ヘブル書からの説教(その11)

 

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テキストの範囲

連続講解スタイルは、一つのシリーズの最中は「前回の続き」をテキストにすれば良いので、あまり悩みません(それでも十分悩んでいます)が、新しいシリーズを始める前はしばらくそのことばかり考えています。今回、ヘブル書がいよいよ終わるに当たり、もう次を決めなければならない時期になりました。ヘブル書の前は民数記でした。いつも、旧約と新約を交互に開いていますので、次回は旧約です。では、どこか。民数記を始めたころは、特に理由はありませんが、ヨシュア記にしようかと漠然と考えていました。しかし、できるだけいろいろな箇所を取り扱いたいと願っていますので、もう一度考え直すことにしました。旧約の4つの区分(ユダヤ教にならって三つの区分でも良いのですが)の内、モーセ五書はすでに創世記、出エジプト記、民数記を学んだので、却下。預言書は少し前に小預言書を講解しました。また、諸書からは詩編を開いた記憶があります。そうすると歴史書となります。その中で、個人的都合であまり長くない方が良いので、サムエル記、列王記、歴代誌は除きますと、ヨシュア記、士師記、ルツ記(これは諸書に含んだ方が良いのですが)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル書。このうち、ネヘミヤは私ではありませんが、去年開かれました。エズラは時代背景としてそれに近いのでダメ。エステルは、個人的に連続講解向きではないように思います。最終的にヨシュアと士師記、どちらがいいかというと、後者はちょっと暗すぎるので、結局ヨシュア記に決めました。(あまり悩まなければ良かった。)

では、次のシリーズが決まったところで、いよいよヘブル書最後の説教準備です。

今回は、長さから言っても、13章全体を範囲とするので良いのではないかと思います。ただ、もし、全体が関連しない二つ(ないし三つ)の部分に分けられるなら、そうはいきません。そこで、全体の内容を見て行きます。ただし、この章は様々な内容が盛り込まれているので、はっきりとした統一テーマを見つけるのは難しいかもしれません。また、最後の部分(18節以下、あるいは20節以下、少なくとも22節以下)は手紙の結びのような内容ですので、他の部分とは区別されるかも知れません。

1節から6節は倫理的教えで、前半は積極的に「兄弟愛」に関して、後半は消極的な「性的罪とどん欲」への戒めです。7節は指導者たちに関しての勧めですが、「彼らの生活の結末(あるいは「最後」)を見て」という言葉から、中には偽の指導者もいたようです。変わらないのはキリストだけであり(8節)、間違った教えに気をつけなければならない(9節)と注意を与えています。10節から14節は祭儀の用語を使って、迫害への覚悟を促しています。正しい指導者に従い、正しい教えを守ることは、当時は迫害に結びつくことでした。15節、16節はともに神へのささげものを奨励しています。15節は賛美、16節は善を行うこと。後者は1節から3節を思い出させます。それに対し17節は7節を再確認しています。したがって、16,17節はここまでの13章をまとめているようです。そして、指導者の事が語られた後で、著者を含む「私たち」のための祈りを求め、読者たちのために祝福の祈りを20,21節で述べています。22節以降は手紙の挨拶文であり、本論に含めなくても良いでしょう。

こうして見て、1節から17節まではひとまとまりであると思いますし、18節から21節も間接的に結びつけられているようです。そこで、今回は13章全体(結語部分は除く)を説教の範囲とします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

1節から3節は「兄弟愛」をテーマとしています。兄弟愛の具体的例として2節ではもてなし、3節では思いやりがあげられています。4節は姦淫の罪への戒め。5節と6節は貪りの罪への戒めであり、神への信頼を教えています。これらのいわば「倫理的教え」は明確な接続詞でつながれてはいないようですが、読者の生活に関する教えという点で結びあわされています。

7節は17節と並列する内容ですが、焦点が違っているようです。17節が直接的に、指導者への服従を説いているのに対し、7節は「彼らの生活の結末を見て」という条件付きであり、その、結末まで確認された「信仰」に倣うことを教えています。9節の「様々の異なった教え」が示すように、異端を含めて各種の間違った教えが当時存在していたことは明らかです。いつも変わらぬキリスト御自身(8節)以外は、その最後まで吟味する必要があります。7節から9節の「正しい信仰に関する勧め」の最後は「食物」の事に触れ、10節からの異なる話題において触れている「食べる」につながっているようです。

