ヨシュア記からの説教(その4)

ヨシュア記5−6章

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テキストの範囲

普通は5章と6章は違う区分と考えられています。5章はギルガルでの宿営、6章はエリコ陥落に関して書いてあるからでしょう。5章の13節以降を6章に結びつける意見もありますが、全体的には5章と6章は別々のテキストとして扱われるようです。確かに、ギルガルでの宿営での出来事は、割礼も過ぎ越しも、出エジプト記との関連が強く、荒野の旅の終わりを告げるものです。また、エリコ陥落はこれから始まるカナン征服の始まりです。しかし、同時に5章は、これから始まるエリコ攻略の準備と考えることもできます。

もし、ヨシュア記の目的がカナン征服の「出来事」を伝えることであれば、5、6章は別々のテキストです。しかし、著者の意図が、これらの出来事を語ることによって、「何か」を訴えようとしているのでしたら、出来事の背後にある目的まで考えなければなりません。そういう意味では、特にエリコ攻略の意味するところを理解する必要があります。

カナン侵略(征服)の戦略的価値を考えると、エリコは全体の中心(南部と北部の境名)にある有力な町ですから、そこを最初に叩くことでカナンの敵を南北に分断し、かつ、力のある町が倒れることで打撃も大きいはずです。もし、それが目的なら、5:1でカナンの諸民族が気力を失っている今が攻めるチャンスです。ところが、ここで神は割礼を施すことを命じます。割礼をすれば少なくとも3日ほどは戦えなくなるばかりか、その時に攻撃されれば危険です。また、さらに過ぎ越しの祭りは彼らをそこに止め、敵に時間を与えます。したがって、これらの事は、エリコ攻略が戦術的な価値以外の意味を持つことを示しています。

もう一つ、エリコ攻略の意味として重要なのは「聖絶」という概念です。これはカナン征服が宗教的な意味合いを持つことを示しています。また、同時に、エリコ攻略の方法自体が宗教性を示しているように思えます。そのような宗教的行為としてエリコ攻略を捉えるなら、その前に行われた割礼も過ぎ越しも、そして、しばしば疑問とされる主の軍の将の出現さえも、理解できないことではなくなります。

そこで、今回は5章と6章を一つのテキストとして扱うことにします。もちろん後から修正することも出来ます。

「聖絶」ということを考える上で7章のアカンの事件も大切なのですが、こちらはアイの攻略と結びついており、したがって、8章までをひとまとまりとする必要がでてきます。しかし、それでは少し長すぎるので、7章は8章と共に扱うことにします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

5章は比較的簡単に区切れます。1節は4章(ヨルダン渡渉)からカナンの王たちに視点を移す、いわば橋渡しです。2節から9節は割礼について。10節から12節は過ぎ越しの祭り。13節から15節は「主の軍の将」の出現です。これらの記事は漠然と繋がっているようです。1節から2節は、上にも書きましたが、順接ではなくて逆接的(「A、ところがB」)に関わっています。9節と10節はギルガルという地名で結ばれている以外は、過ぎ越しを行うための前提としての割礼という点で関係しています。13節は10節と「エリコ」という地名で関連している以外、これといった繋がりは見い出せません。むしろ、これをここに置くことで、6章の「戦い」、特に神が主導する戦いというテーマへの導入となっているようです。

6章は、5章と比べると複雑な構造です。1節で全体的背景を示した後、2節から5節は神からの命令が告げられています。6節から14節は最初の6日間で、ヨシュアの命令(6、7節、10節)とそれを民が実行したことが記述されています。15節からはいよいよ7日目のことです。15節、16節と20節は神の命令(4節後半から5節)の実行ですが、17節と22節から25節は2章からの続きです。18節から19節、及び21節、25節は17節の「聖絶」に関することです。このテーマは7章1節で再び取り上げられます。26節は、遠く第一列王記16:34で成就する預言です。そして27節は1:5と結びついており、ここまでの結論となっています。

こうして見ると、6章はそれ自体というよりも他との関係が強く、ヨシュア記、あるいはそれを含むイスラエルの歴史全体での「戦術的」な意味を持っているようです。特に後半に関しては、ラハブとの関連、聖絶(7章)との関連が強く、どちらも取り上げると話が長くなりそうです。中でも「聖絶」はかなり大きなテーマなので、次回(7章)を扱うときに回すほうがよさそうです。

メッセージのアウトラインとしては、まず第一に6章のエリコ攻略のことを先に扱います。それから、この特異な戦いの持つ意味を5章から考えます。それは「過去との決別」と「主への服従」です。したがって、(1)「聖なる戦い」、(2)「罪からの救い」、(3)「神への服従」、という順番でメッセージを組み立てます。

