ヨシュア記からの説教(その8)

 


テキストの範囲

(最初に言い訳。前回分はお休みになってしまいました。肉体的精神的にちょっと疲れたので休息した次第です。趣味というか自己満足で始めた「説教準備のページ」なのに、無理をして続けようとすると義務感になってしまうので、気分転換のために一回抜かしました。説教そのものはしましたし、そのための準備もしたのですが、ここに載せるような形ではないので、書きません。今日の分も最後までできるかちょっと分かりませんが、出来る範囲で、無理なく書こうと思います。と、言うわけで、ヨシュア記からの説教、その8です。)

21章までが土地の配分とそれに関わる事(逃れの町とレビ族の町)であったのに対し、22章はヨルダン東岸の2部族半と他の部族との関係を取り扱っている点で独立した箇所です。小さい記事なので結尾部分(23、24章)に入る前に置かれた本論(21章まで)の付属部分と見なされがちですが、民数記32章以来棚上げにされてきた事に解決を与える意味では、重要かも知れません。その問題とは神の約束の地であるヨルダン西側ではなく東岸に領土を持ってしまった2部族半が神学的に他のイスラエルと一体感を損なわないことができるのか、ということです。言葉を変えると、自分達の欲のために約束の地が与えられる前に土地を手に入れようとした彼らに対してモーセしたことは、明らかに妥協であって神に対して忠実では無かった。モーセの妥協案は「彼らが特別軍としてイスラエルの先頭に立って戦うこと」でしたが、その戦いが終わった時に、今後は彼らとイスラエルの関係をどうするかという、一時忘れられていた問題が浮上して来たのです。

土地取得という前章までの主題との関わりがないわけではありません。他の9部族半に土地が分配され、レビ族にも住む場所が与えられた。そして最後に彼の2部族半も、すでにモーセから与えられていた土地を、文句を受けずに自分のものとできる時が来た。その意味ではこの章は2部族半への土地の再分与と見ることができます。しかし、22章の主な話題は祭壇についてであって、土地は中心的課題ではなくなっています。土地というテーマから見れば22章は21章までに続くものでありながら、同時に新しいテーマを提起している点で、前章までとは異なるテキストと見ることが出来ます。

23章は内容的にも時間的(23:1)にも22章とは異なる部分となるのは明らかですから、今回は22章を単独で扱うことにします。

(上に戻る)  (メニューに戻る)

テキストの構造と説教のアウトライン

22章は、まず大きく分けて2つに分けられます。1節から9節までは2部族半の帰還をヨシュアが許可するところです。ここには「モーセ」という言葉が繰り返されます。それに対して10節以降では「モーセ」は一回も出てきませんし、ヨシュアすら表れません。2部族半対全イスラエルという構図で描かれている点で、これまでとは違います。そして主な問題(両者の関係)は10章以降に出てくるので、1節から9節までは全体の序文、あるいは状況設定の役目を果たしているようです。したがって、22章の本論は10節以降です。

10節から14節は2部族半が祭壇を作ったことと、それに対してイスラエルが調査団を派遣したことが描かれています。一言も会話が無いことからこれも15節以降の状況説明となります。16節から20節の台詞は、イスラエルが怒った理由を告げています。22節からは2部族半の応答です。かなり長いのですが、繰り返しも多く、内容的には一つの事を告げています。この弁明に対する反応が30節以降です。こうして見ると、10節から14節が「起承転結」の「起」、15節から20節が「承」、21節から29節が「転」、そして30節以降が「結」となっています。

