ヨシュア記からの説教(その3)

ヨシュア記3、4章

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テキストの範囲

「テキスト」というのは説教箇所とも言いますが、とても重要なものです。自分の語りたいことが先にあって、聖書箇所をそれに併せて選ぶ、というのも一つのやり方ですが、その場合、神の言葉である聖書を自分の目的のために利用する可能性があります。もちろん、そうならないために説教者は祈りの内に神様からの指示を仰ぐのですが。もう一つの方法は、先にテキストがあって、そこから語るべきことをくみ取ることです。この場合、一見、御言葉が主導権を握っているようですが、どのテキストを選ぶか、またどのようにそのテキストを解釈するか、と言う点で、説教者の主観が入り込む可能性があります。ですから、できるだけ「聖書自身が指し示している範囲」を元に説教箇所を決める必要があります。それが「テキストの範囲」を決める目的です。どんなに注意深く行っても、なお間違いがありうるのは避けられません。ですから、(ここには表れなくても)祈りつつ準備するのは言わずもがなです。

さて、「聖書自身が指し示す範囲」と言っても、別に聖書が声を出すわけではありません。そこで何らかの目安が必要です。良く知られているように、聖書の章や節の区切りは後代に付け加えられたもので、時にはわずかですが明らかな間違いもあります。また、例えば新共同訳のように副題を挿入している聖書(翻訳)もありますが、明らかに編集した人たちの解釈が表れています。そういったものもある程度の目安にはなりますが、やはり書かれている内容を元に範囲を決める必要があります。

最近の聖書学の中で、そのような「書かれていること」により注目する解釈法が増えてきました。その一つに、このヨシュア記に適応できそうなものとして、「物語批評」などと呼ばれているものがあります。「物語」と言っても作り話という意味ではなく、物語の形式で書かれている文章、ということで、例えばヨシュア記のような歴史的事件を取り扱ったものも含まれます。もちろん、中には聖書が神の言葉であるとは信じていない学者も少なくなく、その人たちはあくまで作り話として捉えていますので、気をつけてその意見を受け止める必要があります。

こういった新しい方法によると、テキストが一つのまとまったものであることは、いくつかの目印によって判断することができる、とされています。例えば、場所の移動、登場人物の変化、時間を示す言葉、などいろいろとあります。また、キーワードの繰り返しなども目安となります。私の説教準備でも、そのような方法もある程度取り入れながら進めています。あまり、決まった手順に寄りかかって、神様の御心を尋ね求める祈り心を忘れてはいけませんが。

長々と、理屈をこねましたが、今回のテキストは結構簡単です。大体、物語形式の文書では、起こっている出来事によってかなり範囲が確定しますから、読むだけである程度の予想ができます。今回は「ヨルダン川を渡る」という事件です。主に3章がヨルダン渡渉を扱っていますが、それと深く結びついてる4章も大切です。4章は主に記念としての12個の石に関してです。この行為は、ヨルダンを渡ることを記念するだけでなく、その意味を示す(4:24)ものでもあります。また、ヨルダンの水が止まった(3:13,16)ことと再び流れ出す(4:18)ことが鎹(かすがい)のように二つの章をつないでいます。4:20〜24がエピローグ、あるいは全体のまとめであると考えると、3:1と4:19の、ちょうど川の両岸での宿営の記述は、このテキスト全体を挟み込むようにしてひとまとまりとしています。

こういった「目印」に対し、2章と3章は明らかに違う出来事を扱っています。5章の出来事(割礼)はヨルダン渡渉と無関係ではありませんが、5:1にカナンの王たちの反応を入れることで、5章と4章を区切っているようです。また、この割礼は、出エジプトから荒野の放浪の歴史に区切りをつけるためであり、その意味ではヨルダン渡渉と同様の機能を果たしていますが、同時に、新しい時代(カナン征服)の始まりを告げる点で3,4章より6章以降に関わりが強いようです。