順番が逆(6章が先、5章が後)になってしまうのですが、現代人にとって受け入れがたい「聖戦」ということを説明する上でやむを得ないかと思います。

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テキストの分析(その1、5章)



1節 1節の最初は「そして....だった」という動詞で始まっているが、これは前からの連続性を示す場合も、新しいことが始まる場合にも使えるので、これだけでこの節が前後のどちらに結びついているかは決められない。ヨルダンの東西の諸民族をアモリ人とカナン人という名前で総称している。「西のほう」は直訳すると海の方。海は地中海を指すこともあるし、ガリラヤ湖あるいは死海を指すこともある。また「西」と言う意味でも使われる。ヨルダンの東岸は広い範囲なので、その中でも西よりに住んでいたアモリ人のことを示そうとしている。「海辺」は地中海の海岸沿いだけでなく、ヨルダンから西、地中海に至るまでの地域だろう。「(心が)しなえ」とは「融ける」で、2:11にも出てくる。 1節は「....ことを聞いて」によって3、4章の結果を述べ、また「彼らの心がしなえ」たことが6:1に繋がるように、これからのカナン陣との戦いの状況を設定する働きもしており、明らかに前後を結びつけている。

2節 「そのとき」は1節を指す。「火打ち石」による割礼は出エジプト記4:25に出てくる。「もう一度」は、イスラエル人がすでに割礼を受けていたにも関わらず再度割礼を行ったようにも見えるが、「再度」割礼をしたのではなく、「再び、割礼がイスラエルの子らに帰ってきた」というのが正確な意味。すなわち、40年間の放浪が決まった後、何らかの理由で割礼を行わなくなっていたのが、このときから割礼を行う習慣(あまり正しくない言い方だが)が復活した事を示している。

3節 ヨシュアが自分でいくつもの小刀を火打ち石で作ったようである。もちろん、ヨシュアの指示によって他の者達が作ったのかも知れないが。「割礼を行った」というどうしには「再び」はついていないので、前節の説明通りで良いと思う。ギブアは丘の意味で、宗教的行事はしばしば丘の上で行われた。アラロテは包皮の複数形。ギルガルと違う場所というよりもギルガル付近の丘の上でこの事を行ったので、このように呼ばれたのだろう。

4−7節 このとき割礼が行われた理由が述べられる。なぜ、「荒野で生まれた民」(5節)が割礼を受けなかったかは書かれていないが、モーセが、この40年間はイスラエルの罪に対する裁きであることを考え、神との契約を象徴する割礼を受けるに相応しい時ではないと判断したからだろうか。「無割礼の者」は創世記17:14に始めて出てくるが、そこではその者たちは契約の民から絶たれる、とされている。神は恵みによって無割礼の彼らを神の民に止めておられた。

8節 「傷が治る」には3日を要した。金属製の鋭利な小刀で割礼を行うと、直るのに時間がかかるが(創世記34:25)、火打ち石のような旧式の刀で行った方が早く回復するようである。神がわざわざ火打ち石を指定した理由が分かる。

9節 なぜ「エジプトのそしり(あるいは、恥)」なのか。荒野の恥であれば、放浪時代に無割礼であったという恥をここで割礼を受けたことで終わらせたことになるが。エジプト時代に割礼を行っていなかったかは疑問。少なくとも、最初の過ぎ越しの時にはっきりと無割礼の者は過ぎ越しの食事をとってはいけないと命じられているので、出エジプトの世代は割礼を受けていたはず。むしろ、出エジプトが思いもよらず時間がかかった(40年間)が、これで完全に出エジプトを終え、カナンに入るという新しい時代に入ったことを、割礼によって象徴させているのかもしれない。割礼、そして続く過ぎ越しの祭りの遵守によって神の救いの契約が回復したことを言っているようでもある。 「それで、....ギルガルと呼ばれた」というのは、既にギルガルと呼ばれたのが、ここでまたそうなった、というのではなく、この時からイスラエルはこの事を記念してこの地をギルガルと呼ぶようになったが、5章以前(4:19など)はヨシュア記が書かれた時点で使われていた名前ギルガルで呼ぶことで読者がその場所を理解できるようにしたのだろう。