こうして10節以降は4つの部分に分けられるのですが、内容としては第一と第二部分は一つです。10節から14(15)節で出来事を記し、16節からその理由を台詞を通して述べさせています。ここで問題とされているのは、2部族半が行ったことが神に対する罪であり、それによってイスラエル全体に神の怒りが下る恐れがある。したがって、その罪を止めなければイスラエルは2部族半を滅ぼさなければならない、ということです。一部の罪が全体に災いをもたらすというイスラエルの一体性の神学が背後にあります。神の民としてのイスラエルの一体性が危険にさらされている状況を訴えています。実は、この問題はここで初めて持ち上がったのではなく、先に話したように、民数記の時点で、ヨルダン東岸に領土を求めた時点で始まっているのです。それを解決するために、2部族半が全イスラエルのために先頭に立って働くという犠牲を払うことにされたのですが、戦いが集結した今、結局それでは根本的問題は解決していないことが暴露されることになったのです。

こうした「イスラエルの一体性」という神学的見地から見直すと、1節から9節は単なる状況設定ではないように思えます。5節でヨシュアがモーセの命令と律法に従うことを述べたとき、それは「これからヨルダン東岸に帰るが」という状況で語ったことであり、約束の地(ヨルダン西岸)という物質的なつながり以上に、神の言葉である律法を守るという、イスラエルのもう一つの側面が示されているようです。その前提に留意して10節以下に移ると、2部族半のしたことが律法に背く故に問題であることが分かります。ですから、9節までと10節から20節とは密接に結びついていることが分かります。

21節から29節の「第三部分」と30節から最後までの「第四部分」とは、問題の解決ということで一つです。2部族半の弁明とそれを受け入れた全イスラエルの行動は、問題を引き起こした祭壇が別の意味を持つことで、危機を回避できただけでなく、イスラエルの一体性という問題に対しても一つの回答を与えたことを見ることができます。

以上から説教の構造として次のようなものが浮かび上がります。第一に、神の民の一体性が神の言葉である律法に従うことで保たれる、ということです。2部族半は東岸に分かれて住むことになりますが、律法に従う生活をすることで祝福に与ることができるのです。第二は、その一体性に「罪」(実際はそうでは無くても)によって危機が生じます。あるいは、この事件がきっかけとなって、隠れていた本質的問題が露呈することになったとも言えます。第三は、その問題の解決として、彼の祭壇が用いられます。しるしとしての祭壇とは何か、ということは、また後で考えることにします。

(上に戻る)  (メニューに戻る)

テキストの分析(22章)