このようなことから、今回のテキストは3章及び4章と決めます。あとで、細かく考え直すかもしれませんが。

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テキストの構造と説教のアウトライン

まず3,4章を出来事に沿って区分してみます。もちろん中心となるのはヨルダン渡渉です。まず、1節から5節は渡る前の準備について。3日前から前日の出来事です。二番目は、6節から13節で、主に神様の言葉とヨシュアが神様からの言葉として民に伝えた言葉から成り立っている。川を渡る直前までのことで、ヨルダン渡渉の意味が示されている。14節からいよいよ川を渡る記事。川の水が堰き止められるという奇跡と民が渡る様子が描かれている。人々が渡り終わって川の水が元に戻る前に、4章1節からの出来事が組み込まれている。この事件の記念としての12個の石が据えられる。9節までである。10節から、渡渉の要約(13節まで)と川の水が戻る(15節から18節)の間にヨシュア記の作者のコメントが置かれている(14節)。19節は宿営地が移った事で、この事件が締めくくられている。そして20節以降では12個の石が記念するこの事件の意味を、6、7節を補う意味でヨシュアによって述べられている。

こうして見てみると、Aがあった、Bがおきた、Cだった、というように別々の事件が続く形ではなく、ヨルダン渡渉という事件を軸として、記念の石が組み込まれ、この事件の意味を台詞(神の言葉とヨシュアの言葉)によって各所に散りばめてあるようである。したがって、全体の構造も、複雑に絡み合った形となっている。

もう一つ大切なのは、事件の経過よりも、その意義が何より重要な事として繰り返し語られている、ということ。4:14に仄めかされている著者の存在は、この3,4章が単なる「記録」なのではなく、この記述を通して著者がメッセージを訴えようとしていることを意識させる。そのことから、表面上の「事件の流れ」から、著者のメッセージとしての「主張の流れ」に目を向ける必要がでてくる。

第一の「主張」は、ヨシュアによって(3,4節はつかさたちがヨシュアの命で民に語っていると思われる)語られた事。3節は主の契約の箱が先頭となって進むことを述べている。4節は、しかしながら民は神の箱から離れなければならない、ということ。「近づいてはならない」とは神の聖さを示す言葉。5節は民にたいして聖さ(浄さ)が求められる。それは、聖なる神が民の中で不思議を行うから。6節は、再び契約の箱が先頭となることが語られる。この2種類の言葉は、ヨルダン渡渉が神聖な出来事であることを示している。

第二の主張は、神ご自身の言葉として語られていること。10節以下はヨシュアの言葉であるが、9節の言葉から、それは神から告げられた言葉とされている。7節は神がヨシュアを大いなる者とすること、すなわち、ヨシュアがイスラエルのリーダーであることを神が示される、ということである。10節はこの奇跡がカナンの7種族の追放の保証として与えられるものであることを示している。そして、その奇跡の内容があらかじめ13節で告げられることで、ヨシュアが神の言葉を継げていることを民に分からせている。この2種類の言葉は、ヨルダン渡渉がこれから始まるカナン取得の第一歩であり、神が先導しておられることを示している。その意味で、先の、第一の主張と重なっているかもしれない。なお、12節は、後述の12個の記念の石の準備となっている(4:4)。

第三の主張は、台詞としては短く、4章の5節から7節のみ。それはヨルダン渡渉のしるし(6節)、あるいは記念(7節)としての12の石に関して。また、子孫に語り伝えるべきことも告げている。12の石の据えることについては8節と9節に書かれている。これが別々の出来事か(口語訳、新共同訳)、一つの事を繰り返し述べているか(新改訳)は、後で検討するが、「今日までそこにある」という言葉は、この書が書かれた時代がヨシュアの時代よりもある程度後であることを示唆し、それは同時に、ヨシュア世代の民の子供たちだけでなく、著者の時代の民の子孫にまで、この事件の意味を伝える役目を果たしていることを示している。したがって、二重の意味で、「後の世代に伝えるべき神の働き」ということを語っていると考えられる。

