説教の箇所を決めるとき、単純に聖書だけを見て決めるよりも、その時の教会の状況を加味して考えることが少なくありません。理屈から言えば、説教は神の言葉を取り次ぐのですから、受け手(教会)が決めるのではなく送り手(神、神の言葉としての聖書)が決めるのが正しい訳です。しかし、同時に、神と教会の関係は一方的なものではなく、キリストと教会の関係が「頭と体」であり、「花婿と花嫁」(これは終末的要素が含まりますが)ですから、その時、そのような状態にある教会に対して神は語られると考えるのは間違いではありません。あるいは、教会の問いかけに対して答えて下さるのも神です。従って、教会の状況は、決定的要素でないとしても重要な要素として説教箇所の決定に関わってきます。
今回、こんな事を取り上げるのにはもちろん訳があります。一つは、もうすぐクリスマスであること。また、教会の秋の行事との関わりがあります。もう一つは、もうそろそろヘブル書の終わりが近づいてきたことです。そういった状況も頭の片隅におきながら、今回だけでなく今後も含めて説教箇所を決めていきます。
さて、12日はF先生の御用です。19日は、毎年行っている子ども祝福式があり、大人と子どもの合同の礼拝をし、説教も子供向けがメインで大人向けはそれにちょっとだけ付け加えることになっています。その時は日曜学校のカリキュラムに従ってヨシュア記からのお話になります。それで、ヘブル書からは26日、ということになります。ところが、24から26日は教会リトリートで、キリスト教人間論「生と死」、というテーマでの学びをします。その流れの中での礼拝ですので、説教の中で、その学びに関する事が取り扱われることになります。次は12月3日でクリスマスの月です。礼拝堂の前には待降節の蝋燭に灯が点されます。ですからキリストの来られた意味を考える、ということも関わってきます。12月24日はクリスマスの特別礼拝ですから、説教もスペシャルです。そして、31日は今年全体のまとめでもある。そんなスケジュールの中で説教のスケジュールも考えていきます。暫定的ですが、今のところ次のような青写真を描いています。
11月26日(今回の準備の分です)はヘブル書11章から、特に人間とその生き様・死に様に焦点を当てて行きます。12月3日は12章前半から「子への訓練」ということと神が御子を送られたことを関わらせて見ていきます。12月10日は12章後半の「聖さを追い求める」(14節)をテーマとしながらクリスマスについて考えます。12月31日は13章を通して「兄弟愛」、「苦難」、「終末」など様々なテーマをまとめていきたいと思います。こういったスケジュールはあくまで枠組みであり、細かい点は実際にテキストに当たりながら決められます。もちろん、変更は有り得ます。 では、今回のテキストに目を向けます。
11章が一つのまとまりとなっていることは明らかですが、その前後との結びつきが大切です。1節は「信仰とは」という主題の提示であり、その後の流れはこの命題の論証となっています。同時に1節は10章、特に最後の部分(35〜39節)と結び付けられています。2節はこの主題を受けて、11章の話題である「昔の人々の信仰」を切り出しています。そして、3節から40節までは具体的に名前を挙げて、旧約の聖徒たちの信仰を紹介しています。もちろん、この部分は途中で何回か「信仰とはなにか」というテーマを直接に取り扱っている箇所が何回か出てきます(6節など)。そして12:1で11章全体をまとめ、2節では3節以降へつないでいます。従って、11:1から12:1(ないし2)というのが今回の範囲となります。
なんだか、あっさりと決まってしまいましたが、二つほど注意する事があります。第一に11章の文脈です。11章のメッセージはその前後によって規定されています。10章の終わりでは迫害に耐えつつ約束を待ち望む信仰ということが語られ、12章の始めでは信仰に基づくところの、罪に対する戦いが取り扱われています。ですから、11章の信仰者たちもそのような面が取り上げられています。
第二に、11章の途中で出てくる信仰についての教えが重要です。これらは単なる挿入ではなく、その前後をまとめつつ、現在(正確には書かれた当時)に適応させようとしている部分であり、これらの部分が全体の流れを動かしているようです。こういう事を忘れると、11章は「信仰偉人伝」か「旧約聖書物語抜粋」のようになてしまい、またヘブル書の中で浮き上がってしまいます。詳しくはテキストの構造を考えるときに扱いますが、今回の範囲は11章の中のいくつかのポイントを中心としてその前後を旧約における具体的例証として見ていくことにします。
