2章が一つのユニットであることは明らかです。取り扱っている内容はエリコに斥候(スパイ)を送ったことです。問題は、それが3章以降とどのように関係しているか、です。もし、関係があまりないようなら2章は独立したテキストとして扱うのが妥当です。しかし、関わりが強いようなら大きなテキストの一部として扱うことになります。もちろん、ある意味ではヨシュア記全体が一つのテキストであり、カナンの地取得というテーマで貫かれていますから、各部分が全く無関係であることはありません。かと言って、あまり広い範囲は一回の説教で扱うのが困難です。したがって、3章以降との関係がどの程度のものであり、テキストと考えられるまとまりが大きすぎないか、という2面を考えなければなりません。
2章と3章は恐らく違うユニットと考えられます。理由は二つ。取り扱っている内容の違い。2章はエリコ及び斥候とラハブのやりとりが主題であり、3章ではエリコについては一言も触れず、ヨルダンを渡ることに終始しています。もう一つは、シティムからヨルダン河岸への場所の移動です。旧約の「物語」(作り話という意味ではなく、歴史的文書も含む散文型式の文章)部分では場所や登場人物が変わることも新しいユニットに入ったことを示す場合があります。ですから、2章と3章を分けることは難しくありません。
ところが、2章はむしろ6章と強く結びついています。6章にはエリコ、ラハブ、斥候が再登場し、2章での約束が6章で果たされています。ですから、3章から5章を覆うかたちでエリコ攻略が語られています。このような場合、考えられる取り扱い方が3つあります。
第一は、2章から6章(あるいはそれ以降も含むかもしれない)をひとまとまりと見ること。その場合、2章から5章は間に挿入された話題として考えます。実際、ヨルダン渡渉(3、4渉)も割礼(5章)もエリコ攻略の準備と考えることは十分可能です。しかし、長すぎる。内容も豊富です。一回で終わるにはもったいない多くのテーマがあります。
第二は、2章と6章をひとつのテキストとし、3章から5章は別に扱うやり方です。この方法の問題は、ヨシュア記でわざわざ分けて書かれているものを一つにするのは、書かれた意図を無視することになる可能性があることです。事件としては一続きでも、それを二つに分けて報告するのはそれなりの意味があってのことです。聖書を「書き換える」ことはできるだけ避ける方が良いでしょう。
第三は、2章を一つのテキストとすることです。それ以降の部分の分け方はまた次回に扱いますが、今のところ、3、4章、5章、6章という三つに分けられると思います。この場合の問題は3章から6章にかけての構造(入れ子になっている)が分からなくなることです。しかし、他のテキストとの関係について語ることはどこかでできますから、この欠点はある程度補えるでしょう。
以上の事より、今回の範囲は2章全体とします。と、結論づける前に、もう一つ。2章をいくつかに分ける必要がないかどうか、です。結論としては2章は一つのまとまりとなるように書かれている、ということです。
2章は、ヨシュアの下から斥候が遣わされ(1節前半)、ヨシュアのもとに帰ってくる(23節)かたちで終わっています。また、斥候たちはラハブの家に入り(1節後半)、ラハブの家から送り出されている(21節)。これらのことに挟まれているのは、ラハブとエリコの王(エリコの町を代表していることが重要なので、名前は告げられていない)の使者とのやりとりと、ラハブと斥候たちとのやりとりです。これらはどれか一つだけでは意味をなしません。したがって、この章はひとまとまりとして扱う方が良いようです。ただ、中心となるのはラハブと斥候との対話です。しかし、そのことはまた後で考えることにします。
さて、2章の構造ですが、話の筋を見ていけばそれほど難しくはありません。
まず1節は、章全体の導入として、状況を設定しています。ここに二人の斥候、エリコの町、ラハブ、という「役者」が全部紹介されます。2節から6節は、エリコの町の代表である王の使いとラハブとのやり取りです。スパイを連れ出せ、との命令に対し、ラハブは嘘で答えます。6節は4、5節のラハブの言葉が嘘であることを示し、7節はその嘘に躍らされて、エリコの町の人々が行動しています。
8節から14節はラハブと斥候たちとの第一回目のやりとり。しかし、ラハブの言葉がほとんどを占めています。ラハブの信仰告白と命乞いに彼らは誓いを立てます。
15節で一旦「窓からつりおろす」という動作を挟んだあとで、16節から21節は再びラハブとスパイたちのやりとりです。誓いの詳しいこと(免除条件)についてと指示が与えられ、ラハブは「お言葉通りにいたしましょう」と答えます。
22節から24節は2章のまとめです。ここで、「見つかるかもしれない」という問題が無事に解決し、また、斥候たちの報告によって「主がすでにエリコを渡された」という6章(2節)につながっています。
