掲示板では順番が逆(新しい方が上)のため読みにくいので、通常のページの形に変えました。
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今日からスタートです
いよいよ、ネット上での「説教準備」の始まりです。まだ工事中の所もたくさんありますが、徐々に整えたいと思います。(論文執筆の苦しみから逃れるための「現実逃避」にならないように気をつけなさいよ。ハイ)
第1日(その1)
まず、テキストとなる聖書箇所を決めて、何回も読みます。
私の場合は連続講解説教なので前回の続き(民数記25章1節)から、と決まってます。問題は、どこまでか、です。25章全体が1つの事件としてのまとまりを持っていますが、26:1より26章も関連があることが分かります。31章もそうです。でも長くなりすぎるので、とりあえず25章全体とし、26章も視野に入れることとします。
あとからどうしても不都合が見つかったら変更する場合もあります。
自分の聖書(何語でもOK)で繰り返し読む。(お祈り? もちろん)
この箇所を通して著者が(究極的には神様が)最初の読者に(また牧会している教会に、そして誰よりも自分に)語ろうとしているメッセージをくみ取るつもりで読み、暫定的なアウトラインが見つかるまで読みます。
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第1日(その2)
さて、説教のアウトラインを作るためには、まずテキストの構造を見なければなりません。これも見る人によって様々な理解が在りますので、1つだけに絞るよりもいくつかの可能性を見ておくことから始めます。そのなかで一番良いと思われるものを決めますが、あとから理解が深まるにつれ変わることもあり得ます。説教のアウトラインの段階ではテキストの構造をふまえつつ、メッセージを伝える視点からさらに手を加える必要がでることも少なくありません。
民数記の25章では、一連ではあるが二つの事件(18節を見よ)、すなわち1〜5節と6〜9節の後に神からの約束があり、事後的説明(14〜15)で一段落、そしてその後(31章)につながるように25章、および22〜25章全体のまとめ(16〜18節)で終わります。
もうひとつは、4〜13節を中心と見て、1〜5は枠(状況設定)の役を果たし、14〜15(18)は終わりの枠であり次へのつなぎとも見ることができます。この場合ピネハスが焦点となります。
まだ他にもあると思いますが、それらをテキスト、さらにモーセ五書の文脈の中で、評価していきます
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ようやく、第2段階です(その1)
(いろいろと手間取って、肝心の説教準備を書くのが遅くなりました。実際の説教準備でも、牧会上の様々な理由で説教準備が滞ることがありますね。気をつけないと第一とすべき物が後回しになりやすいですね。)
さて、説教のテキストとなる箇所を何回も読むのですが、その前後の箇所、その書物全体(私の場合、民数記)、さらに関係のある他の箇所(民数記ならモーセ五書)にまで範囲を広げながら、文脈の流れや前後関係をつかみます。その間、最初に考えたアウトラインを確かめたり、逆に修正したりしながら読み進みます。
この「読む」間にいろいろな疑問(テキストの意味に関することや、神学的問題など)やアイデアがわいてきますが、直ぐに疑問を解こうとしないで、(頭の中、メモ、あるいはコンピューターの画面、どこでもいいですが)書き留めておきます。新しく発見したことも残しておくと良いでしょう。
これらの「データ」を用意してから、いよいよ原語で読み始めます。最初から原語で読んでも良いのですが、ある程度疑問を持ちながら読む方が、得る物が多いようです。日本語訳のチェックや自分の訳を作るだけに終わらないためです。日本語では関連があるように見えたのが実際は違う場合や、気がつかなかった関係を見つけるのもこの段階の楽しみです。
読み進む合間に、この箇所から「語りたいこと」がたくさん沸き出してくると思います。私の場合は、車を運転しているとき、寝床に入ったとき、あらゆる機会に頭に入った情報を思い出します。すると自然にメッセージが生まれてきます。でも、これはまだ「断片」に過ぎません。
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第二日、その2
1節。シティムでの「滞在」は霊的停滞を示唆しているのだろうか。留まるも進むも神の命令(民9:23)ならそうとも言えない。 「し始めた」は「身を汚す」意味の動詞が使われているが?「みだらなこと」(姦淫)との関係は? 「モアブ」の娘とあるが、ミディアン人(22:1〜4、25:17〜18、31章)との関係は?