「いくつかのポイント」として考えられるのは、1、2、6、13〜16、33〜34、39〜40などです。その他にも、たとえば4節終わりの「その信仰によって今もなお語っています」といった短い言葉も大切かも知れません。
前回から一週間もあいてしまいました。別にさぼっていたのではなく、19日の説教の準備をしていました。この日は子供祝福式のため、いつもの礼拝と少し違い、子供向けのメッセージを中心にします。(ちなみに、ヨシュア記3章からです。) ですから、ヘブル書のほうは、26日を目標に少しずつ進めています。
さて、11章はある意味でスタイルの分かり易い箇所です。「信仰によって」という言葉が繰り返され、旧約聖書の人物が大体順序よく並んでいます。こういった外見から構造を考えることもできるのですが、一歩進んで、著者がこれらの、いわば「信仰のサンプル」を並べることによって何を語ろうとしているかを考えてみたいと思います。もう一つ、規則的に並んでいるように見えるスタイルが所々不規則になっている部分があります。そういった部分に注目します。
まず、「信仰によって誰々は何々をした」という定型文の合間に、そのサンプルから導き出すことのできる結論が付け加えられ、読者が信仰について学ぶことができるようになっています。例えば、5節のエノクの例から、6節で「信仰が無ければ神に喜ばれることはできません」という命題を導いています。もう一つは、もう少し長い形で「脱線」している部分、例えば13節から16節です。これは、そこまでのまとめをしているのかもしれません。もう一つ、最後の部分(32節以降)は、これ以上例を挙げるのではなく、そのほかのことをまとめて語っています。
こういった内容を整理して行くときに図を書いたりすることも助けとなります。(まだホームページ上で図を書くのは上手くできないので、下に苦心作を挙げてみます。)
1節 | 信仰の定義、「信仰」は見えないものを確信させる | |||||
2節 | 「昔の人たち」を導入 | 4節から39節を規定 | ||||
3節a | 信仰によって | 私たち(!) | 神の言葉による天地創造を悟る | |||
3節b | これによって | 見えるものは見えないものから | ||||
4節a | 信仰によって | アベル | いけにえをささげ、義の証明 | |||
4節b | (これによって) | 死んだが信仰により今も語る | ||||
5節 | 信仰によって | エノク | 移された、神に喜ばれた | |||
6節 | (これによって) | 信仰が無ければ神に喜ばれない | ||||
7節 | 信仰によって | ノア | 箱船を造り、信仰による義を相続 | |||
8節 | 信仰によって | アブラハム | 行き先を知らずに出発 | |||
9節 | 信仰によって | 彼(アブラハム) | 約束の地に他国人として住む | |||
10節 | (それは) | 神の都を待ち望んだから | ||||
11節 | 信仰によって | サラ | 子を宿す力、(約束の神を信じた) | |||
12節 | (そこで) | 死んだ人から多くの子孫 | ||||
13節 | まとめ | これらの人は | 信仰を抱いて死んだ | |||
約束の物は得ず、仰ぎ見て喜ぶ | ||||||
地上では寄留者 | ||||||
14-16 | 天の故郷、神の都 | |||||
17節 | 信仰によって | アブラハム | イサクをささげた | |||
19節 | 神は死者をよみがえらせる力 | |||||
20節 | 信仰によって | イサク | 未来について子らを祝福 | |||
21節 | 信仰によって | ヤコブ | 死ぬとき子らを祝福 | |||
22節 | 信仰によって | ヨセフ | 臨終の時に子孫の脱出を語る | |||
23節 | 信仰によって | モーセの両親 | モーセを隠した | |||
24,25 | 信仰によって | モーセ | 神の民と共に苦しむことを選ぶ | |||
26節 | キリストの故のそしり | |||||
報いから目を離さなかった | ||||||
