テキストの範囲を決めて行くとき、主に三つのことを考えます。まず、どこから始まるか。次に、どこまでか。そして、その部分が一つのまとまりになっているか、です。もう一つ、その範囲と前後との関係も重要ですが、それは範囲を決めた後も考えます。
前回の範囲が12:2までとしていたので、じゃあ3節からか、と言いますと、そうでもありません。11章は全体として「信仰によって」という言葉で強く結びつけられた「かたまり」であり、信仰とは何か、特に苦難の中で忍耐を可能とする信仰、ということを教えるための旧約聖書からの実例集です。したがって、ヘブル書の中では11章は決して独立した存在でなく、その前後の議論を補強するためにそこに置かれています。ですから、11章自体の結論は39、40節であるとしても、その前後の展開から見れば本当の結論は12:1であると考えられます。12:1は「こういうわけで」という接続詞で始められ、「私たちもまた」と旧約の信仰者たちと関連させる形で読者に適応させようとしていること、また10:32〜36の「忍耐」というテーマを再出させていることから、10章の終わりとつながりがあることも分かります。同時に、12:1は罪に対する戦いという4節と関連しており、「私たちの前に置かれている競争」は具体的には12章以下のことを指しているようです。従って、12:1は11章の結論であり、12章以下の導入となっていると思われます。
2、3節は、「多くの証人たち」から「信仰の...完成者であるイエス」に読者の倣うべき対象が変わっていますが、「忍耐を持って走り続ける」というテーマは共通しています。また、キリストの「罪人たちの...反抗」への忍耐は4節につながっています。こうして、罪との戦いという点で1〜4節は結びつけられます。
「こういうわけで」、今回は12:1をテキストの初めとすることにします。では、終わりはどうでしょうか。いくつかの可能性があります。まず、4節まで。これは少し短すぎるかもしれませんし、4節と5節の関係を考えると最善ではないようです。次に、11節。これは「訓練」というテーマがそこで終わっているからです。しかし、4〜11節の「子に対する訓練」というモチーフには苦難の中にある読者を力づける意図が含まれているようですから、12節初めが「従って」という接続詞で始まっていることと併せて、11節までは12節以降につながっていると考えて良いようです。
13節と14節の間には文法的にも主題的にもつながりはないように思います。それでも何らかの関係があるような印象を受けます。それは恐らく12,13節で命令形が使われ、14〜17節も命令もしくは勧告・注意といった内容だからでしょう。この勧告スタイルは28節にも出てくる他、13章全体がそうです。従ってスタイルによって区切るなら12,13章全体がひとまとまりになりますが、実際的には長すぎます。ですから13節を今回の範囲の終わりとします。
もちろん、14節以降を含めることも可能性として残ります。それはまた後で必要が在れば考えることにします。また、1〜13節がどのようなまとまりをもっているかは、テキストの構造のところで考えます。
ところで、ちょっとおまけ。勧告というスタイルですが、文法的には動詞の命令形を使っていなくても命令や勧告となっているケースは少なくないので完全に調べるのは時間がかかりますが、命令形の動詞だけ見てみると次のような結果を得ます(コンピューターのプログラムを使います)。ヘブル書には36回ほど命令形が出てきますが、そのうち22回が12章と13章に出てきます。他の章が3章を除けば多くて3回位ですから、やはり12、13章は読者への奨めが中心であることが明らかです。パウロの手紙などのように、前半で神学的なメッセージが続き、後半は信仰生活に関する奨めが主であるスタイルは、この書でも見ることができます。それは、新約聖書の手紙は神学と倫理とが不可分のものであったこと、つまり、倫理は神学に土台し、神学は生活に適応されるべきであることを語っています。そういった「書簡」という新約聖書の形態を考えると、12章からのメッセージは11章までの全ての議論を土台とした勧めであることを覚えておく必要があります。7節の「訓練と思って耐え忍びなさい」という命令は、儒教的な社会での有無を言わさぬ強制的命令ではありません。キリストの贖いの救いと終末の約束をいただいた者が信仰を持って生きていくという文脈と、当時の読者が置かれていた迫害という時代的背景の中で考えるなら、励ましなのです。
