前回は最初は9:1から10:18までを一区切りと見ていたのを途中で分割して9章と10章に分けました。自動的に10章からスタートします。10章前半のテーマの、少なくとも幾つかは、9章と重なっています。その全てを取り上げることはないにしても、説教の展開に必要な場合は同じことを再び取り上げることもあります。
10章前半ではキリストの体のいけにえによって完全に罪が赦されることを主なテーマとしているようです。1〜4節は旧いシステムが罪の問題に関して不完全であることを述べて、それに替わるキリストのいけにえの話に5節から入ります。5〜7節は詩編40編を引用しています。神が動物のいけにえを望んでいないことが8節で繰り返され、キリストの贖いがそれに対して御心であったことが9,10節で述べられています。
ここで、ヘブル語聖書とギリシャ語訳との違いが5節の最後に現れています。他の部分が些細な違いであることに比べ、この違いは「からだ」という言葉(10節に繰り返されている)を導入するだけでなく、キリストの受肉という重要な話題にもつながるので、掘り下げる価値がある引用です。
11節ではもう一度地上の祭司職の不完全性が取り上げられ、それに対してキリストのいけにえの完全性が12,13節で述べられ、14節はここでの議論のまとめとなっています。そして、この結論をサポートするようにもう一度エレミヤ書の預言が取り上げられています。
18節は17節の言い直しであり、10章前半の議論から導き出されることですが、同時に19節以降の展開の準備ともなっています。その意味で、10章前半(1〜18節)と19節からの数節とは切り離せないものです。
19節以降はキリストの血と大祭司職によってクリスチャンが神に近づくことができるというヘブル書の大きなテーマを繰り返しています。そして、その贖いへの確信がその後の勧めの前提となっています。それは、苦難や戦いの中で、信仰を守り続け(23〜25節)、罪から離れる(26〜31節)ことです。そして、読者の過去の確信を思い起こさせ(32〜35節)、約束への忍耐を説いています(36節)。10章最後の部分は、ハバクク書からの引用ですが、これは忍耐(37節)というここまでの勧めと、信仰(38節)という11章のテーマを結びつける引用です。
11章はどう見ても新しいテーマ(信仰)は始められているので、今回の範囲には含まれないでしょう。今回の問題は、10章を二つに分けるか、ひとまとまりと見るかです。19節から22(または25?)節は前半と後半を結びつける働きをしていますから、1〜18節の結論でもあり、後半の勧めの土台でもあります。また、救いの完全性から確信による忍耐という流れを見てきますと、全体を一つと見ることも意味があると思います。特に、後半はヘブル書に何回か出てくる厳しいメッセージと見ても良いのですが、そのように前後関係から切り離すのではなく、完全な贖いによる救いという文脈で考える方が良いように思えます。
そこで、今回もとりあえずですが、10章全体をテキストと見て始めることにします。
この段階での「構造」はあくまで一時的なものです。このように初めの段階で構造やアウトラインまで考えるのには幾つかの理由があります。第一に、自分の直感をできるだけ明らかにすること。ほとんどの場合、そのテキストを読む前に在る程度の理解があります。その理解に従ってテキストを再理解すると、「こうであろう」と考えていた通りに読んでしまい、新しい発見や、あるいは自分の考えと違うことを過小評価しがちです。言い換えれば、テキストを自分流に読み取ってしまうのです。しかも、そのことに無自覚でいると、テキストからメッセージを読みとっているつもりで、自分の考えを読み込んでしまうこともあり得ます。それに対して、最初の時点で自分の理解を表面に出しておくことで、その「構造」とこれから読み勧めていくテキストの特徴とを比較することができます。したがって、最初の考えに固執しない限りは、新しい理解へと進むことが可能となります。
第二は、テキストの理解を助けるためです。よく、神学校の説教学で習うのですが、説教準備の最初はその聖書箇所を何回も読むことと言われます。ところが実際に読んでみると、(たぶん、私の頭の回転が遅いためでしょうが)何回読んでもよく分からないことがあります。それは日本語でも原語(ギリシャ語・ヘブル語)でも同じことです。ところが、構造や流れなどを考えながら読むと、いやでも頭を使いながら読み進むことができます。また、その時にいろいろが疑問も生まれます。そういったことを頭に置きながら、今度は細かく読みなおしていくと、さらに新しい発見をすることができるのです。「読むこと(分析)」と「組み立てること(統合)」を交互に行うことで、より深い理解が可能なのではないかと思います。