27節 | 信仰によって | 彼(モーセ) | 王を恐れなかった | |||
見えない神を見るように忍ぶ | ||||||
28節 | 信仰によって | 彼(モーセ) | 過越と血の注ぎを行う | |||
29節 | 信仰によって | 彼ら(イスラエル) | 紅海をわたる | |||
30節 | 信仰によって | 人々(イスラエル) | エリコの周囲を回る | |||
31節 | 信仰によって | ラハブ | 偵察を受け入れた | |||
32節 | この他 | ギデオン、... | ||||
33節 | 彼らは | 信仰によって | 国々を征服 | |||
34節 | 弱い者が強くされ | |||||
35節 | 死んだ者をよみがえらされた | |||||
36-38 | 迫害を忍んだ | |||||
39節 | これらの人は | 信仰によって | 証しされた、約束の物は受けずに | |||
40節 | 神は | 私たちに | さらに優れたものを |
本当は線を引いたり矢印を入れたりするともう少し見やすいのですが。関連する言葉は色を付けましたが、主観的なところもあるかもしれません。
さて、それではどのようにこの章の構造を見いだしていくか、が問題です。いくつかの可能性があります。まず第一に、登場人物によって区分する。多少の違いはありますが、ほぼ時間順(旧約聖書のなかの)に並んでいます。従って時代別に区切ることができます。しかし、この場合、どのような時代区分を採用するかがテキストの構造を左右することになります。一例は、民族史以前(ノアまで)、族長時代(ヨセフまで)、出エジプト時代(ラハブまで)、士師・王国時代(ギデオン以降)。テキストの外部の基準(しかも時代区分自体主観的になりやすい)をテキストに運び込むのですから、テキスト自体の区分と一致しているかは疑問が残ります。
第二は主題で区切る方法です。もちろん、何が各部分の主題かは読む人の主観的判断に左右されます。アベル(4節)とノア(7節)は「義と認められる」という共通点があります。間に挟まれるエノク(5節)は「神に喜ばれる」ですが、三人をひとつにまとめようとすると、「神に受け入れられる」というテーマになるのでしょうか。「まだ見ていないこと」に関する信仰としてはノア、アブラハム(8節)が一致します。ではノアはどちら(「義」か「見ずに信じる」)に属するのでしょうか。この方法のもう一つの問題点は、著者は主題によって各実例を並べていない、ということです。順番は、旧約聖書の中の順番であることは明らかです。
第三は、文章のスタイルによって分ける方法です。「信仰によって...した」というスタイルがあまりにはっきりとしているため見落としがちですが、このスタイルではない部分に注目してみます。まず、1,2節。これは11章の主題(信仰)と内容(昔の人々)を提示しています。次に、短い箇所ですが、6節。これは5節のみならず、4節とも関わっている可能性があります。大きなまとまりとしては13節から16節。ここは、12節まで、特に9,10節を解説しています。これらとは形が違いますが、32節から38節は、「信仰によって...した」というスタイルの変形として、まず最初に人名をまとめて挙げ、33節で一回だけ「信仰によって」と行った後、「...した」という部分を再びまとめて書いています。この文体の変更については後でまた取り上げます。最後に、39節はこれまでの全ての例のまとめであり、同時に40節に橋渡しをし、12章初めの「わたしたち」へとつないでいます。これらの部分や、そのほかの短い「まとめ」や「解説」を、きれいに並んでいるパターンを乱す挿入ではなく、こちらの方が著者の強調している点で、その前後はその聖書中の具体例と見るのです。
ヘブル書の中で今までそうだったように、この章もはっきりとした区切り目で分けられるのではなく、互いに関連するまとまりと考えたいと思います。細かい点は後で修正するとして、今のところは次のような構造を考えます。まず、1節は10章の終わりの部分にでてくる「信仰」(あるいは「信じる」)という言葉を受けて、信仰の定義をします。2節でその信仰の説明を「昔の人たち」を例に挙げていく今後の展開を明らかにします。この信仰の一つの大切な側面として「神に喜ばれる」ということを前後に例を挙げながら6節に述べています。ここまでが、いわば「信仰とは何か」という質問に対する答えです。