10節 ギルガルという地名により前節と関係していることが伺える。それは、出エジプト12:48にある規定に従って、割礼を受けない者が過ぎ越しの食事を食べることがないためである。「その月の十四日の夕方」は過ぎ越しを行うように定められた時(出エジプト12:6)であり、4:19と共に日付が明記されているのは、歴史的興味ではなく過ぎ越しの規定のため。「エリコの草原」はギルガルを含むものと思われ、場所の大きな移動ではなく、出来事の推移(割礼から過ぎ越し)を示す。「草原」は「荒野」と同じ語。

11、12節 過ぎ越しが出エジプト以来のことであり、割礼と共に古い時代の終わりと新しい時代の到来を象徴するように、もう一つのこと、「その地の産物」を食べたことが記される。それによって「マナの降ることは止」んで荒野の旅が終わったことを別の面から表している。「カナンの地で収穫」したとは彼らが蒔いた作物ではなく、その土地で自然に実ったものや、エリコや他の地域に植えられた作物のことだろうか。後者だとすると、倫理的に問題があるかも。「産物」はこの2節だけに出てくる語。

13節 文法的には8節から15節は皆、接続詞+動詞の未完了形で始まっており、特に新しい区切りが始まったようすはない。しかし、内容的には明らかに13節から15節はその前後から「浮いている」ように見える。むしろ、この記事は前後を繋ぐ役割ではなく、前後を含む全体の意味付けを左右している。5章の「宗教的行事」も、6章の「軍事的行為」も、すべて主の軍の将、すなわち神ご自身が真のリーダーであることを示している。
   ヨシュアが見た「人」は「彼の手に剣を抜いて」いた。これはいつでも戦える状態。面前ではなく、「前方」にいたが、ヨシュアはどのような存在かを察して、逃げるよりも近づいて問いかけた。「私たちに属するか、それとも私たちの敵に属するか」

14節 答えはどちらでもなく、「主の軍の将として来た。」 主の御使いの中で軍勢の将となる天使の名前はダニエル書などに出てくるが、ここではあくまで主ご自身の代理なので名前は無い。ヨシュアが拝んだのは天使礼拝ではなく、その背後におられる神への礼拝。御使いは時に主ご自身となることがある。

15節 御使いの答えはモーセに対する神の言葉と同じ(出エジプト3:5)。割礼、過ぎ越しと共に、出エジプト記の出来事の反復を描くことで、出エジプトの出来事の完結を示す。さて、モーセの場合にあった神とのやりとりは、ここには出てこない。むしろ、モーセにはなかった、神の言葉に直ちに応答するヨシュアの姿が6章に見られる。その意味ではヨシュアはモーセ以上に忠実な僕。神に逆らうモーセが神と言葉によって争うのに対して、6章では神がエリコの町と戦う。したがって、モーセの場合に見られた「神対人」の対決を15節の後に付けないことで、6章こそが「神対人」の戦いであることを示している。すなわち、神による聖なる戦いであり、ヨシュアとイスラエルのすべきことは神の言葉に従うことのみ。エリコとの戦いは徹底的に神のものである。

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テキストの分析(その2、6章)


1節 接続詞+名詞でこの節が始まることで、前節までの流れが途切れて、ここから新しい場面に移ったことが分かる。「エリコ」という地名も場面の転換を示す。もしかしたら、ヨシュアがエリコ近郊で主の前にひれ伏したのと対照的に、エリコの頑なな姿を表すために、「しかし、エリコは」と始まっているのかも。 二つ同じ動詞の異なる形を並べることで強意を示すのはヘブル語でよく使われるが、不定詞を使わず2種類の分詞を使っている点で珍しい書き方。「閉ざしに閉ざして」、あるいは「閉ざし閉ざされて」といった感じ。

2節 前節が分詞と名詞句だけを使って背景的情況を述べているのに対して、ここから再び「接続詞+動詞(未完了)」で流れが戻る。「見よ」はよく使われる「ヒネー」(旧訳で約800回)ではなく「レエー」(約80回)という表現で、「さあ」といった間投句ではなく、目で良く見る意味合いが強いようである。1節のエリコの情況を良く見るなら、それは難攻不落の城壁ではなく、イスラエルを恐れて既に弱腰になっている姿が分かり、神の目からは「すでに....渡した」状態。

3節 「回る」という動詞が2種類出てくるが、大きな違いはないと思われる。敢えて違いを考えるなら、最初のが回る動作を表し、後のは行為全体を指しているようである。

4節 「七」という神聖な数字が4回繰り返され、契約の箱も祭司と共に進軍することで、これが普通の戦いではなく神聖な行為であることが強調される。

5節 前節の「吹き鳴らす」と違い、長く引き延ばすように鳴らす。 「その音を聞いたとき」以下は、同じ完了形で三つの動詞が順に出てくる−−「叫ぶ、....落ちる、....昇る」。そこには、どうして、あるいはどのようにして城壁が崩れるかは説明されていらず、ただ事実として、そのように成ることだけが告げられている。あるいは、「叫ぶ」と「昇る」が命令形として扱えるなら、「(崩れ)落ちる」も命令形であり、神の命令によってエリコの城壁は崩れることになる。 「大声でときの声をあげる」は「大きな叫びで叫ぶ」。

