「テキスト」というのは説教箇所とも言いますが、とても重要なものです。自分の語りたいことが先にあって、聖書箇所をそれに併せて選ぶ、というのも一つのやり方ですが、その場合、神の言葉である聖書を自分の目的のために利用する可能性があります。もちろん、そうならないために説教者は祈りの内に神様からの指示を仰ぐのですが。もう一つの方法は、先にテキストがあって、そこから語るべきことをくみ取ることです。この場合、一見、御言葉が主導権を握っているようですが、どのテキストを選ぶか、またどのようにそのテキストを解釈するか、と言う点で、説教者の主観が入り込む可能性があります。ですから、できるだけ「聖書自身が指し示している範囲」を元に説教箇所を決める必要があります。それが「テキストの範囲」を決める目的です。どんなに注意深く行っても、なお間違いがありうるのは避けられません。ですから、(ここには表れなくても)祈りつつ準備するのは言わずもがなです。
さて、「聖書自身が指し示す範囲」と言っても、別に聖書が声を出すわけではありません。そこで何らかの目安が必要です。良く知られているように、聖書の章や節の区切りは後代に付け加えられたもので、時にはわずかですが明らかな間違いもあります。また、例えば新共同訳のように副題を挿入している聖書(翻訳)もありますが、明らかに編集した人たちの解釈が表れています。そういったものもある程度の目安にはなりますが、やはり書かれている内容を元に範囲を決める必要があります。
最近の聖書学の中で、そのような「書かれていること」により注目する解釈法が増えてきました。その一つに、このヨシュア記に適応できそうなものとして、「物語批評」などと呼ばれているものがあります。「物語」と言っても作り話という意味ではなく、物語の形式で書かれている文章、ということで、例えばヨシュア記のような歴史的事件を取り扱ったものも含まれます。もちろん、中には聖書が神の言葉であるとは信じていない学者も少なくなく、その人たちはあくまで作り話として捉えていますので、気をつけてその意見を受け止める必要があります。
こういった新しい方法によると、テキストが一つのまとまったものであることは、いくつかの目印によって判断することができる、とされています。例えば、場所の移動、登場人物の変化、時間を示す言葉、などいろいろとあります。また、キーワードの繰り返しなども目安となります。私の説教準備でも、そのような方法もある程度取り入れながら進めています。あまり、決まった手順に寄りかかって、神様の御心を尋ね求める祈り心を忘れてはいけませんが。
長々と、理屈をこねましたが、今回のテキストは結構簡単です。大体、物語形式の文書では、起こっている出来事によってかなり範囲が確定しますから、読むだけである程度の予想ができます。今回は「ヨルダン川を渡る」という事件です。主に3章がヨルダン渡渉を扱っていますが、それと深く結びついてる4章も大切です。4章は主に記念としての12個の石に関してです。この行為は、ヨルダンを渡ることを記念するだけでなく、その意味を示す(4:24)ものでもあります。また、ヨルダンの水が止まった(3:13,16)ことと再び流れ出す(4:18)ことが鎹(かすがい)のように二つの章をつないでいます。4:20〜24がエピローグ、あるいは全体のまとめであると考えると、3:1と4:19の、ちょうど川の両岸での宿営の記述は、このテキスト全体を挟み込むようにしてひとまとまりとしています。
こういった「目印」に対し、2章と3章は明らかに違う出来事を扱っています。5章の出来事(割礼)はヨルダン渡渉と無関係ではありませんが、5:1にカナンの王たちの反応を入れることで、5章と4章を区切っているようです。また、この割礼は、出エジプトから荒野の放浪の歴史に区切りをつけるためであり、その意味ではヨルダン渡渉と同様の機能を果たしていますが、同時に、新しい時代(カナン征服)の始まりを告げる点で3,4章より6章以降に関わりが強いようです。
このようなことから、今回のテキストは3章及び4章と決めます。あとで、細かく考え直すかもしれませんが。
