ヨシュア記からの説教(その9)

 

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テキストの範囲

ヨシュア記からの説教もいよいよ大詰めとなりました。今回の範囲を決めるに当たっての課題は、23章と24章を分けるか、一緒に扱うか、です。それぞれの内容は、23章が全イスラエルを前にしてのヨシュアの告別の言葉、24章はシケムでの契約に関して、及び最後の部分はヨシュアの死とその後に関しての短い記述です。最後の部分は置いとくとして、シケム契約と告別説教との関係です。本書内での時間経過から考えると、両者は同時では無いと考えられます。状況設定(ヨシュアと全イスラエル)は共通していますが、23章では場所が挙げられておらずに時間設定(23:1)だけが述べられ、逆に24章は時間は曖昧だが、場所ははっきりと記されています。24:1の「集め」ということばが23:2の「呼び寄せ」と同じ動作を別の表現で述べていると見るのは無理がありますので、少なくとも場所を移動して契約が行われたと見るのが自然でしょう。

では、二つの事件は別のメッセージを伝えるために書かれたのか。それを探るには、まず「何故シケムなのか」という疑問から入らなければなりません。他にもギルガルなどの重要な場所があったのに、どうしてシケムが契約締結の場所として選ばれたのでしょう。シケムはヨシュア記ではこれまで、単なる地名として、所有地の分割に際して出てきただけです。それ以前では主に創世記で表れます。第一は創世記12章でアブラハムがカナンの地に着いて最初に礼拝した場所。そのときに神がアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と初めて約束されました。ですからカナンの征服が終わり、その地に安住しようとしているイスラエルに、神の約束を思い起こさせる為だったかもしれません。実際24章は2節からアブラハム以来の歴史を回顧しています。第二は創世記33章でヤコブがシケムで土地を手に入れたこと。このことは32節で取り上げられています。こうして見ると、シケムが選ばれたのは、この地での契約がアブラハムへの神の約束に基づいたものであることを強調するためのようです。

シケムが選ばれた理由を考えてみると、24章は、父祖アブラハムへの約束であるカナンの地を神から賜ったことで創世記(特に12章)から始まるイスラエル民族の歴史の序章が完成したことを意識しているようです。そして、次の士師記から新しい時代が始まるわけです。つまり、24章はヨシュア記の最後であるだけでなく、創世記から出エジプト、そしてヨシュア記に至るまでの大きなブロックの最後でもあります。

そのような24章の位置づけを考えたとき、23章は何なのでしょうか。

23章はヨシュアの遺言ともいうべきものです。相続地をくじ引きにしたが、まだ他の国民がカナンの地に存在しており、彼らの土地を戦い取っていかなければならない状況が残っている。その現実に妥協するのではなく、神の言葉であるモーセの律法に従って、戦わなければならない。そのときに忘れてはならないのが、「祝福と呪い」の原則です。「律法を守り神を愛するなら祝福があり、律法に背き偶像を拝むなら呪いがある」という原則は申命記に特に強調されていますが、旧約全体に良く見られる考えです。ここでのヨシュアの最後のメッセージはモーセのそれである申命記を簡潔にしたもののようです。

この律法の原則に基づいて、契約の更新を行うのが24章です。ですから、この二つの章は律法の厳守を、ヨシュアが民に、そして著者が読者に、勧める働きを果たしています。もちろん、新約の時代に生きる教会にとっては古い契約としての律法を守ることは受け止められないことですが、律法そのものではなく、その背後におられる神ご自身に従うことは、大切なメッセージです。今回は23、24章を通して神に従う決心を、ヨシュアの民と共に学びたいと思います。

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テキストの構造と説教のアウトライン

上に書いた通り、23章と24章は内容的にも地理的にも区別することができます。しかし、24章自体も全てが契約更新を扱っているのではなく、前半と後半に分けることができます。すなわち13節までは過去の歴史を振り返ることであり、「わたし」という一人称による神からの直接の言葉としてヨシュアが語っています。14節からはヨシュアが民に語り、神に従うことを促し、契約を結びます。29節以降はエピローグとして別にして良いでしょう。

そこで、全体の構造は(1)23章、(2)24:1−13、(3)24:14−28、の3部にエピローグとして24:29−33が付け加えられていると見て良いでしょう。もちろん、内容的には重複する部分もあります。23:3、4には過去を振り返る言葉が出てきますし、24:20には「呪い」の言葉が語られています。しかし、これらは短く、その前後の文脈の中で目的を持って語られているので、全体的な構造は前述の通りで良いと思います。

説教のアウトラインを考えるためには、このテキストの主張に関して考えなければなりません。ヨシュアが民に訴えようとしたのは、自分の死後も彼らが神に従う契約を結ぶことでした。そのためにモーセの律法の代表的神学である「祝福と呪い」を前提として考えさせ、神による約束と救いの歴史を振り返らせ、巧みな訴え方によって民が自ら神に従う決意を述べるように導いた訳です。では、著者は、このときの民よりは後の時代の読者たちに、何を訴えようとしたのか。もちろん、著作年代ははっきりとは分かりません。幾つかの表現(例えば、4:9「今日まで」、6:25が示唆するラハブ一族の生存、多くの地名が説明無用なこと、など)から、ヨシュアの時代からそれほどは遠くない時代である印象は受けます。反対に24:31の言葉はヨシュア時代の直後ではないことを仄めかしているようです。例えば、士師記2:10にあるような出エジプト・カナン征服時代を直接には知らない世代が始まって、民が主から離れ始めた時に、神の業を伝え聞いた人々が著者の背後にいた、と考えることも可能です。例え実際に何時であろうと、ヨシュア記が多く語っている、カナンの地が神から与えられた約束の地であるゆえ神に従うことが大切である、というメッセージが必要な世代をターゲットにしていたと考えられます。そのような読者が、ヨシュアの時の民と同じようにヨシュアの言葉を聞き、神に仕える決意をして契約に立ち返ることを訴えるのが、23、24章のメッセージでしょう。

そのようなテキストの主張は、全ての時代の信仰者、特に教会にとっても重要なメッセージにつながります。神に従うことの決意、が、それです。なぜ、従うべきか。それは神の御言葉に基づいています。また、神の救いの恵みを考えることが不可欠です。そして、その決意自身も神から与えられる恵みです。罪から救われるために神を、キリストを、信じる決心をする時だけでなく、クリスチャンが神に従う決意を日々確認することをこのテキストは促しているようです。

以上から、説教のアウトラインはテキストのそれに合わせ、(1)23章、決意の根拠としての神の言葉、(2)24:1−13、決意に不可欠な恵みの歴史、(3)24章後半、決意を促す神の愛、といったものにします。

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今回は、ここまでで力尽きました。次のシリーズから復活したいと願っています。説教原稿は教会のページにあると思います。

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