第四の主張は第三と重なっている。6,7節で語られたことをさらに詳しく述べ、記念として伝えるべき事件の意義を明らかにしている。23節はこの事件が出エジプトの紅海渡渉と並ぶ事件であることを述べている。すなわち、イスラエルの民の救いの関わることである。24節は、この奇跡の目的は、神の栄光が現されることを示している。この奇跡により地の全ての者とイスラエル自身が、神を知り、神を恐れるためである。子孫に語り伝えるのは、単に過去のお話ではなく、イスラエルが民族として神によって救われた存在であるという意識を共有させ、またイスラエル自身とさらに全世界が神の栄光を知るためである。

以上から、説教のアウトラインとして次のようなものが浮かんでくる。第一は、神様の御業がなされるのは、聖なる神ご自身が現される事を意味している、ということ。第二は、私たちはその神の救いの御業を語り伝えるようにされていること。何だか、とても単純なアウトラインだが、著者自身のメッセージを重なることで、テキストの伝えようとしている意図を再現できればそれが一番良い、と思う。

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テキストの分析(その1、三章)


1節 明確に次の日であることは書かれていないが、2章の最後から見て「翌朝」と見て差し支えない。ヨシュアは朝早く起き、民を移動させる。シティムの位置は正確には知られていないので、ヨルダンまでの距離は不明。ただ、イスラエル全体が一日の内に移動できる程度だろう。「渡る」という動詞は3、4章に約20回出てくる。

2節 3日間は民全体が一気に川を渡るために体制を整えるためだろう。1章10、11節のようにつかさたちがヨシュアの命令を民に伝える。

3節 「発って、...進む」は命令形ではないが、最初に「命じて言った」とあることから実質的には命令。「その後ろを進む」と言っても、契約の箱は川の中で止まるので、民も止まることになってしまう。位置的な「後ろ」よりも、時間的かつ身分的「後ろ」だろう。神の臨在を象徴する契約の箱の後ろを行くとは、神に従って進んでいくこと。

4節 2000キュビトは900メートルほど。聖なる神への畏れの故に直接に近づかないことと、十分に離れたところから川の水が堰き止められるのを見て、安心して進むことができるように。彼らは(誰も)通った事のない道を進もうとしている。

5節 5節と6節の言葉が同じ日に言われたと考える必要は無い。時間的順序としてよりも、その内容を伝えることに重点が置かれている。ヨシュアの命令は直接か、あるいはつかさたちを通じてかは問題ではない。「(身を)聖めよ」とは、前節の、神の箱と距離を置くこと、また3節の、神の箱の後に従うことと併せて、このヨルダン渡渉が聖なる行為であることを民に知らしめている。「不思議」の語源は「驚く」という動詞。

6節 ヨシュアが祭司たちに命じた動詞は、契約の箱を担ぐこと、民の前に渡ること。それに対して祭司が行ったのは、担ぐことと、民の前を「進むこと」。肝心の「川を渡る」ことは後に残され、クライマックスまで取って置かれている。その前に神からの言葉がある(次節)。

7節 主がヨシュアに告げたのは、この渡渉がヨシュアにとって持つ意味(7節)と具体的方法(8節)。神がこの奇跡を通して、過去にモーセと共におられたのと同等にこれからはヨシュアと共におられることを示して、それを見たイスラエル全体がヨシュアを尊ぶ(大いなる者とされる)ように、というのが目的である。川のこちらからあちらに渡ることがことの本質ではなく、紅海渡渉の時の様に、指導者(実際には指導者を通して民を導く神)の地位をはっきりさせることが神の意図。出エジプト記14章31節、及びヨシュア記4章23節参照。

8節 神からヨシュアを介しての、契約の箱を担ぐ祭司たちへの命令。二つの動詞のうち、最初は川の水際まで「進む」こと。これはすでに川辺に来ている彼らにこれ以上は進めない所まで進めさせることになる。ところが、2番目の動詞は、その「これ以上進めない」ことを越えて、「ヨルダンの中に立て」。この出来ない命令に従わなくてはならない。