もう一つの理由は、ごく実際的なことです。説教の準備は礼拝の直前までできるのですが(本当はあまりよくありません)、教会という共同体で共に礼拝において奉仕して下さる方たちのことを配慮する必要があります。奏楽者には賛美歌の番号を、司会者と週報印刷者(今は自分でしていますが)にはプログラムをできるだけ早めに連絡するべきです。でも、私はそれが遅くなりがちです。もし、自分で納得がいくまでテキストを読んで、それから構造を考えて、アウトラインを作って、なんてやっていたら、日曜の朝までプログラムはできません。早い段階から構造やアウトラインを考えることで、(多少の誤差はありますが)テキストのテーマを考えて礼拝のプログラムを構成することができます。こういったプログラムのことは、ベテランの先生方は経験からさっとできてしまうのでしょうが、私はまだまだ駆け出しですし、また性格上「こだわる」ほうなので、さっとはできません。
前置き(言い訳?)が長くなりました。では、テキストの構造です。
10章の1節から律法に基づく旧い契約下の礼拝が話題になります。この話題はすでに9章にもでてきましたが、そこでは新しい契約を説明するために比較対象として用いられました。同じように、10:1〜4もその後の「キリストのささげものの有効性」を語るために、まず旧い礼拝のいけにえの不完全性を述べているわけです。5節からは詩編の引用です。これは8,9節で解説されています。その結論は9節の、キリストは神のみこころに従ったということです。このことが10節の根拠となっています。すなわち、キリストのささげものが罪を取り除く(10節では「聖なるものとされる」)ことができるということ。
11節からは、ただ救いが可能であるだけでなく、その救いが一回で完全であることを論証します。11節は再び旧いシステムの不完全性、それに対し12〜14節はキリストの救いの完全性を述べています。後者の根拠として挙げられているのは、12節後半から13節にかけて詩編110編の言葉を用いていることと、15節に聖霊がエレミヤ書を通して証ししている(16,17節)ことです。ここまでの議論をまとめたのが18節。罪の赦しが行われ、しかも繰り返しは不要ということです。こうして10:1〜18はキリストのささげものによる救い(罪の赦し)の完全性を論証しています。
19節からは、このキリストの救いの完全性を根拠として新しい展開に進んでいます。まことの聖所に入ることができるようになり(19節)、新しい道が設けられ(20節)、私たちのための大祭司がおられるのだから(21節)、「神に近づいて行こう」(22節)ということです。それは希望の告白(23節)とお互いに勧め合うこと(24節)という積極的具体的な行動へと結びついていきます。
ところで、前回にも触れましたが、10章前半は、エレミヤからの引用によって9章と結びつけられています。それを、長さの関係から二つに区切ったのですが、19節以降は10章前半だけでなく9章までの議論をもふまえていることが分かります。すなわち、20節は9:11、21節は8章までの大祭司論を思い出させます。したがって、19節から25(?)節はヘブル書前半を土台としています。反対に、23から25節の勧めは11章以降の展開を予告しているようです。すなわち、23節の希望は11章、24節の善行は12、13章、25節は12:22あたりのことと関係しています。したがって、この部分は10章の前半(1〜18節)と後半(26節以降)を結ぶだけでなく、ヘブル書全体の前半と後半を橋渡ししているようです。
26〜31節は25節でほのめかされた「ある人々」を対象としていると思われる、勧告です。これも厳しい表現ですが、その背後に23節から25節の励ましがあります。
32節からは一転して、読者の過去の忍耐を評価しています。様々な苦難を「喜んで忍んだ」のは永遠の財産を持っていることを知っていた故(34節)であるから、その確信を失わないように(36節)と、今までも何度か出てきた「確信の保持」を勧めています。そしてハバクク書の預言を引用しながら、ここでのテーマである忍耐から11章のテーマである信仰へと話題を展開させています。従って、この10章最後の部分は、11章への橋渡しとなっています。
こうして見てきて、10章の構造は次のようであると考えます。まず、1〜18節はキリストのささげものの完全性を取り扱っています。その中では、1〜4は旧約のささげ物の不十分性、5〜10では詩編の引用を用いながらキリストのささげ物が神のみこころにかなう故に救いのため十分であること、11〜14ではキリストのささげ物が一回で永遠に効力をもつこと、15〜18ではエレミヤの預言を用いてそのことを保証しています。19〜25はキリストの完全な救いに基づいての勧めと励ましです。それを受けて26〜39は苦難の中で忍耐することを勧め、26〜31では否定的側面(罪を犯し続けてはいけない)、32〜35は積極的側面(希望の故に苦難を耐え忍ぶ)を述べ、最後に36〜39で忍耐と信仰を説いています。
