ヘブル書からの説教(その6)

 

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テキストの範囲

    最近きちんと書き込んでいないのですが、別に誰かに怒られる訳でもないので、のんびりやっています。さて、今週はF先生に説教をしていただく番なので、私はゆっくりしています。と言っても、何もしていないのではなく、ちゃんと次回の準備は始まっています。今回も説教範囲を決めるのに手間取っています。自分の直感で決めるのが嫌いなので、できるだけ悩みながら考えるのですが、後から修正するのを億劫がっているだけかもしれません。

    さて、前回は7章からでしたので、順番から言えば8章となるはずです。しかし、8章前半は7章までの議論(大祭司論)のまとめと、9章以降(新しい契約)への導入となっているため、はぶくことができます。9章後半は、ほとんどがエレミヤ書からの引用であり、9章の話題である「新しい契約」が旧約預言に基づくことを示す働きをしています。このエレミヤからの引用はその後で解説されている様子はなく、別の働きをしているようです。それは、10章の中頃でもう一度引用の一部が繰り返され、この二つの引用によって「囲い込み」を行っているようです。言い換えれば、この二つの引用によって囲まれている9章と10章前半は一つのまとまりとなっています。そこで9:1〜10:18という範囲が浮き上がってきます。

    もちろん、今回悩んだ理由は、これがあまりに長すぎる(前後を入れると、8:1〜10:18)ためです。そこでどうにかして二つに区切れないかを考えましたが、今のところあまりうまくいきません。もちろん、9章と10章前半のそれぞれに異なる主題をつけることはできますが、両方に共通している話題が多いために、完全に独立した二つの部分というより、一つのまとまりの中の区分と見る方が良いようです。

    そこで、今回は(今回も?)長めの範囲となります。しかし、細かく見ていく内に異なる主題が強く浮き出てきたなら喜んで二つの範囲に分けたいと思います。


テキストの構造

    8:1−6は前後を結び部分です。「要点」と8節にありますが、実際は7章のまとめではなく、7章を前提として論理を展開して、8章後半の話題につなげています。キリスト大祭司論は1,2節に述べられていますが、もはやメルキゼデク型祭司のことではなく、「天」に座し「真実の幕屋」で仕えている大祭司とされています。この「真実の幕屋」は後で展開される話題です。3,4節でささげものが話題となりますが、これも9章で本格的に論じられます。5節は出エジプト記の言葉を引用して地上の幕屋が天にある真実の幕屋の影にすぎないことを示して、6節で、その地上の大祭司よりも「さらにすぐれた」働きをキリストがされることに導いています。その6節の最後で「さらにすぐれた契約」を出してきて7節からの新しい契約に話題をつないでいます。こうしてこの部分は話題を大祭司から契約に移しつつ、9章の話題の準備もしています。

    7節は7:18あたりの話を「あの」という指示語で思い起こさせ、8節で「初めの契約の欠け」=「後の契約の必要性」という7節の論理をサポートするためにエレミヤの預言を「神は、...こう言われる」と切り出しています。この長い引用については、特に説明する必要もないほど明らかなことなので、13節ですぐに結論を出しています。それは「古い、消え去る契約」と「新しい契約」の対比です。

    こうして新しい契約について詳しく論ずる準備ができて9章か始まります。9:1−10は古い契約における幕屋と大祭司の務めが7節まででまとめられ、8−10節はこの古いシステムの意味するところを聖霊による示しとして述べています。古いシステムは、良心を完全にできない(9節)、新しい秩序が立てられるまでの一時的なもの(10節)ということです。

    11節からは新しいシステムを古いシステムの言葉を使って対比させています。11,12節で「AではなくB」という言い方で新しい契約の優れていることを示し、そのまとめが14,15節です。キリストの血は「良心をきよめる」ことができ、9節で古い契約のいけにえがそれをできなかったことと対比されています。この対比から1−10節と11−16節は対になる区分となっていることが分かります。

    15節は、14節までのキリストのなしたことの古い契約に対する優位性の議論を土台として、キリストが新しい契約の仲介者であるとしています。これは8:6の繰り返しであり、それに「違反の贖い」と「永遠の資産の約束」という新しい話題を結びつけています。この「資産」という言葉から16節の遺言(「遺言」と15節の「契約」は実は同じ言葉だが、「死亡証明」などの文脈から遺言と訳すことは可能)を導入しやすくしています。従って、15節は8:6−9:14までと9:16以降を結ぶ働きをしていると言えます。「永遠の資産」自体は16節以降では展開されていない話題です。