1節 「そのとき」という語は22章が21:43と結びついていることを示す。主が約束されたよいことが全て実現された、すなわち、全イスラエルに土地が与えられたことである。彼らが安住の地を得、敵がいなくなることが、2部族半の責任が解かれる条件だった(民数記32:18、21)。だから、その条件が満たされた時、ということ。
2節 ここの「モーセが命じたこと」は民数記32章のことで、5節のように律法全体を指すのでは無い。
3節 単数形の「this」と複数形の「many days」が結びつけられていて、新改訳のように「この長い間」と訳すのが良い。「主の命令、戒め」は二つの事(命令「と」戒め)ではなく、「主の命令、すなわち守るべき事」と言ったニュアンスだろう。前節と併せて、2部族半が命令に良く聞き従って来たことを4重の表現で述べている。すなわち、モーセの命令を守り、ヨシュアの命令に従い、同胞を見捨てず、神の命令を守った。
4節 「今」が2回述べられ、2部族半の責任が全うされた時であることを強調する。「安住を許された」は「休ませた」という言葉。「天幕」は彼らの居留地を指し、実際は彼らの妻子は城壁のある町の中で安全に暮らしていた(民数記32:17)。ここでもヨルダン東岸がモーセによって与えられた相続地であることが述べられ、一貫して、元々神が約束した地ではないことが明らかにされている。
5節 自分の地へ帰って良いが、「ただ」これだけは守るように、と命じている。それは申命記などに出てくる精神を簡潔に述べたもの。「良く」は「非常に」という語が使われている。「命令と律法」も、二つの異なるものではなく、一つのもの。主の命令、律法を守り行うことと、主を愛し、主に縋り付き(「くっつく」という語)、主に仕えることを命じている。「心を尽くし、精神を尽くし」というのも律法遵守の精神として重要(マタイ22:37など参照)。
6節 ヨシュアは彼らの労をねぎらい、祝福して送り出した。ヨシュアが祝福したのは、他にはカレブ(14:13)だけ。「去らせた」は「送る」という動詞を使っており、「送り出した」という方が良い。「彼らの天幕に行った」とあるが、これは4節にある彼らの所有地を指す。と言っても、この節は総括的な表現なので、9節まではまだ彼らは全イスラエルと共にいる。
7節 マナセの部族に関しての説明が挿入される。半分はモーセからヨルダン東岸で所有地を与えられ、半分は西側(原文は「海側」、つまり地中海側)でヨシュアから所有地を与えられた。「時に」は6節の事、すなわち、「送り出し、祝福した」時のこと。
8節 ヨシュアは敵からの分捕り物の内から2部族半の取り分を取らせる。「同胞」は「兄弟」という言葉が使われ、2部族半の同部族の者たち(妻子を守るため残してきた者たち)を指すとも考えられるが、この章ではここまで「兄弟たち」は全イスラエルを指してきたので、ここも分捕り物を各部族で分け合うことを指すと思う。
9節 イスラエルの本拠地は、初期はギルガルにあったが、18章からシロに移った。そこから出発し2部族半はギルアデの地(ここでは彼らの所有地の総称)へと去っていった。「相続地」という語はここと4節で使われている語の他に、20章までで使われている語(日本語訳では同じ)がある。多いな違いはないと思うが。
10節 カナンの地(ヨルダン西側)からギルアデの地(ヨルダン東側)に向かう途中でヨルダン川を渡るが、そこに彼らは巨大な祭壇を築いた。詳しくはヨルダン川の西側の岸辺だったようである。「良く見えるほどに大きい」というのは東岸の2部族半から見えるだけでなく、他のイスラエルからも見える。もちろん、カナンの全地から見えるという事ではないだろう。
11、12節 「うわさ」は原文には無く、ただ「聞いた」。彼らはそのときカナンの各地に別れていたのが再びシロに集結した。まだ戦いに出発したのではなく、「(戦いに上る)ために」集まって、恐らく話し合った。その結果が次節。
13節 人々が考えたのは、全軍を送る前にピネハスを派遣し、調査ないし交渉をさせること。当時の大祭司エルアザルではなく、その子ピネハスが使わされたのは世代交代の時期が近いことを示す。10節以降にヨシュアの名前が出てこないのも、ヨシュアの影響力が老化のために低くなってきたからか。
14節 ピネハス一人ではなく、各部族の代表も同行した。「族長」とされているので各部族の有力者だったと思われるが、名前は挙げられていない。2部族を除く10部族。
16節 彼らは全イスラエルの代表としてその言葉を代弁している。「イスラエルの会衆」ではなく「主の会衆」と言っているのは、彼らの側に主が共にいるとの考えから。つまり、正しいのは自分達だということ。2部族半のしたことを反逆、しかも神に対する反逆と断定している。最初の「反逆」は不忠実の意味で、最後のが「反抗、反乱」の意味。2部族半のしたことを他部族は「自分のために祭壇を築いた」と認識した。この行為が反逆とされるのは、祭壇を築くべき場所は神が指定される一箇所だということ(申命記12:14など)に反し、また「自分たちのために」と言っているよう動機が神からではなく自己中心であることによる。イスラエル全体の統一性を破壊する行為と見なされた。
