ヘブル書からの説教(その4)

ヘブル書5章11節から6章20節、10月1日礼拝にて
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範囲を決める(その1)

    ふつうは、範囲を決めるのはあまり悩まないのですが、今回はそれに時間がかかりました。もっとも、最初から(前回に引き続いて)範囲が広くなることは予想していましたが。

    5章の始めからキリスト大祭司論がいよいよ始まるように思えます。もちろん、4章の最後の部分でその前の部分との橋渡しをかねてキリストが大祭司であることが語られています。問題は5:11以降です。

    この部分が「予定になかった脱線」なのか、「意図された脱線(?)」なのかによって、その重要性が変わってきます。前者ならばカッコに入れて省略するか、あとで別扱いすることもできます。しかし後者の場合、その後の展開にも影響を与えるので、詳しい取り扱いが必要となります。感じとしては、この「脱線」はその後(7章から)の大祭司論への伏線となっているような気がします。

    このことを5:11からの流れを追いながら調べます。


範囲を決める(その2)

    5:11 「この方」(もしくは「このこと」)はキリスト(が大祭司であること)を指し、11節以降で取り扱う内容(話すべきことが読者にとって難しいこと)が10節までの内容と比較されるセッティングを作っている。

    11〜14では読者の耳が鈍くなっていることを非難しつつ彼らのプライドに訴えて6章以降で述べる「より堅い食物」を受け入れさせようとしている。

    6:1〜3は同じ事をポジティブな言い方で述べている。すなわち「成熟を目指そう」という動機づけをして読者が積極的に新しい事を学べるようにしむけている。

    問題は4〜8。ここを神学的議論とすると文脈から切り離すことになる。キリスト教信仰から離れる事の多かったユダヤ人クリスチャン(あるいは他の人々が年頭に置かれているかもしれない)への警告と見る方が自然。なぜ著者はこのような「脅し」のような言葉をここに置く必要があったのだろう。5:11〜6:3で二通りに「堅い食物」を受ける勧めをしてもなお受け入れようとせず、キリスト教信仰から離れようとする可能性のある者に釘を差すためだろうか。

    この厳しい言葉に対してバランスを取るように9〜10節では優しい言葉をかけている。「愛する人たち」、「良いこと」、「神があなたたちの行いを忘れない」等の表現で彼らが決して絶望的な状態にあるのではないことを伝えている。彼らが神と聖徒たちに使えた熱心さが確信と結びつくように進めている(11節)。その信仰と忍耐(12節)は「あの人たち」すなわち彼らの父祖、特にアブラハムへの約束(13〜15節)とつながっていく。

    13〜19節の約束論はキリスト教信仰の望み(11節の「私たちの希望」、18節の「前に置かれている望み」)が確かであることを説いている。その決定的な保証となるのが「先駆け」なるキリスト(20節)であり、ここでキリスト大祭司論に戻っている。

    さて、5:11節以降が発作的な脱線なのか意図された議論の一部なのかは7章との関わりを見る必要がある。メルキゼデクを持ち出すためにアブラハムは必須であるから、6:13〜19は単に軌道修正のためだけではない。アブラハム契約という旧約(ユダヤ教)の教理とキリスト教信仰の約束と結び付ける働きを果たしている。これはキリストの果たす役目がユダヤ教と無関係ではなく、また読者とも深く関わることを示し、7章からの展開により注目させる機能を持っているのかもしれない。

    この読者との関わりは6:11〜12で「あなたがた」と「あの人たち」を結びつけることでなされている。この展開が示唆するのは、7章から本格的に始まるキリスト大祭司論が決して読者とは無関係ではないことを印象づけようと著者は目論んでいるということであり、もしそれが正しいなら、逆に、読者はキリスト・イエスに対する結びつきが弱いためキリスト教から離れる傾向を持っており、そのような彼らに大胆にキリスト大祭司論を説くために、その準備をする必要があった。したがって5:11からの脱線は、5章初めでいったん始まったキリスト大祭司論を本格的に展開する前に、著者が読者に釘をさしておくためと考えることができる。

    したがって5:11〜6:20は意図された「脱線」であり、7章からの論議を勧めやすくする目的があると思われる。


範囲を決める(その3)

    さて、そうすると今回の説教の範囲はどうすればよいのでしょうか。5:11〜6:20はひとまとまりとなるために、途中で切る訳にいきません。かといって5:1からのキリスト論は10節までで完結しているとは考えにくく、内容的には7:1につながっています。

    そうすると、二通りの可能性が考えられます。一つは、5:1〜10と7:1以降をつけて一つの範囲とし、5:11〜6:20をもう一つとする。他の可能性は、今までにもあったように、5:1〜10を一種のつなぎと見て、5:11から一つの話題が始まり、7:1から次の話題に入る、とするものです。どちらにしても、5:〜7章を一区切りとするのは長すぎるので二つに分けることになります。後者の方が順番が前後しないので、今回は5:11〜6:20、次回は7:1以降とします。5:1〜10については今回の序論部分か本論中で簡単に触れることとし、また次回にも補足的に触れれば良いと思います。

