今週のBGMは「Messiah 36」(Hendel)。
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エペソ書からの説教(その10)

 

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テキストの範囲

(ずいぶんと長いことお休みしてしまいました。せっかくシリーズで続けてきたのに、尻切れトンボになってしまったのは全く自分の力不足です。あくまで実験的なサイトでしたが、あと少し、出来る範囲でやってみます。将来は形を変えて再開するつもりですが、どんなページになるかは分かりません。たぶん、エペソ書講開が終わったらしばらく論文に専念するために書き込みはほとんど出来なくなると思います。消滅しない程度に維持するつもりですが。そんなわけで、あとちょっと、ファイト、ぉー。)

エペソ書後半は、他のパウロの手紙と同様、倫理的教えと見なされ、前半の教理的教えと対比されることが多いと思います。その中でも、5章22節以下は夫婦に関する教えと考えられ、親子、主従関係についての教えが続き、キリスト者の社会倫理などとも呼ばれます。確かに同様の勧めは他の手紙(コロサイ3:18−4:1、第一ペテロ2:13−3:7)にも見られます。しかし、よく読むなら、これらは単なる道徳的教えではなく、実践的すすめと同時に神学的内容にも関わっていることが判ります。従ってエペソ書全体の神学的内容と切り離してこの箇所を見るべきではないと思います。

まず、あえて神学的内容は無視して、形式的にこの箇所を見てみます。その後で神学的考察に進んでみたいと思います。

形式を考えると、すぐに目に付くのが「妻たちよ」という呼びかけです。25節には「夫たちよ」、6章1節には「子どもたちよ」、4節「父たちよ」、以下「奴隷たちよ」「主人たちよ」と並びます。明らかに「妻:夫」、「子:父」、「奴隷:主人」という三つのペアから成り立っており、それぞれに対する勧めと考えられます。それぞれが社会的関係の基本とも言える対ですから、「キリスト者の社会倫理」と見られるのは当然です。したがって、5章22節から6章9節までが一つのまとまりとなり、それが三つの部分から成り立っていると考えられます。

さて、上述の考察に対して納得できない理由がいくつかあります。まず、5章22節は命令形を含んでいません。翻訳では補われているだけです。もちろん対になる25節では命令形で「愛せよ」となっていますから、この翻訳が間違いだと言うわけではありません。(夫は妻を愛せよと命令されているが、妻には従うべき命令は与えられていない、というのは間違いです。) 文法的には、21節の「互いに従いなさい」を受けて「妻たちは夫に」と書かれているので、必然的に「夫に従いなさい」という意味になるわけです。

では、5:21の「お互いに従え」を序文として加えて、「妻は夫に従え」、「子は親に従え」、「僕は主人に従え」と見れば良いのかというと、それも少し違います。21節も、実は命令形ではなく分詞形を使っています。分詞形を命令形の代わりに使うことはあり得ますので、意味は命令なのですが、前後の構文を見ていくと違った面を見いだします。この分詞は19節から始まっていて、19節「語り、賛美せよ」、20節「感謝せよ」、21節「互いに従え」というように並んでいます。そして、これらの分詞は、18節の「聖霊に満たされよ」という命令形に従っていると考えられます。つまり、御霊に満たされるとは、賛美と感謝と、そして互いに従うことに結びついているわけです。聖霊に満たされること抜きに22節以降の「勧め」はあり得ない、つまり単なる道徳的教えではあり得ないわけです。

もう一つ、引っかかるのは、夫婦論と結びつけられている教会論です。「キリストと教会の関係」を模範として「夫と妻の関係」を語っているのですが、「キリストと教会」は単に引き合いに出されただけなのでしょうか。5章22節以降の流れだけを見れば、この部分で主となるのは「夫と妻の関係」で、「キリストと教会」は従になります。しかし、エペソ書全体をみるならば、教会論は大きなウェイトを占めているので、単なる付け足しではすまされない気がします。つまり、「夫と妻」について語っていながら、同時に「キリストと教会」についても教えていると考えられるのです。

以上をまとめると、次のように考えられます。まず、翻訳で見られるほどには5章22節以下は独立した単元ではないと言うことです。したがって、必ずしも三つのペアという構造を堅守する必要はないと思われます。むしろ、聖霊に満たされること、そして互いに従うこと、といった流れの中でここを見ていくべきです。第二に、エペソ書全体のテーマ(の一つ)である「教会」を考える上で5:22−33は6:1以下とは同等ではない、と言うこと。6:1−9がより社会的関係であるのにたいし、夫婦関係は(社会の人間関係の基本であると同時に)神学的関係でもあると思います。むしろ、夫婦関係を教えつつ、教会論が語られていて、神学的部分と実践的(倫理的)部分とが融合されているのではないかと考えられます。

こうした理由から、今回はその前後を視野に入れつつ、5章22節から33節をテキストとしたいと思います。

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テキストの構造と説教のアウトライン

まず、このテキストの構造を見ます。先ほどと同じように外見を見ると、22節から24節は「妻に対して」、25節から32節が「夫に対して」、33節が両者に対しての「まとめ」です。しかし、29節から始まって32節に至るまでは、やや曖昧です。29節は28節の「自分を愛するように」を展開させていますが、30節は「教会=キリストの体」を29節の理由としてあげ、31節は30節の「からだ」を発展させて創世記の言葉を引き出しています。32節で再びキリストと教会の関係を夫婦の関係に結びつけています。ですから、単純に「夫に対する教え」とは言い切れない部分があるようです。

