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新しい準備の始まりです 2000/08/08 00:22

さて今回の説教箇所は民数記32章です。25章から一気に飛びました。一応26〜31章は前回の説教の中で簡単にですが触れましたし、26〜30,特に30章は難しい。正直言って分からないところもあります。聞く側もあんまり退屈なところが続くのも大変ではないか、と言い訳しながら32章を読み始めます。33章は旅程のまとめであり、34章以降は相続地についてなので、主に32章だけを取り上げます。
(なお、その次は34〜35章で、いよいよ民数記もおしまいとなります。この時期になると、次の書を選ばなければなりませんが、祈りつつ、決めていきます。いつものように新約聖書から選ぶ順番です。前回は黙示録、また他の説教者の方が福音書を扱って下さるようなので、恐らく手紙になります。)

No.2 2000/08/10 11:56
さて、32章はどのような流れの中に置かれているのか。前後との関係を見てみたい。
31章でミデアン(+モアブ)との争いが一段落する。その意味で32章はイスラエル内部の問題という新しいテーマが始まる。同時に連続しているテーマもある。まず土地分配については26章で人口調査の後にわずかに触れられているが、具体的な事は出てこない。27章にも出てくるが、これは明らかに36章とつながっている。いよいよヨルダンを渡って約束の地を与えていただくことを待ち望んでいる状況で32章の事件はおきている。
第二のつながりは家畜である。31章の戦いの結果、多くの家畜を手に入れた。(ここで戦いと略奪の倫理的問題も出てくるが今はそのままで読んでいく。)財産が豊かになってきた、そして目の前には住民のいなくなった土地。現実的に考えればルベン族・ガド族の願いはよく分かる。しかし、もし28、29章とも関連があるとするならば、その家畜は神様にささげることも考えられる。事実、31章の終わりで隊長達は命が助かったことを神に感謝し、供え物(飾りものだが)をささげている。
33章からは、今までの旅程を振り返ることで旅の終わりを示し、約束の地に話題が集中している。ここでもゴールが近づいてきた状況であることを示している。

No.3 2000/08/10 11:57
32章全体の流れと構造を考える。前半はルベン・ガド族とモーセとの対話が主な要素である。状況の説明の後、両部族からの要望、モーセの反対、両部族から新しい条件の提示、モーセの了承としての命令、両部族の誓い、と続く。
後半は、イスラエル全体の中での確認が再度モーセの命令と両部族の服従の誓いでなされ、その後、両部族(+マナセの半部族)がモーセによってヨルダン東岸の土地を与えられることで最初の要望が実現する。
最後の部分(33〜42節)を結末と見るならば、3〜32節のほとんどがモーセと両部族の会話で終始していることに気がつく。そこに一つの構造を見て取れる。第一部分は1(3)〜15節で要望と反対。第二は16〜19の新しい提案。第三はモーセの命令と服従の誓いが2回(違いもあるが共通する事が多い)。もちろん対話であるからこのようにすっきりと切れているのではない。つながりを持ちつつ、会話の内容が発展している。
もし16〜19節をその後と結びつけるなら1〜15節と16〜27(または32)節が主な部分と見ることが出来る。まだ細かい点を見なければ分からないが、今の時点では次のような構造を想定する。

No.3 2000/08/10 11:59
1.ルベン・ガド族による要望とモーセの反対(1〜15節)
   (1)状況設定(1〜2節)
   (2)両部族の要望(3〜5節)
   (3)モーセの反対(6〜15節)
2.両部族の提案と了承(16〜42節)
   (1)両部族の提案(16〜19節)
   (2)モーセの命令と両部族の服従の誓い(20〜27節)
   (3)イスラエルへのモーセの命令と両部族の誓いの宣言(28〜32節)
   (4)両部族とマナセ半部族の要望の実現(33〜42節)

No.4 2000/08/10 12:01
さて説教のアウトラインですが、ルベン・ガド族の要望と提案、そしてモーセの承認を含めたこの事件の評価を軸にします。
1.約束よりも目の前の利益を求める選択
2.献身的に見えるが人間の計算による解決策
3.妥協による受容と神様の評価
このままだと大変否定的な要素が強いのですが、反面教師として見れば、選択において神様の御心に従うためには(1)現実の利益よりも御言葉の約束を信じる、(2)自分の願いを通すのではなく御言葉による奨めに従う、(3)たとえ間違った選択をしても神様は哀れんで下さっておられるから早く立ち返る、というアウトラインと見ることもできます。