3節。「慕う」は「結びつく」こと。 「主の怒りが燃え上がる」とは、ただ怒っただけか、それとも「神罰」が始まったことか。
4節。「民のかしら」とは誰のこと?「さばきつかさ」(5節)などとの違いは? なぜ民のかしら達を処刑することが神の怒りを静めるのか。神の意図は?
5節。モーセがさばきつかさに「配下のもの」を殺すよう命じたのは、神の命令(4節)に反しないか。
6節。民の「嘆き」は悔い改め、それとも処刑の命令(またはすでに始まった処刑)に対する悲しみ? かの「一人のイスラエル人」(ジムリ)はモーセや涙する人々の前を通って来た。無神経?
8節。「奥の部屋」はここだけの特殊な言葉。「腹」と共通の語源であるのは、意図的か? 「神罰」(新共同「災害」)は何か。剣による処刑か神からの災害(疫病?)か。
9節。「2万4千人」と26章の人口調査との関係。
10節。神の「ねたみ(熱情)」とは? 「神のねたみを自分のねたみとする」ことと、自分の怒りを正当化することとの違いは? 神はイスラエル全体を「絶ち滅ぼす」つもりだったのか。
11節。なぜ「平和の」契約と呼ばれるのか。 ピネハスの行動と「罪の贖い」の関係は? 永遠の祭司職は実際には途絶えたようだが?
14節。「父の家の長」と「かしら」(4節)の関係? シメオンとレビの関係(特に創世記49:5〜7との関連)。
15節。ツルは31:8と同じか。
16節。31:1〜2とのつながり。26〜30章との関係は? 「襲い」と「ツル」は言葉の遊び?
まだまだ、出てきますが...
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No 3
これらの疑問は直ぐに解決しない方がより深く考えるための導入となります。こんなときに注解書などを見ると、たいてい自分の疑問は取り扱っていないか、見当違いの扱い方をしていることが多いし、間違いも少なくありません。参考書を開くのはもっと後の方が、間違った先入観を持たなくて良いでしょう。
この段階の「材料」がすべて説教に結びつく訳ではありません。どちらかというと関係ないことも含まれます。あまり脇道で時間を潰さない方がいいでしょう。私もつい趣味的興味で道草をしてしまうことが良くあります。それはそれでいつか価値が出てくると思いますが。
牧師の説教準備には、学者の研究と違い、短い時間との勝負となることもあります。近づいてくるゴールを横目で見ながら、適当なところで次の段階に進む必要もあります。
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第2日(その4)
私が比較的早い段階で、テキストの構造だけでなく、メッセージのアウトラインも考えるのは、いろいろな理由があります。
テキストを読み深めていくときに、常にメッセージを視野に入れることができます。理想的、あるいは学問的には、客観的な聖書研究が全て終わってから、その結果であるテキストのテーマに基づいて、メッセージのアウトラインを作るべきなのかもしれません。しかし、結局人間は自分の先入観でテキストを読み、釈義にも前解釈が深く影響するものです。それを無自覚で読み進めるより、初期的なメッセージを自覚しながらそれを修正する方が、テキストの主張により近づけるのではないかと思います。(ここいらへんのことについてはホームページに載せた「方法論に関する小論文」を参照して下さい)
また、メッセージの対象である会衆を視野に入れることで、神学的問題を、牧会的配慮をしながら考えることができます。もちろん、時代錯誤にならないためにも、現代の私たちの疑問とテキストの作られた時代の人々の疑問の違いがあることも忘れてはいけませんが。
なによりも、やむを得ず途中でメッセージ原稿を書き始めなければならない場合でも、すでにアウトラインを手にして、また不完全(あるいは「生」)ではありますが、テキストから得た「材料」を豊富に持っているので、困ることはありません。
机上の空論より、できるだけ実際の牧会者の作業に適した説教準備を、と思っています。
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第3日の前に
本当は「第3日」とか「第3段階」のように「第3」という言葉を使わない方が良いのかもしれません。基本的にはこれらの「ステップ」は、直線的なものではなく、循環的(オズボーンの言葉を借りれば「螺旋的」)であるべきと思うからです。ある段階が終わったらそれまでの事は忘れ、ただその結果だけを次の段階に役立てるということではなく、新しい段階に入ったら必ず前の段階に戻ることが必要です。
