ヘブル書からの説教(その7)

 

(メニューに戻ります)

テキストの範囲

前回は最初は9:1から10:18までを一区切りと見ていたのを途中で分割して9章と10章に分けました。自動的に10章からスタートします。10章前半のテーマの、少なくとも幾つかは、9章と重なっています。その全てを取り上げることはないにしても、説教の展開に必要な場合は同じことを再び取り上げることもあります。

10章前半ではキリストの体のいけにえによって完全に罪が赦されることを主なテーマとしているようです。1〜4節は旧いシステムが罪の問題に関して不完全であることを述べて、それに替わるキリストのいけにえの話に5節から入ります。5〜7節は詩編40編を引用しています。神が動物のいけにえを望んでいないことが8節で繰り返され、キリストの贖いがそれに対して御心であったことが9,10節で述べられています。

ここで、ヘブル語聖書とギリシャ語訳との違いが5節の最後に現れています。他の部分が些細な違いであることに比べ、この違いは「からだ」という言葉(10節に繰り返されている)を導入するだけでなく、キリストの受肉という重要な話題にもつながるので、掘り下げる価値がある引用です。

11節ではもう一度地上の祭司職の不完全性が取り上げられ、それに対してキリストのいけにえの完全性が12,13節で述べられ、14節はここでの議論のまとめとなっています。そして、この結論をサポートするようにもう一度エレミヤ書の預言が取り上げられています。

18節は17節の言い直しであり、10章前半の議論から導き出されることですが、同時に19節以降の展開の準備ともなっています。その意味で、10章前半(1〜18節)と19節からの数節とは切り離せないものです。

19節以降はキリストの血と大祭司職によってクリスチャンが神に近づくことができるというヘブル書の大きなテーマを繰り返しています。そして、その贖いへの確信がその後の勧めの前提となっています。それは、苦難や戦いの中で、信仰を守り続け(23〜25節)、罪から離れる(26〜31節)ことです。そして、読者の過去の確信を思い起こさせ(32〜35節)、約束への忍耐を説いています(36節)。10章最後の部分は、ハバクク書からの引用ですが、これは忍耐(37節)というここまでの勧めと、信仰(38節)という11章のテーマを結びつける引用です。

11章はどう見ても新しいテーマ(信仰)は始められているので、今回の範囲には含まれないでしょう。今回の問題は、10章を二つに分けるか、ひとまとまりと見るかです。19節から22(または25?)節は前半と後半を結びつける働きをしていますから、1〜18節の結論でもあり、後半の勧めの土台でもあります。また、救いの完全性から確信による忍耐という流れを見てきますと、全体を一つと見ることも意味があると思います。特に、後半はヘブル書に何回か出てくる厳しいメッセージと見ても良いのですが、そのように前後関係から切り離すのではなく、完全な贖いによる救いという文脈で考える方が良いように思えます。

そこで、今回もとりあえずですが、10章全体をテキストと見て始めることにします。


テキストの構造と説教のアウトライン(その1)

(上に戻る)  (メニューに戻る)

この段階での「構造」はあくまで一時的なものです。このように初めの段階で構造やアウトラインまで考えるのには幾つかの理由があります。第一に、自分の直感をできるだけ明らかにすること。ほとんどの場合、そのテキストを読む前に在る程度の理解があります。その理解に従ってテキストを再理解すると、「こうであろう」と考えていた通りに読んでしまい、新しい発見や、あるいは自分の考えと違うことを過小評価しがちです。言い換えれば、テキストを自分流に読み取ってしまうのです。しかも、そのことに無自覚でいると、テキストからメッセージを読みとっているつもりで、自分の考えを読み込んでしまうこともあり得ます。それに対して、最初の時点で自分の理解を表面に出しておくことで、その「構造」とこれから読み勧めていくテキストの特徴とを比較することができます。したがって、最初の考えに固執しない限りは、新しい理解へと進むことが可能となります。

第二は、テキストの理解を助けるためです。よく、神学校の説教学で習うのですが、説教準備の最初はその聖書箇所を何回も読むことと言われます。ところが実際に読んでみると、(たぶん、私の頭の回転が遅いためでしょうが)何回読んでもよく分からないことがあります。それは日本語でも原語(ギリシャ語・ヘブル語)でも同じことです。ところが、構造や流れなどを考えながら読むと、いやでも頭を使いながら読み進むことができます。また、その時にいろいろが疑問も生まれます。そういったことを頭に置きながら、今度は細かく読みなおしていくと、さらに新しい発見をすることができるのです。「読むこと(分析)」と「組み立てること(統合)」を交互に行うことで、より深い理解が可能なのではないかと思います。