問題は、このストーリーがどんな意味を持っているか、です。それを考えながら構造を理解しないと、ただ事件を追って説明するだけになってしまいます。(何回も言いますが、「ストーリー」とか「話の展開」という言い方をしていても、決して聖書が作り話だとか、歴史的事実ではない、と言っているのではありません。歴史的事件としては、もっと他にも様々な事が起こったはずですが、聖書記者は読者に伝えたいことだけを書いてますので、文章の背後にある事件だけを見るのは著者の意図に反します。このような語りかたをすることで何を伝えようとしているか、を探りたいと思うので、わざと事件の流れを客観的に見つめるために「ストーリー」として意識しているのです。ここいら辺の詳しいことは方法論を取り扱ったページを参照して下さい。)
著者が文章を通して読者に訴える方法にはいくつかのものがあります。このような物語形式の文章では、登場人物(神様の場合も人間の場合も含めます)の言葉を使って著者の考えを表すことがあります。また、日常の経験とは違う展開を通して、背後におられる神様の摂理(あるいは著者の世界観)を示すのも一つのやりかたです。今回は、登場人物のせりふに注目してみます。(続く)
第一部分である1節から7節の中で、1節、2節、3節のせりふは短いだけでなく、話の展開のために必要な言葉です。ヨシュアの言葉はスパイを送る目的を示し、2章全体のストーリーの方向を決めます。すなわち、エリコの町の偵察です。2節のせりふは匿名であることからそれほど重要ではないことが伺えます。また、斥候たちが見つかるかもしれないという危険性(サスペンスというほうが現代的)を生み出し、読む物に緊張感を与えて、注意を引き付けます。3節の王の言葉は「当たり前」の反応です。
問題は4節からのラハブの言葉。スパイを匿って嘘を付くことで話の流れを変えています。引っかかるのは、彼女が嘘を付いている、ということです。この書物が「嘘をつくのは悪いこと」を教えるために書かれたのではないことは分かっています。しかし、自分の一族の命を救うためなら方法は問わない、ということはどうでしょう。イスラエルの側から見れば、神の民を助けるためにつく嘘は許されるのか。つきつめて考えれば、聖戦思想とつながるものがあります。同じ事はヨシュアにも言え、スパイという相手を欺く方法は良いのか。敵を知るというのは古今東西を問わず、戦いの基本だと言って正当化することもできます。しかし、これが本当に神様の御心なのか、が問題です。こういった倫理的問題に対してこの第一部分はどのように書かれているかを、後で細かく見てみる必要がありそうです。
第二部分(8−14節)はほとんどがラハブの言葉です。彼女のせりふは「助けてあげたのだから、私たちを助けて」という彼女の目的から言えば12節、13節だけで良いはずです。しかし、実際には9節から11節でラハブは神学的に重要なことを告げています。著者が彼女のせりふを重要視していたことが伺え、ここにこの長いせりふを含めた理由があります。
彼女の語ったことは、第一に、「主がこの地を(イスラエルに)与えたこと」、すなわちイスラエルの神の主権性の告白です。
第二は、出エジプトとそれに続く奇跡的な出来事がカナンの住民に伝わっており、彼らがイスラエルの神を怖れていること。宗教的にはカナンの諸宗教はイスラエルの神の前に無力であることが理解されています。
注目すべきはイスラエルがシオンとオグにしたことをラハブが「聖絶」という用語で語っていること。実際にラハブがこの言葉を語ったかは別としても、イスラエルのカナンに対する戦いがどのような意味を持っているかを知る上で鍵となる用語を著者はここで使っています。聖絶の考えはすでに民数記などでも出てきましたが、ヨシュア記ではここが初めてで、詳しくは3章以下、特に6章と7章でこの思想が展開されて行きます。
第三は、主が「上は天、下は地において神」であることを彼女が告白しています。これは、イスラエルの神が全世界の神であることを異邦人であるラハブの口を通して示しているものです。これらの神学的命題を教えることも著者の意図として考えられますが、むしろここで語られた神学がヨシュア記にとって土台となる神学として提示されていることが大切です。また、異邦人であり、遊女であるラハブがこのような信仰を告白していることの重要性は、ヨシュア記だけでなく、聖書全体、特にイエス・キリストの系図(マタイ1章)との関連で、忘れてはならないことです。
第三部分(15節から21節)はストーリーにとって大切な16節、21節のラハブの言葉を除けば、斥候たちの誓いに関するせりふです。これは神学的な内容は余り見られず、ラハブとの約束を詳細に定めているものです。もしかすると、「家の中にいる者たちが滅びを免れる」ことや「目印としての赤いひも」といったことが、出エジプトの時の過越を思いおこさせているかもしれませんが、あまり確かな議論ではありません。ここでなされた誓いが6章終わりで果たされるまでは、この部分は未完結です。
最後の部分、22節から24節は2章のエピソードの帰結です。そのなかで、斥候たちのせりふ(24節)は、カナンの地がすでにイスラエルの手に渡されている、というヨシュア記の主題の一つ(1:3)を示すものです。
