前回の説教準備の中で予告した通り、今回は「聖絶」について語ります。それは決まりなんですが、テーマは聖絶だけなのか、それとも他がメインテーマで聖絶はサブなのか、また範囲はアカンの記事だけか、それとも前後のアイ攻略も含めるか、などの問題が上がります。聖絶については6章の後半にも書かれており、その点では6章まで視野に入ってしまいます。でも余り長すぎるのは現実的でない。
もう一度全体像を見てみます。1章は全体の序文、2章はどちらかと言えば挿入されたエピソードで、6章の後半のみに続きます。3章と4章はヨルダン渡渉に関してで、これも比較的独立した事件です。もちろん前後との関連はあり、1章の「ヨルダン川を渡れ」との命令を受け、5章最初に出てくるエリコ攻略の背景となる情況設定に繋がっています。ここまでは(2章を別にすれば)ヨルダン渡渉を軸にして展開しています。5章は1節を除くとヨルダンは言及されず、場所もエリコ近辺です。従って、5章はエリコ攻略の序章の働きをしています。6章はエリコの戦いの「成功」を描いています。最後の節でまとめられている通り、「主が共におられた」ことがそれを示しています。ところが、7章の初めはそれと対称的に、イスラエルが罪を犯したことを述べ、話の流れが悪い方に変わります。それを具体的に表すのがアイ攻略の失敗です。このアイ攻略失敗の原因がアカンの罪であり、それが次第に明らかにされて行き、アカン一族が滅ぼされる(聖絶される)ことで根本的問題は解決。しかし、表面的問題としてのアイ攻略は8章に続きます。ですから、7章と8章はアイ攻略の失敗と成功の話を、その背後にあるイスラエルの罪の問題を軸として進めています。アカンとアイは切り離すことができない話題です。
こうして眺めてくると、アカン+アイ事件はエリコ事件と対称的位置にあり、両者を併せて始めて「聖絶」という概念を考えることができることが分かります。ですから、今回は7章と8章を範囲とします。
細かく言えば、8章最後のエバル・ゲリジムでの儀式は別の話のようです。しかし、これは申命記27章で命じられたことを行ったのであり、ヨルダンを渡ったときに行う儀式であったのですから、3、4章と結びついていることになります。さらに、申命記27:9を見ると、これはイスラエルが神の民となる契約締結の形となっていることが分かります。ですから、出エジプト記の過ぎ越し、紅海渡渉、シナイ契約締結と関係したものであり、その意味では5章とも関係しています。また、8:1で1章の「恐れるな、おののくな」を繰り返していることから、二度目のアイ攻略はエリコでの失敗(アカン)を取り戻すため神が再度与えたチャンスだったということが分かります。つまり、エリコで「ケチがつかなかったなら」、本来エリコ攻略の直後にくるべき契約締結の儀式がアカンの罪のために遅れてしまったのであり、その事から、この儀式はヨルダン渡渉から一貫した流れの最後であることが理解できると思います。
さて、今まで見てきた全体像から7、8章は「聖絶」というテーマ(特にアカン事件)を軸にしながら展開していると同時に、1章から始まった「ヨルダンを渡りカナンに入る」という一連の出来事の締めくくりでもあることになります。そこには、神が、イスラエルの失敗(エリコ+アカン)をも赦し(ただし罪を取り除くことが必要)、イスラエルが神の民のして生きるためにセカンドチャンスをお与えになったことが描かれています。そのような神の恵みに基づいて始めて、これから本格化するカナンでの戦いを乗り切ることができるのです。ですから9章からは新しい範囲となることも同時に決まります。ですから、今回は7章と8章をテキストとして良いと思います。
まず、7:1は導入の役目を果たしているのは明らかです。6章における一見成功と見える終わり方を覆すように、「しかし」と始まっています。(もちろん、ヘブル語の接続詞は「しかし」も「そして」も同じですが。) また、1節で述べられていることは7章後半までは登場人物(ヨシュア)は、主とアカン自身以外は、まだ知らないことであって、この節が、言わば「著者の視点」から語られた事を示しています。そして、主が怒られたということが、7章前半のアイとの戦いでの敗北の背景となっている。つまり、1節はその後の展開の状況設定をしている訳です。