8節からは「見えないものを信じる」という側面を発展させ、「約束」や「神の都」、「待ち望む」という大切な用語を登場させ、また後で発展させる「死から命」というテーマについても触れています。このテーマは19節以降に「死からの復活」という発展を見せた後、「死の後の未来」というテーマにさらに発展します。
23節からは「王を恐れない」、「迫害や苦難を忍ぶ」というテーマがでてきます。その中で、キリストの苦難が結びつけられています。28節からは、形の上では「信仰によって、誰々は、何々をした」というスタイルですが、解説などはいっさいなく、話のテンポは徐々に加速し、ついに32節からのスタイルの変更につながっていきます。したがって、28節から38節まではひとまとまりです。そのまとめが、33節から38節で、信仰による勝利、死からのよみがえり、迫害を耐え忍ぶ、という三つのテーマが挙げられています。
この「約束」と「耐え忍ぶ」というテーマが39,40節によって「わたしたち」、すなわち読者たちに結びつけられ、12章1節に受け継がれていきます。したがって、11章は全体として、10章の終わりで「忍耐」から「信仰」に主題が移行した後で、「信仰」から再び本書の重要課題である「苦難のなかでの忍耐」へと話を進め、しかも、12:1に書かれているとおり、旧約の証人たちによる励ましによって読者が苦難に対する忍耐を受け入れやすくしているのです。
こうして見てきますと、テキストの構造を考えるというのが、その箇所の主題、ひいては説教のアウトラインと実に密接に結びついていることがわかります。逆に言えば、主題や説教の構造を考えないで、テキストの構造を考えるのは、表面的な構造分析に終わってしまう危険性がある、ということです。ですから、この早い段階から説教のアウトラインに視野が及ぶのは当然です。また、前後との関係も考えることで、「テキストの範囲」にも関係していることも理解できます。従って、「テキストの範囲」、「テキストの構造」、「主題と説教のアウトライン」は、一つが終わったら次に進む、という一方通行の三段階ではなく、お互いに関わり合った作業であり、一つの作業が終わって次に移ってから、理解が深まったことで前の作業の結果を修正しなければならないこともあり得るような三段階なのです。
ここで初期的なアウトラインを考えます。まず、11章の始めでは「信仰とは何か」という話題が出てきます。それは「見えないものを確信する」ことです。単なる不可視ということではなく、神との関係に関わることです。そこには神の約束への信頼、そして神ご自身への信頼が含まれており、従って「信仰なしに神に喜ばれることはできない」のです。ですから、第一のポイントは神への信仰、ということです。
次は、「まだ見ていない」ということから発展して、受け取っていない約束を仰ぎ見ることに話題が移ります。そこには死の向こう側、すなわち天の御国と復活というテーマが含まれます。ここには「信仰による義認」というプロテスタント信仰の大黒柱である信仰が書かれていませんが、それは第一ポイントに含まれています。ヘブル書では、これからクリスチャンになる人にではなく、すでにキリストを信じ救われた人が読者であり、信仰も救いの完成を仰ぎ見ることが中心です。
最後に、この約束を待ち望む信仰こそが迫害の時代に生きるクリスチャンを忍耐せしめるものである、というポイントです。これは、単に「忍耐しましょう」ということではありません。それは、旧約の信仰者たちと共にあずかる恵み(さらに良い物)が備えられている、という約束です。また、キリストが共にいて下さる道、信仰の完成者であるお方を仰ぎ見る生き方なのです。
もう、説教が始まったような語り口になってしまいましたが、言いたいことはひとまず仕舞って置いて、今度はテキストを細かく見ていきます。
1節 原文では受動態で「望まれていることがらの」、「見られていない出来事の」となっているが、日本語訳で問題はない。「保証」は3:14で「確信」と訳されている言葉。「最初の確信を終わりまで持ち続ける」という本書のテーマとの関係で信仰を考えている。一般的な意味での「定義」ではない。「確信」(あるいは「確認」「保証」「証拠」「証明」)は新約ではここだけに出てくる言葉。前半の「望んでいる」は未来に関することが明らかだが、「見られていない」は「まだ見ていない」という未来か、「見ることのできない」という現在か、が問題。現在分詞を使っているのでどちらとも考えられる。11章の中では現在のこと(例えば27節)もあるが、全体としては未来志向の印象を受ける。
