ヘブル書からの説教(その10)

 

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テキストの範囲

テキストの始まりについて。前回の続きで14節からですが、14節は「平和」と「聖」と言う語で11節との関係があります。ただ、「訓練、懲らしめ」というテーマはここから後は出てこないので、新しい区分に入ったと考えて良いと思います。また、12節の「ですから」のような前後を結びつける接続詞が表れないことも、それを支持しています。

問題は、どこまで続くかです。17節まではあきらかに一続きです。しかし、18節からは話題が変わっているようです。しかし、18節から29節まで(恐らく、18節から29節までは一つのまとまりであると思われます)は、その前後から内容的に異なるため、「浮いて」しまっているように感じます。前後のつながりが強いこの書の流れからいうなら、この箇所だけ特殊に思えます。

何らかの関係が17節までと18節以降の間にあると「仮定」して、それを探し出してみます。その「見つけた」つながりが妥当なものであるかを後から確かめます。

18節から21節は出エジプト記の記事を想起させます。このブロックと次(22節以降)は「近づく」という言葉で対照的(AではなくB)に結びついていることはあきらかで、したがって24節まではひとまとまりとなっています。この対比は26節から28節でもう一度見ることができます。25節は、「語る」という語によって24節と、また26節は神の声について語っている点で25節と関連しています。こうして18節から28節は旧い事(出エジプト、とくにシナイ山での出来事)と新しい事(新天新地)とを比較しながら、神の言葉を拒まないように、という25節を中心としていることが分かります。29節は、20,25節の「処罰」を思い起こさせ、28節の「慎みと恐れを持」つようにとの勧めを強めています。こういった「脅し」のような表現は、現代人にはあまり効果的ではないかもしれません。しかし、ここで問われているのは、神の声に従うか拒むか、であり、それぞれの場合にどのような結果(滅びか祝福か)が伴うかを述べて、正しい選択を迫っているのです。このような二者択一的な勧告は旧約聖書ではたびたび使われています。

この「神の声を拒まないように」という勧めが、その前後とどのように関わっているのでしょうか。14節から17節でも旧約の記事を取り上げて例としてます。それはエサウの記事で、16、17節に出てきます。この部分の中心は「俗悪な者がないように」という勧めです。これは15節で「神の恵みから落ちる者がないように」という警告の例にもなっています。14節は、聖められることの勧めであり、そうなるために15節以降のようなことを注意しなさい、と言っているのです。まとめると、次のようになっています。

「聖められることを追い求めよ」(14節)
「そのために」
「神の恵みから落ちる者のないように、よく監督せよ」(15節)
「俗悪な者がないようにしなさい」(16節)

(エサウの例)

(シナイ山と天のイスラエルの比較例)
「語っている方を拒まないように注意せよ」(25節)

(シナイ山と天のイスラエルの比較例)

このように考えると、14節から29節全体が「聖められることを追い求めよ」というメッセージでまとめられることが分かります。そして、「聖」の対局としての「俗」という旧約でおなじみの概念を使って警告を与えています。最後に、対照的な二つの山(シナイ山と終末のシオン)を用いて、神の招きの言葉を拒まないように注意しています。割合から言えば、警告の部分が長いので、「聖」への招きがあまり色濃く出ていません。しかし、「聖」の反対概念を使って説明していることと、旧約の記事の説明が長いことを考えれば、全体をまとめることは無理ではないと思います。

もし、このように14節から29節までがひとまとまりであるなら、何故17節から18節で全く違う話が始まるような印象を受けるのでしょうか。それは、そこで用いている旧約からの例が違うからです。そう考えると、18節の書き出しはやや唐突な気がします。これまでは実に注意深く言葉を選び、話題を移り変わらせて来た著者が、ここでこんな書き方をしているのは、もしかしたら、本人の中では語りたい熱心さが慎重さより上待ったからかも知れません。「失敗」ではなく、著者の情熱の表れと見たいと思います。