このような内容を見ていきますと、説教のアウトラインが浮かんできます。第一は、人間の考えに基づく行動は間違いを含みうること。ヨシュアの「嘘」(スパイを送ること)もラハブの嘘も決して手放しで賛成できるものではありません。それは御言葉意外には絶対的な正しさはありえないからです。第二は、そのなかでの信仰を告白することの重要性です。神を正しく理解し、この方に救いを求める信仰は、実に新約にも通じるものです。第三は、人間から見た結果と神の視点から見た結果です。人間的にはラハブ一族は救われ、ヨシュアは力づけられますが、やがて、イスラエル自身が策略によって欺かれます。しかし、神はラハブの信仰に対して、彼女が願った以上の祝福を与えて下さり、ヨシュアに対しても彼が犯したかもしれない失敗にも関わらず、さらに優る保証を用意しておられる(3章のお楽しみ)。最後の部分が2章のテキストからどれくらい支持されるかが疑問ですが、細かい点を検討した後で、修正したいと思います。
問題となるのは、17節からのスパイたちの言葉です。これは、ただ単にラハブが救われるための条件をしめしただけなのか(ラハブが「お言葉どおりにいたしましょう」と答えている)、それとも彼らの言葉を用いて著者が何かを訴えようとしているのか、です。「赤い紐」=「かもいに塗られた過越の血」=「キリストの十字架の血による救い」という図式が以前は用いられたこともあったようです。しかし、「赤い」だけで、「血」あるいは「十字架」と結びつけるのは行き過ぎです。ここを条件付きの救いと考えるのもおかしい。彼らがあげた三つの条件は、どれも妥当なもので、ストーリーには不可欠ですから、「特別なこと」は語られていません。では何故、このような長い台詞が語られたのでしょう。
2章を読むだけでは、どうも解決しません。そのような時は、もう少し広い視点見る事も有益です。ラハブに関することは2章だけで完結しません。むしろ、6章の終わりまでのエリコ攻略の一環として捉えるべきです。ラハブに関する言及は、6:17と22節から25節に出てきます。その中で、面白いのは6:23。そこにはもう一度「ラハブと彼女の父、彼女の母、彼女の兄弟たち」という言い回しが出てきて2:18節を思い起こさせます。もしかすると、スパイたちの長い台詞、その中でもくどいような(2:12に同様の言葉が繰り返されているから)この言い回しは、後でラハブ一家の運命(ちょっとキリスト教用語ではないけど、一番しっくりする)を述べる伏線となっているのかもしれません。
ではラハブ一家はどうなったのでしょう。6:23では彼女たちは救い出され、誓いが果たされたことが出てきます。そのとき、宗教的理由(聖絶に関して)か彼女たちが異邦人であることから、一家はイスラエルの宿営の外に留め置かれます。ところが、25節では、彼女たちはやがてイスラエルの中に住むようになります。その後の彼女に関しては旧約聖書は沈黙しています。(詩編87:4などに出てくる「ラハブ」は発音が少し違う言葉です。)
新約では彼女の名は3回出てきます。最初はマタイ1:5。彼女はサルモンという人物の結婚し、子供を設けたことが出てきます。「イスラエルの中に住んだ」ということの具体的意味が実はここで明らかにされています。在留の異邦人として肩身の狭い思いで留め置かれるのではなく、婚姻によりイスラエルの一部として受け入れられています。そして、その彼女の子孫からダビデ王朝が生まれ、さらにキリストが誕生します。ヘブル11:31では他の旧約の聖徒たちと並べられてその信仰を賞賛され、またヤコブ2:25では神に義と認められた例としてアブラハムと並べられています。何という破格の取り扱いでしょうか。
聖書全体という広い話から、再びヨシュア記2章に戻ります。24節のスパイたちの報告はラハブの言葉をそのまま使っています。彼らを使わしたヨシュアの意図はエリコの様子を探り戦いを有利にする事でしたが、結果として彼が得たのは、ラハブの言葉による励ましです。すでに神様ご自信から「強くあれ」と励まされているにも係わらず、ヨシュアは人間的な方法で戦いを勧めようとしました。それにも係わらず、神様は異邦人ラハブの口を用いてヨシュアを再び勇気づけています。
2章だけではラハブの行く末は論じることができませんが、2章をその一部としているエリコ攻略(2章から6章)全体から考えるなら、著者の意図が見えてくるように思います。さらに新旧約聖書全体を見ることで、この話を通して神様が語ろうとしておられる意図にまで目を向けることができるのです。
以上より、今回は特に異邦人である遊女ラハブという、いわば突然に現れた「脇役」が果たす大きな働きを軸に見ていきます。まず、第一にラハブの嘘。ヨシュアとともに彼女のとった行為はいろいろな良いわけにも係わらず人間の罪性を現します。第二はラハブの信仰。彼女に与えられた限られた情報から彼女は最大限の信仰を告白します。この信仰こそ、ヨシュア記を理解する土台であり、著者が強調したいことです。第三は、もしかするとヨシュア記の著者の思惑をも越えて、ラハブに対する神様の取り扱いに関して。「異邦人」「遊女」「女性」というどれ一つをとってもイスラエルの中では隅に追いやられそうな存在である彼女を、その信仰の故に神様は最高の栄誉をもって受け入れます。この神様の恵みこそ、私たちの救いの土台です。救われるべき血統があるからでも、聖い心と罪のない行いがあるからでもなく、不十分かもしれないがただ信仰によって、神様は最高の救いを与えて下さった。これが「信仰による救い」の恵みです。