ヨシュア記からの説教(その6)

ヨシュア記9−12章


テキストの範囲

9章はキブオンの住民が計略によってイスラエルと契約を結んで自らの命を守った出来事が描かれています。9章の最後には「それは今日まで続いている」という著者のコメントが入ることで、そこで区切りを入れています。したがって、9章がひとつのまとまったテキストであることは分かります。では、10章以降は別の機会?

二つのことが9章と10章以降とのつながりを示しています。一つは書き方。10章1節は10章の出来事、すなわち5王連合軍との戦いと序文です。その中で、エリコ、アイの敗北だけでなく9章の出来事にも言及しており、さらに2節はギブオンの講和が連合の大きな理由であることを示している。また、戦いの始まりでも矛先はギブオンに向けられ、それを講和条約の故に助ける形でイスラエルが参戦する、という筋書きで9章が書き進められています。実は9章の1節でも連合の背景が描かれており、それらに挟まれてギブオンの計略が出てくる形になっています。ですから、ギブオン契約と5王連合とは密接に結びついた事件として描かれています。

もう一つのポイントは神学的関係です。イスラエルの驚異を聞いて、5王は戦いを決意し、ギブオンは講和を策した。このギブオンの選択に関して新共同訳では4節で「賢く立ち回った」と肯定的評価を与えています。また著者自身も、この計略的講和の結果としてギブオン人は奴隷となったが、彼らは自分達の命を救い、神の民の中に住み、神に仕える働きをするようになったことを描いて、ギブオン人に対する神の取り扱いが決して悪くは無いことを伝えています。これを5王とその町々が聖絶されたことと比べるなら、その違いは明確です。ですから、イスラエル(そして神)への態度によって救いか滅びかが決まってくることがこの箇所から分かります。つまり、ここはギブオンと5王(及びその町々)とが対比されている箇所です。

ここまでの考察から9章を単独ではなく10章と結びつけて取り扱うことが浮かび上がってきます。ところが、同じ様な理由で11章以下も関係してきます。10章で倒れた5王はカナン南部を代表する国々でした。それに対して11章はカナン北部の国家連合との戦いが描かれています。11章後半から12章は全ての戦いを総括的に述べたもので、ヨシュア記前半のまとめです。そのような文脈の中で、11章の始まりは10章に似ています。10章ではエルサレムの王がエリコ・アイの敗北とギブオンの講和を聞いて他の王達に連合を呼びかけます。この連合は9章の始めにも示唆されています。11章はハツォルの王が他の国々に呼びかけイスラエルに挑もうとするところで始まります。しかし、10章の叙述に比べるなら短く、11章後半の総括的表現と同じく、要点だけを述べているようです。12章に至っては、実際「カタカナの名前」が多く、具体的な出来事は書かれていないことから、著者の意図はカナンの諸王を尽く倒した事を述べようとしている気がします。従って、11章と12章はヨシュア記前半、すなわち「カナン征服編」のまとめとなっています。

ヨシュア記は通常、歴史書に分類されていますが、実際は現代の歴史家が期待するような意味での歴史書ではありません。イスラエル民族がカナン地方をどのように侵略・征服したかを国名に記録するのが目的ではなく、神がイスラエルにカナンの地を与えたことを子孫に伝えることが目的です。ですから、神がアブラハム、そしてモーセに約束されたことが成就し、また神がモーセを通して命じたこと通りに民が行ったこと、ということを叙述する形で書かれています。そのような大きな流れの中で、カナン諸民族との戦いの意味についてはエリコ及びアイとの戦いで述べ尽くされており、ギブオンの出来事を別にすれば、後は「以下同文」のような書き方でもかまわない訳です。ですから11章と12章では特にこれと言ったポイントは無いと思われます。強いて挙げれば、11:6の「敵の馬と戦車を破壊する」こと、10章の戦いが「いちどき」(10:42)、すなわち比較的短期間であったのに対し、11章は「長い間」(1:18)の戦いであったこと、などの小さな事と、11:19−23の「まとめ」です。