2節以降の内容は、その出来事によって区切ることが出来ます。2節から5節は対アイ戦の敗北、6節から15節はヨシュアの嘆きの祈りと主からの通告及び命令です。この部分はかなり長いので、著者の告げたい内容が反映している可能性が高いと思います。16節からは会話から叙述に戻り(ヨシュアとアカンの短い言葉を除く)、26節までがアカンの「聖絶」です。最後の26節は、主の怒りがやんだことで1節と対をなしており、8章の情況が7章と変わったことを示しています。
8章の1節から8節では、また長めの台詞が続くのですが、これは対話ではなく、主からの命令と、ヨシュアから民への命令によって成り立っています。このパターンは6章と類似しており、神とヨシュア、そしてイスラエルの関係があるべき姿に戻ったことを示しています。7章初めでは神からの命令によってではなくヨシュアが事を始めているのとは変わっています。9節からはアイとの再戦、そして勝利が描かれ、29節で、「今日まで残っている」という著者の言葉で閉じています。
30節からは、前にも述べたようにカナン侵入の総括的儀式であり、遠くは申命記、そしてヨシュア記1章、さらに5章と関係しています。内容的には29節までと無関係の様ですが、ヨルダン渡渉、エリコ攻略と失敗、アイ攻略のやり直しという一連の出来事が終わったことを受けて行われた儀式ですので、そのような文脈の中で理解すべきでしょう。
さて、どのようにテキストを区分するか、です。まず、第一区分は(導入の7:1を除けば)、アイとの戦いでの敗北です。2節から5節、あるいは6節から9節のヨシュアの嘆きも含めても良いかも知れません。第二区分は10節からの主の命令で始まる、アカンの聖絶、すなわちイスラエルから敗戦の原因となった罪を取り除くことです。第三区分はアイとの再戦と勝利です。8章の1節から29節です。第四区分は30節から35節で、律法の朗読です。最初の三つは明らかに一まとまりになっており、A−B−A’の様な関係です。最後の区分はエピローグとして第三区分との関係で取り扱えば良いだろうと思います。
以上のことから、メッセージのアウトラインとしては、(1)罪のよる失敗、(2)罪を取り除く、(3)神の命令によるやり直し、となります。しかし、....。
今回語るはずの「聖絶」はどう取り扱ったらよいか。上のアウトラインの中では、まず最初に序論として話すか、どれかのポイントの中で扱うか、のどちらかでしょう。まさか、最後にまとめとして語ることではないので。一番良さそうなのは、(2)の「罪を取り除く」ということの中で取り扱うことだと思います。特に何故アカンが殺されなければならなかったか、を語るときに「聖絶」の思想抜きに説明できないからです。では、逆に、「聖絶」が今回のメッセージの中でどのような位置を持っているのでしょう。単なる説明や脇道ではないと思います。「聖絶」の持つ厳しさを理解しなければ、罪の問題は曖昧になってしまいます。その意味では、重要な位置を占めているのは明らかです。
一つの言葉や概念について調べることをワードスタディーなどと呼ぶことがあります。ここでは、そういったことも含めますが、やや神学的な考察も加わります。どちらにしても学術的な物をここでするには時間の制約もあるので、あまり十分ではないかもしれません。
さて、「聖絶」という名詞、あるいは「聖絶する」という動詞は、旧約聖書の中におよそ102回出てきますが、そのうち28回ほどがヨシュア記に出てきます。割合から考えれば、本書に集中していることが伺えます。また、神学的あるいは倫理的問題から考えても、ヨシュア記を理解する上で「聖絶」の概念を正しく捉える必要があることはすでに見てきた通りです。他にこの語が多く出てくるのは、第一サムエル記15章に8回出てきます。他にもエズラ・ネヘミヤ記も長さの割に多く出てきます。こういった箇所も聖絶を考える上で重要になってきます。