まず3,4章を出来事に沿って区分してみます。もちろん中心となるのはヨルダン渡渉です。まず、1節から5節は渡る前の準備について。3日前から前日の出来事です。二番目は、6節から13節で、主に神様の言葉とヨシュアが神様からの言葉として民に伝えた言葉から成り立っている。川を渡る直前までのことで、ヨルダン渡渉の意味が示されている。14節からいよいよ川を渡る記事。川の水が堰き止められるという奇跡と民が渡る様子が描かれている。人々が渡り終わって川の水が元に戻る前に、4章1節からの出来事が組み込まれている。この事件の記念としての12個の石が据えられる。9節までである。10節から、渡渉の要約(13節まで)と川の水が戻る(15節から18節)の間にヨシュア記の作者のコメントが置かれている(14節)。19節は宿営地が移った事で、この事件が締めくくられている。そして20節以降では12個の石が記念するこの事件の意味を、6、7節を補う意味でヨシュアによって述べられている。
こうして見てみると、Aがあった、Bがおきた、Cだった、というように別々の事件が続く形ではなく、ヨルダン渡渉という事件を軸として、記念の石が組み込まれ、この事件の意味を台詞(神の言葉とヨシュアの言葉)によって各所に散りばめてあるようである。したがって、全体の構造も、複雑に絡み合った形となっている。
もう一つ大切なのは、事件の経過よりも、その意義が何より重要な事として繰り返し語られている、ということ。4:14に仄めかされている著者の存在は、この3,4章が単なる「記録」なのではなく、この記述を通して著者がメッセージを訴えようとしていることを意識させる。そのことから、表面上の「事件の流れ」から、著者のメッセージとしての「主張の流れ」に目を向ける必要がでてくる。
第一の「主張」は、ヨシュアによって(3,4節はつかさたちがヨシュアの命で民に語っていると思われる)語られた事。3節は主の契約の箱が先頭となって進むことを述べている。4節は、しかしながら民は神の箱から離れなければならない、ということ。「近づいてはならない」とは神の聖さを示す言葉。5節は民にたいして聖さ(浄さ)が求められる。それは、聖なる神が民の中で不思議を行うから。6節は、再び契約の箱が先頭となることが語られる。この2種類の言葉は、ヨルダン渡渉が神聖な出来事であることを示している。
第二の主張は、神ご自身の言葉として語られていること。10節以下はヨシュアの言葉であるが、9節の言葉から、それは神から告げられた言葉とされている。7節は神がヨシュアを大いなる者とすること、すなわち、ヨシュアがイスラエルのリーダーであることを神が示される、ということである。10節はこの奇跡がカナンの7種族の追放の保証として与えられるものであることを示している。そして、その奇跡の内容があらかじめ13節で告げられることで、ヨシュアが神の言葉を継げていることを民に分からせている。この2種類の言葉は、ヨルダン渡渉がこれから始まるカナン取得の第一歩であり、神が先導しておられることを示している。その意味で、先の、第一の主張と重なっているかもしれない。なお、12節は、後述の12個の記念の石の準備となっている(4:4)。
第三の主張は、台詞としては短く、4章の5節から7節のみ。それはヨルダン渡渉のしるし(6節)、あるいは記念(7節)としての12の石に関して。また、子孫に語り伝えるべきことも告げている。12の石の据えることについては8節と9節に書かれている。これが別々の出来事か(口語訳、新共同訳)、一つの事を繰り返し述べているか(新改訳)は、後で検討するが、「今日までそこにある」という言葉は、この書が書かれた時代がヨシュアの時代よりもある程度後であることを示唆し、それは同時に、ヨシュア世代の民の子供たちだけでなく、著者の時代の民の子孫にまで、この事件の意味を伝える役目を果たしていることを示している。したがって、二重の意味で、「後の世代に伝えるべき神の働き」ということを語っていると考えられる。
第四の主張は第三と重なっている。6,7節で語られたことをさらに詳しく述べ、記念として伝えるべき事件の意義を明らかにしている。23節はこの事件が出エジプトの紅海渡渉と並ぶ事件であることを述べている。すなわち、イスラエルの民の救いの関わることである。24節は、この奇跡の目的は、神の栄光が現されることを示している。この奇跡により地の全ての者とイスラエル自身が、神を知り、神を恐れるためである。子孫に語り伝えるのは、単に過去のお話ではなく、イスラエルが民族として神によって救われた存在であるという意識を共有させ、またイスラエル自身とさらに全世界が神の栄光を知るためである。