2節 「昔の人々」は他では「長老」とか「老人」と訳される。「この信仰によって」は、正しくは「これによって」で、「信仰」か「保証」(確信)を指す。「賞賛」はあまり良い訳ではない。(信仰に関して)「証された」ということ。この語は2節の後、4、5節、そして39節に表れ、「昔の人々は証された」(2節)と「これらの全ての人々は証された」(39節)が対をなしている。
3節 「造る」は他の書では「完全にする」か「回復する、繕う」と訳される。ここと、本書10:5で「作る、用意する」と訳される。ギリシャ語訳の創世記1章では「作る」というもっと一般的な言葉が使われている。同じ語はギリシャ語の詩編とエズラ記で使われるが、「創造」という意味ではヨブ記で違う前置詞を伴って出てくる。使用している語は違っても、内容は創世記を意味しているのは明らか。「悟る」は、最初のは「理解する」、後のは「知る」。「神の言葉」はロゴスではなくレーマが使われる。「世界」は「時代」とも訳せる言葉。(「信仰によって」については後でまとめて考える)。
4節 「より優れた(いけにえ)」は直訳すると「より多くの」。分量が多かったから神に受け入れられた、とは考えられない(考えたくない?)ので意訳している。その後の部分も分かり易くするためか、かなり意訳している。直訳すると、「それによって義であることが証しされた。神が彼の贈り物に関して証ししている(ので)。そして、それを通して死んだ後なお彼は語っている。」 最初の「それ」は新改訳ではいけにえ、口語訳では信仰を指すと解釈されている。後の「それ」はいけにえ、信仰、あるいは4節前半全体をさすと思われる。文法的にはどれも可能。ヘブル書におけるいけにえ、特に旧い契約のいけにえに対しての扱いと、11章での主題である信仰の強調を考えると、「それ」を信仰と理解することのほうが自然かも知れない。後の「それ」は多くの訳が信仰であると理解している。
5節 「喜ばれる」も「証しされる」も完了形。「見えなくなった」は「ずっと発見されなかった」という意味。「見えないもの」を信じる信仰によって、死を「見ない」ように天に移され、「見えなく」なった。
6節 ここの「喜ばせる」という動詞はヘブル書だけに3回(5節、6節と13:16)使われている。派生語である名詞や形容詞は本書では12:28と13:21で使われ、「みこころにかなう」という意味。「神に近づく」は本書でたびたび使われてきた救いに関わる表現。「信じなければならない」は、例えば命令だからしなければならない、ということではなく、そう信じなければ近づこうと思うことができない、という意味で、「信じているはず」というここと思われる。神の存在を信じなければ神を求めることはありえないし、求めても何の反応のない理神論の神のようでは求める気持ちが起きない。そして、そのように求めて近づくことが神の御心にかなう。
7節 「その箱船によって」は「それによって」で、「それ」は箱船か救い、あるいは信仰を指しうる。「相続する者」は1:2,6:17の相続者と同じ語。
8節 「信仰によって」は「従った」と「(知らずに)出ていった」にかかっているが、特に後者は強調されているようである。「アブラハムは召しを受けたとき、信仰によって従い相続として受け取ることになる場所に出かけた、しかも行くところを知らずに出ていった。」
9節 「住んだ」は、これ自体「寄留者として住む」という意味の動詞で、旧約(ギリシャ語)ではよく使われる。「他国人」は34節では敵国を指す意味で使われる。13節の「寄留者」「旅人」はまた違う語。「共に相続する」は「相続する」と「共に」という前置詞の合成語。同じ語源の言葉が7節(動詞)、8節(名詞)で使われている。「イサクやヤコブと共に住み」は実際に同じテントに同時に住んだということではなく、彼らも彼と同じ寄留者生活をしたということだろう。
10節 「堅い土台を持った都」は9節の天幕と対比されている。「待ち望む」は11章ではここだけに出てくる。同じ行為は「約束を見る」などの表現で何度も出てくる。「都」も16節に再び出てくるが、違う言葉(故郷)で現れている。12、13章にも「都」が出てくる。
