ヘブル書からの説教(その3)

ヘブル書3章1節から4章16節、9月24日礼拝にて
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その1  範囲を決める


 毎回、テキストの範囲を決めるところから始まるのですが、最初から全部(たとえばヘブル書全体)を区切っておけば毎回苦労しなくてもよい、とか、章や段落にそのままそって行けば良いのでは、とも思われるかもしれません。しかし、私にとってはこの最初の段階はテキストに親しむため、また初期的なアウトラインをつかむため、など様々な価値を含んでいます。また実際に読み進めていくうちに過去の区切りかた(つまり、自分で以前に考えたものや、章の区切りのように他の人が作ったもの)が不正確であることを見出すことが多く、やはり毎回考え直さなければなりません。とは言うものの、大体この時に次回の分まで含めて範囲を考えているのが本当です。そうすることで、前後の流れも把握しながらその個所を理解していく助けになります。同じ意味で前回までの部分も振り返ります。今回は1章から8章くらいを視野に入れつつ、3章から5章を何回も読みます。
 3章と4章の間、あるいはその前後で区切りたいのですが、どうしても話の流れが切れません。3:1〜6は、モーセとキリストの対比を語りながらその結論としての6節で「信仰を堅く保つならば、私たちが神の家です」という主題を持ち出し、それをその後で展開させています。そういう意味で1〜6節は導入のようです。1節の「大祭司キリスト」もその後(5章以下までは)展開されず、むしろ2章の最後との結び付けであり、また後で出てくるテーマの予告のようになっています。
 3:7からは旧約の引用(7〜11)とその解説が続きます。ここいらへんは前回(2:5以下)と似たような構造です。しかし、その解説の途中に一種の勧告のようなものが組み込まれています。「挿入」ではないのは、その前後と密接に結びついているからです。むしろ一つの聖句(7〜11)に基づいて二つ(か、それ以上の)ポイントで説教をしている感じです。第一は不信仰に対する戒め(12〜19)、もう一つは神の安息について(4:1〜10)で、4:11はその両方をまとめています。
 4:12〜16は、ちょっと取り扱いが難しい。12節はそれまでと違う話題を始めているようです。15節を見ると「大祭司キリスト」が出てくるので5章と結びついているように見えます。しかしよく見ると、5章では大祭司そのものが話題であるのに対し、4:12〜16では神との関係が中心のようで、それまでの流れにも近いようです。したがってこの部分は前後のどちらにも関わる「ブリッジ」かもしれません。もうすこし4:11までと12〜16の関わり方を見なければ結論は出せませんが、今のところはこの部分も含めておきます(後で変わるかもしれない)。5章は明らかに新しいテーマが中心です。
 そういう訳で、今回は3:1〜4:16とずいぶん長くなってしまいました。でも旧約の引用によってほとんどが結び付けられており、長いのもその解説が長いのが理由なので、焦点を絞れば簡潔になるかもしれません。新約からの説教としては2章はちょっと長すぎるようにも思いますが、まあ大丈夫でしょう。