この「まとめ」に書かれていることは次の通りです。まず、ギブオンの住民だけが和を講じたこと。これは9章のことです。20節は重要です。カナンの王たちがイスラエルと戦ったのは、彼らの心が頑なだったためであり、それは主から出たこと、主が彼らを聖絶しようとしたこと、そして、それはモーセに命じたこと、です。しかし、これらのポイントは10章と結びつけて、特に9章との対称の中で語ることができます。21節は11:40と対応し、後者が南部の、そして前者が北部の征服をまとめています。22節はややカッコ書きのような記事ですが、モーセに率いられたかつてのイスラエルがアナク人を恐れた事と関連しているかも知れません。23節は征服と戦争の終結、そして13章からの分配につなげる言葉です。残る12章は民数記での戦いも含めて、全ての戦いが列記されています。目録か目次みたいなものです。

11章12章はこれだけでテキストとするのは(私にとって)技術的に難しく、むしろ、上に上げたようなポイントを10章に含めて取り扱う方がよさそうです。そこで、今回の範囲は、9章と10章を対比しながら重点的に見て、11章と12章にも少し触れる、という意味で、9章から12章とします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

大雑把に見ると、9章はギブオンの講和、10章は5王連合との戦いが書かれています。注意して見ていくならば、この2章は結びついていることが分かります。9章1、2節は9、10章の状況設定です。カナン諸民族全体が連合してイスラエルと戦おうと動き始めていることを告げています。そのような状況の中で、9:3−27ではギブオンが取った態度、そして10章では南部の5王の取った対応が描かれています。これが対比的であることは、1節、3節で共に「(9章の事を)聞き」と書かれていることで明らかです。さて、ギブオン事件のあらましは、3−5節が計略の準備、6−13節が講和の申し出、14−15節が講和の契約締結、16−18節が虚偽の発覚と不満、19−27節が処置と事件の顛末です。もちろん、他にも分け方はいろいろあると思います。むしろ、ここははっきりとした区分ではなく、自然な流れとして書かれています。

さて、この件をどう評価し、理解するか。特に著者がどのような意図でこれを書いたかを考えなければなりません。11:19にもあるように、ギブオンは滅ぼされなかった唯一の町です。ラハブと彼女の一族が例外的に救われたのを除けば、神の聖絶を逃れて救われたのはギブオンだけです。特に、ギブオンと対照的に描かれている5王連合が神の奇跡的介入によって滅ぼされた(10章)ことを考えれば、ギブオンが助かったのは注目すべき事です。では、どうして、そしてどのようにして彼らは助かったのか。まずそれを考えます。

まず、ギブオンの住民が計略を巡らしたことが3節から5節に出てきます。もちろんこれは虚偽であり、イスラエルを騙す目的があるのは明らかです。彼らの意図は6節で始めて明らかにされます。即ち「盟約を結」ぶことです。これがどのような種類の契約かは分かりませんが、8節で「私たちはあなたのしもべです」と述べており、実際、虚偽が明らかにされた時に奴隷となったことから、対等ではなく隷属的な意味での同盟の契約となったが分かります。彼らは滅ぼされるよりはイスラエルの配下に下ることを選んだ訳です。

9節からはヨシュアの質問に対する彼らの答えが述べられています。後半は彼らの嘘を信じさせるための言葉です。前半は、彼らが盟約を求めた理由で、イスラエルの神、主の偉大さを聞いたから、とされています。もちろん、後半が嘘ですから、この前半も正直な言葉かどうか分かりません。しかし、出エジプト、ヨルダン渡渉、そしてエリコ・アイへの勝利を伝え聞いた諸民族が恐れたのは、主の力を知ったからであり、その意味で9節10節の言葉は「嘘」だけではありません。むしろ、彼らが不利な条件でもいいから契約を結ぼうとした行為自体が、彼らが主の力を良く理解していたことを物語っています。従って、9、10節は彼らの主への信仰告白となっています。