ところで、「およそ102回」というのは変な言い方だと思われるかもしれません。この数を調べるのにコンピューターを使ったのですが、そういった場合、ソフトの不備の可能性以上に聖書からデータをインプットするときの間違いや解釈上の問題があり得ます。ですから、もし学術論文の様に正確さを必要とする場合はそれなりの道具(例えばイブン=ショシャンのコンコルダンス)を用いて確認するほうがベターです。でも、論文の場合でも初期的な研究をするとき、またこうして説教の準備をするときは大まかな事が分かれば良いので、正確さは多少目をつぶって(たぶん1,2回は違うかも)、「およそ102回」と考えます。閑話休題。
さて、102回の「聖絶」を全て調べるのは難儀です。(本当はしたほうが良いのですが、今回は敢えてしません。もっと回数の多い語を調べる場合のテストケースとなれば良いと思うので。) 全ては調べないとすると、幾つかを選ばなければならない、ではどのような基準で選ぶか、が問題です。まず、言えることは、旧約聖書と言っても長い年月を掛けて書かれたものですから、時代によって意味が移り変わることがあります。その場合、古い時代の意味を土台として新しい意味が形成されていくと同時に、古い意味(特に律法としてイスラエルにとって特別重要な地位を持っているモーセ五書における意味)に強く影響されて意味の変化が制限されることもあります。例えば、預言書は律法の(祭儀ではなく)精神にもどることを説く場合が少なくなく、また過去の歴史的事件をモチーフとして用いながら語ることもあるので、時代的に後でも古い意味を保っていることがあります。特に今回はヨシュア記における意味が最も重要ですから、預言書は抜き、あるいは後に回します。
ヨシュア記にとっては申命記の影響が強いのは今までのところでからでも明らかです。そこでまず申命記(11回)と、その次に回数の多いレビ記(7回)を見ます。まず民数記。2:34と3:6ではシホンとオグの町々を滅ぼし尽くしたことが回想されています。これが今後のモデルケースとなります。7章はカナンの7民族を絶滅させる命令が下され、2節と26節で計4回「聖絶」が出てきます。単に滅ぼすことだけでなく、彼らと契約を結んではいけない、彼らの偶像を取り入れてはいけない、と警告されています。その理由はイスラエルが他の神々に仕えることの無いため。20:17ではもう一度この命令が繰り返されます。13章では15節と17節に4回。ここでは偶像礼拝をするようになった町がイスラエルの中にあった場合にはその町を滅ぼすことが定められています。剣で全て殺すだけでなく火で焼くように命じられます。注目すべきは16節で、その町の物は全て火で焼いて「主にささげよ」と言われていることです。単に滅ぼすのではなく、滅ぼされたものは主に捧げられたものとして火で焼かれるのです。
次はレビ記。21:18では体に傷のある者が祭司として祭壇に近づくことを禁じる律法です。その中で、目の見えない者、足の動かない者と並んで「聖絶」と同じ語源の言葉が出てくるのですが、どうも意味が分からないようで、翻訳によって様々です。(身障者に対する考えとしてはこのあたりは大きな問題ですが、今回の主題から外れるので取り扱いません。) 恐らく、語源は同じでも意味は少しずれている言葉と思われ、分析から外して良いでしょう。27章では21節、及び28、29節に6回使われています。ここでは畑や家畜などの所有物が「聖絶」であるとは、聖なる物であって、神様に捧げられた物であることが書かれています。聖絶が畑の場合は一旦祭司の物となります。畑でも家畜でも聖絶となったものは売買や他の祭儀の供え物とは出来ず、神の物であり、ここでは祭司のものとされます。人間が聖絶のものとなった場合は殺されることが定められています。
申命記とレビ記を比較すると、前者では滅ぼし尽くすこととして、後者では神の(そして祭司の)所有であることとして「聖絶」が語られていることが分かります。しかし、これらは別々の事ではなく、それぞれの使い方の中に他方の意味合いが一部入り込んでいる。つまり、この二つの意味は不可分のものである、ということです。ではヨシュア記ではどうでしょう。