もう一つの理由は、ごく実際的なことです。説教の準備は礼拝の直前までできるのですが(本当はあまりよくありません)、教会という共同体で共に礼拝において奉仕して下さる方たちのことを配慮する必要があります。奏楽者には賛美歌の番号を、司会者と週報印刷者(今は自分でしていますが)にはプログラムをできるだけ早めに連絡するべきです。でも、私はそれが遅くなりがちです。もし、自分で納得がいくまでテキストを読んで、それから構造を考えて、アウトラインを作って、なんてやっていたら、日曜の朝までプログラムはできません。早い段階から構造やアウトラインを考えることで、(多少の誤差はありますが)テキストのテーマを考えて礼拝のプログラムを構成することができます。こういったプログラムのことは、ベテランの先生方は経験からさっとできてしまうのでしょうが、私はまだまだ駆け出しですし、また性格上「こだわる」ほうなので、さっとはできません。

前置き(言い訳?)が長くなりました。では、テキストの構造です。

10章の1節から律法に基づく旧い契約下の礼拝が話題になります。この話題はすでに9章にもでてきましたが、そこでは新しい契約を説明するために比較対象として用いられました。同じように、10:1〜4もその後の「キリストのささげものの有効性」を語るために、まず旧い礼拝のいけにえの不完全性を述べているわけです。5節からは詩編の引用です。これは8,9節で解説されています。その結論は9節の、キリストは神のみこころに従ったということです。このことが10節の根拠となっています。すなわち、キリストのささげものが罪を取り除く(10節では「聖なるものとされる」)ことができるということ。

11節からは、ただ救いが可能であるだけでなく、その救いが一回で完全であることを論証します。11節は再び旧いシステムの不完全性、それに対し12〜14節はキリストの救いの完全性を述べています。後者の根拠として挙げられているのは、12節後半から13節にかけて詩編110編の言葉を用いていることと、15節に聖霊がエレミヤ書を通して証ししている(16,17節)ことです。ここまでの議論をまとめたのが18節。罪の赦しが行われ、しかも繰り返しは不要ということです。こうして10:1〜18はキリストのささげものによる救い(罪の赦し)の完全性を論証しています。

19節からは、このキリストの救いの完全性を根拠として新しい展開に進んでいます。まことの聖所に入ることができるようになり(19節)、新しい道が設けられ(20節)、私たちのための大祭司がおられるのだから(21節)、「神に近づいて行こう」(22節)ということです。それは希望の告白(23節)とお互いに勧め合うこと(24節)という積極的具体的な行動へと結びついていきます。

ところで、前回にも触れましたが、10章前半は、エレミヤからの引用によって9章と結びつけられています。それを、長さの関係から二つに区切ったのですが、19節以降は10章前半だけでなく9章までの議論をもふまえていることが分かります。すなわち、20節は9:11、21節は8章までの大祭司論を思い出させます。したがって、19節から25(?)節はヘブル書前半を土台としています。反対に、23から25節の勧めは11章以降の展開を予告しているようです。すなわち、23節の希望は11章、24節の善行は12、13章、25節は12:22あたりのことと関係しています。したがって、この部分は10章の前半(1〜18節)と後半(26節以降)を結ぶだけでなく、ヘブル書全体の前半と後半を橋渡ししているようです。

26〜31節は25節でほのめかされた「ある人々」を対象としていると思われる、勧告です。これも厳しい表現ですが、その背後に23節から25節の励ましがあります。

32節からは一転して、読者の過去の忍耐を評価しています。様々な苦難を「喜んで忍んだ」のは永遠の財産を持っていることを知っていた故(34節)であるから、その確信を失わないように(36節)と、今までも何度か出てきた「確信の保持」を勧めています。そしてハバクク書の預言を引用しながら、ここでのテーマである忍耐から11章のテーマである信仰へと話題を展開させています。従って、この10章最後の部分は、11章への橋渡しとなっています。

