ヘブル書からの説教(その5)


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範囲を決める

   最初に説教箇所の範囲を決める目的は、テキストにできるだけ慣れることです。前後を含めて読み、流れをつかむ。全体像をつかんでから細かい分析に入る事で、「木を見て森を見ず」となることを防ぐことができます。ただ、最初から細かく見ていくと時間がかかるので、ある程度の不正確さは覚悟しながら初期的な範囲、構造、主題といったことを決めます。もちろん、後から変更する余地を残しておきます。


   さて、今回はおおざっぱに言って7章を一まとまりとします。といっても、7章はその前後と結びついているので独立した部分ではないことはこれまでの他の箇所と同じです。7章の頭はメルキゼデクについての解説で始まります、これは旧約からの引用ではありませんが、創世記での出来事を簡単にまとめてあります。そして、それに基づいての議論が続く。このスタイルは3章などと同じです。このメルキゼデクに関するもう一つの重要な引用はすでに5:6で与えられています。そして5:10で「メルキゼデクに等しい大祭司」という主題が表れ、それが5:11からの「脱線」によって準備を整えた後で6:20で再度取り上げられています。こうして受け手の備えをした上で本題であるキリスト大祭司論へと突入します。


   このキリスト大祭司論は7章で終わらず、おそらく10章まで続くものと思われますが、一回で扱うには長すぎるのと、大祭司という大きなテーマの中でも、いくつかのサブテーマがあるので、適当なところで区切る必要があります。7章は1節から、少なくとも17節まではメルキゼデクという言葉が出てきます(その後は出てきません)。7章後半では8章以降で展開される話題が少しだけ顔を出していますが、キリストが素晴らしい大祭司であるという論点は貫かれているようです。


   8章の最初は「以上述べたことの要点は」で始まっており、一見、7章の議論を繰り返しているようですが、実際はそれに新しい話題も加え、結果的に9、10章とのブリッジとなっているようです。したがって8章前半については必要な事があったときだけ取り上げれば良いと思います。



テキストの構造と説教のアウトライン

   7章全体は5:10及び6:20で掲げられた「(イエスは)...メルキゼデクに等しい祭司」という命題を論証する内容となっています。


   7:1〜3は全体の序文としてメルキゼデクが特別な優れた祭司であることを述べています。前半(1節と2節前半)は創世記に出てくる記事を要約したものです。後半(2節後半と3節)はその記事の簡潔な説明で、メルキゼデクの特性を示しています。7:4〜10ではメルキゼデクの偉大さを、彼がアブラハムよりも、そしてレビ族よりも上位であることによって論証しています。7:11〜14(または15)ではメルキゼデクの存在がレビ族でない祭司が立てられたことを意味すること、そして「その方」がその(レビ族とは)「別の祭司」であることを示し、イエスが祭司であることを証明しています。さらにイエスは律法によらず、神ご自身の誓いによって祭司に任ぜられたことを16〜22節で述べて、先の証明を確かにしています。23節以降は22節で「イエスはさらに優れた契約...」と述べていることを展開し、大祭司キリストの特性を並べています。28節は7章をまとめています。


   以上から、大まかな7章の構造は(1)メルキゼデクが特別な祭司であること(1〜10節)、(2)イエスがメルキゼデク系の祭司であること(11〜22節)、(3)キリストが素晴らしい大祭司であること(23〜28節)、となっていると思えます。


   さて、今回の問題は、この「イエス=メルキゼデク型大祭司」という、いわばユダヤ人を対象とした議論が、現代の(異邦人)教会にとってどのような意義があるか、ということだと思います。したがって、テキストの構造そのままの展開とは違ったアウトラインが必要になる可能性があります。今のところ考えられるのは、(1)メルキゼデクとは誰か、という背景の説明と、イエスがその特別な祭司である、ということ、(2)イエスが素晴らしい祭司であることと、私たちにとっての意義、という2つの部分に分けるアウトラインです。テキストの第三部分(23〜28節)は大祭司キリストの素晴らしさをのべているので、ユダヤ人向けの議論から教会への適応に進みやすいと思われます。



