ヨシュア記からの説教(その1)

ヨシュア記1章

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テキストの範囲

説教のテキストをどのくらいの長さにするかは、その人のスタイルによって違います。一節、もしくは数節を単位とする人もいるでしょうし、一段落や一章を目安にすることもできます。私の場合は、特に旧約では。比較的長めになることが多いようです。一つのやり方が絶対に正しい、ということではないので、ある程度妥当な根拠があって、それに自分が従っていれば善いと思います。

さて、私の場合ですが、基本的にはdiscourse(日本語では「説話」と訳されているのでしょうか? 全体が一貫性ないし何らかの結びつきを持ったまとまりであり、著者がその全体を通して一つの主張を伝えようとしているもの)が単位となるように考えています。と言っても、ある意味では一つの書物全体が一つのdiscourseでもあります。また、その全体を幾つかのdiscourseに分けることもできます。短い場合は一つの段落程度の長さをdiscourseとすることも可能です。幾つかのdiscourseがまとまって一つ上のレベルのdiscourseを形成していることが多いようです。

書物全体というのは一回の説教で取り扱うには通常のやり方では難しい。また、あまり短い単位で区切りますと、長い書物(イザヤ書など)では数年かかってしまういこともあります。会衆の皆さんにできるだけ様々な箇所から学んで戴きたいと願っていますので、あまり長い期間同じ書物を扱いたくない、と個人的には考えています。そこで、「一回の説教として可能な限りにおいてできる限り大きなまとまり」をテキストの目安としています。

新約の、特に書簡などに比べ、旧約は長めの書物が多いので、旧約では数章を単位とすることが自然と多くなります。その場合、テキストの全てに細かい説明を加えていますと、説教の時間が1時間では収まらなくなってしまいます。したがって実際の説教では、軸となるメッセージに強く係わっている箇所を重点的に扱う事になりますが、他の部分についてもできるだけ調べておくことは言うまでもありません。結果的には準備したことの一部分だけが説教に現れてくることになります。

ではヨシュア記に入ります。

1章の中で、1節から9節は神のヨシュアに対する語りかけとしてひとまとまりですし、10節から恐らく18節もヨシュアからイスラエルの民(実際はリーダーたちと一部の部族だが全体を代表していると見て)に対する語りかけと応答としてまとまっているのは明らかです。ですから、この二つを一つのまとまりと見るべきか、という問題があります。もう一つの問題は2章(以降)を一緒にするか、です。

1章の前半と後半はヨルダン川を渡って約束されたカナンの地を手に入れることについての命令ということで共通したテーマを持っています。ヨルダン渡河とカナン征服はヨシュア記全体のテーマでもあるのですが、この章では神からヨシュア、ヨシュアからイスラエルへの命令として語られている点で、他の部分とは異なる主題となっています。内容的な一貫性と共に、「強く、雄々しくあれ」という言葉が繰り返されることで読んでいる者にこの章がひとまとまりであるという印象を与えます。したがって第一の問題に対しては、1章の前半と後半をまとめる、ということにします。

第二の問題は難しくはありません。2章はエリコへのスパイの事であり、明らかに1章とは別の話です。3章はヨシュアを通しての主から民に対する命令という点では1章と共通性を持ちますが、内容はヨルダン渡渉だけに限られており、カナン征服に関してはほとんど触れていません。言葉の繰り返しに関しても重要なものは見つかりません。「強く、雄々しく」は10:25にも出てきますが、1〜10章をひとまとまりとするのは内容的にも無理があり、説教として扱うには長すぎます。したがって、今回は1章全体をテキストと考えることにします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

今回のテキスト(ヨシュア記1章)の構造は簡単です。1節から9節が主からヨシュアへの言葉、10節、11節がヨシュアから民のリーダーたちへの言葉、12節から15節がヨシュアから2部族半への言葉、そして16節から18節が2部族半からヨシュアへの応答です。あえて問題になるとすると、最後の部分の扱いです。明らかにこれは2部族半(のリーダーたち)の言葉なのですが、ヨシュアから全体のリーダーたちへの言葉に彼らの応答がないため、この最後の部分がその代わりを果たしていると見ることができます。そうすると、次の3,4通りの組み合わせを考えることができます。