11節 「サラも」となっているが、実際は「不妊の女サラ自身も」。「真実」は信仰と同じ語源。
12節 「死んだも同様」は上手い訳。「殺された者」、「死んでしまった者」で、ローマ4:19でもアブラハムに関して使われている。字義通り死んだのではないのは明らかだが、死からの生というテーマ(19節)を想起させる。
13節 「(信仰の)人々」は原文に無く、「信仰に従って死んだ」。「喜び迎え」は正しい訳だが、まだ約束の都に着いていない時なので、ちょっと見ると文脈に合わないように思える。「喜ぶ」だけでも良いかもしれないが、信仰においてはすでにそこを訪れたと言う意味では間違いではない。「旅人」や「寄留者(あるいは避難民)」など、外国人に関する表現はさまざまだし、いろいろな理由があって寄留する人々が当時もいた。もしかしたら読者もそのような立場にあって、自分たち自身がそのような言葉で呼ばれたことがあるのを著者は知っていて様々な表現を使ったのかもしれない。
14節 「求める」は13:14でも「永遠の都を求める」として使われている。「故郷」は15、16節では実際は出てこないが、代名詞などはこの語を指しているので、日本語訳では補って訳されている。
15節 「機会」は「時」という語。
16節 上に書いてある通り、原文では「さらに優れたもの、すなわち天のもの」と書かれているが、「故郷」を補うことは問題ない。
17節 ここから「信仰によって」というパターンが再開する。「信仰によってイサクをささげ、しかも一人子をささげ、しかも彼は約束を受けていた」というように畳み掛ける形で彼の信仰の行為の素晴らしさを述べている。約束を受けていた「彼」はここではイサクのこととも取れるが、次の節でアブラハムを指す関係代名詞が最初に使われているので、こちらもアブラハムのことと分かる。
18節 「イサクから出る者」は直訳では「イサクにあって(子孫はあなたのものと呼ばれる)」。
19節 「これは型です」はあまり良い役ではない。9:9では「比喩」と訳されている言葉。「死者の中から彼を、比喩的に言えば、取り戻した」という文。もちろん、これが死者の復活、特に神の一人子であるキリストの受難と復活の型(タイプ)になっていることは聖書全体から言って確かだが。
20節 「エサウを」祝福したのはヤコブと同じ祝福ではないが、彼にもある意味で、未来に関する言葉が掛けられた。
21節 イサクの場合は臨終ではなかったが、子への祝福ということではヤコブの場合と共通する。「杖によりかかって礼拝」ということを取り上げた理由は分からない。
22節 今度は祝福の言葉ではないが、臨終での、また未来に関する事という点でやはり同じテーマ。
23節 「(信仰によって)モーセは隠された」。動作の主格は両親だが、旧約の重要人物に焦点を当てているので文法上の主語はモーセになっている。「王(の命令)を恐れず」という新しいテーマが登場し、その後で展開されていいく。「両親」は父親の複数形を使っているが、父母を指すのは明らか。
24節 「成人した時」は「大きくなったとき」。
25節 「共に苦しむ」は前置詞と動詞の合成語。9節と共に約束の民の共有性を示す。同じ約束に立つ読者には、ここの議論が自分たちにも関わっていることを思わせる。
26節 「(キリストの)ゆえの」は説明のため補われている。モーセの受けるそしりは文字どおりキリストの故にクリスチャンが受けるそしりではないが、逆に今クリスチャンが受けているそしりがエジプトの宝よりも大いなる富であると語っている。「目を離さない」は合成語で、ここだけに出てくる。「報い」は2:2では処罰、10:35では、ここと同じ、確信に対する報いと訳されている。賞罰主義や御利益ではなく、神を信じたものに約束されているもの。
27節 「王の怒りを恐れないで」とあるが出エジプト2:14と矛盾する。しかし、中心となっているのは信仰によってエジプトを立ち去ったこと。「見えない方」とはキリストの事だろうか。
28節 過ぎ越しが儀式的行為である以前に信仰の行為であったと解説する。明言していないが、ヘブル書の著者にとっては信仰による救いという点では旧約も新約も同じである。
29節 28節、29節共に「彼ら」が誰であるかは書かれていないが明白。
30節 主語は「城壁」だが、誰の信仰かはやはり明らか。「人々」は原文には無いが、分かりやすくするため挿入されている。
