説教のテキストをどのくらいの長さにするかは、その人のスタイルによって違います。一節、もしくは数節を単位とする人もいるでしょうし、一段落や一章を目安にすることもできます。私の場合は、特に旧約では。比較的長めになることが多いようです。一つのやり方が絶対に正しい、ということではないので、ある程度妥当な根拠があって、それに自分が従っていれば善いと思います。
さて、私の場合ですが、基本的にはdiscourse(日本語では「説話」と訳されているのでしょうか? 全体が一貫性ないし何らかの結びつきを持ったまとまりであり、著者がその全体を通して一つの主張を伝えようとしているもの)が単位となるように考えています。と言っても、ある意味では一つの書物全体が一つのdiscourseでもあります。また、その全体を幾つかのdiscourseに分けることもできます。短い場合は一つの段落程度の長さをdiscourseとすることも可能です。幾つかのdiscourseがまとまって一つ上のレベルのdiscourseを形成していることが多いようです。
書物全体というのは一回の説教で取り扱うには通常のやり方では難しい。また、あまり短い単位で区切りますと、長い書物(イザヤ書など)では数年かかってしまういこともあります。会衆の皆さんにできるだけ様々な箇所から学んで戴きたいと願っていますので、あまり長い期間同じ書物を扱いたくない、と個人的には考えています。そこで、「一回の説教として可能な限りにおいてできる限り大きなまとまり」をテキストの目安としています。
新約の、特に書簡などに比べ、旧約は長めの書物が多いので、旧約では数章を単位とすることが自然と多くなります。その場合、テキストの全てに細かい説明を加えていますと、説教の時間が1時間では収まらなくなってしまいます。したがって実際の説教では、軸となるメッセージに強く係わっている箇所を重点的に扱う事になりますが、他の部分についてもできるだけ調べておくことは言うまでもありません。結果的には準備したことの一部分だけが説教に現れてくることになります。
ではヨシュア記に入ります。
1章の中で、1節から9節は神のヨシュアに対する語りかけとしてひとまとまりですし、10節から恐らく18節もヨシュアからイスラエルの民(実際はリーダーたちと一部の部族だが全体を代表していると見て)に対する語りかけと応答としてまとまっているのは明らかです。ですから、この二つを一つのまとまりと見るべきか、という問題があります。もう一つの問題は2章(以降)を一緒にするか、です。
1章の前半と後半はヨルダン川を渡って約束されたカナンの地を手に入れることについての命令ということで共通したテーマを持っています。ヨルダン渡河とカナン征服はヨシュア記全体のテーマでもあるのですが、この章では神からヨシュア、ヨシュアからイスラエルへの命令として語られている点で、他の部分とは異なる主題となっています。内容的な一貫性と共に、「強く、雄々しくあれ」という言葉が繰り返されることで読んでいる者にこの章がひとまとまりであるという印象を与えます。したがって第一の問題に対しては、1章の前半と後半をまとめる、ということにします。
第二の問題は難しくはありません。2章はエリコへのスパイの事であり、明らかに1章とは別の話です。3章はヨシュアを通しての主から民に対する命令という点では1章と共通性を持ちますが、内容はヨルダン渡渉だけに限られており、カナン征服に関してはほとんど触れていません。言葉の繰り返しに関しても重要なものは見つかりません。「強く、雄々しく」は10:25にも出てきますが、1〜10章をひとまとまりとするのは内容的にも無理があり、説教として扱うには長すぎます。したがって、今回は1章全体をテキストと考えることにします。
今回のテキスト(ヨシュア記1章)の構造は簡単です。1節から9節が主からヨシュアへの言葉、10節、11節がヨシュアから民のリーダーたちへの言葉、12節から15節がヨシュアから2部族半への言葉、そして16節から18節が2部族半からヨシュアへの応答です。あえて問題になるとすると、最後の部分の扱いです。明らかにこれは2部族半(のリーダーたち)の言葉なのですが、ヨシュアから全体のリーダーたちへの言葉に彼らの応答がないため、この最後の部分がその代わりを果たしていると見ることができます。そうすると、次の3,4通りの組み合わせを考えることができます。
まず、第一番目は、4つの部分をそれぞれ独立して捉える分け方です。第二番目は、3つ目と4つ目をひとまとめと見る(神からヨシュアの命令、ヨシュアからリーダーたちへの命令、ヨシュアと2部族半の対話)方法です。第三番目は、4つ目が2部族半と全体のリーダーたちの応答を兼ねていると見る(神からヨシュアへの命令、ヨシュアから民への命令、民からヨシュアへの応答)分け方。最後は、全体を二つに分け、神の言葉、ヨシュアと民のやりとり、と見るやり方です。
どれが一番良いかは、どのような視点で見るかによって変わります。今回は特に、この章がほとんど会話でなりたっていることに注目します。2章からは筋書き(あるいは「出来事」)が主であるのに対し、1章は台詞(発話)がほとんどで、それ以外の部分も「AはBに言った」という台詞の導入句です。3者(または4者)の言葉を見てみますと、最後の台詞を除けば「対話」ではなく一方的な命令に見えます。ヨシュアから人々への命令によってその後の動きが始まると見るときに、神からヨシュアへの命令に対するヨシュアの応答は10節以降全体と考えられます。ヨシュアからリーダーたちへの命令に応答(言葉にしろ行動にしろ)が見られないのは、それをリーダーたちが実行したことが自明であると仮定しているのか、先程書いたように、最後の、2部族半の言葉がリーダーたちの応答を兼ねていると考えているからでしょう。