こうして見てきて、10章の構造は次のようであると考えます。まず、1〜18節はキリストのささげものの完全性を取り扱っています。その中では、1〜4は旧約のささげ物の不十分性、5〜10では詩編の引用を用いながらキリストのささげ物が神のみこころにかなう故に救いのため十分であること、11〜14ではキリストのささげ物が一回で永遠に効力をもつこと、15〜18ではエレミヤの預言を用いてそのことを保証しています。19〜25はキリストの完全な救いに基づいての勧めと励ましです。それを受けて26〜39は苦難の中で忍耐することを勧め、26〜31では否定的側面(罪を犯し続けてはいけない)、32〜35は積極的側面(希望の故に苦難を耐え忍ぶ)を述べ、最後に36〜39で忍耐と信仰を説いています。


テキストの構造と説教のアウトライン(その2)

(上に戻る)  (メニューに戻る)

さて、説教のアウトラインですが、上の構造をそのまま生かすと、1〜18節でキリストの贖いの完全性、19〜25節で全き救いに基づく前進、26〜39節で希望に基づく忍耐、といったふうになるでしょうか。1〜18節は内容も豊富であり、主題も大変重要なので、これだけでも一回分になります。しかし、キリストの救いの完全性は、単なる教義ではなく、それに基づいてクリスチャン信仰が成り立っているものですから、19節以降を訴えるための強固な土台です。したがって、10章全体を貫くテーマは「キリストの血による救い」であり、パート1はその完全性、パート2はそれが土台であること、パート3はそれに確信を持つこと、という流れになるでしょうか。

今回は、ちょうど聖餐式が持たれます。聖餐の指し示す十字架の贖いが、完全な救いであり、私たちの信仰生活の根拠であり、約束への確信を思い起こさせるものであることを、説教を通し、また聖餐式を通して、再確認したいと願います。

いつもそうであることが多いのですが、私の説教(実際の原稿)では3つのパートが同じ長さではなく、最初のパートが長くなりがちです。今回もそうなりそうです。それは、説教全体の主題を最初の部分で詳しく説明しておく必要があるからです。今回も、キリストの贖いの完全性を何よりも明らかにしていきたいと思います。


テキストの分析(その1)

(上に戻る)  (メニューに戻る)