31節 ここでも「共に滅びる」という合成語を使っている。異邦人であり遊女であるラハブがこの「信仰偉人群」に加えられているのは、信仰による救いが決して一民族に限定されるものではないことを示す点で、異邦人クリスチャンにとっては恵みである。
32節 ここで著者はパターンを崩し、まとめに向かってスピードを上げている。(ここまでアベルからラハブまで10人と「人々」を語るのに28節を費やしたのに対して、9節で6人と名前を挙げられていない多くの信仰者たちについて語っている。) ここに出てくる6人の名前が旧約に出てくる順番と少し違うのはなぜか分からないが、二人ずつ組にするとほぼ時代順。「ギデオンとバラク」は士師記前半、「サムソンとエフタ」は後半、「ダビデとサムエル」はサムエル記の登場人物。
33節 「信仰によって」は文法的には今までのパターンと違うが、「何々をした」の部分は直説法アオリストを用い同様の表現をしている。「約束のものを得」た人々がいたことは39節と矛盾するのではなく、神の約束が決して空約束ではないことをしめしている。与えられなかったケースも、与える時期がいつかが神の主権の内にあるだけ。
34節 前節とここでは主に勝利や奇跡的救済が挙げられている。
35節 この節では復活に関することが挙げられている。よく指摘されるように、ここやこの後で挙げられている例には外典とよばれる「マカベア書」などからの記述と思われることが出てくる。決してこれは正典の問題に関わることではなく、当時の読者にとってそれほど離れていない時代の歴史として捕らえられた事であろう。もちろん、旧約の中に実例を見出すものも少なくない。
36節 前節の終わりから次の節までは拷問、迫害といった内容に移っていく。その流れの中にもし読者が自分自身を当てはめるなら、彼らが受けていた迫害に対しても信仰を持って忍耐することが、旧約聖書及びその後の歴史(中間時代)を通して彼らが学ぶべきことだと気がつくはず。
37節 「のこぎりでひかれ」はイザヤのこと? これは黙示文学に関係すること。
38節 「この世は彼らのものではなかった」は彼らが寄留者である(13節)ことと結び付けられる。
39節 「約束されたものは受けなかった」は、個々の約束よりもその究極的完成であるキリストにおける救いを指す。
40節 私たち抜きに彼らが全うされる、というのは私たちの時代よりも前に彼らが前節の約束である救いを受けること。しかし、これは今の時代のものがすでに受け「終わった」のではなく、私たちにとってもなお終末的約束に関わるものである。だから、私たちも「多くの証人たち」のように信仰の「競争」を走りぬくことが12:1で勧められている。
12:1 11章で多くの例を挙げたのは、この結論を言うため。長い回り道ではなく、読者にとっては説得力のある実例の集まりであろう。ここの忍耐が決して迫害の困難だけでなく、「罪」の問題にも関わらせていることは12:4への複線となっている。
12:2 多くの旧約の実例も素晴らしいが、だれよりもキリストに目を留めることが大切。彼こそ信仰の「創始者であり、完成者」(あるいは「始めであり終わり」)だから。
「信仰によって」と日本語訳で書かれている箇所は約70回ほどありますが、そのうち20回位がヘブル書11章に集まっています。(翻訳によって回数は多少違いますし、実際には「それによって」と代名詞を使っている場合もあります。) 新約聖書中では「信仰によって」と言っても原語では様々なケースがあります。「信仰」という名詞の与格を用いている場合、属格の場合、前置詞としてエン、エク、ディア、またはカタが伴う場合。それぞれについてニュアンスが違うことももちろんあります。また、信仰義認について良く開かれるローマ書やガラテヤ書でも異なる前置詞が用いられ、意味の違いではなくスタイルの違いである場合もある。ヘブル書の場合もどちらの可能性もあるので、一括して考えてみようと思います。
11章直前の11:38では前置詞エクが使われています。これはギリシャ語訳旧約聖書からの引用なので、ハバクク書の言葉をそのまま使っていて、著者が前置詞を選んだ訳では無いでしょう。ちなみに、ローマ書でも1:17ではハバクク書からの引用がやはりエクを使ってされていますが、信仰による義を説いている3:22ではディア、28節では与格、30節ではエクとディアが使われています。