10節から13節は、祭壇と宿営というイメージを用いている点で、一つのまとまりになっています。10、11節で語られていること(祭壇から食べる権威、宿営の外で焼かれる体)は12節のキリストが門の外で十字架に架けられた事の理由としてあがられています。そして、そのキリストの受難を基に、13節は読者の受けるべき辱め(迫害)に関して語っています。

14節の「地上の都ではなく、来るべき永遠の都」は、13節の「宿営の外」と無関係ではありませんが、異なるテーマへと話題を進めています。15、16節は、その来るべき都を求める者としてなすべきこと(賛美と善行)を「いけにえ」と語ることで、10節からの祭壇のモチーフのつながっています。17節は内容的には16節より7節に近く、指導者に従うことを説いています。18,19節は、もし「私たち」が指導者と考えることが間違っていないなら、指導者たちを祈りによって支えることを勧めている点で17節と結びついています。

20、21節は手紙の結語であり、また本書で述べられてきた幾つかのテーマを簡単に取り上げています。22から25節は個人的な事を語っている「追伸」であり、本論とは係わっていないようです。

こうした流れを考慮に入れながら、全体の構造を考えます。1〜6節は信仰生活に関する教え、7〜9節は間違った教えへの戒め、10〜13節は迫害への心備えについて、14〜16節は賛美と善行を説いています。17〜19節は指導者への態度です。もしも、9節の「食物による」と13節の「宿営」がともに古い契約を指していると考えられるなら、7節から13節は一貫してユダヤ教(古い契約による救い)からの決別を勧めていると考えることができます。そうすると15節の「賛美のいけにえ」を16節の「善を行う...いけにえ」と結びつけて、1〜16節は次のような構造と見ることが可能です。

1〜6信仰生活について
1〜3兄弟愛の実践
姦淫への戒め
5〜7貪欲への戒め
7〜13正しい信仰について
7〜9異なった教えへの警戒
10〜13古い契約との決別
14〜16信仰生活について
15賛美のいけにえ
16善行のいけにえ
17〜19指導者への態度
17指導者への服従
18〜19指導者のための祈り
20〜21結文、祝福
22〜25追伸

このような構造とその内容から、説教のアウトラインとして三つのポイントをあげることができます。第一に、正しい信仰生活の実践。第二に、間違った教えからの脱却。第三に、指導者に対する態度。このうち第一と第二は、14節から16節に書かれているように、正しい信仰生活は正しい教えに土台していることによって結びつけられています。第三は、一見他の二つのポイントと離れているようですが、正しい教えを知る上で、指導者の果たす役割を考えるならつながりがあることを理解できます。