テキストの構造を考えるとき、どこで区切るか、ということがまず問われます。すなわち、ひとまとまりとなっている範囲をいくつかの小さな部分に分けることです。そして、それぞれの区分がどのような内容であって、他の部分とどう違い、どう関係しているか、を調べます。こうして、個々の部分の主張が組み合わさって行き、テキスト全体のメッセージが形作られます。
ところが、実際にはすっきりと区分するのが難しいことがあります。ヘブル書は、今まで見てきた通り、「橋渡し」のような部分があったり、「脱線」のように見える箇所があったりして、一見すると話があちこちに飛んでいるようにも思えます。しかし、こういったスタイルというのは実際の説教に似ている所もあります。第一、第二、第三、と言うように話をくっきりと分けて話す人もいれば、三つのことを行きつ戻りつしながら、あるいは脱線を交えながら、聞いている人の意識に印象づけていくタイプの話し手もいます。後者の様なタイプのメッセージを厳密に区分して分析しようとすれば、話者の意図と違った構造を押しつけてしまうことになりかねません。ですから、結果としてはあまり明確な区切りでなくても、それがテキストの流れや主張に沿っていれば良いのではないかと思います。
こんなことを前置きするのは、12章前半をどのように区切るか、には、幾つかの考えがあるからです。幾つかの翻訳(日本語と英語)で、段落がどこで区切られているかを見てみます、1,2節を一区分とし、3節から新しい区分が始まる分け方をしているのには、例えばNRSVがあります。1〜3節の後で4節から新しい段落とするのはNIV、新共同訳、4節と5節の間で区切るのはNJB、そして1節から少なくとも5節まで区切りを入れないものにはNKJV、口語訳、新改訳があります。注解書はもちろん人によって様々です。原語は? USBもネストレも3節と4節の間で区切っていますが、もともとの原本がどうだったのかは簡単には答えがでないでしょう。
40節 | 1節 | 2節 | 3節 | 4節 | 5節 | |||
新改訳 | −> | <−−−−−−−−− | ||||||
NRSV | −> | <−−> | <−−−−− | |||||
新共同訳 | −> | <−−−−> | <−−− | |||||
NJB | −> | <−−−−−−> | <− |
では、1節から5節までをどのように考えたら良いでしょうか。まず、内容を見ていきます。1節と2節は「忍耐」という共通するテーマがありますが、1節は「私たちの」、2節はキリストの忍耐について書いてあります。2節と3節はその「キリストを見なさい、考えなさい」という共通テーマがあり、3節は読者自身へと話題が移っています。3節と4節に共通しているのは「罪(人)との戦い」というテーマと読者(「あなたがた」)に焦点が向けられていることです。3節と4節の違いは、その罪との戦いがキリストの戦いと「あなたたち」の戦いであることです。4節と5節はテーマとしては違うのですが、「あなたがたは」(4節)と「そして、あなたがたは」(5節)というスタイルにおいて結びつけられています。
こうして見ていきますと、何を基準に考えるかで区切り方が変わります。1節と2節は恐らく分ける必要はないと思います。もし、「私たち」と「あなたがた」という点で分けるなら2節と3節の間に区切りが入ります。倣うべきモデルということを考えると、1節から3節は証人あるいはキリストをモデルとしているのに対し、4節からは直接読者のことに話題が移っています。そして、主題を見るならば1〜4節は「罪との戦い」(1,3,4節)、5節以降は「訓練」となります。じゃあ、どの分け方がいいか。この部分のテーマを先に決めて分けるべきでしょうか。どの翻訳(の訳者か団体)に権威があるかで決めるのでしょうか。それとも多数決?