ヨシュア記では6、7、8章に集中しており、10、11章ではエリコの場合と同じ様にした事が書かれています。叙述も単調で、新しい意味を付け加えるよりは、総括的に書かれている様です。22:20はアカンの事件を振り返っているだけです。2:10のラハブの言葉だけが例外ですが、ヨシュア記の中ではやはり6章から8章が聖絶の思想に関しては重要な部分となります。では、その中で聖絶はどのように書かれているでしょう。読んで受ける印象は、「滅ぼし尽くす」という意味で聖絶が行われていることです。しかし、もう一つの意味が無いわけではありません。例えば、6:19では聖絶に関する命令(18節)と並んで金銀の器が「主のために聖別されたもの」であるから主の所有物とされることが書かれています。また聖絶の物は神の物だから、人間の物としてはいけないことが18節で告げられ、その戒めを破り聖絶の物を自分の所有としたアカンの事が7章に書かれています。ここでは聖絶の物が主の物であることが前提とされています。
ヨシュア記でもう一つ聖絶に関係する重要な事は、この命令が主に全く従うかの試金石とされていることです。このモチーフは第一サムエル記15章に出てきます。そこでは、サウルは主の命令に背いて羊と牛の良い物を残して置いた理由を神に捧げるため、と語っていますが、それが良いわけであり、嘘であることはサムエルの返事から明らかです。ここでは聖絶の二つの意味以上に、神に完全に従う事が問われています。
こうして見てきたことより、ヨシュア記での「聖絶」は主に滅ぼし尽くす事を意味しますが、その理由はそれが神の所有であり、人間のものではないことを含んでいることも考えられます。また、主に全く従うことも関係しています。
ちょっと長くなりましたが、もう少しだけおつきあい下さい。
私たちがヨシュア記を読んでいて疑問に思うのは、なぜ神はカナンの民族を滅ぼし尽くすことを命令されたかです。もちろん、申命記にあるようにイスラエルの宗教的純粋性を守るためであることは理解できます。しかし、何故「全滅」なのか。カナン民族がそのような厳しい仕打ちを受けなければならない存在だったのか、特に罪の無いと思われる幼児も含めて滅ぼす事、への疑問です。恐らくこれは聖絶の第二の意味を考えなければいけないようです。つまり、聖絶の物(人間も)は神の所有である、ということです。
実は、神(の命令)によって一つの町が完全に滅びる、と言った場合、もう一つの出来事が頭に上がってきます。それはソドム(とゴモラ)です。この場合は聖絶という言葉は使われていませんが、出来事としては神自身が町を滅ぼし、老若男女すべてを火で焼き尽くした、という点で、エリコの場合と結びついています。ソドムの罪の酷さは有名です。実はカナンの諸民族も似たような状況で、アブラハムの時代にはまだソドムほどではありませんでしたが(創世記15:16)、ヨシュアの時代には同程度になっており、神は天から火を下す代わりにイスラエルを用いて彼らを滅ぼそうとした、と考えられます。カナンの町々がどのような状況だったかは明らかではありませんが、ソドムと似たようなことだったでしょう。
ソドムの町の罪深さは、性的に乱れきっていた、というだけに留まりません。実は、もう一つ重大な事が語られています。ソドムの中ではロト(の家族)だけが救われました。もちろんロトもあまり誉められた人物ではないことは明らかですが、それでも彼は義人と呼ばれています。その「正しい」人に対してソドムの住民が取った態度は19:9に出てきます。彼らは正しい言葉を退け、よりひどい目に遭わせようとしました。正しい事を否定する態度、実はこれが大きな罪なのです。罪の基準が下がってくると「多少の罪は良いじゃないか」と考えるようになります。それでもまだ良いことと悪いことに区別があります。ところがある一線を越えると、どんな悪いことでも「良い」とするようになり、反対に良いことを「悪い」として排除する。こうなったとき、社会は取り返しのつかない状況になります。そのような中で生まれ育つ子供は、善悪の基準を逆に教わり、それが絶対的な真理だと信じて成長してしまいます。すると、どんなに「正しい生き方に戻るように」と神から言われても、それが不可能になってしまう。ですから、社会がそんな状態になったとき、罪に染まる前に、罪を犯す前に、命が無くなることの方が実は救いなのです。(私たちの社会がそこまで行かないことを願うのですが....)