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テキストの分析

1節 三人称単数形の命令形なので、「兄弟愛がとどまる(あるいは「続く」)ように」。「兄弟愛」は「愛」と「兄弟」の合成語でフィラデルフィア。ここからの勧めは12:14の「全ての人との平和を追い求めよ」との勧めからの発展だろう。
2節 「もてなし」は中近東での習慣であるだけでなく、ここではキリスト教の兄弟愛の実践と結びつけられている。また「御使いたちを知らずにもてなす」はマタイ25:35の教えとも関係しているかも。
3節 「牢につながれている人々」は迫害のために投獄されている人々のことだろう。「苦しめられている」は同じ言葉が11:37では迫害や拷問と結びつけられて使われている。「自分自身も肉体を持っているものとして」他者の苦しみを思いやることは、兄弟愛の実践が単なる善行以上のこと。
4節 この節の前半は動詞を省略しているので補って読む。結婚を尊ぶことと寝床(夫婦関係を象徴している)を汚さないことは並列して書かれている。
5節 ここでも動詞は自明であるとして省略されている。「生活」は上手な意訳で、「あり方」と訳しても良い。「金銭を...」は「愛」と「銀(貨)」の合成語に否定を意味する接頭語がついた一つの語で、「非金銭愛」。生活のあり方が全ての点で貪らないように、という事。今持っているもので満足できる理由として、神が面倒を見て下さることを申命記・ヨシュア記からの引用によって示している。
6節 5節後半の引用に表される神の約束に対する人間の側の応答として詩編の言葉があげられている。著者は「私たち」と一人称複数形で語ることで、著者の確信を読者たちと分かち合おうとしている。
7節 ここで「指導者」と訳されている語は「支配する」という意味だけでなく「考慮する」、「導く」という意味も持つ動詞の分詞形。他に支配者と訳される語として「第一の」という語から派生した者があり、上に立つ権威者を示す。この違いを意図して巧者ではなく前者が選ばれて使ってあるとすると、ここで取り上げられている「指導者」は、上に立つ権威者としてよりも会衆の事を考慮し導く指導者として取り上げられている。特に「神の御言葉」を語る事がその第一の働きである。「生活の結末」は必ずしも人生の終わり方(すなわち信仰を堅持して迫害されること)である必要はなく、彼らの行いや生活のあり方から出てくる結末を意味すると考えて良い。指導者は語ることだけでなく、その生き方から生まれてくるものまで吟味される。それによってその教えが正しいかが判断されるから。そのように吟味された指導者の「信仰にならう」ことが勧められている。
8節 「同じです」、あるいは「変わらない」と訳されているが動詞はなく、「イエスキリストは同じ(または「彼自身」)」とだけ書かれている。この節と前節とは直接の関係が無いように見える。変わりうる人間の指導者に対してキリストは変わらない、ということか、倣うべき彼らの信仰というのが「キリストは変わらない」という信仰なのか。7節の理解にもよるが、後者よりも前者の方が適しているように思える。
9節 「教え」は様々だがその全てが正しいのではない。「異なった」あるいは「奇妙な」教えによって惑わされないように警告が与えられている。「心を強くし」は2:3では「確かなものとして...示し」と訳されている。信仰を確信させるのは恵みであって「食物」ではない。食物に関する規定に代表される旧い契約の祭儀が無力であることは9:9、10に説明されている。「(食物に)気を取られた」は「それによって歩んだ」ということ。
10節 「祭壇」が字義通りエルサレム神殿の祭壇を指すか(この場合「私たち」はユダヤ人読者を指す)、キリスト教を比喩的に語っているかは、分からない。しかし、10,11節が12節の説明のために用いられた旧約の例としてあげられているなら、前者が有利。「食べる」が福音による救いを受ける事と解釈し、幕屋で仕える者、すなわち旧い契約(あるいは間違った教え)に生きる者が救いに預かれないと考えるのは、やや行き過ぎ。前節で「食べ物」は救いへの道ではないと述べたことに反する。むしろ、ここで語られていることが、罪祭、とくに大贖罪日の罪祭を指すことを示していると思われる。
11節 「血は...聖所の中まで持っていかれる」ことは12節では取り上げられていないが、キリストの贖いの血が人間の作った聖所ではなく「完全な幕屋」(9:11)においてその役目を果たしたと捉えるなら、ここで血について取り上げていることは無意味ではない。だが、文脈から言えば、ポイントは後半:「宿営の外」。
12節 キリストは「御自分の血によって民を聖なるものとするため」に、罪祭の犠牲がそうであるように宿営の外でその体に苦しみを受けられた。
13節 「それだから」という接続詞によって、キリスト者もキリストの行為に倣うべきであることを示している。もちろん、キリスト者のするのは贖罪ではなく、「宿営の外に出ること」。おそらく、ここでは「宿営」は食物規定に表される旧い契約あるいは祭儀によるユダヤ教の生き方を意味するのだろう。読者にとって旧い生き方から出ていくことは「はずかしめ」をも含んでいただろうが、キリストの受けた辱めと苦難を覚えて、また受けるべき「永遠の都」(14節)を見上げて、宿営の外に出ることを勧めている。
14節 10〜13節では、旧い契約における贖罪の規定が新約の贖罪の型(モデル)となっている用だが、同時に9節でそうであったように食物規定(9節)や宿営(13節)といった旧い契約による祭儀宗教から出ていく事を述べていた。14節では、9、10章などであげられた旧約と新約の対比、及び11章の「永遠の都」といったモチーフを用いながら、キリスト教信仰の重要な主張である、「後に来ようとしている(永遠の)都」を待ち望む、という事を読者(「私たちは」と書くことで)に確認している。地上、すなわちこの世での繁栄が最終的に求められるべきものではなく、新しい契約は永遠の都を待ち望む。「(地上の)永遠(の都)」はむしろ「永続する」と解して地上の都(に表される地的繁栄)がいつまでも続くことを指すと考えられる。天的な意味での「永遠」には違った語が用いられる。14節は「なぜなら」という接続詞が見られるので13節の結びついているが、この接続詞はヘブル語の影響のためか「実に」といった強調を示す事もあり得る。
15節 接続詞「従って」は、それを欠いている写本があり、原本には無かった可能性もある。そうであっても、「彼(を通して)」という代名詞は13節のキリストを指しているので、14節までと結びついているのは確か。「絶えず」は「いかなる事においても」と解する事も可能。「御名を称える」は「彼の名を告白する」という信仰告白を意味し、ここでの賛美の意義が信仰の告白あるいは証と結びついている可能性を持っている。あるいは、そのような信仰告白をした唇が果実として生み出すのが賛美だとも理解できる。
16節 前節が命令形ではなく接続法を用いて「(私たちは)...しよう」という勧誘であったのに比べ、16節は「怠るな」という命令(禁止)。「持ち物を人に分け与える」は「交わり」とも訳し得る。クリスチャンの交わりが分かち合うことを含み、もし貧しい者がいるなら物質的に持ち物を分かつことはキリスト者の交わりにとって不可欠である。これはまた1節の兄弟愛の実践でもあり、神の喜ぶいけにえである。
17節 この節が16節までの段落に含まれるか、18節以降に結びつけられるかは、翻訳によって様々。UBSは17節を独立した段落としている。「の言うこと」は付け足し。指導者たちに聞き従う理由として、彼らが読者の魂のために見張っている(彼らを見張っているのではなく、彼らのために)ことと、彼らが弁明する(「神に」は原文には無いが未来形であることから終末の「最後の審判」における弁明と理解したのかも)働きを持っていることをあげている。読者が彼らの指導者たちに聞き従うことで、彼らの働きが喜びを伴うようにする事は、結局は読者自身の益である。
18節 ここからは個人的な事と考える事もできるが、19節が明確に個人的な以来であるのに対し、18節の内容は全ての指導者に関して言えることであり、17節とまとめて取り扱うことは不合理ではない。「確信し」は前節で「聞き」と訳されているのと同じ語。指導者たちが正しく行動することで「生活の結末(あるいは「実」)」(7節)によって教えが正しいことを示すことができるように祈ることを求めている。
19節 この節は23,24節と同様に本書の背景事情に触れている。「(あなたがたのところに)帰る」とは著者が元々読者の所にいたことを示し、指導者としての役割を本書を通して果たしていることを示す。
20、21節 手紙の結語としての祝祷であるが、本書のテーマの幾つか(新しい契約の血、完全にする、など)に触れることで全体のまとめの役割も果たしている。
22節 「手短に」とは...。
23節 テモテを兄弟と呼んでいることをパウロ著者節の否定根拠とすることは、ローマ書やコロサイ書などで「同労者」あるいは「兄弟」として扱っていることから不可能。(もっとも、アポロ説の方が依然有利だが。)
24節 「指導者たち」と「聖徒たち」は別か。「イタリアからの人々」は著者がこのときローマ以外にいたことと、読者の少なくとも一部がイタリアにいた彼らと知り合いであったことを示唆するだけで、著者及び読者を決定するだけの証拠ではない。
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説教の中心とアウトライン