    今回はここまででずいぶん時間と労力を使ってしまったのですが、すでに5:11〜6:20の流れを見てきているので構造などに入りやすいと思います。


テキストの構造とメッセージのアウトラインを考える(1)

    少し振り返って、4章の終わりから見てみます。3,4章では「安息」というテーマで話が進められてきました。その結論として3:11で「この安息に入るよう力を尽くして努め」ることが勧められています。その人間的努力は大祭司キリストの助けが不可欠だと4:14−16で結ばれていますが、この部分は2章の結論である2:17−18の発展であり、このあとの5:1−10で少し触れ、7章から本格的に展開するキリスト大祭司論へ話題を転換する働きをしています。こういった前後を結びつけたり話題を変えたり、あるいはしばらくあとに出る話題を前触れしておく箇所がヘブル書にはよく出てくるようです。

    5:1−10もそれ自体で一つの話題(大祭司論)を展開させるよりも、あとに出てくるテーマの伏線となっているようです。人間の大祭司の弱さと罪の献げもの(5:3)については7:26−27,9:23−28,10:1−21で発展して言います。またメルキゼデクについては7章に書かれています。こうしたことからこの部分はつなぎの働きをするものと考えます。

    5:11は「この方(あるいは「こと」)について」7章で話すことを読者が受け入れやすくなるように準備する5:11−6:18の働きを示しています。そして6:19,20は6章後半の「約束」とキリストと結びつけているようです。こうして読者が「堅い食物」であるキリスト大祭司論を聞ける準備をするとともに、彼らが約束のものを相続するためにキリストが重要な存在であることを訴えています。こうしたコンテキストの中で5:11―6:20の構造を捉えていきます。


テキストの構造(2)

    12節から14節では教師:初歩、堅い食物:乳、大人:幼子という3種類の対比によって、読者に「堅い食物」を選ばせようとしています。このことを6:1ではもっと明確な言い方で、「キリストについての初歩」(1節後半から2節)から「成熟を目指す」生き方に進む、と述べています。そして3節はこのことが神の許しの中で行われると結んでいます。

    4節からは「初歩から成熟」という生き方の正反対として「堕落」(6節)についての警告を与えています。したがって、3節までと関係を持ちつつ、次のトピックに移行していることになります。神学的問題はさておき、4節から6節は直接的な表現で堕落の恐ろしさを述べ、7、8節は土地というイメージを使って警告を重ねています。同時に土地の譬えの前半では「良い土地」について触れて「悪い土地」(8節)と対照させています。ですから、単に脅しているのではなく、ここでも良い方を選ぶことがほのめかされているようです。その「良いこと」が明らかにされるのが9,10節です。11節では結論的に「最後まで確信を持ち続ける」という3、4章の教えが再確認されて警告を閉じています。12節は「なまけずに、信仰と忍耐」によって11節と、そして「約束のものを相続するあの人たち」によって13節以降と結びつき、橋渡しをしています。

    13節からはアブラハムを例にとることで約束への忍耐をしめすと同時に7章からのメルキゼデク論の背景として不可欠なアブラハムに目を向けさせています。この約束を保証するのが「神の誓い」(17節)であり、「私たち」を含めた「約束の相続者たち」への励まし(18節)となっています。この約束を「前に置かれている望み」と言い換えて(18節)、さらに19節ではその望みを「(幕の内側に)入る」ことに結びつけて、先駆けなるキリスト(20節)へと話題を移行させています。

    以上より、テキストの構造及び説教のアウトラインは以下のようになります。(もちろん、あとで修正されるかもしれません)

    5:11〜6:3 成熟を目指す選択

    6:4〜12 成長を妨げるもの(と神からの助け)

    6:13〜20 神の約束への信頼


テキストの分析

    今回はすでに細かく読んできているので、原文に当たってみて特に気がついたことだけあげてます。

11節 「鈍くなっている」は6:12で「なまけ(ずに)」と訳されており、新約聖書ではここだけに出てくる。

14節 「感覚」よりも「判断力」のほうが良い。「大人」(完全な者)とは経験によって善悪に対する判断力を身につけた者。13節では「義の教えに通じ」た者。

6章

1、2節 「キリストについての初歩の教え」の具体的内容は1節広範と2節に列記されているようなことで、恐らくユダヤ教からの入信者にとってキリスト教を信じる前に前提(基礎)として確認されたようなことだろう。5:11〜14で「あなたがた」と言っていたのに対し、「私たち」と言って著者と読者の一体性に訴えて共に前進することを促している。