最後に12章終わりと13章の関係です。12:28の「(神に喜ばれる)奉仕」を具体的に表したのが13章と考えられます。ただし、その「神」は「焼き尽くす火」(29節)ですから、「慎みと恐れとをもって」(28節)奉仕すべきです。内容に関して言えば、13章の話題は12章後半とはあまり関係していません。あえて言えば、4節後半が「さばき」という厳しい言葉を含んでいる点で12章後半と結びつくかもしれません。むしろ「全ての人との平和」(11:14)が13:1以下と関わっているようです。その他の点では、13章が短い命令の連続であること、終末論的視点が薄いこと、主に対人関係が主であることなど、13章が12章と違うスタイルであることが伺われます。従って、13:1からは新しい区分となっており、今回の範囲は12:29までとなります。

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テキストの構造と説教のアウトライン

今回のテキストの構造については、上でかなり取り扱いました。14節は全体の主題を肯定的な表現で述べています。15節から17節は「そのためには」という接続詞で13節と結ばれ、「ないように」という表現が三回表れ、「よく監督しなさい」という勧めが中心となっています。この部分は「聖」さと、その逆の「俗悪」がテーマとなります。

第二区分は18節から29節です。25節の「注意しなさい」を中心に、前後に二つの光景を描いています。それは、シナイ山での恐ろしい光景と、天のエルサレムの輝かしい光景です。28節は「感謝しよう」という結びと、「奉仕」という13章に続く話題が出てきます。この部分は少し長いので、説教では二つに区切りたい。ただ、テキストの構造としては一つなので、内容で分けます。一つは、シナイでの光景と「語っておられる方を拒むな」という勧め。もう一つは、天のエルサレムと、その「御国を(すでに)受けている」(28節)のだから感謝しよう、ということです。

メッセージの中心は「聖められることを追い求めよう」で、第一ポイントは、その中心テーマを否定的に説明する「俗悪なるものとの決別」ということ。第二は「神の言葉を受け入れること」、最後は「すでに与えられている恵み」ということです。

もう、これですぐに説教原稿に取りかかれそうですが、ここでもう一度テキストを細かく見ていきます。上の区分やアウトラインを支持するデータだけでなく、それに反することも見いだすかも知れません。その場合、自分の考えに拘らずに素直に御言葉の語るところに服従することができればと願います。

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テキストの分析

14節 「全ての人との平和」は前後に関係する話題が出ていない。むしろ13章の内容がこの平和を具体的に展開しているようである。「聖められること」はヘブル書ではここだけに出てくる。新約の他の用例(9カ所)では特に受動的な意味はない。だが、冠詞が伴うのはここだけで、それは10節の聖(違う語だが同じ語根)を指すと思われるので、「神の聖さにあずかる」、すなわち「聖められる」と考えるのは間違っていない。また、「聖くなければ誰も主を見ることができない」という聖さも、人間のレベルの聖さではなく、神から与えられる以外にありえない事。

15節 「あなた方はよく監督しなさい」の後に「何々しないように」という句が三回(内1回は16節)続く。「監督せよ」は命令形ではなう分詞だが、「分詞型命令形」と呼ばれるヘブル語の影響と思われる用法で、新約中に約100回出てくる。前節の命令形を受けた形で分詞が使われている。しかし、命令の内容では「平和と聖さを追い求めよ」と「監督せよ」は並立することではないので、新改訳は「そのためには」を補っている。「監督せよ」という動詞は1ペテロ5:2に出てくるが、「牧会する」という意味で理解する方が良いかも知れない。あるいは意訳だが「注意をしあう」。  「(神の恵みから)落ちる」がきつすぎる表現なら、「受け損なう」。「苦い根」は具体的に何かは書かれていない。似たような表現は1テモテ6:10の「あらゆる悪の根」。そこから人の悩みと汚れが生じる。「汚す」は宗教的な意味での汚れをも指し、「聖」の反対。

16節 前の二つの「何々がないように」と違い動詞が省略されているが意味は通じる。「俗悪な者」はこの世の物によって汚されている状態。本来、神から受けているはずの「聖」、すなわち「神のかたち」に関わる人間の尊厳性が失われていく状態。実例としてエサウが天的な祝福より一杯の食物を選んだことが挙げられている。