間違った形ではありますが、主を信じ、主に救いを求めてきた彼らに対し、イスラエルはいかなる民族とも盟約を結ぶべきでないことを知りながら、主の指示を求めずに契約を結んでしまった点で、非を免れません。軽率に「主にかけて誓った」ことで、民の中にリーダー達にたいする不満が持ち上がります。通常は「不平」は民の罪として描かれますが、ここではその後の言い訳も含めて、リーダー達のミスとして描かれているようです。

民の不満を治め、リーダー達のメンツを保ち(自分達の過ちを認めていない)、主に懸けて誓ったことを守るために出された妥協策が、ギブオンの住民を奴隷として生かすことでした。これはヨシュアが23節で言っているように、彼らの欺きに対する罰として「のろい」ですが、同時に21節では無かった、「神の家のために」が付け加えられることで、ギブオン人は主に仕える存在とされた、という意味では、命が助けられただけでなく、彼らにとっては祝福でもありました。ですから二重の意味でこれはギブオンにとって救いとなったわけです。さらに10章で5王連合がギブオンを攻めたときに同盟の故にイスラエルに助けられたことや、この契約が神の目にはダビデの時代にも有効であったこと(2サムエル21:2)を加えると、彼らに与えられたのが実に恵みであったと分かります。

さて、このようなギブオンの救いをカナン諸民族の聖絶という文脈で見ると、著者の意図に関して考える事ができます。まず、イスラエル以外に与えられた救いです。カナンの諸民族を全て聖絶せよとの神からの命令を前提とすると、ギブオンが救われるのは不可能なことでした。それが救われたのは彼らの主への信仰の故であり、神の恵みによるのです。また、イスラエル(のリーダー達)の失敗と合わせるなら、彼らも憐れみの故に勝利を得たと言えるでしょう。また神の救いの豊かさはイスラエルに留まらず、その御翼の下に身を寄せてく者(例えば、ルツ2:12)は誰にでも与えられることを知らされます。

戦争ではなくて、そのような救いという文脈で10章に読み進むとき、カナンの他の民族が見せた姿勢はギブオンのそれと正反対です。彼らはギブオンが講和によって聖絶を免れたことを知りつつ、救いを求めないで戦いを求めました。それに対して、神は勝利を約束し(8節)、自ら戦い(11−14節)、彼らを滅ぼしました。10章後半は11章と同じく、出来事としては目まぐるしいのですが、全て神の命令に従って行われ、似たような記事の繰り返しです。多分、もう語るべき事は語られたのでしょう。従って10章は、次のような構造と考えられます。1節から7節は戦いを挑む5王、8−14節は神の戦い、15節以降は完全な勝利で、11章終わりまで続きます。12章はこれまでの全ての戦いのまとめです。

余り構造的にははっきりしない箇所です。しかし、メッセージはいくつかのポイントを押さえることができます。まず、ギブオンの救い。これは神の救いの恵み深さを伝えています。第二は頑なに拒む罪。その結果は滅亡です。これについては11:20の言葉が重要です。ただ、この2番目のポイントは少し否定的なので、もう少し探る必要がありそうです。

もう一つ考えなければならないのは、「何故戦いなのか」です。なんだか蒸し返すようですが、どうしても避けられない問題です。すでに、「聖絶」ということは取り扱いました。また、戦いという一般的問題や倫理的問題に答える事がヨシュア記の目的ではなく、ヨシュア記自身の伝えようとしている事が中心であることも確かです。それでも、尚、「ヨシュア記における戦争とは」と言うことは、向かい合わなければならない問題です。そのためのカギとなることが二つあるように思います。一つは戦争の目的としての土地分与。カナンの地がイスラエルに与えられることが神の約束であるという、創世記以来の大前提です。これ自体が旧約神学に於いて一大問題ですから、ここで答えは出せませんし、土地の問題はヨシュア記後半の話題です。もう一つのカギが、人間の罪です。それが11:19−20です。このことについては、後でまた扱います。

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説教の中心とアウトライン

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