第1日に「読んで」、第2日に細かく分析をします。すると今まで見つからなかったことを発見する。そうした後に新しい見方で読むことができるようになります。必然的に前に考えたアウトラインやアイデアは見直さなければならなくなります。ですから、再び「読む」必要が出てきます。次の段階に行っても第1、第2のところに戻ってくる。これはエンドレスです。
完全な理解はできないことです。だからと言って理解する努力を怠って自分の主観的な思いこみに閉じこもることも問題です。今理解できることは一部分でも、そこから一歩ずつ理解を深めていく真摯な態度が聖書を読む者に求められる態度です。
とは言うものの、実際に説教に従事する者にとっては毎週毎回の説教奉仕の責任をはたさなければなりません。ですから、一つの目安としてのステップはどうしても必要です。時間の制約の中で、時には神様の助けを仰ぎつつ、次へと進む。ですから有限な存在である私たちは、祈らないで説教準備はできないのです。
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第3日(その1)
今までに見つかったことを元にして、テキスト全体が告げようとしているメッセージを考えます。ジグソーパズルのようにこれとこれを組み合わせたらこれがでてくる、と言うようなモノではありませんから、イマジネーションが必要になります。しかし、単なる主観的思いこみにならないためにもガイドラインは必要です。
テキストには少なくとも3つレベルの(しかし無関係ではなく、テキストによって密接に結びついた)コミュニケーションが含まれています。(1)テキストにおけるメッセージ。テキストの中で誰かから誰かへのメッセージです。申命記25章では神からモーセを通しての民への語りかけ、またこの事件全体を通しての民へのメッセージです。(2)テキストによるメッセージ。この箇所は事件より後の時間に書物としてまとめられました。申命記の著者からその受け取り手へのメッセージの一部としての25章です。おそらく、ヨルダン川を前にしたイスラエルに対するモーセからのメッセージ、あるいはカナンの地に入りやがて定着していく将来の民へのメッセージです。(3)テキストを通してのメッセージ。申命記は旧約聖書そして聖書全体の一部であり、この聖書を正典として受けた教会へのメッセージがあります。これは聖書を結集した聖霊から初代教会とその後の教会への語りかけです。
それぞれのメッセージはある場合には直接的に、しかし多くの場合は間接的に受け止める必要があります。歴史的文化的違いを無視して現代の教会に適用することの危険性に注意しなければなりません。しかし、今の私たちに語ろうとしている聖霊の導きを信じつつ、間違いをする可能性があることを認めつつ、委ねられた教会へのメッセージを見つけ出して行きます。
このコミュニケーションという側面に目を向けることの他に、いくつかの指針があります。もしテキストの語ろうとしているメッセージを見つけられないときには、例えば神学的枠組みを当てはめるやり方があります。もちろん読み込みにならないようにこれまでに見つかったテキストからのデータを優先させる必要があります。古典的な枠組みとして「神・罪・救い」というのがあります。特に罪とそれに対する救いというのは、そのテキストの中で提起されている問題(罪)と神からの解決(救い)という形で頻繁に現れます。もちろんクリスチャン生活に対する教えも、成長のための奨めもあります。
時にはあるテキストは問題を深く描き出しても、(一つの書全体を扱うのでなければ)解決までは提示していない事もあります。その場合にはテキストを越えて書全体、あるいは聖書全体にまで視野を広げます。
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第3日(その2)
申命記25章では、まず神から民への語りかけが3回出てきます。4節(+5節)、11〜13節、17〜18節です。一つ目で民の罪に対する神の罰と指示が告げられます。二つ目では救いの理由と宣言、また約束が語られます。三つ目ではさらなる命令が与えられます。
第一の命令は偶像礼拝に対する神の怒り(恐らく疫病)がイスラエルの中に燃え広がっている状況で語られます。それは、この神の怒りを沈める方法は中心となって偶像に走った「かしら」たちを殺すことでした。もし4節のモーセの命令が神の命令に反していないのなら、裁判を司っていたリーダーたち(出エジプト18:21)の下にいた「かしらたち」、おそらく大家族の長と思われます。