その2  テキストの構造を考える


 便宜上「その1」とか「その2」とか書いていますが、それぞれの部分はお互いに関わりあっているので、手順ではありません。構造を考えることは、すでに範囲を決めるときにある程度触れていますし、また後の部分でも考えます。ただ、このように項目を設けることで、すべき事が整理されるのが目的です。
 最初の段階では自分が親しんでいる(あるいは教会で公の聖書として使っている)日本語訳聖書を用いています。もちろん原語の聖書を用いるのが本当ですが、ある程度は翻訳でも理解できますし、時間の節約にもなります。あとで原語に当たるときに不正確だったり間違った部分を訂正することになっています。
 1〜6節は「その1」で述べたように前からのつなぎであり、ここ以降の導入になっています。大祭司、モーセとキリストの対比、モーセの忠実さ、神の家、といった話題はその後は(少なくともしばらくは)出てきません。7節以降の引用とそれに基づくメッセージでは、主に出エジプト時代のイスラエルの不信仰が主な話題です。3:7以降と直接つながっている言葉は6節の「確信・・・を終わりまでしっかりと持ち続けるなら」(14節、4:11、14)です。これらの事から、1〜6節は2章の最後の「大祭司」を受けて始まり、3:7以降の「不信仰による落後」に続けるために6節の「確信を持ち続ける」で終わっている、つまり前後をブリッジしている機能を果たしていることになります。
 7〜11節は明らかに旧約(詩編)からの引用ですので、本題は12節から始まります。12節では6節でほのめかされた「確信を持ち続ける」という話題の否定的表現である「不信仰によって神から離れる」という話題が提示されます。これが唐突な導入でないことはその後の展開によって引用と結び付けられていることより明らかです。13節はやや積極的な表現として「かたくなにならないように」という勧めが付け加えられ、14節で6節の命題にもう一度戻っています。こうして12〜14節は主題を三つの表現で語っていることになります。15節は13節の理由であると同時に16節からの修辞的疑問の導入として前後を結び付ける働きをしています。16〜18節は三つの疑問文とその答えからなるシリーズです。どれも同じことを質問していますが表現が少しづつ変化しています。16節は15節の引用を直接使っています。17節は16節を違う言葉を使って詳しく述べていて、18節も同様です。18節は「安息」という19節以降のテーマを引き出しています。19節は「安息(に入れない)」と「不信仰」という二つのテーマを結び付けてここまでの結論を述べています。
 4:1ではそれまでの話題を受けながら、それを「あなたがた」及び「私たち」に適応しています。この第一及び第二人称は、もちろん12〜14節にも出てくるのでまったく新しいものではありません。しかし、3章では第一、第二人称が第三人称(彼ら)と別々に述べられているのに対し、4章では対比させ関連付けていることより、展開が変化してきていることを示しています。1〜3節は、そのような意味で読者への直接の語り掛けです。これは3章での構造と似ているかもしれません。3章では12〜14節で読者への勧告が述べられた後、16〜18節で引用の解説がなされます。4章でも1〜3節で読者に語り掛け、4〜10節で引用からの議論が展開されています。そのような構造的な類似によっても3:12〜19と4:1〜11節が対をなしている事が分かります。
 4節から9節の議論はやや現代の読者の考え方と違うかもしれません。結論は9節、「神の安息が(私たちに)残されている」です。11節はこの安息と3章の不信仰とを再び結び付け結論としています。12節、13節は11節の勧告をより真剣なものにする働きとしています。神の言葉、すなわち神御自身は全てをご存知であり、そのお方の前では隠し事はできないのだから、表面的にだけ信仰者のふりをするのではなく、心から確信を持って神の安息を求めていくことが示唆されます。
 そのような厳しい面を述べた直後に著者は助けとなる言葉を述べています。14、15節で大祭司キリストの助けによって確信を持ち続けるという恵みが述べられ、最後の19節で神(の恵みの御座)に近づこうという勧誘がなされています。この19節の「近づこう」は12節の「神から離れるな」と対になっているようです。テキストの構造としては12、13節はその前の部分に結びついていますが、説教の構造に関しては14〜16節と結び付けた方がすっきりするかもしれません。


その3 テキストの分析(パート1)