6−14節 神の命令の前半(6日分)をヨシュアは民に伝え、彼らが実行する。部隊の順番は、武装した兵士達、7人の祭司(角笛)、契約の箱、そして残りの者、と思われる。4節では祭司たちが角笛を持つことだけが告げられているが、9節では彼らは角笛を吹き鳴らしながら進んでいる。ただし、「長く吹き鳴らす」(5節)とは別の動詞。 また、ヨシュアは7日目までは民は声を上げない(「声を聞かせてないけない」)ように付け加えている。神の命令を詳細に述べた形になっているが、特に神の意図に反することを付け加えてはいないように思われる。 新改訳では「....叫ばせる日なでは」という条件節を先に持ってきているが、口語訳のように後に回した方が原語のニュアンスに近い。

15節 ヨシュアの早起き(12節、3:1)が民全体に広まり、7日目は全体が早く起きた(複数形の動詞)。夜明け前から回り始めたのは、7回廻るのに要する時間と、その後の攻撃を考えてだろう。

16節 先に神がヨシュアに与えた町を(2節)、ヨシュアは神が民に与えたと宣言する。

17節 エリコとラハブ(どちらも女性形の代名詞が使われる)の運命が対照的に描かれている。「彼女」(町)とその中にいる全ての者は聖絶となり、「彼女」(ラハブ)と彼女と共に家の中にいる全ての者は「生きる」(新改訳では「生かしておく」と使役形に訳されている)。2:1の「スパイ(斥候)」はここでは「使者」と呼ばれている。

18節 2:10で予告的にラハブの口に上ったのを別とすると、前節とここに「聖絶」という言葉が集中して出てくる(名詞で3回、動詞で1回)。ここで使われている「聖絶する」という動詞は使役形だが、再帰形の意味で使われていると思われる。すなわち、「自分たち自身を聖絶としないために、聖絶のものに手を伸ばしてはならない。」 「聖絶」とは何かは、17節でラハブたちが生かされるのと対照的に滅ぼされることであり、21節で実際に人だけでなく動物も全て剣で滅ぼされ、24節で町ごと火で焼かれたことから具体的に明らかにされる。しかし、単に「滅ぼす」と違うのは、聖絶の場合、もし聖絶のものを自分の手に残し、聖絶にしなかったら、自分自身が聖絶される、という厳粛な側面がある。このことについては18節で触れられているが、具体的には7章で展開される。したがった、この6章だけで「聖絶」を取り扱おうとすると、不十分となってしまう。

19節 金銀と青銅器、鉄器が主に聖別されたものであるとは、どういう意味だろうか。もし、牛や羊や、あるいは他の貴重品を、「もったいない」と思ってとっておくなら罰せられるとするなら、何故金銀は違うのか。現に、アカンは金銀と外套(7:21)を取ったために聖絶された。考えられることは、まず、アカンは自分のものとするために取ったが、ここでは神のものであるから神の宝物倉に入れられた、すなわち動機・目的が違う。また、金銀はもともと主のものである、という考えがあったのかも。詳しいことはここでは明かされていない。たが、主に属するという意味での「聖」と滅ぼされるべきものという意味での「聖絶」の関係を考える上でこの節は興味深い。金銀はすでに主に聖なるもの(主に属するもの)であるのに対し、聖絶のものは汚れているためにそのままでは主の呪いを受けるべきものだが、聖絶と受けることで主のものとなる、ということだろうか。

20−25節 20、21節ではエリコの町に対して神の命令通りに行われたこと、22、23節ではラハブ達が救われたことが上げられ、24節はエリコが焼かれ、すなわち灰になったこと、それに対して25節はラハブたちのその後、すなわちイスラエルの中に住むようになったことが述べられている。ここでもエリコとラハブに対する取り扱いと、その後のことが対照されている。
22節 斥候たちの近いではあるが、ヨシュアがそれを守るように指示する。主にかけて誓った誓いを蔑ろにはしない態度が見られる。
23節 ラハブ一行は一時宿営の外に置かれる。聖絶の行為の最中だからか、異邦人は聖なるものと見なされなかったからか。しかし、25節ではその後彼らはイスラエルのに加えられる。

