントが移り変わっていきます。最初の引用(詩編22編)は、メシアの受難を扱った預言としてよく知られていますが、その後半で復活のメシアの賛美がこの節(22節)から始まります。そのメシアは人々を兄弟と呼んでいることが第一の引用です。「教会」とギリシャ語訳で書かれているのは「会衆」と理解されるもので、ここではいわゆる教会論が主眼ではありませんから、この訳の違いは問題無いでしょう。このメシアはさらに神を信頼する(もしくは、より頼む)ことで神に対する姿勢において人々と同じ姿をあらわします。それが最後の引用でイザヤがその子らと一緒になって証したように、メシアは人々と自分を一緒に扱っています。この救われた者たちとの一体性こそ、単に「兄弟」と「呼ぶ」だけにとどまらずに兄弟と「なる」ことの帰結です。したがって、11〜13節は旧約聖書に基づいて14節を証明するための導入の役目を果たしており、6〜8節と9節との関係に似ています。ですから第二部分の中心は14節であり、その結論として死からの解放(15節)と強く結びついています。まとめると、御子が死に至るまで低くなられた(6〜10)ことの目的は、人間を死の奴隷状態から解放するためです。この「奴隷からの解放」はアブラハムの子孫の救い(出エジプト)を思い起こさせ、そこで16節につながっていきます。
 16節は、アブラハムの子孫を助ける、という話題を持ち出して、救いという事をさらに詳しく語って行きます。17節では大祭司として罪のなだめ、すなわち贖いとして救いを表しています。この大祭司としての条件として先にあげられた兄弟、つまり民の一人であることが関わっています。そしてこの同一性が18節の試みの中にある者たちの助けとしての救いの根拠となっています。したがって、キリストが人となってくださったことによって、苦難の中にある人々の助け手となって下さったことがこの個所のポイントとなります。

5、メッセージの中心をしぼる


 さて、著者はこの個所を用いて何を訴えようとしているのでしょうか。また読者はどのようになるのでしょうか。まず著者が語っていることの中心は人となられたキリストです。1章で神と等しい存在である、すなわち御子であることが強調されましたが、そのようなお方が、低くなって人間となられ、さらに死の苦しみまで味わって下さった。それが「救いの創始者」です。その救いは究極的には「死の恐怖の奴隷状態からの解放」であり、それによってさらに「あらゆる試みの中にいる者たちの助け」となることが展開されています。著者はキリストがどのような救い主であるかを説いているのです。
 読者が具体的にどのような試みの中にいたかは書かれていません。でも、当時のキリスト者が受けたあらゆる迫害や今でもクリスチャンが味わう世と罪からの誘惑など、さまざまな試みは予想できます。そのような苦しみの中にいる者たちにとって、高いところで一方的に救いを恵んで下さるのではなく、同じレベルに下りて来てくださり、同じ苦しみを受けてくださった救い主の存在はどれほど慰めだったでしょうか。死の恐怖から解放されたたけでなく、慰め主としての大祭司を兄弟として与えられた特権は彼らの人生を違うものに変えたことでしょう。
 罪の刑罰からの贖いや死の恐怖からの解放という救いはともすると概念的に受け取りやすいのですが、救い主は私たちの人生の全てにおいて救いであることをこのテキストは語り掛けています。「人となられた御子キリスト」の持つ意味をこの個所から豊かに学ぶことができます。

6、説教の展開


 ここまでのところですでに説教原稿を書き始めても良いくらいに材料がそろってきたようです。しかし、もう少しだけ「何を語るか」を考えます。このテキストで語られているのはキリスト論のうちの受難、ただし十字架の贖いはそれほど焦点はあてられず(というのは後で詳しく語られるからでしょう)、キリストの受肉と死についてです。十字架の贖いが情緒的にも訴えかけてくるものであるのに対し、受肉や死は脇役のようです。しかし、このテキストではキリストの死、民との一体化といったテーマがより大切になっています。もちろん十字架のメッセージは福音の中心ですが、十字架は単独で起こったことではなく、その文脈として御子の受肉があり、その結果として死があります。ですからこの受肉と死の意味をより深く知ることで、十字架の救いの理解も深まって行きます。そのような訳で、ヘブル書で展開されていくキリスト論が福音書や他の手紙などと違った側面から光を当てていることには大きな意義があるのです。人間となってくださったイエスキリストに目を向けつつ説教のアウトラインを組み立てて行きましょう。
 説教のテーマは「人となられた救い主」です。まず、第一に、御子である方が低くなって死の苦しみを受けられたことを扱います。神と等しいお方が人間の救いのために低くなってくださり、しかも死の苦しみまで味わってくださった。そして、それによって御子であることに傷がつくというのではなく、それによって救い主として完全になる事と見ておられる。これは救って頂く側から見れば、自分の存在が救われるに無価値なものとはキリストから見られていないことを意味する。
 第二に、キリストが肉体をとられた事の目的は、死の奴隷から人間を解放するためということ。一生涯の間、人間は死を恐れ、死から逃げるために快楽を求め、欲望を満たそうとして生きている。それは結局は悪魔の思うままである。その死を打ち破るためには実際に死を味わう必要がある。それが死すべき肉体をキリストがもたれた理由である。そして復活により死を打ち破られた事で、死が最終的権威を持つのではないことを示され、もはや死の奴隷となる必要がないことを明らかにしてくださった。
 第三に、そればかりでなく、救われた者をキリストはいかなる時にも助けて下さるお方になられた。私たちの兄弟となってくださり、あらゆる試みを受けてくださったキリストは、真の大祭司として今度はご自分の兄弟たちを助けてくださる。低くなられたお方だからこそ、どんな人の苦しみも理解して下さるのである。

メニューに戻ります


説教原稿を読む