17節 「ペオルの不義」とは民数記25でイスラエルがミデアン人(モアブ)の娘達と姦淫を行い、偶像礼拝をしたことで、その時にピネハスの行いによってイスラエルは救われた。「今日まで身を清めていない」とは、その時の後遺症が何らかの形でまだ残っていたのだろうか。この事件は第二世代の時のことなので、記憶に新しい。ペオル事件を引き合いに出したのは、2部族半の祭壇を偶像礼拝のためと考えたからかも。
18節 「今日」「明日」とは24時間語の次の日に神の怒りが下るという事ではなく、今日のこの罪が必ず災いという結果を生み出すこと。一部の罪が全体への罰につながることは20節で述べられている。
19節 問題の根本にあることが明らかになる。それは、東側の地が「きよくない」、つまり、本来の意味での「神の約束の地」ではないこと。原則から言えばヨルダンを渡った西側で所有地を得るべきである。
20節 アカンの罪の場合が引き合いに出される。アカン一人の罪がイスラエル全体に災い(アイに敗北)をもたらし、アカンの家族全員が滅ぼされた。民の一体性と神の怒りの強さを人々は経験から学んでいた。
22節「神(々)の神、主」という珍しい表現を2回も繰り返している。2部族半の特殊な言い回しなのか、あるいは使者達の心を落ち着かせるためか、まず神に目を向けさせる。この偉大な神は(全てを)ご存じである。イスラエルも神の知っていられることを知るべきである。この語り方で、これから告げることが神の前に真実であることを印象付ける。もし、「反逆、不信」であるなら「救わないでください」とは「滅ぼしてもかまわない」こと。
23節 もし神に対する反逆なら、神ご自身から罰せられてかまわない、ということ。
24、25節 22、23節では「もし」(if)という語が繰り返されたが、この節は「if-not」という表現を使って、これまでのifを強くうち消している。これまでの憶測ではなく、「事実は」。彼らの動機は、恐れ(心配)から。すなわち、地理的分離という根本的問題が、宗教的分断というより深刻な問題につながること(25節)。今すぐでなくても「子孫」の時代に起こり得る事態。ここで、2部族半の子孫が自ら言うのではなく、他のイスラエルの部族の子孫が、彼らを差別するように表現しており、彼らが自分から離れるのではないことを示している。
26節 確かにこの祭壇を築いたのは「私たちのため」だが、それは利己主義ではなく、彼らの信仰と宗教的生活を守るため。2種類のいけにえは他にもいろいろある祭儀の代表として挙げられている。
27節 新改訳では結局は生贄をささげるようにも読める。むしろ、「....ささげて、主の前で主に礼拝するための、証拠として」と読む方が良い。
28、29節 ここは前節までのことの繰り返し。必死に説得しようとしている現れであり、彼らの無実を強調しようとしている。「祭壇の型」とは実際の祭壇ではなく、その形をしていることを言い表そうとしている。
30節 「満足した」は、直訳すると「彼らの目に良かった」。見たのではなく聞いたのだから、慣用的表現として「満足した」と理解して良い。
31節 祭壇が両者の間に存在するように、主が彼らの間にいることが理解された。それは2部族半が罪を犯さなかったことにより、イスラエル全体が罪の罰を受けずに済んだためであり、その意味で、2部族半がイスラエルを「救った」とされる。
32、33節 12節で起こった問題が終結する。人々は神を誉め讃えた(直訳は「神を祝福した」)。

(上に戻る)  (メニューに戻る)

説教の中心とアウトライン

時間が無いので簡単に。

第一ポイントでは、イスラエルが神の民として一体化するためには神の言葉に従う、という原則が強調される。もし御言葉に忠実に生きるなら、問題はあり得ない。でも、人間はそれができないために様々な問題が教会の中にも起こる。

第二ポイント。神の民の一体性を壊す原因は罪だが、具体的には他者を裁く心、愛による配慮の欠如、といったことが問題を悪化させる。また、罪による影響は他者にも及んでしまう。

第三ポイントは、若干「飛ぶ」が、解決となったのは、祭壇を「証拠」とすること。これは、祭壇の持つ「罪の犠牲」という十字架のモデルとしての側面を考えるなら、クリスチャン同士の関係も十字架による仲立ちが必要であることを思い起こさせる。兄弟間の問題のためにキリストが死なれたのではなく、十字架によって赦されたものであることを覚える時に、問題が問題ではなくなっていく。

(上に戻る)  (メニューに戻る)  (説教原稿を読む)