テキストの分析

   7:2 「神の子」はヘブル書の中では4回出てくるが他の3回はイエス・キリストを指す。天使の場合は複数形なので、やはりここもキリストにメルキゼデクが似ているということなのか。「似たものにされ」は確かに受動態。神によって(少なくとも聖書の中で)「神の子に似たものにされ」たということは、メルキゼデクをそのように特別な存在として出現させたのが神の御計画ということになる。


   7:3 「いつまでも」はよく使われる「永遠」とは別の言葉で、「いつの時代にも」とか「毎年」(10:1)とも訳せる。10:12、14ではキリストのご自身によるいけにえ(十字架の贖い)がすべての時代のためであることを示す。メルキゼデクはこの世の中でいつの時代にも祭司で在り続けるということ。


   7:4〜10 メルキゼデクがアブラハムよりも、従ってレビ俗の祭司よりも優れた存在であることの証明。論旨ははっきりとしているので問題なし。8節で「生きていると証しされている」とは、3節の「命のおわりもなく」を積極的に理解したもの。ここでは個人としてのメルキゼデクではなく、彼の持っていた祭司職に関する議論が中心。


   7:13 「私たちが今まで」(論じてきた)は原文にはない。直訳は「これらのこと(今までの議論)が彼に関して語られて来たところの人」で、あまり上手い日本語にならないので、しかたがないかも。


   7:16 「肉についての」(直訳、肉の)は「死ぬべき人間」(8節)のことを指しているのであり、「命の力」と対比されている。パウロ書簡での「肉」とは違う。


   7:17 ここで何度も引用されている詩編110:4について。ヘブル語聖書では「主は誓われ、御心を変えられない、あなたは永遠に祭司である、私の命令によって、メルキゼデク(あるいは、私の義の王)である」。「私の(命令)」を一人称所有格としてではなく、詩歌における特別な言い回しと捉えて「(メルキゼデク)の」と解釈する説もある。その場合、「命令によって」ではなく「位に従って」と理解し、ギリシャ語訳のようになる。もしもこれが「メルキゼデク」ではなく「我が義なる王」であったとしても、旧約聖書で王と祭司を兼職することはイスラエルでは通常のことではない。メシア予言として捉えるならば、この詩編が書かれた時の状況を越えての解釈は無理ではない。従って、ヘブル書の著者が引用したギリシャ語旧約聖書の解釈は決して間違いではない。110:1が新約で何度もキリストについての予言として繰り返されていることから、4節もその文脈で読まれたことは自然なことである。旧約聖書のキリスト論的な解釈は、文法的解釈だけによるのではなく、イエスこそメシアであるという確信に基づくものである。


   7:18 律法が「廃止され」るというのは、新約聖書の他の箇所で述べられている旧約聖書の永遠不滅に関する議論と矛盾すべきものではない。「神の言葉」、あるいは「キリスト預言」としての旧約は決して廃れることはないが、祭儀律法としての旧約はキリストの十字架により廃される。


   7:19 律法に代わって希望が救いをもたらすものとなる。これは3:6や6章の希望を堅く持ち続けることの勧めとつながっている。その希望によって「神に近づく」、これが救いである。救いをこのように捉えるとき、救い主を大祭司と見ることに意味が出てくる。受肉も贖いも大祭司によって人が神に近づくためである。このことについては9章以降で展開されていく。


   7:20 19節までで律法の変更とキリストが祭司として立てられたことを述べてきたが、20〜22では、キリストは神の誓いによって立てられたので人間の祭司より優れた存在であることが論じられる。この誓いは、一方ではイエスが大祭司であることを確かにする働きをし、他方では彼が人間の祭司たちよりも優れていることを示す。またキリストの優位性は同時に新しい契約(8章後半で展開される)の優位性をも意味する。


   7:23〜24 大祭司キリストの卓越性は、彼の永遠性故にいつまでも祭司であることができること。したがって、いつの時代にもキリストは祭司として人々が神に近づくことを助ける、すなわち人々を救うことができる(25節)。