まず、第一番目は、4つの部分をそれぞれ独立して捉える分け方です。第二番目は、3つ目と4つ目をひとまとめと見る(神からヨシュアの命令、ヨシュアからリーダーたちへの命令、ヨシュアと2部族半の対話)方法です。第三番目は、4つ目が2部族半と全体のリーダーたちの応答を兼ねていると見る(神からヨシュアへの命令、ヨシュアから民への命令、民からヨシュアへの応答)分け方。最後は、全体を二つに分け、神の言葉、ヨシュアと民のやりとり、と見るやり方です。

どれが一番良いかは、どのような視点で見るかによって変わります。今回は特に、この章がほとんど会話でなりたっていることに注目します。2章からは筋書き(あるいは「出来事」)が主であるのに対し、1章は台詞(発話)がほとんどで、それ以外の部分も「AはBに言った」という台詞の導入句です。3者(または4者)の言葉を見てみますと、最後の台詞を除けば「対話」ではなく一方的な命令に見えます。ヨシュアから人々への命令によってその後の動きが始まると見るときに、神からヨシュアへの命令に対するヨシュアの応答は10節以降全体と考えられます。ヨシュアからリーダーたちへの命令に応答(言葉にしろ行動にしろ)が見られないのは、それをリーダーたちが実行したことが自明であると仮定しているのか、先程書いたように、最後の、2部族半の言葉がリーダーたちの応答を兼ねていると考えているからでしょう。

もう一つ考慮に入れたいことは、この会話によって著者は何をしようとしているかです。1章がヨシュア記の導入であると考えるなら、神からの命令、そして神によって立てられたヨシュアの命令によってこれからの民の歩みがなされることを示しているのかも知れません。あるいは、これらの言葉を通して、著者の言いたいメッセージを伝えようとしているのかもしれません。例えば、「律法を守れ」(7節)の言葉は、後の時代に生きる神の民に対する言葉でもあります。また民(少なくとも2部族半)の服従の言葉(17節)は、ヨシュアに対してだけではなく、この書を読む全ての信仰者が神様に告白すべき誓いの言葉です。祝福の基いとしての神の言葉と、それに従う信仰者の服従とが、ヨシュア記の告げる「神の民のあるべき関係」を示す言葉とすると、この対話は全体の緒論として立派にその役を果たしていると思います。

さて、ここまでは「AがBに語った」という、「ト書き」に従って構造を考えてきましたが、1章の中では筋書き(事件の進展)よりも発話(台詞)が重要であることを考えると、語られている「内容」によって構造を捉えることも不可能ではありません。これは、著者が語って(書いて)いることだけでなく、語る(書く)ことによって訴えようとしているメッセージ性を考慮することでもあります。特に主の語られた言葉(2節から9節)を見てみると次のようなことに触れています。

まず、カナンの地に渡れとの命令(2節)です。その地はモーセに対する約束に基づいて神が与えてくださる、と再度約束しています(3節)。これらの言葉は「あなたがた」(ヨシュアと民)に語られています。第二は、ヨシュアに対して、「民にその地を獲させよ」という命令と、「強くあれ」、「私がともにいる」という約束です。第三に、これもヨシュアに対してですが、「律法を守れ」という命令と「勝利を得る」との約束です。

これらの内容にしたがってその後の会話を見てみます。11節の、ヨシュアからリーダーたちへの言葉は、約束の地を獲るためにヨルダンを渡る準備についてです。13節から15節は、すでに安住の地を獲ている2部族半に、兄弟を助けるために戦う目的で河を渡る、という命令と、その戦いが終わった後で所有の地に帰ることができるという約束です。これらは共に神の第一の命令と約束に基づいた言葉です。それに対し、16節からの服従の誓いは、「神がともにいる」ことと「強くあれ」という、神の第二の命令と関係しているようです。したがって、1章は神の三つの命令と民の服従の誓いが主な内容である、と見ることができます。