    16、17節は読者の社会常識に訴えて、遺言(契約)が死によって効力を発揮することを述べ、18節で死から血に焦点を移しています。この血は何かの死を意味するものです。そして、その血により契約が有効になるだけでなく、契約・律法・祭儀に関わるあらゆるものが血によってきよめられ、さらに罪の許しにまで及ぶ、と22節で結んでいます。この旧約のシステムの説明から、23節以降はキリストのなされたことに進みます。

    23節は前後の議論を要約したものです。地上の幕屋(とそれに属する全て)は子牛と山羊の血(19節)によって清められたが、天にある聖所はさらに優れたいけにえ、すなわち御子の血によって清められる、ということです。これは実際に天の幕屋も清めの儀式を行ったということではなく、古い契約と新しい契約との対比のための表現です。24節は、従って19−21節のモーセの儀式に対応するキリストの「儀式」です。そして、そのキリストの働きを説明するのが25−28節です。26節はキリストの贖いの業の一回性が25節の地上の大祭司と比較されています。そして27節の人間に関する真理と比較しながら、28節でキリストに関する真理、すなわち初臨において罪の贖いを一回で果たし、再臨では救いの完成をされることが語られています。この再臨の話題は10章前半では現れず、贖いの一回性のほうが発展していく話題です。

    10章では、1−4節で古い契約の贖いが罪をのぞくことができないという、9章前半の議論をもう一度取り上げ、5節からのキリストの体によるいけにえを導入させています。5−7節の詩編40編(ギリシャ語訳)からの引用も、いけにえと体との関係を述べています。8,9節は引用の説明、もしくは要約をして、10節の結論を導いています。それは「キリストの体の一回だけのささげものによる永遠の贖い」で、12,14節でも繰り返されています。13節は1:13の引用を思い起こさせ、永遠の贖いの論証を確かにしようとしているようです。そして最後にもう一度得エレミヤの預言を再登場させて、18節までで新しい契約の話題の締めくくりとしています。

    19−22節は、このキリストの贖いの業に基づいて「大胆に」(19)「神に近づこう」(22)という勧め(4:16,7:25など)を述べ、23−25節の信仰を堅く持つとの勧め(これも今までに述べられている)につながっている。26節からは、この19−25節の勧めに耳を貸そうとしない者たちへの裁きという厳しい戒めを語っています。したがって、19節から数節は前後の橋渡しですが、26節以降は明らかにここまでの話題とは違います。

馬が走っている...

説教のアウトライン

    さて、今回の問題点は9章と10章の関係です。両者には共通する部分が少なくない。そこで、全体を一つの塊と見た訳ですが、そうであっても内部の構造を考えれば、9章と10章で何らかの関係が在るはずです。共通する話題に関しても、どのような違いが在り、議論がどのように発展しているかを見極めなければなりません。その上で、全体を二つに分けるべきかを考えます。

    さて、全体を貫いているのは新しい契約という話題です。したがって主題も「新しい契約」になると見て良いでしょう。8章は全体の序論として、キリスト大祭司論との関係、すなわち、「キリストという新しい大祭司が立てられたことによって契約も新しくなった」ということ(8:1−6)、そして、その新しい契約は旧約聖書ですでに予告されていた、神の計画であること(8:7−13)を述べています。9章では、その新しい契約がどのようなものかを表します。第一に良心をきよめる契約である。古い契約が儀式によって体を清めたが心の中まで清められなかったのに対して、新しい契約は人の良心に及ぶ効果があるということです。14節にまとめられている様に、綿新しい契約の救いは私たちの心の底から作り替えて、神に仕える者にすることができます。

    15−22節は遺言とモーセによる儀式を取り上げながら、最初と最後で新しい契約の特徴を示しています。それは、罪の赦しということです。古い契約において犯された違反としての罪が赦されることなしに救いはあり得ません。