9節 奇跡を見た後なら従えるかもしれないが、まだそれを目撃していない人々に、この、一見無理な命令を伝えるために、ヨシュアは命令を神からの言葉として伝えている。「近づいて」は注意をひくため。「聞け」は耳で聞くだけでなく、命令に従うことも含んでいる。

10節 ヨシュアはこれから起こる奇跡が民にとって持つ意味を知らせる。それは、神が彼らのただ中におられ、カナンの7つの民を「追い出す」という約束を彼らが確信するため。「追い出す」は土地の所有と関わる言葉。単に7つの民を動かす、あるいは滅ぼすのではなく、その土地をイスラエルが所有することが目的。だから、必ずしも殺す必要はない。ここでは「聖絶」という用語は使われていない。原住民らはイスラエルの神から逃げる(あるいは降伏する)選択もある。しかし、神に立ち向かう罪故に彼らの滅びは早まる。土地所有と併せて、これらの議論は主が全地の主権者(11節)であり、全てを所有していることを前提としなければ理解できない。 「追い出す」は同じ動詞を重ねて(不定詞と未完了)、確実性を表現している。これらの原住民のリストはモーセ五書にたびたび表れる。

11節 ヤハウェの契約の箱(3節)はここでは「全地の主(普通の主「アドナイ」ではなく、主人と示す「アドーン」)の契約の箱」と呼ばれている。「ヨルダンを」はヨルダンの中(渡ろうとしている)。

12節 12人を選ぶことが11節と13節の間に挿入され、具体的にヨルダンをどのように渡るかが示される(13節)のを遅らせ、緊張感を高める。この、民に対する最初の命令は4章の伏線となる。

13節 祭司たちに対しては川の中に立てとの命令が与えられた(8節)が、民に対してはそれがどういうことかをヨシュアが解説している。民に対しての直接の命令は与えられていないが、川がせき止められたなら、あとは渡るだけなのは明らか。神が言わなかった内容をヨシュアが語っているが、(1)実際は既に神から告げられていたが、劇的効果を高めるために著者が8節では伏せて置いた、(2)神の不可思議な命令に対してヨシュアが理解したであろう事を彼に告げさせている、または(3)ヨシュアの言葉が実現(16節)することで、彼が神の言葉を語った、ある意味で預言者的働きをしたことを示している、などの解釈が考えられる。 「(水が)堰き止められ」は直訳すると「切られ」。川の水が二つに切り分けられ、片方は一つの堰のように堆くなり、片方は下流に流れ去ってしまう。

14節 台詞による説明ではなく、ヨルダン渡渉の様子を記述的に述べている。いよいよ、渡る時が来て、民はテントを畳んで出発し、祭司たちは既に先に立っていた。ここは最初の状態を表す動詞以外は不定詞や分詞を用いており、あまり動きが無い。

15節 水辺に来た祭司たちの足がいよいよ、水に浸った(完了形)。浸ろうとした、というよりも水の中に入った。しかも、その水は増水していた川の水である。後半は、幾つかの訳のようにカッコ書きとして状況説明(満ちている、という状態を示す完了形)と理解しても良いが、次の節の記述を強める働きをしているとも考えられる。

16節 最後の民の渡河を除けば、4つの動詞(主に完了形)を用いて水が堰き止められた様子を描いている。奇跡、すなわち尋常ではない出来事を苦労して描写しようとしている。「アダム」は20マイルほど上流の町と推測されているが、そこでの水の様子を民が見ることができたかは不明。「科学的」にこの出来事を説明する試みがいくつかあるが、このタイミングで起こったことは奇跡としか言えない。

17節 水が引いて、乾いた地面に、祭司たちは立っていた。「立つ」と「しっかりと」は「主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダンの真ん中の乾いた土地に」という長い説明を前後に挟む形になっているが、何故かは良く分からない。 民は渡り、全員が完全に渡った、と2回「渡る」ことを述べ、渡渉が完了したことを現す。後は、民が渡る間真ん中で立っていた祭司たちが河から上がり、水が再び流れ出せば、この奇跡的事件は終了するが、それを4章の終わりまで遅らせて、もう一つの大切な事を述べ始める。
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テキストの分析(その2、四章)