上の分析からテキストの構造について修正しなければならないことは、14節が15節と結びつくかといくことと、17節の取り扱いです。しかし、どちらも説教のアウトラインには大きな影響を与えないと思われます。

13章は一見、様々な「教え」の寄せ集めのようですが、1〜6節を「信仰の実践としてのクリスチャン生活」、7〜13(14?)節をその信仰を整える正しい教えを妨げる「間違った教えからの決別」、15〜19節をその教えを説く「指導者たちへの服従」と見るならば、そこに何らかのつながりがあると考えられます。そこで、このテキストの中心を「正しい信仰生活を送る」ことと見ることにします。

他の手紙でも神学的な教えの後で倫理的あるいは実践的勧めが述べられています。それは、キリスト教信仰は知識ではなく、行いに結びつく信仰だからです。クリスチャンとして正しい、あるいは神様の御心にかなった生き方はどんな生き方か、それは兄弟愛の実践と聖い生活です。それは神への信頼に基づいています。この生き方が間違ったもので無いように正しい教え、すなわち正しい福音理解が必要です。それは旧い契約への決別であり、例え迫害があろうと新しい約束に含まれる天国を仰ぎ見る信仰です。この福音理解は御言葉に土台していなければならず、そのために御言葉を取り次ぐ指導者たちの役割は重大です。彼らの働きがより良く果たされるためには教会に属するキリスト者の協力と祈りが不可欠です。




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