ヘブル書11章では、3節以下はほとんど与格を用い、しかも文の始めにそれが置かれています。そして「何々した」の部分は一貫して直説法が用いられていて、内容よりもスタイルを統一して、読者に強い印象を与えようとしていることが伺われます。その中で、11:2ではエンが用いられているのは注目すべきです。他の書でもエンが使われているのはまれで、ローマ書では不定詞と共に用いる用法として、またガラテヤ書では「(キリストの)信仰によって」という、普通言われる「信仰義認」とは違う意味で使われているようです。したがって、この2節も他の「信仰によって」とは切り離して考えて良いでしょう。(「信仰の故に」か「信仰に関して」と理解したほうが正しいと思います。)
パターン化された「信仰によって」の間で、7節で「信仰による義」が前置詞カタを用いているのも目を引きます。もう一つ、32節ではディアが使われ、文中の位置も違っています。
著者の意図は前置詞を使い分けることで「信仰による」行為を区別することではないようです。むしろ、与格を使って表された信仰の行為の中にはまったく違った種類のものがあるにも関わらず、全体的な印象を強めるために同じスタイルが取られている気がします。しかし、32節はテンポを速めるためにスタイルを意図的に崩しているようです。従って、2節のケースを除くと、11章の「信仰によって」は文法的な型式よりもその内容によって吟味されるほうが良いでしょう。また、スタイルの統一(と最後の部分でそれを崩していること)は、11章が一つの意図によって形作られた箇所であることを物語っています。
いつもテキストの分析をしている途中でもうメッセージのポイントが頭の中で形成されていって、はやく次の段階に進みたくなることがあります。具体的な言葉まで考えが進むので、しばしば分析から離れてしまうことがあり、進みが遅くなる。そんな訳で、今回も遅くなった言い訳でした。
さて、今回の箇所は個々の信仰者について語るのが目的ではないことは明らか。もし、例えばアブラハムについて取り上げるなら、テキストは自然と創世記を中心とすることになり、また全員をとりあげるのなら旧約聖書を網羅しなければならなくなるからです。一人一人はあくまで具体例として挙げられており、したがってメインポイントをサポートするように取り上げて行きたいとおもいます。
では中心主題は何か。それは12:1ではないかと思います。11章の信仰者たちの例に倣って「競争を忍耐を持って走り続けよう」。競争は、クリスチャン生涯であり、忍耐は、迫害や困難に対する忍耐はもちろん含まれますが、むしろ「約束のものを目指して走る」ことにおける忍耐です。これは「確信を持ち続けよう」という今までの重要なテーマの発展です。
信仰によって走る(つまり、生きる)という主題を軸にテキストを見ていきます。まず、最初の部分で、その信仰とは何かが論じられています。定義(1節)はもちろん大切ですが、「信仰が無ければ神に喜ばれない」という6節の主張は、信仰を人間と神との関係において捕らえる上で重要な定義です。つまり、信仰という神との関係こそがクリスチャン人生の土台です。第二に、その信仰の内容、すなわち何を信じるか、です。神を信じるのは明らかですが、神の語られた約束を信じて、見えないものを待ち望む、という姿勢が信仰者の姿として描かれています。その見えないものには、天の都という終末的な約束と、死からの復活という個人的終末に関わることとが含まれています。クリスチャンの生と死は神の約束への信仰によって考えなければなりません。第三に、約束への信仰こそが信仰者の生き方を変えるものです。それは勝利を与え、希望を与え、忍耐を与えます。そのような生き方の真のモデルはキリストです。また旧約の信仰者たちを通して指し示された救い主を仰ぎ見ることが私たちの生き方を正しい道へと導きます。
こうして、「クリスチャン人生の土台としての信仰」、「見えない約束のものを待ち望む信仰」、「クリスチャンの人生を変える信仰」という三つのポイントで語りたいと思います。説教題は(都合上、すでに決めてあったのですが)「信仰によって、生きる」です。
もう一つ。今回のリトリートのセミナーで学んだ、「聖書から考える人間の生と死」ということに関してもこのテキストは一つの答えを示しているのではないかと思います。詳しい学びの内容はF師の「オレンジ色の朝焼け」を御参照ください。