1節 「影」は8:5にも出てくる。天と地という二元論というより先と後(旧と新)という対称を意味する。「実物」も、「現実の像(かたち)」もしくは"the image of the realities"とでも訳すべき、哲学的な言葉。正確な意味はつかみにくいが、要点は、律法が不完全であること。その詳しい説明が2節から。
2節 「意識」は他の箇所では「良心」と訳されている。「罪の良心はもはや持たない」が直訳。「きよめられた」は宗教儀式によるきよめであり、後に出てくる「聖(とされる)」とは別。
3節 「思い出す」(もしくは「記憶」)は、主の晩餐(ルカ、第一コリント)で「(私を)覚えて」で使われている語。動物が年毎に捧げられ(1節)、年毎に罪が思い出される(3節)というのが律法の救い。
4節 なぜ、「雄牛とやぎ(雄)」が挙げられているのだろう。羊や雌の牛と山羊も使われたはずだが。9:13でも、順番は逆だが「(雄)山羊と雄牛」が出てくる。もっとも「雌牛の灰」も出てくるが。もしかすると、語呂合わせ(タウローンとトラゴーン)かもしれない。または、キリストを指すことのある「(子)羊」を旧い契約の中で使うことを避けるためか。
5節 「(この世界に)来て」は「来るにあたって」の方がいい。詩編からの引用はギリシャ語訳からで、ヘブル語との違いがある。細かい違いは良いとして、「私のために、体を造ってくださいました」(ギリシャ語)と「私の耳を開いてくださいました」(ヘブル語)が問題。通常は次のように解釈される。
「耳を開く」は奴隷が自発的に主人への生涯の忠誠を誓うときに行われた儀式(出エジプト21:6,申命記15:16)を指すものと考えられる。この習慣が行われなくなったか、違う文化で生きる者(ギリシャ語を話すユダヤ人)には理解できないか、のために、ギリシャ語訳が作られる時に意訳されたものと思われる。詩編40編のこの部分では、動物や穀物のささげものではなく、詩人の体をささげ、主人である神のみこころを行う(40:8)忠実な僕となることを意味すると考えられる。神が、ささげるべき自分の体を作ってくださった、と言う意訳である。このギリシャ語訳を初代教会はメシヤ預言と捉え、キリストの受肉を示す言葉として理解した。
この解釈にも難点がある。動詞の違い(「刺す」と「掘る」)や耳が複数形であることなど。他にも、一部(耳)によって全体(体)を表す語法との解釈もある。どれにしても、詩編でもヘブル書でも、神の御心への服従という文脈には反していない。
6〜9節 6,7節を8,9節で解説している。特に問題なし。
10節 「ただ一度」は7:27、9:12にも使われ、「一度」(10:2などヘブル書に8回)よりも強調された表現。「私たちは聖なるものとされている」は「聖なるものにされた(完了)状態にある(Be動詞にあたるエイミーの現在形)」こと。その根拠は「(神の)御心に従って」。この句は普通、キリストの体がささげられたことに結びつけられるが、「(私たちが)聖なるものとされた」に結びつけることもできる。どちらにしても、聖なるものとされうるのは神の意志の故。
12、13節 1:13に引用されている語句が文脈に合うように多少形を変えて出てくる。「神の右の座」、「敵が足台に」がそれ。キリストが敵(罪)に勝利されることの表現であり、キリストのいけにえが罪に対して効果的であることを表している。「キリスト」は原文には無く、「この人は」と書かれている。「永遠に」は「いけにえ」にも「座に着き」にも結びつけられる位置にあるが、この句は10:1では「絶えず」と訳されている。世の終わりの後にまで続く永遠(アイオーン)とは違う言葉であり、「いつも」、「継続的に」などと訳す方が良いかも。終末の後の永遠の世界では罪もいけにえもあり得ないから、「永遠の」いけにえではなく、「全ての時に有効な」いけにえと見る。これは旧約の祭司によるいけにえが年毎に繰り返され、罪に対する効果が限定的(祭儀のみ)であることに対して、キリストのいけにえの完全・永続性を意味する。
14節 ここの「永遠に」も12節と同じ。「聖なるものとされる人々」は「聖とする」という動詞の現在分詞形で、この動作の連続・継続性もしくは繰り返し性を含んでいる。これが、一人の人に関して動作が連続的または繰り返して行われるのか(この場合「聖とされつつある人々」)、長い期間にわたり次から次へと人々が動作を受けているのか(この場合、個人に対する動作は一回だけ(「聖とされた人々」)か、連続・継続的かは分からない)は、文法的には決めがたい。「全うする」は完了形なので、キリストの業は一回で完了している。「全うする」の内容については、どのような意味で「完全」なのかを考える必要がある。この節の解釈は、どうしても神学的前提に左右されやすい。文脈においては、キリストのいけにえが一回だけで全体(全時代)に効力があることと、全ての罪が赦されること(17,18節)が強調されていると思う。
15節 同じエレミヤ書の預言を8:8では「神は言われる」、ここでは「聖霊も言って」としている。ここも、この預言が神からの言葉であり、証言として確実であることを示す。
16,17節 16節の引用と17節のそれとの間にはギャップがある(8:8〜12参照)ので、日本語訳では「また、こう言われます」を間に入れて補っている。これは15節で「・・・と言った後で、証ししている」という二つの動作を、一つは16節、もう一つを17節に結びつけているとも考えられる。
18節 この節には動詞が無いので補って訳している。「これらの赦しの(ある)ところでは、罪に関するささげものはもはや(存在しない、無用である)」。「これら」は17節の「(彼らの)罪と不法」を指す。十字架のキリスト以外にいけにえは必要としない新しい契約の赦しという8章からの話題の結論である。

テキストの分析(その2)

(上に戻る)  (メニューに戻る)