民の嘆き(6節)は悔い改めの涙か、神の裁きの厳しさに対する嘆きか、一族のかしらが殺されることの悲しみか、あるいはすでに起きている神罰の苦しみか、はっきりとは分かりません。しかし、そのような涙の場面にジムリとコズビが現れます。罪を罪と思わぬような行いであることを背景にピネハスの行動は理解されます。
第二の言葉は、そのピネハスの行動により神罰が止んだことを裏付けるもので、さらに永遠の祭司職の約束が与えられます。神の「ねたみ」をいかに理解するかが重要なカギとなります。また、何故彼の行いが「贖い」となったのかも考えます。
第三の命令はこれ自体で一つの段落となっているため、文脈を広げて見る必要があります。25章全体はもちろん、ミデアン族とベオルの子バラクとの関係、ペオル事件とバラムとの関係を考えると22章から始まった出来事を視野にいれます。また25:19(ヘブル語)を考えると25章と26章以下が結びついていること、また31章にもつながっていることが理解できます。
特に26章の人口調査の目的を考えると、戦いの備えとともにカナンでの土地分与、また神との関係における生活全般まで含んでいることを考えると、ミデアンを打つことは土地を奪うためより(32:33)、彼らの偶像礼拝と姦淫を再び受け入れないため(31:16)であることが分かります。
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第3日(その3)
25章の中でのミデアンによるバアルペオル礼拝への警告は、ヨルダン川を渡る前(申命記)または渉った後にカナンを征服する(ヨシュア記)イスラエルにとっては、カナンの地の民族たちによる偶像礼拝への警告であり、彼らを聖絶しなければならない神学的理由となったでしょう。さらに後の時代にとっても周りの国々の偶像礼拝への警告としてのメッセージは保たれて行きます。そこには結果的に外国(異邦人)への警戒と拒絶も含まれてきます。ところが異邦人伝道が始まる新約時代になると、偶像礼拝への警告は無くなるわけではありませんが、外国への警戒・拒絶はテーマから外れてきます。
新約時代には、旧約における戦いは「霊的」な意味として捉えられるようになります。それは内なる罪に対する戦いであり(ヘブル12:4)、世を支配する悪の原則に対する戦いです(エペソ6:12)。
もし、そのような意味で民数記25章を見直すならば、ジムリの罪の意味を深く掘り下げる必要が生まれます。彼の動機に政治的な側面があるとするなら、特にそれが創世記から始まるシメオン族とレビ族との関係に目を留めるならば、偶像と結びつくことによりレビ族に代わってイスラエルの指導的地位(ヤハウェ礼拝と祭司・レビ人の関係)を奪おうとした可能性が現れます。剣による暴虐の罪の故にヤコブから呪いを共に受けたレビとシメオンが(創世記49:5〜7)、方や主に身をささげて従うことで祝福に預かったのに対し、方や偶像と結びつくことにより神罰の対象となり衰退していく。そのことがこの25章のジムリとピネハスに象徴されているように考えられます。したがって、ジムリの罪は神に対する表だった反逆となる罪であり、神の民を自分が支配しようとする罪です。
イスラエルを教会と同一視するのは無制限にすべきではありませんが、神の民としての共通する部分があります。キリストの教会を破壊するのは、異なる宗教や間違った教え以上に、神への不服従と自己中心の欲望であり、世の中の原則に習う生き方です。この罪から教会を救うのは、神のねたむほどの愛を具現化した十字架の贖いであり、人となった神の子が人の罪と共に刺し通されたことによるのです。この贖いにより救われた者たちに対し、神は罪との戦いを命令されます。尊い御子の血と肉により贖われたキリスト者が罪に染まり滅びの道を歩まないために、断固として罪と戦う姿勢が必要になります。
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第4日(その1)
さていよいよ説教を構成していきます。この段階はかなり直感や経験による部分があるので説明しがたいものもあります。できるだけわかりやすくとは思いますが。
まず、第一に何を説教の中心とするかです。もちろんテキストの中心からずれてはいけませんが、テキストの主張にはある程度の「巾」があります。コミュニケーションの3つのレベルはそれぞれ基本的な部分で重なっているとしても時代や受け手の違いによりそれぞれの固有の主張があります。ですからどこにフォーカスするかによりテキストの中心的メッセージは、少なくともその方向性が変わります。