17節 「心を変えてもらう」はイサク(あるいは神)が心を変えることだが、動作の主体をエサウと見て「悔い改める(機会を得なかった)」と読むこともできる。聖められることではなく俗悪なことを求めることを危険性を強調している。

18節 「山」という言葉は18節と19節には出てこない。「手で触れるもの」を文脈(20節)からシナイ山であると解釈している。また、今は手で触れることのできない天にあるシオンの山(22節)と対比している。「燃える火」以下は出エジプト記19章の中に出てくる事をイメージしている。「暗闇、あらし」は出エジプト記のほうには出てこないが、恐れている人々の受けた印象を表している。

19節 「願った」は出エジプト記20:19から。「近づいている」は完了形なので、「近づきつつある」状態を指すのではなく、すでに近づいたことを示している。

20節 「命令」は受動態の分詞を使い、「命令されたこと」。これは直接の引用ではなく出エジプト記19:12、13節の言葉を組み合わせている。

21節 モーセが恐れた事は、二回目に十戒を授かった時のことを申命記9:19で回想している所に出てくる。18から21節はシナイ山で十戒を受けた時、すなわち旧い契約の原点が恐怖をもたらす出来事であったことを強調している。

22節 19節と同じ完了形で「近づいた」。「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」は地上のシオンではなく天にある、来るべき新しいシオンであり、信仰者のゴールとしての、11章の「神の都」を思い出させる。「大祝会」は21節までの「恐怖に近づく」と反対に、喜びに近づいていること。この語を次の節の始めに結びつけ、「天に登録された長子たちの祝会と集会(教会)」とする解釈もあるが、「多くの天使たち」に近づく、というのは考えにくい。どちらにしても喜びの山に近づいたことを語っているのは変わらない。

23節 キリストを長子と呼ぶことは多い(1:6など)が、救われた(天に登録された)者たちを長子と呼ぶのは少ない。相続を受け継ぐ者とされたから(9:15)か。ユダヤ人クリスチャンを指している可能性も考えられる。「全うされた義人たちの霊」は恐らく11章の旧約の信仰者たちのこと。

24節 「新しい契約」や「血の注ぎかけ」は8、9章の議論に基づく。キリストの血(といけにえ)の優越性も8〜10章。「アベルの血より」は、キリストの血が救いをもたらしたのに対してアベルの血はカインの罪を示す(創世記4:10)だけであることを指しているが、彼の血の事が持ち出されたのは旧約で最初に流された血として新約の血と対比するためか、最初の「殉教者」、あるいは殺された義人であるためか。

25節 「語っておられる」は前節の「語る」と同じ現在分詞を使っており、キリストの血が(あるいはキリストの血において神が)語っている事は救いである。「地上」と「天から」の対比は旧約と新約の対比につながる。「(天から)語っている」は警告を意味すると思われるが、それがキリストの血における語りかけの内容なのか、「注意しなさい」と言っていることかは分からない。

26節 「あのとき」はシナイ山でのことを指しているが、「約束」はハガイ書の終末に関する預言。

27節 この預言を新天新地が現れる前の終末のことと捉えている。天地が滅んだ後に残るのは天の都。

28節 こうして、シナイ山における恐怖の「揺れ動」きから新約の約束である天の都へと話を戻して、結論を導いている。「受けている」は完了形ではなく現在分詞。今「受けている」のは、約束をすでに受け、その約束のものを受け取るのは未来であるから。後半は、「喜びを持とう、それ(喜び)によって奉仕しよう」。天の御国を受けている喜びこそ、どんな状況でも神に仕える原動力。「奉仕をする」は「礼拝する」とも訳せる。

30節 最後の節は文脈にあわないように、あるいは唐突に思えるが、次のように理解できる。神は確かに焼き尽くす火であるが、その神に受け入れられるように、慎みと畏れを持って仕えることは、救いの喜びを持って仕えることである。この節は前節の「神」を補足説明しているもの。

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馬が走っている...