    23−28節で新しい契約の特徴としてあげられているのは、キリストの贖いの一回性(一度だけで、かつ完全であること)と、再臨における救いの完成です。後者は前者に基づいている点では二つは関わり合っています。この二つのうち、前者は10章前半でさらに取り上げられ、後者はヘブル書全体を貫く主題の一つである「約束を最後まで堅く信じる」ということと関係しています。

    10章前半は新しい契約の一回かつ完全であることを、神の御心によるキリストの受肉に基づいて論じています。

    こうして見てきますと、9章と10章でもっともはっきりと共通しているのはキリストの贖いの一回性であり、もし9章からこの話題をのぞくと、9章は主に新しい契約について、10章はキリストの贖いについて語っていることになり、この二つを分けることは可能であり、また両者を一回で話すにはどちらも大きすぎるテーマに思えます。そういうわけで、途中ですが、今回の範囲を9章、10章は次回、ということにする方向で今後の準備を進めます。(もちろん、これが最終決定ではありませんので、まだ10章まで視野に入れて起きます。)

    9章までを範囲としてあらためて説教のアウトラインを考えます。8章は、序論として、あるいは短いパート1として、古い契約と新しい契約についての簡単な説明をします。9章を、その新しい契約についての説明と見ると、3つのことが浮かび上がります。第一に、新しい契約は心(良心)をきよめること。人間は自分の行いを変えることができても心の中から変わることはできない。それができるのは新しい契約による救い。第二は、罪の赦し。これは遺言がそうであるように、神からの一方的な恵みであり、キリストの命によって与えられる赦しである。第三は、新しい契約は罪を取り除くだけでなく、救いの完成まで含んでいる。この約束を堅く信じ続けることが大切です。

    10章(前半)のアウトラインは次のようです。まず、キリストの受肉と十字架の贖いとの関係。第二にキリストの贖いの完全性。第三にキリストの働きによる神との関係の回復。全体はキリストの血と肉による贖いというテーマで結ばれ、それはちょうど聖餐と関係しています。


テキストの分析(その1)

    8:1 「要点」と訳されている語は他には使徒22:28で「大金」と訳されている。「頭」から派生した語で、ここでは要点というよりも今までの議論で言いたかったことの結論とでも言ったら良いだろうか。1節以降の内容は7章の議論、すなわちキリストがメルキゼデク系の大祭司であることより、彼が大祭司であることから、故により優れた契約の仲介者であることに話題を転換させている。また、「以上述べたこと」には7章だけでなく、1:14の「右の座」も含まれ、その意味では1章から7章までの議論の全体を指している。「私たちの」は意訳で、「私たちは(このような大祭司を)持っている」「私たちには...がいる」ということ。
    8:2 「聖所」(「聖」の複数形)も「幕屋」もここで初めて出てくる。主に9章で語られる話題の導入。
    8:3 大祭司がささげものを持って仕えているという一般的事実から、天の大祭司もそれを持っているはずと結論してしている。「ささげ物といけにえ」というペアは5:1に予告的に出てきた後は(7:27の「いけにえ」を除いて)初めて。これも9、10章での話題の導入。
    8:4―5 キリストは地上の大祭司とは違うこと、その地上の大祭司が仕えているのは「写しと影」に過ぎない事を出エジ25:40を使って証明し、そのコピーに過ぎない大祭司の務めよりもキリストの務めが優れているという6節を導き出している。
    8:6 「より優れた務め」、「より偉大な契約」、「より偉大な約束」と比較級を三つ連続し、大祭司の優劣から契約の優劣に話を移している。
    8:7 原文には「契約」はなく、「始めのもの」と「第二のもの」との対比だけを伝えている。言い換えると、「始めのものに欠けがあるなら第二のものが必要である」という真理を述べていて、具体的なことはその後の預言の引用によって示している。「契約」は7:22で予告的に表れ、8章で4回(内、3回は引用)、そして5回出てくる9章で論じられる。
    8:8―12 ヘブル語とギリシャ語の違いを考えれば、この引用と旧約(日本語訳でも他の訳でも)のエレミヤ31:31―34との違いはたいしたことはない。むしろ、「欠けがある」というのは古い契約が不完全であったということより、イスラエルが契約を守らなかったことが、新しい契約の必要の原因となっている。契約の内容の問題ではなく、人間が契約を守れるかということ自体に欠点があり、新しい契約は神からの一方的な業(心に書きつける)でなければならない。(実は、旧約も本当は一方的な恵みだったのだが、人間の側が変質させてしまった)
    8:13 神が「新しい」と呼んだのだから最初の契約は「古い」とされる。古い契約が消えていくことは、他の箇所で律法はなくなることはないという主張と表面的には対立する。神学的考察が必要かもしれない。