1節 奇跡は目を惹くが、出来事そのものよりも、前後に述べられている出来事の持つ意味の方が重要である。民が渡り終わったそのときに神の言葉がヨシュアに臨んだ。

2節 「12人を選べ」はヨシュアの言葉が先で、神がそれを繰り返す形になっているが、時間的順序が問題ではなく、「かの」十二人に対する命令(3節)が中心。

3節 ここで始めて十二の石が出てくる。その意味は六節まで保留。石を取る場所は、ヨルダンの中、祭司たちの足が堅く立っていた場所から、と詳しく指定されている。持ち運んだ石の設置場所は、今夜宿る場所、恐らく川のそばだろう。具体的位置は不明だが、むしろ本書が書かれた当時はまだ石が残っており、場所は明らかだったのだろう。

6節 このことの目的が告げられる。「しるし」は目に見えるものによって信仰を保証する。この場合、ヨルダン渡渉そのものがカナンの地を獲ることの保証(3:10)だが、その出来事が終わった後に忘れ去られたり、神の言葉に対する信仰を失わないように、この「しるし」が立てられた。この「しるし」のもう一つの機能は、後の世代にこの奇跡とその意味を語り伝えること。「これらの石は何か」ではなく、「あなた方にとって何か」が重要。イスラエルにとってこれらの石とそれが証しするヨルダン渡渉は、約束の地が与えられている「しるし」である。モーセ五書と併せてヨシュア記でも土地取得が大変重要なことであるのを考えると、この「しるし」の持つ価値は思ったよりも重い。

7節 「主の契約の箱の前で」と言うことで、この奇跡が神によることを示す。「記念」は動詞、名詞共にヨシュア記ではここだけだが、モーセ五書では良く使われる。この主の救いの記念が「永遠に」語り伝えられるように、というのがこの記事の目的であり、それによって信仰が親から子へ継承されていく。

8節 イスラエルがヨシュアの命令通り、ヨシュアに主が語った通りに行ったことを記し、1節からの記事が完結する。「部族の数に合わせて」とは単なる数字合わせではなく、これらの石がイスラエルと共に渡ったこと、すなわちイスラエル12部族がヨルダンを渡ったことを象徴する。

9節 前節でいったん完結したはずの事を再び取り上げている。詳しいことは後で。
10節 主の命令通りに事が行われただけでなく、モーセがヨシュアに命じた通りであった、とは申命記31:7、8節のことだろうか。

11節 民が全て渡った時(後?)に主の箱と祭司たちが渡り、しかも民の前に渡った、というのは矛盾するように見えるが、(1)前半は渡渉の終わりの事を述べ、前半は再度渡渉の始まりの時を述べたと理解し、新改訳のように後半を次節とつなげる、(2)後半を「民の面前で」と理解する(口語訳)、などの解釈が可能。

12節 かの2部族半について言及し、再びモーセと関連させている。これは14節につながる。

14節 この渡渉のヨシュアにとっての意義は3:7で主が語られたが、その言葉が実現したことを告げる。民がモーセを畏れ従ったかは疑問だが、全体としては少なくともエジプトからカナンまで(40年かかってしまったが)たどり着いたことで、結果的にはモーセに従ったことになる。ヨシュア記では民はモーセに対してよりもはるかに良く従ったように描かれている。

16節 8節から14節の総括的あるいは回想的な記述を挟んで、再び事件の記述に戻る。いよいよ、奇跡的渡渉の終わりとして、最後まで川の中に立っていた祭司たちがヨルダンの西岸に上がってくる。

18節 ここの「乾いた地」は岸辺のことで、同じ語を用いてはいるが3:17の乾いた川底ではないのは明らか。簡単に書いてあるが、ここもビジュアルには劇的なところ。

19節 ヨシュア記では始めて日時が記されているが、カナンの地に到着したのが過越の祭りに間に合う時であることを示し、5章中盤の出来事とつながっている。また、ギルガルという地名は5章前半につながる。この節は、そのような意味で3章から5章までをつないでいる。