最初にテキストの構造が自明なのに、長々と書いてきたのには訳があります。最初の分け方(4つの内どれでも)では、説教のアウトラインを作るときに2番目の区分でポイントを作りにくいのです。その理由は、2番目(10節から12節,もしくは15節)の内容が1節から9節の内容と重なっているからです。したがって、説教のアウトラインのためには、形式的な分け方ではなく、内容によって構造を見ざるを得ないわけです。言い方を変えると、表面的な構造は先にあげたもので良いとしても、説教のアウトラインは主に1節から9節を中心として組み立てることになる訳です。すなわち、神様からの語りかけとして三つの内容を考えます。

第一に、約束のものを得るために前進することです。祝福や成長、そして救いも、神からの約束であるとともに、それを信仰をもって受け取るために進むことを神様は期待しています。第二に、そのために、神様が共にいてくださるのだから、「勇気」を持つこと。第三に、そのようにできるのは、私たちが神様の御言葉に聞き従うこと、そして御言葉に親しむことです。これらの三つのポイントはどれも神様の約束として聞く者にチャレンジを与えています。したがって、それに対する応答として、17節以降の従う決意が、全体のまとめとなります。

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テキストの分析

1節 最初の語はワウ継続の未完了で始まっているが、そのこと自体はヘブル語の書物によくあるパターンなので、それだけでヨシュア記が申命記からの連続であるとは言えない。むしろ、「モーセの死の後」というフレーズが本書の背景が申命記の終わりを前提としていることを示している。モーセが神の僕と呼ばれているのに対し、ヨシュアはモーセの従者(僕とは違う語で、王に仕える政府の高官にも使うことのできる言葉)とされている。ここからヨシュアはモーセを通してではなく直接に語りかけられるようになることで、ヨシュアにリーダーシップが移ったことが分かる。

2節 この節で命令されていることは二つ。一つは「立ち上げれ」で、モーセの死を悼む喪の期間に泣き悲しんでいた状態(申命記34:8)から立ち上がることも含んでいる。それに続く「渡れ」が具体的にイスラエルがこれからすること。「与えようとしている」は分詞形で、主語は「私」が強調形で表されている。カナンの地は人間が奪い取るのではなく、所有者である神が与える。

3節 「あなたがたの」は複数形で、「足の裏」は単数形。個々の人の足ではなく、全体を一つとみている。「与えた」は前節と同じ動詞の完了形。「踏む」は未完了形でこれからの動作を表すのに対し、神が「与える」のは未来ではあるが神の目にはすでに果たされた動作。「約束した」は本来は「語った」。

4節 「領土」は「境界線」とも訳せる。イスラエルの領土の最大限度。「あの(この)レバノン」は語られた地点からレバノン山系が望めたのか。イスラエルの領土については創世記15:18及び申命記1:7、3:25、11:24などを参照。

5節 「あなたの前に立つ」は反対して立つことで、新改訳の「立ちはだかる」は適切。「見放さず」と「見捨てない」は、神が動かないで手を放して(ヨシュアが)落ちるか、神が動いて離れていくか、という違いに注目して用いているよりも、類義語を重ねることで意味を強めているのだろう。

6節 「強くあれ」と「雄々しくあれ」も類義語を重ねて意味を強めている。強くなければならない理由は、「あなたが」この民にこの地を受け継がせるから。

7節 前節と同じ命令形が繰り返されるが、違うのは、「ただ」(強調の意味)と「非常に」(新改訳では削除)が加わっていること。強くあることの目的は戦いに勝つことではなく、「律法を守り行うため」。「守り行え」は命令形ではなく二つの不定詞で、二つの動作を並列させている(守り行うため)か、あるいは従属させている(行うために気をつけるため)か。その結果は「栄える」。「(あなたが)行く」は未完了形で、これから足を踏み入れていく(2節)ことと関連しているかもしれない。

8節 否定詞プラス未完了形で否定の命令、及び、接続詞プラス完了形で命令形と同等の意味で、「口から離すな」と「口ずさめ」。「守り行う」は前節と同じ動詞のペア。「あなたのすること」は字義通りには「あなたの道で」で、「行く」や「踏む」といった動作と関係する。7節では一つだった動詞を二つの類義語にして「繁栄し、栄える」。