テキストの分析(その2)

    9:1―7 ここでは「契約」という語は4節に「契約の箱」「契約の板」として二次的に出てくるだけで、内容的には礼拝の規定が中心である。したがって旧くなっていくのは儀式的礼拝であると考えることもできる。礼拝で使われる器具(2―5節)は重要な話題ではないのは明らか。ポイントは、至聖所には特別な場合だけに大祭司だけが入るのであり、通常の礼拝は「前の幕屋」で行われる、ということ。7節の「大祭司自身の罪のための血」は25節で再度取り上げられる。
    9:8 ここまでの議論の結論は、まことの聖所への道(神様御自身に近づくこと、4:16、6:19、7:19、25、10:1、22などに出てくる本書の中心テーマ)は古い契約の礼拝では明らかにされていないということ。すなわち、古い契約が不十分ということと、「まだ」(ギリシャ語では強調的位置にある)ということより新しい契約での明示が示唆されている。
    9:9 ここで時制が問題となる。前節でも「(まだ)明らかにされていない」は完了型なので「明らかにされていなかった」ということだろうか。9節では「現れた(もしくは、到着した)時」でも完了形が使われている。「時」は長さとしての時間ではなく、特別な時を指す。この完了形を「すでに現れた」と見ると過去のことであり、「その当時」(新改訳)となる。また現れるという動詞の結果という面を見ると「今」を指すとも考えられる。このような時制に関わる議論には注意が必要で、現代のヨーロッパ言語の時制の感覚がそのまま聖書ギリシャ語やヘブル語に当てはまるとは限らない。この動詞「現れる」は新約聖書では完了形と未来形でのみ使われている(他のギリシャ語の文献については調べない)。従って文脈の中で、現在形やアオリストを含めた各時制がどのような意味を持つかを考えるには資料不足である。また、ここでは分詞が使われているので、直説法と違い、時間の問題よりも状態の問題が重要なのかも知れない。今のところ、8節までが古い契約を論じているのは明らかなので、古い契約の下にある状態のことを幕屋が「比喩」(この言葉の意味も難しい)として示していると考えることとする。 ずいぶん回り道をしたが、9節のポイントは、古い契約の礼拝では良心を完全(パーフェクトといういうより、神の求める状態)にすることができない、ということで、前節の「古い契約の不十分性」を明確に言い直している。この不十分性は10節でさらに詳しく理由づけられている。 「(良心を)完全にする」だが、直訳すると、「礼拝者を良心に従って(良心に関して)完全にする」。
    9:10 「からだ」は9節の「良心」に、「新しい秩序」は1節の「初めの契約」と「礼拝の規定」に呼応している。ここでも、1〜9節のまとめをしつつ、新しい契約という11節以降の話題の準備をしている。
    9:11、12 「(キリストは)来られ」も「成就した」もアオリスト分詞。特に時間的条件(完了とか継続など)を強調していない。従って翻訳者は自分の理解に従って言葉を補う必要がある。新改訳の「すでに成就した(素晴らしい事柄の大祭司として)来られ」は、キリストが来られたことも贖いの業もすでに起こったこと、という理解。「(すでに)起こった」という完了的意味ではなく、「起ころうとしている」という未来的意味ととる訳もある。その場合、素晴らしいことは過去の贖いではなく未来(終末)の救いの完成を指す。どちらにしても、この箇所の目的はキリストのなされたことを旧約の礼拝の用語を使ってまとめることで、それによって、13,14節の古い契約と新しい契約を同じ礼拝儀式として比較するための土台を作り上げている。
    9:13.14 旧約の動物によるいけにえは無意味ではなく聖めの儀式として実際に効果を持っていたことは、現代の、異邦人の私たちが見過ごしやすいことだが、ユダヤ人にとっては動かすことのできない事実であった。そのことをふまえた上で、動物のささげものでさえ肉体を聖めるのなら、それに勝るキリスト自自身のささげものはもっと効果的である、と論じている。すなわち、キリストの血は(1)良心を清め、(2)死んだ行ないから離れさせ、(3)生ける神に仕えさせる、ことができる。(1)と(2)は一つのことであり、「死んだ行ないから良心を清める」ということ。(3)はその結果または目的である。「死んだ(行ない)」は動詞ではなく形容詞。「死の行ない」とは、過去のしてしまったこと、というより、死に至る行ない、ということと見る方が良いかも知れない。
    9:15 「こうして」というのは14節までのこと。なぜ14節までのことが「新しい契約の仲介者」という結論になるかは、15節からの、契約者の死による有効化によって説明される。また、「違反の贖い」は22節の罪の赦し、「永遠の資産」は28節の再臨を指している。こうして、この節は前後のまとめとして橋渡しをしている。
    9:16−18 「遺言」と前節の「契約」は同じ言葉。死亡証明ということから遺言と訳されているのだが、イスラエル(及び中近東)の契約は動物の犠牲を伴い、それは契約者(普通双方)の死を表現する。つまり、もし契約に違反したら死んでもかまわない、ということだろう。死と契約(遺言)は不可分であった。18節は「死」を「血」として表現することで、19節からの血によるきよめへ議論を進めている。キリストの死によって新しい契約は有効となり、かつその流された血によって罪のきよめ(または赦し)がなされる。
    9:19−22 律法による契約締結と罪の清め・赦しをモーセの場合を例に示し、新しい契約でも同じこと、つまりキリストの死による契約締結と血潮による清め・赦し、がなされたことを暗に述べている。(直接的には15節ですでに明言されているのでここで繰り返さなくても良い)。
    9:23―26 前節は「罪のきよめ」と旧い契約の幕屋のきよめを結びつけているが、ここでは後者に焦点を移して地上の幕屋のきよめと天の幕屋のきよめを対比している。天の幕屋については24節、「さらに優れたいけにえ」は25,26節で説明されている。そして25,26節では地上の大祭司の働き(不十分であることが暗示されている)とキリストの働き(一回かつ完全)を対比している。一回かつ完全であることは10章でさらに展開されていくので、ここで詳しくは述べない。むしろ、「今の世の終わり」における罪の贖いと28節における再臨の時の働きという二つのキリストの働きを導入するようになっている。
    9:27、28 人間に関する真理(死と裁き)から、キリストにも二つのことが定まっていることを導いている。これらの二種類のペア(死と裁き、罪の贖いと救いの完成のための再臨)は必ずしも細かい点まで一致する必要はない。真理から真理を導き出しているだけ。
    (10章の分析は、時間がないので次回に書きます)