今回は、テキストの構造を離れて、ここに上げられている二つの主題、すなわち「夫婦」と「キリストと教会」ということを整理していきたいと思います。ここは決して「夫婦倫理」を教えるだけのために書かれたのではないと考えています。むしろ、夫婦のことも取り上げつつ、教会論を語り、また教会論が理屈だけにならないように実践的な部分(夫婦に対する勧め)と結びつけている、と理解して、結びつけて語られている両者をある程度分離しつつアウトラインを組み立てます。ただし、両者を完全に切り離すのはテキストの意図に反しますから、常に関わらせつつメッセージを進めていきたいと思います。

そういう訳で、第一に夫婦に関して。これも「夫」と「妻」を分けるのではなく、両者を組み合わせて考えます。第二に「キリストと教会」。しかし第一と分離しないように、その間に「何か」を挟みます。「何か」とは何か。第一部分は一言で言えば夫婦のあるべき姿です。第二部分はあるべき夫婦関係によって示されるキリストと教会の関係です。しかし、現実の夫婦も教会も、あるべき姿からはほど遠い。そこに救いの光が必要なのです。そしてその救いこそキリストと教会の関係の土台となるのです。

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テキストの分析(エペソ5:22−33)


21節 すでに最初のところで取り上げたが、ここは分詞で始まり、18節に結びつく。クリスチャンは互いに従い合うべきである。「キリストを畏れて」とは、キリスト自身が仕えるために来てくださった事を考えて、弟子たちも互いに仕え合う、というヨハネによる福音書の言葉を思わせる。

22節 ここも命令形は無く、名詞句になっている。互いに仕え合うのだから当然夫にも従うのだが、特に主に対するような態度で従うことが求められている。

23節 夫がかしらであるのはキリストがかしらであることから導き出されている。しかし、ここでいう「かしら」は体にとって「救い主」でなければならない。決して専制君主ではない。

24節 最初の接続詞アラは「しかし」や「むしろ」と訳すよりも、23節との形式的な対象性を示す。つまり、23節はキリストと夫がかしらであることを述べ、24節は反対に教会と妻が従属することを述べている。

25節 夫は「妻たちを愛せよ」。もちろん「各々の」が省略されている。キリストの愛は後半に述べられる。「ご自分をささげられた」(新改訳)よりも「渡された」のほうが良い。その場合、死に対してご自分を渡された、具体的には十字架に掛けるものたちに身を渡されたことを指している。

26節 キリストの十字架の目的は、「彼女」すなわち教会を清めて聖なるものとするため。二種類の「きよさ」が結びつけられている。方法は「洗うこと」。「みことばにおける水の洗い」とも訳せるが、新改訳のようで良い。「水の洗い」と「みことば」は前者は与格、後者は前置詞エンを使い、両方とも手段や道具を表す表現だが、並列ではなく異なる書き方で述べている。みことばによる「きよめ」と、水の洗い(たぶんバプテスマを指す)による「きよめ」は別々ではないが一緒でもない。ここではこれ以上の説明はないので追求しない。

27節 「立たせる」の主語は「彼」つまりキリストで、教会が自らの力で立つのではなく、キリストが立たせてくださる。「ご自分の前に」、あるいは「ご自分に対して」。どちらにしても、婚姻の場で花嫁が花婿の前にきよい姿で立つことをイメージさせる。「しみ」や「しわ」も花嫁の着る衣装を思わせる。「そのようなもの」はなんだか解らない。

28節 「そのように」はキリストが教会を愛されたことを指し、後半にかけて「自分のからだ」ということが導入される。これは「教会がキリストの体」であることに結びつき、同時に夫が妻を愛することの必然性(29節前半)へと結びつく。

29節 「自分の身を憎んだ者」とは、自分の体のもつ特性の一部を受け入れられないために拒否する(例えば、身体的欠陥など)こととは違う。受け入れたいのに受け入れられないのではなく、憎む、あるいは無視する。「むしろ」、養い、また「世話をする」。

30節 キリストは私たちがご自分の体の一部であるので「養い、世話をして」下さった。

31節 創世記2:24の引用だが、新改訳の「一心同体」より、「一体」のほうが良い。「(二人は一つの体)に」は前置詞エイスが使われ、「なっていく」という印象を受ける。

32節 1章、3章に続いて「奥義」という言葉が使われる。これまでは異邦人の救いに関してでしたが、ここでは教会とキリストの一体性を指し示す夫婦の一体性を表しています。夫婦のことを述べているのだが、パウロは、実は「キリストと教会」に関して話していると考えている。従って、ここは単なる夫婦論ではないことが明言されている。

33節 最後に、前節では「キリストと教会」だと言ったのだが、「それはそれとして」(あるいは「しかしながら」)と言ってもう一度夫婦に対する勧めを述べてここまでをまとめている。このように語る目的は、次節からの「子と父」、「僕と主人」への勧めにつなげるため。パウロは教会論に注目しすぎて夫婦論を無視したのではない。 夫は「自分を愛するように妻を愛せよ」と命令されている。妻には命令形ではなく、接続法で書かれている。もちろん命令の意味で使われているのだが、夫の妻への愛の結果と考えることも不可能ではない。妻は夫を「敬え」となっており、従うことは尊敬抜きではないことを示す。

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