9節 否定疑問文「したではないか」は修辞的な質問で、相手に肯定の答えを求めている。二度繰り返された命令「強くあれ、雄々しくあれ」に加えて、二つの否定命令「恐れるな、おののくな」が加えられる。「恐れる」は「(神を)畏れる」とは違う動詞。怖れない理由として、主が共におられることを5節に続いて述べており、ここでは「あなたの神」という句が加わって個人的にもヨシュアの神となってくださることを告げている。

10節 前節では神がヨシュアに「命じた」が、今度はヨシュアがリーダーたちに命じる。「つかさたち」は、ここではどのような人たちであるかは言及されておらず、一般的に指導的立場にいたものだろう。民数記11:16や申命記1:15なのではこの言葉が他の用語と共に現れている。

11節 今度はさらにリーダーたちが民に「命じる」。神から命令が出て民全体に及んでいく。具体的にはまず、出発の準備をするようにとの命令。すでに言及された「渡る」(2節)に加え、本書では初めて「占領する(あるいは、所有する、受け継ぐ)」という具体的目的が明らかにされる。

12節 二部族半については民数記32章。この節には本動詞が欠けているが、10節と同じと理解できる。

13節 「思い出しなさい」は命令形ではなく不定詞だが同等の意味。「この地」は、ヨルダン川を東から西に越える前の、すなわち東側の地。

14節 ここではモーセが彼らに与えたと書かれている。「ヨルダンのこちら側の地」は、字義通りには「ヨルダンの向こう側」。これはこの部分がヨルダン河の西側で書かれたというのではなく、この地域が「ヨルダンの向こう側」という名称で呼ばれていたことを示すと思われる(例えば「川越」は江戸から見て川の向こう側を意味したのだろうが、そこの地名にもなっている)。したがって、文字どおりにヨルダン河を挟んで現在地の反対側を指す場合にも、現在地に関わらずヨルダンの東側を指す場合にも同じ言葉が使われることになる。「編隊を組んで」は「武装する」とか「戦闘隊形にある」という意味の動詞の分詞形。4:12にも出てくる。

15節 「ヨルダンの向こう側」の位置を「日の昇る」すなわち東側という説明で示している。すなわち、東側の「ヨルダンの向こう側」。

16節 「答える」は質問への答えではなく、命令に対する応答。命令されることは全て行うという絶対服従を誓う。

17節 彼らが実際にモーセに全く聞きしたがったかどうかは疑問だが、少なくともここではヨシュアに従うことを宣言する。「(神があなたと共に)いる」は「いますように」という希求とも、「いるならば」という仮定条件とも解釈し得る。

18節 「逆らい」は民数記20:10を思い出させる。「殺される」は彼らが自分たちでそのようにするという意味だろうか。過激な言葉だが、ヨシュアに100パーセント味方することを告げており、そのような見方がいるのだから「強くあれ」と励ましている。
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説教の中心とアウトライン

16節の言葉によって全体を振り返ってみると、神からの命令は主に二つのことであったことが分かります。一つは「渡って行く」ことで、もう一つは「御言葉を行う」。「強くあれ」は具体的な行動を要求する命令ではなく、従う者のありかたを示す命令であり、励ましでもあります。この二つの命令は二つの約束と結びついています。「渡って行く」のは神様が約束の地を与えてくださるからであり、「御言葉を行う」のは神の祝福があるからです。神様の命令は一方的なものではなく、常に祝福への約束を含んでいます。また、神様の約束は、それを信じる者は必ずその約束に従って歩むようになることから、命令と同じ働きをします。ですから、この二つの命令かつ約束は一つでもあります。

16節以降の応答は、アウトラインには含めません。なぜなら、神からの約束の言葉が語られた時、自発的に応答することが服従だからです。こうして、説教のアウトラインはすでに「テキストの構造と説教のアウトライン」で取り上げた流れに沿うことにします。第一に、約束のものを得るために前進すること。第二に、神様が共にいてくださるのだから、「勇気」を持つこと。第三に、神様の御言葉に聞き従い、親しむこと、です。




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