またそのテキストの中心メッセージを牧する教会の現状に当てはめる場合に、教会によって違いが生ずるはずです。ただしこれらの違いは相反するようは違いではなく、テキストを中心として有る程度の誤差の範囲であるべきです。
この説教の中心を核にして説教のアウトラインをテキストのアウトラインを参考にしながら形作ります。必ずしもテキストの構造がそのまま説教の構造である必要はありませんが、できるだけテキストの論理を尊重する形になるように心がけます。
説教のアウトラインは説教の中心をサポートするものです。しかし同時にアウトラインとその後の肉付けが進む中で、説教のポイントが修正されることもあり得ます。
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第4日(その2)
説教の骨組みができたら肉付けをします。まずアウトラインをもとに説教の論理的展開を整えます。結論が説教の中心に結びつくように展開を定めていきます。その途中でもテキストとの関わりを振り返るようにし、説教の展開がテキストを無視しないように気をつけます。
個人的には展開は3段階にするのが好きです。別にこだわりませんが。スリーポイントをもとに説教を部分的にまとめていきます。
肉付けには、テキストを理解するために必要な説明、テキストから持ち上がった疑問とテキストが示唆する解決、などがあります。テキストから発見した多くのデータを全て用いるのではなく、説教の中心と展開に必要なものだけに取捨選択しなければなりません。あとで原稿を各段階でも、不必要な情報を切り捨て、なるべくすっきりとした流れとすることは大切です。もっとも、ついたくさん話したくなるのも人情ですが、知識のひけらかしにならないように気をつけます。
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第4日(その3)
細かい表現を考えながら原稿を作り上げていきます。会衆が理解しやすい言葉を選びます。
必要に応じて、イラストレーションを用いたり、ポイントを効果的に伝えるための表現を選びます。豊富な語彙と受け手の理解が必要です。
実際に原稿を書くにしても、頭の中で練り上げるにしても、実際に語ることを想定しないと、聞き難い言葉使いになりがちです。
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第4日(その4)
時間が有れば一晩「寝かして」もう一度点検できると良いのですが、私もあまりできません。疲れや重い患いがあると集中できなくなります。ベストの状態で望みたいものですね。
さて、書き忘れましたが、説教の中心が徐々に固まっていく段階で大切なことがあります。中心メッセージは会衆に訴えるものですが、それは自分が神に代わって語るのではなく、まず自分も会衆の一人であり代表であることを覚え、会衆に先立ってまず自分が神様から語られていることを意識します。このメッセージは誰よりも自分に向けて語られている自覚です。
会衆を裁いたり、自分の考えで教育しようとするのは、ありがちですが気をつけなければなりません。まず自分が裁かれ戒められ、そしてその自分に語られた神の恵みを携えて講壇に上りたいものです。
この説教準備の、特に後半は主観的な面が強くなってきます。行き過ぎには気をつけなければなりませんが、説教は説教者と不可分です。最終的には「私」が語らせていただく、その意味での主観性を持たないと、血の通わない説教になる意見もあります。足らない存在である自分が神の御言葉を取り次ぐことにおそれを持ちつつ、またこの自分を通して語られる聖霊の働きに期待します。
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当日
実際の説教は教会のホームページからアクセスできます。
その後(その1)
説教の後は大抵悩みます。語りきった爽快感を持つこともたまにありますが、むしろ「ああすれば良かった」「足らなかった」「言い過ぎた」など、後悔のし通しです。でも自分に栄光を期さないためにも、キリストの教会を愛し養って下さるお方にお委ねします。
その後(その2)
この説教準備は完成品などではなく、自分でも恥ずかしい位に穴だらけです。これからまた次の準備を進めながら、少しずつであっても、改良していきたいと思っています。これをごらんになった方からのご意見があれば、とても感謝です。
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