説教のアウトラインと中心

    今回のテキストは主に9:11から9:28で、主題は新しい契約です。これでは8章全体をとばしたような印象があります。8章が新しい契約の必然性を7章までの大祭司論とエレミヤ書からの引用によって導いて9章の準備をしたことから、新しい契約について語る前に旧い契約と新しい契約の関係を説明することにします。(1)新しい契約は旧い契約を前提とする、(2)新しい契約は良心を清める、(3)新しい契約は罪を赦す、(4)新しい契約は約束に関わる、というのが大まかなアウトラインです。(1)を第一部、(2)から(4)を第二部の3つのパートと見ることもできますし、(1)を本論の前の序論とすることもできます。
    (1)では新旧の契約についての簡単な説明から、旧約の過ぎ去った面と今も有効な面とにも触れます。そして旧約の問題点から新約の必要性へと話を進め、その新約とは何かを(2)以下で述べていきます。
    (2)では新しい契約の旧約との対比における第一ポイント、すなわち良心のきよめ、ということに焦点をあてます。特に「死んだ行い」(正しくは「死の行い」)からの清めということを考えます。
    (3)は旧約における違反としての罪からの清め、すなわち贖いによる赦しがポイントです。それはキリストの死と血によって可能となります。
    (4)は、ある意味では全体の結論でもあるのですが、新しい契約の完成としての再臨と天国(永遠の資産)の約束を考えます。
    キリストの贖いによる新しい契約は実に私たちの信仰生涯の全てに及びます。心の底から新しくし罪を赦すのみか、再臨における完成まで約束されている。このキリストの血によって贖われたことを感謝して、聖歌463をもって主を賛美します。

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