説教の中心とアウトライン

初めに考えたアウトラインと上の分析を比べて問題になるのは、15節の「そのために」は原文にはないことと、28節の「御国を受けている」は完了形ではなく現在分詞であることです。他の「発見」は理解を深めているだけで問題はありません。「そのために」に関しては15節の分析で取り扱ったように、「(平和と聖を)追い求めよ」という命令と「監督せよ」との命令の関係を考える必要があります。この二つの命令は内容的に並列ではありえません。また文法的には分詞を用いていることから従属的か、あるいはヘブル語の影響なら時間的順序があるのかもしれません。しかし、時間的順序と言っても、「追い求め、それから監督せよ」というのはあまり説得力がありません。従属とした場合、「監督するときに」という理解は不可能ではありませんが、その後は「神の恵みからおちる」例としてエサウのことがあげられ、14節と16節との関係があやふやになります。従って、14節から17節の統一性を考えると、新改訳のように「したがって」を補うのが一番意味が通るように思います。

28節の「受けている」が現在分詞であることですが、「受ける」という動作の性格上、継続的意味に取ることは変です。状態を表しているとすると、すでに受けていると考えることは無理ではありません。それでも、完了分詞でなく現在分詞である点は次のように考えます。私たちは御国を約束(人間のいいかげんな約束ではなく偽ることのない神の約束)として「すでに」受けています。それを実際に受け取るのは未来(終末)において。ですから、受け取るということについては確実だが、まだ完全に受け取ってしまった訳ではない。だから、「今、受け取りつつある」という意味で現在進行的な要素があると思われます。

神学的に問題になるのは、受け取り損なうことがあるのか、です。15節の「神の恵みから落ちる(あるいは、受け損なう)」が、救われた者が完全に救いを失ってしまうことか、それとも救いは失わないが成長に不可欠な神の恵みを受け損なってしまうことなのかは分かりません。ヘブル書でたびたび出てくるこのような勧告は、今までも述べてきたように、神学的論争にするよりも、著者の読者に対する強い訴えとして見る方が良いでしょう。「落ちる」かどうかを議論するのではなく、「落ちる」ことによる重大な損失を考えて、落ちないように最大限の努力を払い、それが結局、最後まで確信を持ち続けて祝福にあずかる道である、という牧会的指導として捉えるべきです。(あまり良い例ではないかもしれませんが、保険をかけるときに自分が事故に遭う、あるいは病気になるつもりで保険をかけるのではないと思います。むしろ、万が一でもそうなった時に、それによる損失を少しでも減らすことが目的であり、保険をかけると同時に、事故に遭わないように、病気をしないように、注意を払うのが健全でしょう。)

さて、もう一度、主題に戻ります。初め、この箇所の中心は「(平和と)聖さを追い求めよ」という命令だ、と考えました。もしかすると、「神の恵みから落ちないように」という警告のほうが中心なのかもしれません。しかし、やや否定的な主題ですし、上に書いたように神学的にも問題が多いようです。表面的には「聖」という話題は出てきませんが、やはり「聖くされることを追い求める」を説教の主題としたいと思います。

この主題を中心に説教を次のように展開して行きます。まず、主題を提示し、「聖」ということを「聖くなければ、だれも主をみることができません」(14節)ということと、神様の御意志(10節)、そして「神に近づく」といヘブル書の代表的テーマを使いながら簡単に説明します。それから、本論。第一に、「聖」の反対として「俗」ということをあげ、エサウのように「聖」(神の祝福)を「俗」(肉体的欲望)と引き替えにするような選択をするのではなく、むしろ正しい方、「聖」を求めることを選択するように勧めます。第二に、選択を迫っている神の声に聞き従うべきことを話します。恐怖の故に仕方なく従うのではなく、素晴らしい救いの祝福故に従うのです。第三に、この救いは与えられた約束です。この約束を信じて感謝することが聖なる生き方の土台です。



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