以上から、説教のアウトラインとして次のようなものが浮かんでくる。第一は、神様の御業がなされるのは、聖なる神ご自身が現される事を意味している、ということ。第二は、私たちはその神の救いの御業を語り伝えるようにされていること。何だか、とても単純なアウトラインだが、著者自身のメッセージを重なることで、テキストの伝えようとしている意図を再現できればそれが一番良い、と思う。
さて、長くなってしまいましたが、4:9についてもう少しだけ触れます。
8節と似たような事が9節に繰り返されているので、いくつかの訳では、後代の編集者による回想的挿入と捉え、カッコつきで書いてあるようです(例えば、新改訳)。しかし、原文ではカッコはありません。もっと問題になるのは、書かれている通りに読むと、実は同じ事の繰り返しではない、ということです。
口語訳や新共同訳のように、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、川底にも12の石を立てた、と読むことができます。これにはいくつかの反対理由が挙げられています。
まず、川の中に石を立てたのでは、川の水が増したときに見えなくなり、記念としての意味がなくなることです。また、川の流れによって石が流され、すぐに無くなってしまうかもしれません。そのような理由で、この記述は合理的でないため、書き間違いであると考えられるようです。他にも、これが神様の命令には無いこともあげられるかも知れません。神様の命令は明らかに「川底から石を取り上げ、岸辺に据える」ことです。したがって、ヨシュアのやり過ぎか、あるいは行うはずがないか、ということになります。
しかし、置く場所によっては十分石が見えるように出来たかもしれませんし、大きな石であればある程度の年月はその場に留まることも不可能ではありません。また、ヨシュアが自分で判断して行う可能性も無いとは言えません。ですから、「合理的」理由でこの第二の可能性を消すことはできません。
もちろん、ヘブル語によくある表現で、「ヨシュアは据えた」という句を挟む形で、十二の石、すなわちヨルダンの川の中にあった...」と理解することも可能ですので、原文をそのまま受け入れるとしても、二つの可能性が依然として残ります。したがって、ここではどちらかに断定はせずにおくことにします。
ところで、もし、口語訳のように、二箇所に石塚が立てられたとすると、興味深い意義が浮かび上がってきます。確かに川岸の石塚はヨルダン渡渉の奇跡を証しするものですが、川が再び流れ出した後では、信じない人にとってはそれも作り物であり、何の証拠にもならない、と思われるかもしれません。したがって、川の流れの真ん中に立てられた石塚のほうが、奇跡を思い起こさせる点で、証拠としての価値が高いかも知れません。
実は、神学的には、もっと面白い。かの十二の石がイスラエル十二部族を象徴するのであるなら、岸辺の石塚はイスラエルが水を通って救われたことの象徴です。そして川中の石塚は、「本当だったら川の流れの中で滅ぼされていたかも知れない」ことを示すものです。クリスチャンにとって救いの象徴の一つが十字架です。十字架は私たちが救われたことを示す証拠であると同時に、本当は私たち自身がそこにつけられ罪の罰を受けなければならなかったはずなのに、キリストが身代わりとなって死んで下さったことをも指し示しています。この後半を突き詰めて行くならば、パウロが告白しているように、「わたしはキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられる」という信仰にまで及ぶのです。滅び(川の流れ)から救われただけでなく、身代わりにより新しい命に生きていることを実感するためには、十字架のもつ二面性に目を向けることは大切です。
ここいらへんの理解は神学的立場によって違うことは否めません。しかし、救いというのは、深いものです。まだまだ恵みが隠されている、そんな気がします。
二つの可能性のどちらが正しいかを今の時点では断定できませんので、この部分は、説教の中では取り扱わないかもしれません。でも、考えてみる価値のあることだと思います。