さて、説教のアウトラインですが、上の構造をそのまま生かすと、1〜18節でキリストの贖いの完全性、19〜25節で全き救いに基づく前進、26〜39節で希望に基づく忍耐、といったふうになるでしょうか。1〜18節は内容も豊富であり、主題も大変重要なので、これだけでも一回分になります。しかし、キリストの救いの完全性は、単なる教義ではなく、それに基づいてクリスチャン信仰が成り立っているものですから、19節以降を訴えるための強固な土台です。したがって、10章全体を貫くテーマは「キリストの血による救い」であり、パート1はその完全性、パート2はそれが土台であること、パート3はそれに確信を持つこと、という流れになるでしょうか。
今回は、ちょうど聖餐式が持たれます。聖餐の指し示す十字架の贖いが、完全な救いであり、私たちの信仰生活の根拠であり、約束への確信を思い起こさせるものであることを、説教を通し、また聖餐式を通して、再確認したいと願います。
いつもそうであることが多いのですが、私の説教(実際の原稿)では3つのパートが同じ長さではなく、最初のパートが長くなりがちです。今回もそうなりそうです。それは、説教全体の主題を最初の部分で詳しく説明しておく必要があるからです。今回も、キリストの贖いの完全性を何よりも明らかにしていきたいと思います。
「耳を開く」は奴隷が自発的に主人への生涯の忠誠を誓うときに行われた儀式(出エジプト21:6,申命記15:16)を指すものと考えられる。この習慣が行われなくなったか、違う文化で生きる者(ギリシャ語を話すユダヤ人)には理解できないか、のために、ギリシャ語訳が作られる時に意訳されたものと思われる。詩編40編のこの部分では、動物や穀物のささげものではなく、詩人の体をささげ、主人である神のみこころを行う(40:8)忠実な僕となることを意味すると考えられる。神が、ささげるべき自分の体を作ってくださった、と言う意訳である。このギリシャ語訳を初代教会はメシヤ預言と捉え、キリストの受肉を示す言葉として理解した。この解釈にも難点がある。動詞の違い(「刺す」と「掘る」)や耳が複数形であることなど。他にも、一部(耳)によって全体(体)を表す語法との解釈もある。どれにしても、詩編でもヘブル書でも、神の御心への服従という文脈には反していない。
まず、パート1(1〜18節)ではキリストの完全ないけにえによる救いをテーマとします。キリストのいけにえが何故完全なのかは、5〜10節で詩編からの引用を用いて説明しているように、キリストが受肉したのが神の御心を行うためであったのでその体によるいけにえは神の目から見て完全だった、からです。そして、キリストのいけにえが完全であるとはどのような完全かというと、それは一回かつ永続的であると説明されています(10〜14節)。従って、このキリストのいけにえによって私たちは完全に救われている、つまり、全ての罪が赦され(17,18節)、心を聖められた(10、14,22節)のです。
次に、パート2(19〜25節)です。ここでは、救われた者のなすべきことが教えられています。完全な救いに入れていただいたのは、それで満足して神を必要としなくなる、ということではなく、むしろ、大胆に神に近づいていくことです(19,22節)。旧約的な言い方をするなら、神を礼拝するために救われた、ということです。この部分の中心は22節。この礼拝の生活を具体的に示したのが23節以降です。告白(23節)、勧め合い(24節)、励まし合う(25節)。これらはどれも教会における交わりに関係しています。完全な救いを土台とし、その確信をもって教会生活を送るときに、信仰が成長し、神に近づいていくことができるのです。
パート3(26〜39節)では完全な救いの確信を持つことの重要性を考えます。救われても(実は救われたからこそ)困難はあります。教会の交わりがどんなに素晴らしくても、この世にいる限り問題はなくなりません。そのような中で、信仰が弱まってしまうのではなく成長していくために必要なのは、約束を堅く信じる確信です。
この救いの確信はキリストに土台しています。人間の力で確信するのには限界があります。完全ないけにえを捧げて下さったキリストを見上げることが不可欠です。信仰は「目に見えないものを確信する」(11:1)ことです。約束(未来の)はまだ見えません。しかし、見えない約束はキリストの十字架に根ざしています。そして、その十字架のキリストは「見える」ものです。
聖餐式のパンと杯は、キリストが体を持ってこの世に来て下さったことの記念です。その体によって神の御心をはたして完全な救いをなしとげて下さり、その肉が裂かれたことで神に近づく道を開いて下さった。そして、今もキリストの体である教会を通して確信を強めて下さるのです。
今日の説教の中心は、特に聖餐式を行うことを踏まえて、「聖餐に示されるキリストの贖いによる完全な救いを確信しよう」です。救いの確信の土台は自分ではありません。自分を見れば落胆します。周りの状況を見れば失望です。しかし、キリストの贖いを土台とするとき、揺るがない確信が生まれます。そこから成長が始まるのです。