19節 「まことの」は原文にない? この節は分詞構文であり、22節に従属する。
20節 これも関係詞で前節の「入り口」(新改訳では「はいること」)に結びついている。
21節 これも名詞構文。直訳すると、「そして、神の家の上に偉大な祭司」。
22節 ここから接続法で勧誘をしている。19〜21節は全てこの勧めの根拠(条件節)となっている。したがって原文にはないが新改訳で「そのようなわけで」と付け加えているのは妥当。キリストが血を流して下さってきよめられたので聖所に入ることができるようになり、キリストの体が裂かれたことで垂れ幕に通り道ができ、さらに聖所を守る大祭司は私たちのために偉大な祭司となって下さったキリストであるから、大胆に「(神に)近づく」ことができるようになった。原文に「神に」は無いが、神に近づくと言うのはヘブル書でたびたび出てくるテーマであるから、神に近づくことは明らか。「真理の心を持って」「信仰の確信によって」「邪悪な良心から心を血で洗い清められ」「体を清い水で洗われ」て「神に近づこう」。
23節 二つ目の接続法は「(希望の告白を)固く保とう」。
24節 三つ目は「(愛と善行の励ましを)互いに注意しよう」。
25節 この節は再び現在分詞構文で、それが二つ組(AではなくてB)になっている。「神に近づき、告白を保ち、互いに注意しあう」ために必要なのは「励まし合うこと」、それが教会の交わりである。それに対して、集まることを止めてしまった人々がいた。そのような背景で26節からの言葉が語られる。
26、27節 現在分詞属格を用いて条件文を作っている。「(もし)私たちが意図的に罪を犯し続けるなら」、罪のいけにえは残っておらず、ただ裁きの火を待つのみ。「真理の知識を受けて後」が救いを意味するのか、救いの前に学んだ知識かは、確定しにくいが、「私たち」となっていることから、主にクリスチャンに対する警告だろう。
28、29節 読者になじみのあるモーセの律法のケースを例に挙げて、それにまさる御子の救いに関してはもっと厳しい罰がありうることを警告している。26節を「救われたものが罪を犯したら」と単純化すると、全てのクリスチャンは救われた後に一度でも罪を犯したらもう救いは無い、ということになる。しかし、ここでは「意図的に」「罪を犯し続ける」事が述べられている。同様に28節でも、単に「背教」について語っているのではなく、意図的に救いを踏みにじる行為として「神の御子を踏みつける」、「自分を聖なるものとしたキリストの血を汚れたものとみなし」、そして「恵みの御霊を侮る」というかなり強い反抗的態度を挙げている。実際にここまでするクリスチャンがいるかは分からないが、もしかしたらユダヤ人キリスト者の中には、背教しただけでなく、自己保身のために積極的にキリスト教に反対する者がいたのかもしれないことは想像できる。しかし、ここでは25節の「ある人々」がそうであったと言うことより、あるいはそのような者を非難するのでもなく、厳しい状況の中でそうなりそうなクリスチャンたちを戒めることが目的であると考える方が良い。32節からは「あなたがた」に対して励ましを与えていることも加味して考える。「恵みの御霊」も「侮る」もここだけに出てくる表現。
30、31節 警告の最後に決定的な警句として「神の御手に陥る」という、ユダヤ人にとって何より恐るべき事を挙げている。
32節 警告の結論として再度読者への命令が述べられている。それはクリスチャンになったころを「思い出しなさい」。神からの光を受けた後は、迫害や困難が襲ってくる。「苦難に遭いながら激しい戦いに耐えた」は「苦難の」「多くの困難を堪え忍んだ」と直訳できる。
33、34節 前節の困難を具体的に列記している。迫害、辱め、投獄、損失など。それを喜んで忍耐し、またそのような困難にあっている仲間を見捨てなかったのは、天に用意されている祝福を知っていたから。この約束を思い出し、それを固く保つことが、今困難にあるクリスチャンに必要なこと。地上にあるものより優るものをすでに「持っている」ことを知っている時に可能である。
35、36節 両節は同じ事を違った言葉で表現しているようである。「確信を棄てない」なら「大きな報いを受ける」、「忍耐する」なら「約束のものを受ける」。「確信」は3:6にも出てくる。また4:16、10:19では「大胆」と訳されている。確信を持っているなら大胆に神に近づくことができる。この「確信」がここまでの議論をまとめたものであるのに対し、「忍耐」は12:1でもう一度出てくる。6:12、15に出てくる「忍耐」は別の語。(ニュアンスの違いはよく分かりませんが、6章のは「困難な状況の中で落ち着いている状態」、10章のは「難しい状況下で持ちこたえる能力」だそうです。ただ、どちらも旧約聖書の人々の信仰と結び付けられているので大きな違いはないかもしれません。) どちらにしても、ここから11章のテーマの「信仰」につながっていく。
37〜39節 ハバクク書からの引用はギリシャ語訳によるのでヘブル語聖書との違いがある。ヘブル語では「もし、それ(神の幻、すなわち、終わりの日に関する啓示)が遅くなっても、それを待て、必ず来るから。それは遅れない。見よ、(彼のたましいは)高ぶり、彼のたましいは彼の内で正しくない。しかし、正しい者は真実によって生きる。」(ハバクク2章3節後半から4節) ギリシャ語旧約聖書では「もし遅くなっても(?)それを待て、必ず来るから。それは決して遅れない。もし退く(?)なら私のたましいは彼の内で喜ばない。しかし正しいものは私の真実によって生きる。」(いくつかの動詞は意味がはっきりとは分からないが、前後関係からこのような意味と思われる。) ヘブル10:37の「もうしばらくすれば」は、遅れずに必ず来る、ということを意訳したものと思われる。旧約では神に啓示された終わりの日が来る、とされているが、ヘブル書ではその終わりの日の中心であるキリストを指すものと考えられている。ハバクク2:4はヘブル書では前半と後半が入れ替わっているが、それは次の節につなげるためだろう。一番の違いは、ヘブル語ハバクク書では「彼のたましいは高ぶり、正しくない」(あるいはいくつかの訳のように「高ぶるもののたましいはまっすぐでない」と意訳する)であるのに対し、ギリシャ語ハバクク書もヘブル書も「もし退くなら、私のたましいは彼の内で喜ばない」となっている点だろう。こういった違いは原文のヘブル語が難解であり、ギリシャ語訳の翻訳者が苦労して意訳したのと、ヘブル書の著者が厳密な引用というよりも、彼のギリシャ語聖書の言葉を自由に用いたためで、間違っていると結論する必要はない。むしろ、議論の流れの中で著者がどのようにこの引用を用いたかを考える。ここは36節の「忍耐」を説明するものと考えられる。忍耐とは消極的なことではない。迫害に対して「恐れ退く」のではなく、「信じる」ものであり、その結果は「滅び」ではなく「命を保つ」ことである。この「命」は4:12では「たましい」と訳され「霊」と区別され、6:19でも「たましい」と訳されている。10:38では神の「こころ」と訳されている。肉体的な生命ではなく、神の「こころ」と関係のある「いのち」、すなわち永遠の命を保つ(あるいは救う)ということだろうか。迫害や苦難に対しての、退くことの反対である、信仰とは何か。その説明が11章から始まる。