No.5 2000/08/18 15:13
しばらくの間ここに書き込むのが滞ってしまいました。原因は? 行く詰まりです。
前回の準備同様に、テキストを原語で読みながら様々な情報を集めて行きました。ところが、まとまらないのです。少なくとも「これだ」と言うものがつかめない。こういうことが時々(よく?)あります。もっと時間をかけて読み進めれば良いのかもしれませんが、もちろん時間制限もあります。
方法というのはあくまで理想的に事が進んだ場合であって、実際には様々な要因のためうまく行かないことが少なくありません。そんなときにどうすればよいのか? 私も教えて欲しいくらいです。でも、「会衆に必要な御言葉の恵みを神様は必ず用意していて下さる」と確信する時に、何らかの方法で道が開けることが有ります。

No.6 2000/08/18 15:23
まず一つ目の「手」は、自分の弱さを認めることです。聖書の中には分からないことがたくさんあります。どんなに学んでも全てが分かるわけではない。自分は全て知っている、という方が問題です。それ以上成長が無いからです。
第二に方法にこだわらない事。こんな事を言うとこのページの存在そのものに反するようですが、どんな完璧と思えるような方法が作れても、それでも御言葉はその上を行く。だから自分の方法を御言葉より上にするのではなく、逆に御言葉によって方法論そのものが作り替えられていく。
第三に、謙虚になって人の言葉に聞くことです。普段は「注解書なんて」と思っても、いろいろな人のコメントの中には、「アーメン」と思うことがあります。そこに突破口が含まれることもある。もちろん、あとからテキストに戻って吟味する必要はありますが。
あとは祈りつつ待ち望むことです。
(気分転換も良いですね、時間が許せば、ですが。)

No.7 2000/08/18 15:36
さて、今回のメッセージで最も問題となったのは、この二部族のしたこと、及びモーセの処置の評価です。特に神様はどのように思われたか、です。テキストもその前後にも明快な答えは出てきません。その何もおっしゃらない、ということの意味は? まさしく、「沈黙からの議論」です。
今の所、「正解」は見つかりません。でも、今までの経験と「カン」から考えられることは、神様が意図的に具体的評価を示されなかった、もし示したならば答えは明らかにネガティブなものになろうからです。
私たちは祈りつつも結局は自分の意志・願いを優先させ、結局はやりたいようにしてしまうことがあります。それでも神様はそれを(少なくともそのときは)受け止めて下さることがあります。もちろん、神様の時に正して下さるのですが。
クリスチャンの人生はいつも100点ばかりをとり続ける優等生ではないでしょう。むしろ失敗だらけ罪だらけかもしれない。でも間違ったことを通しても神様は私たちを成長させて下さることがお出来になる。神様は、そんな懐を深いお方です。
もちろん、それが、無条件に自分の欲望を満たして良いというのではありません。報酬を支払わなければならないこともある。そこの所のバランスは大切です。

No.8 2000/08/18 15:49
今回のもう一つの「敗因」は、通訳の無かったことです。私の奉仕している教会では通常、ノン・ジャパニーズ・スピーカーのために通訳があり、説教者は完全原稿を礼拝前に通訳者に渡します。でも月に一回は通訳のない週があり、今回自分の時にその通訳なしとなりました。そのため、原稿を仕上げるのが数時間遅くて良い、という「誘惑」に負けてしまった。つい楽な方に流れてしまう自分の弱さを感じます。
とにかく、そのような訳で、今回はここに書き留めるよりも先にタイムリミットをなってしまい、(もちろん実際の説教を優先させますので)原稿が不完全でまだ頭の中のものを書き出していないうちに説教へと向かうことになりました。以前は私は原稿なしでアウトラインだけを目の前に置いて説教するタイプでしたが、久しぶりにそれをしたら、ちょっとやりにくかった。
いつも説教のあとは、爽快感よりも後悔が先に立つのですが、今回もそうです。でも、自分でうまくできたと思うときに必ずしも良い説教が語れた、という訳でもないのです。むしろこんな不完全なものを神様が用いて下さることが素晴らしい恵みです。今回も決して誉められた説教ではなかったと思いますが、会衆の一人一人に神様が語りかけて下さったことを信じます。

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