ソドム型の社会に対して聖絶が行われ、全員が滅ぼされたとき、ある者はその裁きを受けるべくして受けたのであり、そうでない者はその社会から救い出され、神のものとされた。それが聖絶の意味なのではないでしょうか。一足飛びに聖絶されたものが全員救われたとは言えません。しかし、神が正しい者と悪い者と一緒に滅ぼされない(創世記18:23)お方だとするならば、罪無き者が殺されたのは聖別(神のものとなる)されるためと思います。ただ、私たちには誰が裁かれ誰が救われたかを決めたり推測することはできません。それは神のみが知る所だからです。
それでも、まだ、「罪人だって何も殺さなくても」と思うかも知れません。しかし、これはまだ十字架の救いの道が明らかにされる前、しかも特殊なケースにおける、いわば神の特別措置だったと思われます。また、この厳しさは私たちの福音理解にも無関係ではありません。たとえ新約の時代になっても、本当は私たちも聖絶(滅びの意味で)されて当たり前の存在であり、自分自身が「聖絶のもの」である事を脇に置いて他人をとやかく言うべきではないのです。ところが、そんな私たちを救うために神は一人子を身代わりとして下さった。ロトやラハブのように間一髪で救い出されたのです。この恵みは「罪人でも滅ぼすことは無い」という曖昧な(救われる以前から引きずっている)価値基準のままでは理解できないものです。聖絶の厳しさを学ぶとき、救いの豊かさが分かるのです。
何だかもう説教を一回分語った感じです。でも聖絶はあくまで主題の一つで、ヨシュア記7、8章全体が今回のテキストです。
8章の取り扱いがもう少し必要な気がします。全体的には8章の内容は戦いの様子の記述であり、神学的なメッセージに乏しいようです。対話も少なく、むしろ神の命令にヨシュアとイスラエルが忠実に従った事が強調されているように見えます。では、8章全体を通して著者が語ろうとしている事は何でしょう。
最初の方のアウトラインで、「神の命令によるやりなおし」と言いました。1節のヨシュアへの言葉は1章と同様であり、「恐れるな」です。また6:2の言葉も繰り返されています。2節でも「エリコにしたようにアイにもせよ」と命令していて、8章は1章か6章までが(ヨルダン渡渉を除いて)コンパクトにまとめられた様です。スパイの派遣やアカンの失敗が含まれていないので、なおさら神の命令に従って全てがやり直されている印象を与えます。また、作戦ではありますが、一度イスラエルはアイの前で逃げる(15節)のも7章の繰り返しであり、それによって失敗を成功に書き換えています。ヨシュアが槍を差し伸ばし続けたのもモーセの場合を意識しており、神の人モーセに倣って正しいやり方を用いたのでしょう。
そのような「やり直し、繰り返し、まね」といった流れと、神の言葉に忠実に従う、という主題を考えると、30節以降も29節までの流れの中にあることが見えてきます。そこで行われたのは申命記でモーセを通して命じられたことを忠実に行ったのであり、またこれはシナイ山での契約のやり直しでもあります。出エジプト第一世代が神に逆らったため契約違反をして荒野で滅んだのに対して、神は第二世代が再び契約の民となることをこの儀式を通して示されたのでしょう。したがって、8章全体は失敗に終わった7章のアイ攻略をやり直しただけではなく、出エジプト記以降の歴史のやり直しでもあります。神はやり直しをさせてくださる、セカンドチャンスの神です。
もちろん、では何故アカンにはセカンドチャンスが与えられなかったのだろう、と言う疑問も出てくるでしょう。旧約では、基本的には個人の救いではなくイスラエルという民族の救いを描いています。王や指導者の場合は民全体の代表として一個人が出てきますが、例外的な人物たちを除けば、イスラエル全体を一人として扱っているのです。ですからアカンの聖絶というのは一個人の滅びではなく、イスラエルから罪を取り除くという面が強調されているのです。こういう考え方は現代人には理解しにくいことです。ですから、良く言う「霊的」理解というものが有効なのかもしれません。この場合で言うならば、アカンの聖絶は自分の内にある罪を聖絶することを指す、と見る事です。いつでも単純にこういう見方をすると、聖書の伝えようとしているダイナミックさが失われてしまう危険もあります。しかし、私たちの方が聖書の考え方から随分と離れているので、そのような理解が助けとなることもあります。
セカンドチャンスというのは、失敗したらまたやり直せば良い、ということとは少し違います。8章で強調されているもう一つの事は「神の言葉に従う」ということ。7章までの失敗は神の言葉に対する服従における失敗でした。それに対し、8章は神の言葉に、そしてヨシュアの命令に、忠実に従っています。そして最後の箇所でも、神の言葉が読み上げられ、これからも従うことを確認しています。セカンドチャンスとは御言葉への服従に帰ることです。
聖絶と御言葉という二つの軸を見据えながら、全体のアウトラインを再構築します。まず第一に、罪による失敗ということ。アイ攻略の失敗の背後にあったのは、アカンの罪であると同時にヨシュアを初めとするイスラエル全体の罪でした。そのために彼らは絶望に陥ってしまいます。しかし、彼らの罪の根にあったのは、神の言葉の軽視、不服従でした。第二に、聖絶。神の命令はイスラエルから罪を取り除くことです。それには聖絶という痛みも伴います。しかし、聖絶の意味を考えるならばそれは同時に救いでもあります。第三に、御言葉に立ち返ること。神は罪を犯した者を見捨てたり、失敗した者を切り捨てるのではなく、忍耐を持ってセカンドチャンスを与えて下さる、恵みの神です。それは、単なるやり直しではなく、神の言葉に従って正しい生き方を送るためです。