20節 前節の「宿営した」を受けて、4:3の主の命令を実行する。そして、あと残されたヨシュアの命令(6、7節)を確認し、将来に実行させるために21節以下で繰り返す。

23節 ここで、もう一つの渡渉の意義が明らかにされる。それはヨルダン渡渉と紅海渡渉の類似性。両者に共通するのは、次節にあるように、それによってイスラエルだけでなく、地の全ての民が神を恐れるようになること。事実、紅海渡渉はカナンの住民を震え上がらせ(2:10)、またヨルダン渡渉によってカナンの王たちの勇気がなくなった(5:1)。
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テキストの分析(その3、四章九節の問題)

さて、長くなってしまいましたが、4:9についてもう少しだけ触れます。

8節と似たような事が9節に繰り返されているので、いくつかの訳では、後代の編集者による回想的挿入と捉え、カッコつきで書いてあるようです(例えば、新改訳)。しかし、原文ではカッコはありません。もっと問題になるのは、書かれている通りに読むと、実は同じ事の繰り返しではない、ということです。

口語訳や新共同訳のように、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、川底にも12の石を立てた、と読むことができます。これにはいくつかの反対理由が挙げられています。

まず、川の中に石を立てたのでは、川の水が増したときに見えなくなり、記念としての意味がなくなることです。また、川の流れによって石が流され、すぐに無くなってしまうかもしれません。そのような理由で、この記述は合理的でないため、書き間違いであると考えられるようです。他にも、これが神様の命令には無いこともあげられるかも知れません。神様の命令は明らかに「川底から石を取り上げ、岸辺に据える」ことです。したがって、ヨシュアのやり過ぎか、あるいは行うはずがないか、ということになります。

しかし、置く場所によっては十分石が見えるように出来たかもしれませんし、大きな石であればある程度の年月はその場に留まることも不可能ではありません。また、ヨシュアが自分で判断して行う可能性も無いとは言えません。ですから、「合理的」理由でこの第二の可能性を消すことはできません。

もちろん、ヘブル語によくある表現で、「ヨシュアは据えた」という句を挟む形で、十二の石、すなわちヨルダンの川の中にあった...」と理解することも可能ですので、原文をそのまま受け入れるとしても、二つの可能性が依然として残ります。したがって、ここではどちらかに断定はせずにおくことにします。

ところで、もし、口語訳のように、二箇所に石塚が立てられたとすると、興味深い意義が浮かび上がってきます。確かに川岸の石塚はヨルダン渡渉の奇跡を証しするものですが、川が再び流れ出した後では、信じない人にとってはそれも作り物であり、何の証拠にもならない、と思われるかもしれません。したがって、川の流れの真ん中に立てられた石塚のほうが、奇跡を思い起こさせる点で、証拠としての価値が高いかも知れません。

実は、神学的には、もっと面白い。かの十二の石がイスラエル十二部族を象徴するのであるなら、岸辺の石塚はイスラエルが水を通って救われたことの象徴です。そして川中の石塚は、「本当だったら川の流れの中で滅ぼされていたかも知れない」ことを示すものです。クリスチャンにとって救いの象徴の一つが十字架です。十字架は私たちが救われたことを示す証拠であると同時に、本当は私たち自身がそこにつけられ罪の罰を受けなければならなかったはずなのに、キリストが身代わりとなって死んで下さったことをも指し示しています。この後半を突き詰めて行くならば、パウロが告白しているように、「わたしはキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられる」という信仰にまで及ぶのです。滅び(川の流れ)から救われただけでなく、身代わりにより新しい命に生きていることを実感するためには、十字架のもつ二面性に目を向けることは大切です。

ここいらへんの理解は神学的立場によって違うことは否めません。しかし、救いというのは、深いものです。まだまだ恵みが隠されている、そんな気がします。

二つの可能性のどちらが正しいかを今の時点では断定できませんので、この部分は、説教の中では取り扱わないかもしれません。でも、考えてみる価値のあることだと思います。

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