こういった混乱は、明確な区切りが無いにもか関わらず、前後で内容が変わるように区分しようとすることから来ています。つまり、著者はこの部分を区切ることを読者が明確に感じ取れるようには書いていないのです。言い換えれば作者は、ここを途中で一度完全に切って新しい話題で話し始める、というように読むのではなく、一貫して話が流れていきつつ新しい話題へ移っていくように読ませているのです。したがって、どう区切るかよりも、どのようにつながっているか、の方が大切です。
ずいぶんと回り道をしたみたいです。でも、自分のしていることをより明確にするために、時々使っている方法にまで立ち入って考えるようにしています。そうでないと、いつのまにかマニュアルを追っていることになるからです。では、いよいよ今回の範囲全体の構造に移ります。
さて、今まで見てきたように、12章の1から4節はその前後をつなぐ橋渡しをしています。しかし、単なる「つなぎ」ではなく、そこでも重要な話題に触れています。それは「罪との戦い」ということです。1節では競争のモチーフを使いながら、「まとわりつく罪を捨てて」というイメージを語っています。3節では前節のキリストの十字架を「罪人たちの反抗」と表現しています。4節は罪との戦いを「血を流すまで抵抗」するものとして述べています。言葉遣いや対象となる事柄に違いはありますが、罪に対する戦いというテーマは一貫しているようです。これは、11章との関係で言えば、信仰の生涯という競争に於いて、ゴールまで走り抜こうとする者にとって罪が障害となることを言っています。信仰、すなわち神との信頼関係を妨げるのが、罪です。2,3節で、キリストは、ご自分が罪を犯すことはありませんでしたが、十字架につけられたことは人間の罪の結果であり、十字架での忍耐は罪人たちの反抗という迫害への勝利でした。4節で、この「罪人たちの反抗」は、本当は人間からではなく、「罪」からのものであり、私たちの戦う相手は人間ではなく「罪」です。この罪との戦い、そしてそれに対する忍耐は、実は神からの訓練の場でもあることが5節から述べられていることです。こうして信仰による迫害下の忍耐という11章の話題が、迫害を忍耐することで神から与えられる訓練という12章の話題に移り変わって行きます。同時に、5節以降の「神からの訓練」が、人格的成長や倫理的行いのための訓練というだけでなく、厳しい迫害や困難を、約束への信仰というここと別の次元で捉えるための教えであることが分かります。
5節から11節はこの訓練というテーマでまとまっています。5,6節は「神からの訓練」という教えを証拠となる旧約からの引用で、この部分の導入となります。7〜9節は人間の父と子の関係をモデルとしながら神の訓練を説明しています。11、12節はこの訓練の目的を述べています。この区分けも完全ではなく、親子のモチーフはすでに5,6節で示されていますし、10節の前半はまだ人間の父子関係によって神人関係を考えていて、徐々に話が展開しているのが分かります。
この「神からの訓練」を受け入れた読者に対して、肉体に関する言葉を使いながら霊的な勧めをしているのが12,13節です。12節では自分の体のこと、13節はその足で歩む道について書かれています。そして、実は、1節での競争のモチーフにつながっているのです。つまり訓練されて強くなり、信仰生涯のレースを走り抜くように、という結論です。
14節からは、この競争というモチーフから完全に離れるという点で、明らかに話題の転換があります。つまり、区切りはかなり明らかです。もちろん、1〜12節と無関係なのではありません。10節で持ち出した神の聖さに与る、という話題がここから展開されています。また11節の「平安な義の実」という話題を具体的にしたのが13章と見ることもできます。ですから、11章では信仰が忍耐の原動力であったのに対して1〜12節は「神からの訓練」という視点で忍耐することを教えているだけでなく、その訓練は神の聖さに与り義の実を結ぶという目的があり、こうして12章後半から13章のクリスチャン生活における具体的指導につながっていくのです。
さて、これでテキストの範囲は13節までで良さそうです。また、つながりを考えた上で、1〜4節、5〜11節、12〜13節と三つに分け、中心部分はさらに(上に書いたように)三つに分かれます。問題は、説教のアウトラインです。罪との戦い、神の訓練、という2つのポイント(プラス、結論としての奨め)か、あるいは、罪との戦いは導入で、神の訓練という主題を三つに分けて語るか。1〜4節が11章とそれ以降を結ぶブリッジであることを考えて、今回は後者を選ぶことにします。すなわち、以下の通りです。
第一に、5〜6節(あるいは1〜6節)から、信仰生活は罪に対する戦いであり、それに勝利できるように神様が訓練を与えて下さることを考えます。第二に、7〜9節を通して、神の訓練は父なる神の愛に基づくことを見たいと思います。第三に、10〜13節から訓練の目的と私たちのとるべき態度について学びます。