26節 聖絶の命令はさらに徹底され、ヨシュアは再建すらも禁じるために呪いの予告をする。エリコの城壁を再建したとき(第一列王記16:34)にこの預言は成就する。

27節 これは1:5と結びついている。主がヨシュアと共におられるとの約束はヨルダン渡渉とエリコ陥落によって示され、カナンの地全体にそのことが知れ渡った。ある意味でここまでの総括となっている。しかし、実際は7:1でそれを覆すことが起こり、ドラマはここで終わらない。

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説教の中心とアウトライン

ヨシュア記を考える上で避けて通れないのが、戦争の問題です。何故、神様が戦争を起こしているのか。現代の戦争についてもそのような疑問がありますが、もちろんそれは人間の罪が引き起こすものと言うこともできます。ところが、ヨシュア記では神自身が命令している。敵をも愛せよと説く新約の教えと反するのではないか。ただ、キリストが来られる以前を取り扱っている旧約には確かに新約とは異なる部分があります。ですから、倫理的な基準を時代的あるいは神学的考慮を抜きにして等しく適応して批判するのは余り益が無いだろうと思います。旧約は新約と同じ事を伝えるのが目的ではなく、旧約は来るべきキリストを指し示すのが目的であり、新約は来られたキリストを告げ知らせるのが目的ですから、それを前提として捉えるべきです。また、倫理的問題はヨシュア記だけで語るよりも聖書全体と福音に基づいて考えることでしょう。

ヨシュア記を通して語るべき事は、様々な疑問に回答を出すことではなく、ヨシュア記自身が語ろうとしていることです。ですから、いくつかの疑問はそのまま残されるかも知れません。しかし、それでもヨシュア記で取り扱わなければならない問題がいくつかあります。その一つが聖絶という概念です。これが倫理的に良いか悪いか、ということではなく、これが神の民にとって、クリスチャンにとって、どのような意味があるのか、です。しかし、これについては上で見たように、むしろ7章と関係させなければならないようなので、次回に回します。では。5、6章では何が主題なのでしょう。それは、エリコ攻略が、人間的戦いではなく神の戦いであり、聖なる、宗教的行為であった、ということです。

問題になるのは、「神の戦い、聖なる戦い」の名の下に多くの戦いが行われてきたことです。聖なる戦いという錦の御旗を立てればどんなことでも許されるのか。答えは、そしてヨシュア記が告げるのは、「ノー」です。その理由の一つは、聖絶について語られているように、もしイスラエル自身が罪を犯せば、彼らが聖絶される側に廻る、ということです。もう一つの理由は、5章に出てくることです。イスラエル自身が神の基準にそって整えられる必要があります。それが割礼と過ぎ越しです。そして、イスラエル(この場合はヨシュア)自身が徹底的に神に従うことを要求されています。つまり、神はイスラエルの味方でも、敵でもなく、神が主である、ということです。

イスラエルがカナンの諸民族と戦う事自体の是非は今回は問いません。戦争自体、殺すこと自体は罪です。しかし、何らかの理由で戦うことになっている、それを前提としたとき、ではそのような情況で神はその民に何を求めておられるか、が5章に描かれているのです。それは、現代のクリスチャンにとっても適用できることです。私たちが、現在置かれている状況自身は変えられないかもしれません。病気、苦難、行き詰まり、苦しみ、さまざまな情況のなかで、私たちは「何故」と問うことがありますが答えを得られない場合があります。多くの御利益宗教はそのような情況が変わることを約束しますが、聖書の神様は例えその情況は変わらないとしても、その中で私たち自身が変わることを約束します。神様が私たちに求めておられることは、周りの情況や、あるいは神様を私たちの願う通りに変えようとすることではなく、私たちが神様の基準に従って変えられていくことです。また、何が自分にとって良いか、悪いか、敵か味方か、ではなく、神が全てのことの主であり、私たちが神様に従うこと、それが神様の命じておられることです。

今回は、エリコの戦いの一つの側面(主の戦い、聖戦)を中心に5章を見ていきます。次回はもう一つの側面(聖絶)を中心に7、8章を見たいと思います。そこで、アウトラインですが、前に上げたとおり、次の様にします。第一に、全体の背景としてエリコの戦いの持つ宗教性を6章前半から見ていきます。第二に、そのような戦いのための準備として神が民に命じたこと、すなわち割礼と過ぎ越しについて考えます。最後に、最も大切な準備は神の前にひれ伏して降服することだ、ということです。これこそクリスチャン人生の勝利の秘訣だからです。

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