説教のアウトラインと中心

(上に戻る)  (メニューに戻る)

まず、パート1(1〜18節)ではキリストの完全ないけにえによる救いをテーマとします。キリストのいけにえが何故完全なのかは、5〜10節で詩編からの引用を用いて説明しているように、キリストが受肉したのが神の御心を行うためであったのでその体によるいけにえは神の目から見て完全だった、からです。そして、キリストのいけにえが完全であるとはどのような完全かというと、それは一回かつ永続的であると説明されています(10〜14節)。従って、このキリストのいけにえによって私たちは完全に救われている、つまり、全ての罪が赦され(17,18節)、心を聖められた(10、14,22節)のです。

次に、パート2(19〜25節)です。ここでは、救われた者のなすべきことが教えられています。完全な救いに入れていただいたのは、それで満足して神を必要としなくなる、ということではなく、むしろ、大胆に神に近づいていくことです(19,22節)。旧約的な言い方をするなら、神を礼拝するために救われた、ということです。この部分の中心は22節。この礼拝の生活を具体的に示したのが23節以降です。告白(23節)、勧め合い(24節)、励まし合う(25節)。これらはどれも教会における交わりに関係しています。完全な救いを土台とし、その確信をもって教会生活を送るときに、信仰が成長し、神に近づいていくことができるのです。

パート3(26〜39節)では完全な救いの確信を持つことの重要性を考えます。救われても(実は救われたからこそ)困難はあります。教会の交わりがどんなに素晴らしくても、この世にいる限り問題はなくなりません。そのような中で、信仰が弱まってしまうのではなく成長していくために必要なのは、約束を堅く信じる確信です。

この救いの確信はキリストに土台しています。人間の力で確信するのには限界があります。完全ないけにえを捧げて下さったキリストを見上げることが不可欠です。信仰は「目に見えないものを確信する」(11:1)ことです。約束(未来の)はまだ見えません。しかし、見えない約束はキリストの十字架に根ざしています。そして、その十字架のキリストは「見える」ものです。

聖餐式のパンと杯は、キリストが体を持ってこの世に来て下さったことの記念です。その体によって神の御心をはたして完全な救いをなしとげて下さり、その肉が裂かれたことで神に近づく道を開いて下さった。そして、今もキリストの体である教会を通して確信を強めて下さるのです。

今日の説教の中心は、特に聖餐式を行うことを踏まえて、「聖餐に示されるキリストの贖いによる完全な救いを確信しよう」です。救いの確信の土台は自分ではありません。自分を見れば落胆します。周りの状況を見れば失望です。しかし、キリストの贖いを土台とするとき、揺るがない確信が生まれます。そこから成長が始まるのです。



(上に戻る)  (メニューに戻る)  (説教原稿を読む)