もう一つ考慮に入れたいことは、この会話によって著者は何をしようとしているかです。1章がヨシュア記の導入であると考えるなら、神からの命令、そして神によって立てられたヨシュアの命令によってこれからの民の歩みがなされることを示しているのかも知れません。あるいは、これらの言葉を通して、著者の言いたいメッセージを伝えようとしているのかもしれません。例えば、「律法を守れ」(7節)の言葉は、後の時代に生きる神の民に対する言葉でもあります。また民(少なくとも2部族半)の服従の言葉(17節)は、ヨシュアに対してだけではなく、この書を読む全ての信仰者が神様に告白すべき誓いの言葉です。祝福の基いとしての神の言葉と、それに従う信仰者の服従とが、ヨシュア記の告げる「神の民のあるべき関係」を示す言葉とすると、この対話は全体の緒論として立派にその役を果たしていると思います。
さて、ここまでは「AがBに語った」という、「ト書き」に従って構造を考えてきましたが、1章の中では筋書き(事件の進展)よりも発話(台詞)が重要であることを考えると、語られている「内容」によって構造を捉えることも不可能ではありません。これは、著者が語って(書いて)いることだけでなく、語る(書く)ことによって訴えようとしているメッセージ性を考慮することでもあります。特に主の語られた言葉(2節から9節)を見てみると次のようなことに触れています。
まず、カナンの地に渡れとの命令(2節)です。その地はモーセに対する約束に基づいて神が与えてくださる、と再度約束しています(3節)。これらの言葉は「あなたがた」(ヨシュアと民)に語られています。第二は、ヨシュアに対して、「民にその地を獲させよ」という命令と、「強くあれ」、「私がともにいる」という約束です。第三に、これもヨシュアに対してですが、「律法を守れ」という命令と「勝利を得る」との約束です。
これらの内容にしたがってその後の会話を見てみます。11節の、ヨシュアからリーダーたちへの言葉は、約束の地を獲るためにヨルダンを渡る準備についてです。13節から15節は、すでに安住の地を獲ている2部族半に、兄弟を助けるために戦う目的で河を渡る、という命令と、その戦いが終わった後で所有の地に帰ることができるという約束です。これらは共に神の第一の命令と約束に基づいた言葉です。それに対し、16節からの服従の誓いは、「神がともにいる」ことと「強くあれ」という、神の第二の命令と関係しているようです。したがって、1章は神の三つの命令と民の服従の誓いが主な内容である、と見ることができます。
最初にテキストの構造が自明なのに、長々と書いてきたのには訳があります。最初の分け方(4つの内どれでも)では、説教のアウトラインを作るときに2番目の区分でポイントを作りにくいのです。その理由は、2番目(10節から12節,もしくは15節)の内容が1節から9節の内容と重なっているからです。したがって、説教のアウトラインのためには、形式的な分け方ではなく、内容によって構造を見ざるを得ないわけです。言い方を変えると、表面的な構造は先にあげたもので良いとしても、説教のアウトラインは主に1節から9節を中心として組み立てることになる訳です。すなわち、神様からの語りかけとして三つの内容を考えます。
第一に、約束のものを得るために前進することです。祝福や成長、そして救いも、神からの約束であるとともに、それを信仰をもって受け取るために進むことを神様は期待しています。第二に、そのために、神様が共にいてくださるのだから、「勇気」を持つこと。第三に、そのようにできるのは、私たちが神様の御言葉に聞き従うこと、そして御言葉に親しむことです。これらの三つのポイントはどれも神様の約束として聞く者にチャレンジを与えています。したがって、それに対する応答として、17節以降の従う決意が、全体のまとめとなります。
16節の言葉によって全体を振り返ってみると、神からの命令は主に二つのことであったことが分かります。一つは「渡って行く」ことで、もう一つは「御言葉を行う」。「強くあれ」は具体的な行動を要求する命令ではなく、従う者のありかたを示す命令であり、励ましでもあります。この二つの命令は二つの約束と結びついています。「渡って行く」のは神様が約束の地を与えてくださるからであり、「御言葉を行う」のは神の祝福があるからです。神様の命令は一方的なものではなく、常に祝福への約束を含んでいます。また、神様の約束は、それを信じる者は必ずその約束に従って歩むようになることから、命令と同じ働きをします。ですから、この二つの命令かつ約束は一つでもあります。
16節以降の応答は、アウトラインには含めません。なぜなら、神からの約束の言葉が語られた時、自発的に応答することが服従だからです。こうして、説教のアウトラインはすでに「テキストの構造と説教のアウトライン」で取り上げた流れに沿うことにします。第一に、約束のものを得るために前進すること。第二に、神様が共にいてくださるのだから、「勇気」を持つこと。第三に、神様の御言葉に聞き従い、親しむこと、です。