3節 「神の許しがあれば」は、許しがなかったら前進できないという謙遜を示すとともに、神の許しが必ずあることを確信しているからこそ言える言葉である。

4節 「(聖霊に)与る(もの)」は3:1、14節にも出てくる。ルカに一回出てくるのを除けば本書に5回出てくるのみ。ここでは信ずるものに聖霊が与えられていることを指すのだろう。

6節 理由を示す言葉は使われていないので「彼らは...だからです」は不適切。後半はそれまで過去分詞(正確にはアオリスト分詞)か連続していたのに対して現在分詞が使われており、「(神の子を十字架に掛けて恥辱を与えている)間は(悔い改めは不可能)」と見るほうが良いかもしれない。どのように訳されるとしても、この個所は神学的議論と見るより、読者が背教しないための強い警告と見る方が文脈に適している。

9節 「愛する者たち」は本書でただ一回使われているのが、実にこの厳しい警告の直後であることは注目に値する。このような厳しい言葉を語りつつも、著者の確信することは別のことである。それは読者に関する良いこと、救いに関わること。

10節 「神は正しい方であって」は、直訳すると「神は(あなたたちの行いと愛を忘れるほど)不義なお方ではない」というより強い表現。ここは行為義認を意味するのではなく、神への愛に基づく奉仕を神は忘れないということ。忘れないことが具体的に何をもたらすかは書かれていないが、少なくとも救いに関わることであるのは確か。「聖徒」は読者に対しても使われているので、第一コリント16:1(聖徒=エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたち)のように特定の誰かをさすかもしれないが、クリスチャン全般を指すと見ることもできる。

12節 「約束のものを相続するあの人たち」は誰だろう。(1)前述の聖徒たちだとすると、この聖徒たちは特定のクリスチャンを指すことになる。(2)クリスチャン一般とすると、読者はまだクリスチャンではないのか(ユダヤ教徒とキリスト教徒と中間状態?)。前の方で「旧約の信仰者たち」と言ったが、現在分詞(相続しつつある)を使っているので、違うようである。しかし、約束の相続というテーマから、その第一人者であるアブラハムを例にあげるのは自然である。「なまけずに」は「鈍くならずに」(5:11)とも訳せる。

15節 アブラハムは、神の約束とそれを保証する誓いを与えられたので、忍耐の末に約束のものを得た。同じように忍耐をもって約束のものを相続する(12)ために必要なのは、神の確実な約束である。

18節 「前に置かれている望み」とは終わりの日に完成する救いのことだろう。「変えることのできない二つのこと」はアブラハムに対する神の約束と誓いであり、それは全ての約束の相続者に対しても与えられていると著者は考えている。

19節 この望みはたましいの錨であり、クリスチャンが信仰を確かに持ち続けることを助ける働きをする。したがって、終わりまで確信を持ち続けるには、前に置かれた確かな望みが不可欠であり、この望みは「幕の内側」、つまり至聖所が指し示す神のところにまでつながっていなければならない。そこで、「望みは幕の内側に入る」ものである。

20節 キリストは大祭司としてその幕の内側に入られたので、キリストこそクリスチャンの持つべき望みである。クリスチャンが「堕落」することなく「成熟を目指して進み」、「最後まで...確信を持ち続ける」ために、このキリストという希望をしっかりと知る必要がある。こうして、キリスト大祭司論を学ぶ準備ができたこととなる。


説教の中心と展開

    テキストを詳しく調べれば調べるほど、説明したいことが増えてしまい、説教が講義のようになりがちです。説教の中心がはっきりしたら、思い切って切り捨てるところは切り捨てる。取捨選択が必要な段階です。

    今回は、ヘブル書の著者と同じ様に、7章からのキリスト大祭司論への備えを土台とします。簡単な言い方をすれば、キリストをもっと知ろう、というメッセージです。そこに結びつけるためのカギは、「成熟に向かって進む」、すなわちキリスト者の成長というテーマです。このテーマに沿って、メッセージを組み立てます。

    第一に成長の必要性を扱います。5:11〜6:3を通して著者が読者に伝えようとしているメッセージ、「成熟を目指して進もう」を中心にします。第二に成長における問題。6:4〜8の「堕落」への警告を成長の対局と位置づけます。ただ、あまりこの警告に立ち入ることは著者の意図ではない神学的問題に触れることになりかねないので、簡単に触れ、むしろそのような成長の困難に対する牧会的メッセージである9、10節を強調します。第三に成長と神の約束との関係。それがキリストにつながっていく、こうしてメッセージ全体が一巡りします。すなわちキリスト論への備えから始まり、成長というテーマを通って、キリストの重要性で結ばれます。

    具体的なキリスト論は7章からになるので、今回は導入的な色彩が少なくありません。しかし、その中で、成長を目指すことの大切さを語り、実際の信仰生活に対する指針となれば良いと思います。

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