1節 「雲のように取り巻いている」は比喩的な表現だが、後の「まとわりつく」とともにレースでの情景を考えると意義深い。読者にとっては雲の上の存在であった旧約の聖徒たちがともに(「私たちも」)走っていると考えると勇気づけられる。「罪」は単数形であり、自分の犯してきた過去の、あるいは今犯してしまっている、個々の罪のことよりも、他の何かを指している。「競争」は信仰によって生きていくことであり、最後まで確信を持ち続けることだろう。信仰生涯、と言っても良い。
2節 先頭に(あるいはゴールに)立っているキリストに目を向け続けることが走り続けるために必要。「(喜びの)故に」と訳されている前置詞は本来「反対」を意味する言葉(「アンチ」の元となった言葉)だが、新約中では様々なニュアンスで使われている。新共同訳は本来の意味に近く「喜びを捨て」と訳し、キリストの払った犠牲を示している。新改訳と口語訳は未来の喜びを見て耐え忍んだという解釈をしている。ヘブル書の文脈では後者の方が良いように見える。未来の喜びを仰ぎ見て忍耐したキリストに倣い、また旧訳の聖徒たちにならって行くことが11章の結論。
3節 日本語訳では隠れているが2節では1節とともに一人称複数形を使い「しよう」と呼びかけているのに対し、3節からは二人称複数形で命令形で語っている。より具体的な勧めとなる。「疲れ果てる」は「降参する」とも訳せる言葉で、そうならないためにキリストの忍耐を考える必要がある。そのキリストの受けた苦難を、ここでは「罪人たちの反抗」と表現し、罪の贖いとしての十字架よりも、クリスチャンの受ける迫害の原型というべき十字架に目を向けさせている。したがって、ここで言っている「罪人たち」は贖いによる赦しを受けるべき存在としての罪人たちではなく、迫害によってクリスチャンを信仰から引き離そうとする世の勢力と考えられる。
4節 ここの「血を流すほどの戦い」も、内面的な罪との戦いを指すよりむしろ、迫害における殉教を指し示しているようである。これも単数形。1,3節と併せて考えると、この箇所で考えられている「罪」とは、内面的な罪も排除しないが、主にこの世の勢力としての罪であるように思える。「社会悪」ということではない。迫害を引き起こすようなキリスト教を排除しようとする世の中の考え方の基盤ともいうべきもの。一例が皇帝礼拝。また罪を罪としない、狂った善悪基準。そのような「罪」によって動いている世の中で、クリスチャンとして生きていこうとするとき、迫害は避けられない。信仰を妨げるそのような生き方を「投げ捨てて」(1節)生きる潔さが必要。
5節 「血を流す抵抗」と聞くと恐ろしいが、クリスチャンとして信仰によって生きようとするときに不可避な苦難にはもう一つの積極的意義がある。それが「訓練」。旧約の箴言の言葉を引用している。「子供に対するように」は著者による付け加えではなく、引用中の「我が子よ」という呼びかけから。「懲らしめ」と「訓練」は同じ言葉。
7節 「(訓練と)思って」は付け加え。「訓練として」か、あるいは「(結果として)訓練になるように」。神の子とされるという救いの一側面はヘブル書の主題ではないが、「子として扱う」はそのことに触れている。
8節 「私生児」と訳されている語は「合法的でない(子)」という意味だと辞書は説明しているが、新約中ここだけにしか出てこないので、正確な意味は決めがたい。しかし、「正しい」(これも原文にはない)子として取り扱われていないことがポイント。
9節 「私たちを懲らしめた」は「(肉の父について言えば)私たちは訓練者(あるいは教師)を持っている」。「服従して生きるべき」は未来形を使っており、「服従する、そして生きる」。
10節 「自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる」では暴君のような父を連想してしまう。「自分の考えに基づいて訓練する」のほうが良いのでは。「私たちの(益)」と「私たちを(ご自分の聖さに)」は付け足し。「聖さ」は普通使われる「聖さ」(ハギオス)と同じ語源だが、新約ではここだけに出てくる語。
11節 「これによって」は「懲らしめ」を指すのは文脈から考えて自然。「訓練された」はここまでの「懲らしめ、訓練」とは別の語を使って、よりはっきりと訓練であることを示している。「平安な義の実」は、「平安の実」と「義の」が文中では離れているため理解が難しい。このようなスタイルは本書中によく使われているが。
12節 「弱った」も「衰えた」も原文の現在完了分詞を正しく訳している。
13節 「まっすぐな」は前節の「まっすぐにする」と同じ語根。「まっすぐな道を作る」、あるいは「道をまっすぐにする」。新共同訳の「まっすぐな道を歩きなさい」は不正確。「間接をはずす」は本当は「さまよう」だが、「(むしろ)癒される」と対になっているのでそのように訳したのだろう。「動けなくなる、歩けなくなる」でも良い。