   7:25 「完全」は6:1の成熟とは違う言葉。キリストの救いの完全性、十全性を示す。


   7:26 罪の無い、人間以上の大祭司こそ人間に必要な救い主である。この一言こそ、ここまでキリストがメルキゼデク型祭司であることを論じてきた結論です。そして、実にユダヤ人だけでなくすべての人に関わることである。


   7:27 キリストの贖いの一回かつ十分であることは9章で説明されるので、ここは先のことの予告である。


   7:28 これも近いによって立てられた祭司キリストという今までの議論の結論であり、また久しぶりに「御子」と呼ぶことで、御使いより勝るキリスト(1章)を思い出させる。


   8:1〜7 一節からは7章(5章の前半も含みうる)の議論を要約したものだが、新たに「聖所」という話題を登場させ9章の議論を導入し、「写しと影」といった10章の展開にもつなげている。言葉だけでなく内容的にも大祭司キリストからその祭司が働く場所である聖所と捧げるいけにえに話題が移って行く。したがって7章の内容に付け加えるよりも次のサブテーマに移行するための橋渡しであることが明らか。



構造やアウトラインの修正

   細かい分析によって多少の修正が必要となることがあります。最初に考えたことに拘るのではなく、いつでも修正を受け入れる柔軟さが、解釈が独善的にならないために必要です。


   さて、今回は結局大きな修正は今のところいらないようです。強いてあげれば、22節はキリスト祭司論より、大祭司キリストの特性の一つと見ることができること、27,28節は結論であると同時に次へのつなぎであること、でしょうか。説教のアウトラインも原則的には変えないで、具体的に原稿を作りながら表現を考えて行く段階で、必要があれば前後させるようにします。



説教の中心

   先に述べたように、この箇所を単に「キリストは大祭司である」という議論だけに終始すると、退屈なだけでなく、教会にとって無意味ではないにしても理解しにくいメッセージとなります。キリストが大祭司であることの異邦人教会に対する意義は、救いを「神に近づくこと」と捉えることで大祭司キリストの必要性ならびに永遠・十全性を理解することでしょうか。すなわち完全なる大祭司のおかげでいかなる時代のいかなる民族の人も神に近づくことが許され、その罪が贖いにより赦されるということです。その意味では福音の内容を、付け加えるのではなく、より豊かに表現し理解を深める、ということになります。


   イスラエル人にとってユダ族のイエスが大祭司であるという論に抵抗を感じるので、彼がそうであることを、旧約聖書を使って論証し、それによってイスラエル人にとって理解の枠組みとなっている祭司制度を使ってキリストによる救いを説明するのが本書の本来の役割です。それに対し、本書が元々の「ヘブル人への手紙」から新約聖書の一巻となることで、異邦人をも含めた教会の正典となった時、祭司制度に理解が乏しい異邦人が、本書の助けにより福音書では隠れているキリストのもう一つの姿を旧約聖書に基づいて学ぶことができることになりました。また、特にパウロ神学、あるいは宗教改革者によるパウロ理解に深く影響されているプロテスタント教会にとっては、普通は過ぎ去ったものとしてあまり取り扱われない祭司制度をキリスト論的に見直し、ともすると法律的理解に偏りがちな救いを、より広く捉える機会ともなります。


   話がややこしくなりましたが、初代のユダヤ人クリスチャンが、本書によってキリストの素晴らしさとキリストによる救いの確かさを再確認したように、私たちも少しでもキリストの救いの豊かさに触れたいと思います。


   もう一つ、現代人にとって、神に近づくということはあまり難しくないことのように思われがちかもしれません。しかし、祭司制度のもとでは、罪ある人間が聖なる神に近づくことは祭司の助けなしにはありえず、また神に近づく礼拝なしに信仰者の人生は無意味であることを覚えるなら、キリストが永遠の、また完全な大祭司であることは、もっともっと評価されて良いのではないでしょうか。(「なんとありがたいこと」と感じたいものです。)


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