3:1 本書で初めて読者への呼び掛けがある。純粋な手紙形式ではなく説教のようなものであることを考えると、読者の注意をこれから語る事に集中させるためか、新しい話題の始まり。「聖なる」は出エジプト19:6(「聖なる国民」)を意識してか、他の手紙(たとえばコリント)にも見られるように当時のクリスチャンの中でよく用いられた言いかただろう。「兄弟」との呼びかけは2:11とつながっており、この節が2章とつながっていることを思わせる。同時にそれまで「御子」か「主」と呼ばれることが多かったことに対して、2:9同様に人間として歩まれた「イエス」として言及している。(この後でも文脈に応じて「キリスト」などと違う呼び名を使っているのに注目。) キリストを「使徒」と呼ぶ例は他に覚えがない。「大祭司」は2:17を受け、後のキリスト大祭司論(5章)において展開される。つなぎとしての働きをよく果たしている節。
2節 「立てた」は「作った」とも訳せる意味の広い語。「任命した」とする訳もある。「(立てた)方」は父なる神をさしているのは明らか。「神の(家)」は「彼の」であり、神、キリスト、モーセのいずれかを指しうるがモーセでないのは明らか。旧約の文脈では「神の家」。
3節 ここでは「建築者>家」を根拠に「イエス>モーセ」としている。これはキリストがモーセを立てた(任命した)からではなく、2節にある「モーセは神の家に忠実」と「イエスは神(神の家の建築者)に忠実」という関係から始めて、それぞれが忠実に仕えている相手(家と建築者)の上下関係がそれぞれ(イエスとモーセ)の上下関係に反映していると見ている。何とも分かり難い。
4節 さらに3節を補足するために「神が全てのものの建築者である、だから神の家の建築者でもある」ということを述べている。
5節 モーセの役目は(1)僕として神の家のことを忠実に果たすことと、(2)後に語られる事を証しする(恐らく、モーセ五書のこと?)こと。
6節 それに対してキリスト(ここで再び人間「イエス」からその働きを示すタイトル「キリスト」に切り替えることで、その後の議論で人間としてイエスとモーセを比較することから離れている)は僕ではなく神の御子、すなわち王として神の家を治める。同じ事が前置詞によっても表されている。モーセは神の家の「中で」忠実だったが、キリストは神の家の「上で」治める。ここでもイエスがモーセよりも偉大であることを示している。このイエスの至高性から話が次のポイントにシフトしていく。 ここまではモーセに関していえば神の家は旧約のイスラエルだった。ここで、そのキリストが治めている神の家は何か、が告げられる。それは「私たち」(クリスチャンのユダヤ人か、あるいは全てのクリスチャンか)。しかし、そのためには「最後まで確信と希望による誇りを持ち続ける」ことが必要となる。いったい何故だろう? とにかく、ここで「確信を終わりまで持ち続ける」という、3:7以降で展開されていく主題が提示されて、1〜2章の話題(キリストの至高性)から3〜4章への橋渡しが行われる。もしかすると、7節以降の引用の語っている出エジプト第一世代は、いわば「確信を最後まで持ち続けなかったために神から離れ、神の家として失格した」例として挙げられているのかもしれない。そのように考えると、1〜6節でのモーセとキリストの比較は、7節以降で旧約のイスラエルと新約の神の民(ユダヤ人でも異邦人でも)とを比較するための準備だったことになる。(ここでちょっと問題になるのは「最後まで」と「(持ち)続ける」。前者は写本によってはない場合がある。後者は原文では特に継続性を意味する語形ではない。3:14の影響? )
7〜11節 ギリシャ語旧約聖書の詩編95編からの引用(日本語では7節後半から11節)。細かい違いはいくつもあるが、特に矛盾するほども違いではなく、本質的に同じ事を言っているので問題なし。この詩編は神に対する賛美と礼拝への招き。7節前半で「私たち」が神の民であることを羊に喩えている。そこには羊が羊飼いの声に聞き従うように「私たち」も神の御声に聞き従うことが求められている。
12節 「気を付けよ」が最初の語で強調されている。「兄弟たち」との呼びかけと共に読者の注意を呼びかけている。出エジプト第一世代のように不信仰に陥らないよう呼びかける。「生ける神」は旧約で13回、新約で13回(一回は旧約からの引用)。「神(主)は生きておられる」と共に、旧約聖書での慣用的表現が新約に影響している。死んだ神(偶像)との比較ではなく、旧約時代から続いて今も生きておられる神を読者に想起させ、旧約の民が不信仰になって離れたように、同じ神から離れるなら、どのような結果になるかを考えさせる16節以降の展開につながる表現。「悪い不信仰な心」は直訳すれば「不信仰の悪い心(an evil heart of unbelief-KJV)」。「離れる」は棄教(apostasy)と同じ語源。
13節 日本語訳には出ていないがこの節は「むしろ(しかし)」で始まる。不信仰の悪い心になって神から離れるのではなく、反対に「励まし合」う。
14節 「(キリストに)あずかる者」は「仲間」。旧約(ギリシャ語訳)では主にヘブル語の「結びつく」という動詞から派生した語である「仲間」の訳語。新約ではルカ5:7「(漁師)仲間」の他は本書だけ(5回)に出てくる。何かの共通性を持った存在――「天から召されている(3:1)仲間」「子としての訓練を受けている者たち(12:8)」。そこでその何かに「あずかっている」と訳される。3:14はキリストの「仲間」、6:4は聖霊の「仲間」(?)。後者は聖霊に与る、または聖霊の性質を共に受けるということだろう。したがって3:14もキリストに与る、またはキリストの性質を共に受ける、とも考えられる。1〜6節のキリストの忠実さのことかもしれない。「最初の確信」は直訳では「確信の始め」。「確信」は「物事の本質」あるいは「(その本質への)信頼」を意味するが「神から離れるな」という文脈では「確信」と訳すのは間違いではない。しかし、「始め」(アルケー、ヨハネ1:1参照)も物事の起源や根本を意味することもあり、もしかしたら違った意味合いを含んでいるかもしれない。


 今回はここで再度コンピューターが停止したため、説教の準備状況を残せませんでした。
 と、いうか時間が迫ってきたこともあり、頭の中にメモした形になりました。残念ながら私の頭の記憶装置はあまり性能が良くないので、それを再現できそうもなく、今回は(恥ずかしながら)ここで終わり。あとは説教の方をご覧下さって、裏の苦悩を読みとって下さい。
 ここまでの調子でテキストの分析を書き残しておけば、あとで役に立ったかも、などと欲は持たないことにしています。
 とにかく、再度(何度目?)のお詫びまで。

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