第十五篇
 
「神と共に生きる人は」
 
私訳と注釈
 
表題
 ダビデの賛歌。
口語<ダビデの歌
 
1節
 主よ、誰ですか、あなたの天幕に宿るのは、
 誰ですか、あなたの聖なる山に住まうのは。
 口語<主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、
あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。>
 
「主よ」「あなたの」「あなたの」→詩人と神との(       )を示す。
 
神の天幕に宿る −
聖なる山に住む −
 
 
 
「主よ」で始まっていること自体は珍しくないが、通常は疑問詞が文頭に来るのが、それよりも呼びかけが強調されている。この節では人称代名詞「あなた」が二回使われ、この呼びかけと共に、詩人の神との個人的な深いつながりの中で読まれていると考えられる。
「誰ですか」を私訳では倒置しているが、通常の位置(・・・のは誰ですか、あるいは、誰が・・・するのですか)でも問題は無い。リズムを取るためにわざとこのような訳にした。この疑問詞は修辞的疑問文(答えが決まり切っているもの)ではないが、次節での答えを引き出すための導入であり、答えを求めるための疑問文ではない。
「宿る」は、例えば創世記でアブラハムがカナン民族の中に「寄留した」ときに用いられる動詞。この場合は一時的(長期でも短期でもよい)に外国人としてその地に住む、という意味で、代々住み着いている住民と同じ権利を持つことはできない。だが、旅人を自分の天幕に入れてもてなし、外的から守る習慣もあったので、単に差別的待遇ではない。神の天幕に住む、というのは礼拝を意味すると解釈することもできるが、確かに神の幕屋に居住するという意味ではないにしても、単なる(年に数回の)礼拝ではなく、神の家に(例え寄留者であるとしても)住むという、神との緊密な関係に入れていただけることと考える方が良い。
「天幕」は一般の人が住むテントを指す事もあるが、ここでは明らかに「神の幕屋」。出エジプト記で、神を礼拝する聖所の中心で、会見の幕屋とも呼ばれ、神の契約の箱が置かれていた。カナン定着以降は時々場所が変わることもあったが、イスラエルの礼拝の場所で、ダビデ時代にエルサレムに移され、ソロモン時代に神殿となる。天地創造の神が小さなテント(長さ約13メートル、高さと幅は約4.5メートル)に入られるはずはないが、神の臨在の象徴である。
「あなたの聖なる山」は、直訳では「あなたの聖の山」。後に神殿が置かれる山(丘)を指し、それを含むエルサレムを指す場合もある。ここでは前半との関係から、神の幕屋を指している。
「住まう」としたのも語調を整え、文の長さを揃えるため。「住む」は一般的な動詞で、特別な意味は無い。前半の「宿る」と並行関係に置かれているので、どちらも特定の住み方を指すのではないことが分かる。神と共に住む、それは礼拝であろうと実際に幕屋(神殿)に住むことであろうと、信仰者にとって最高の場所である。常に礼拝者として生きる幸いを覚えたい。
この節はきれいな並行関係にある。
    主よ、   誰が宿る    あなたの天幕に
          誰が住む    山に        あなたの聖なる
 
後半は「主よ」が無い代わりに、「天幕」(一語)を「聖なる山」という二語にして長さのバランスを取っている。このように二行目で一行目の一部の要素を省略させ、その代わりに他の内容を増やすことで、一行目よりも深い内容を表すことができるのが並行法のメリットである。また、この節では二行とも、疑問詞「誰」、類義の動詞、前置詞「に」を含み、そして各行の最後は同じ人称代名詞「あなたの」で終わっている。このバランス感覚を表すために私訳では各行の長さを揃えてみた。
 
2節
 全き歩みをする者、
 そして義なる事を行う者、
 そして彼の心の中にある真実を語る者。
 口語<直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、>
 
 
「全き」
 
 
「義」
 
 
「心の中の、真実」
 
 
 
 
この節は三つの分詞から成り立っている。それを、前節の疑問文「誰」に対する「答え」として「・・・する者」と、名詞節にして訳した。詩文では分詞で直説法を示すこともあるので、「彼は・・・する」と訳しても良い。ただ、日本語としては「誰」を受けて「彼」とするのは自然では無い。次節ではこの節の「者」を受けて代名詞「彼」が使われる。
「全き」は、「完全な」という意味で、全体が満ちている状態。健康という意味にも用いられる。口語訳は「直く」としているが「真っ直ぐ」という意味は無い。新改訳の「正しく」も意訳。新共同訳は「完全な道」と補って訳している。創世記6:9で「ノアは義しい人であり、全き人であった」というのも同じ語。完全無欠という意味よりも、人間はこうあるべきという神の基準を満たしていること。ウェスレーの「キリスト者の完全」という場合もその意味である。
「歩みをする者」は分詞で、直訳では「歩く者」。ただ、「完全を歩く者」も「完全に歩く者」も日本語では原文の意味と違ってくるので、「歩みをする」と意訳した。ここでは「歩く」は人生を歩む、すなわち「生きる」と同義。
「そして」が二度用いられ、三つの分詞節を結んでいる。三種類の人、ではなく、一人の人の三つの性質を述べている。
「義なる事を行う者」も直訳では「義を、行う者」。「義」は、ここでは救いの意味ではなく、神のご性質の一つである「義」に沿う行為。ある人は神の義を「真っ直ぐ」と説明した。定規が、どの部分を取って他の部分と合わせてもぴったり合うように、生活のどこを見ても真っ直ぐな、神のものさしに沿った状態であること。言うことと行うことが一致していること。
三行目だけが一語長くなっている。並行法では、必ずしも長さが一致する必要は無く、特に文末は他よりも長くするか短くして、セクションの終わりを示すことがある。
「真実」は「エメス」で、アーメンと同じ語源。「心の中にある」は直訳で、日本語としては「心から」のほうがきれいだが、ここの前置詞には「から」の意味は無い。しかし心の中に真実があり、そこから出てくる言葉も真実である、という意味で「心から真実を語る」も良い。「心の中の真実を語る」(新改訳)では、心の中には真実も不真実もあるが、そのうちの真実だけを語る、と理解でき、それでは偽善になる。新共同訳は三つ目の分詞を名詞(言葉)として次の節に結びつけたが、原文の調子を損ねている。
 
3節
 彼の舌の上では中傷せず、
 彼の友人に対して悪を行わず、
 彼の隣人について非難を取り上げない。
 口語<その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、
隣り人に対するそしりを取りあげず、>
 
2節は「する」×3→「      」、 
 
3節は「しない」×3→「      」
 
「中傷する」
 
「友人」
 
「非難を取り上げない」
 
 
 
前節の三つの分詞に対して、この節では三つの完了形の動詞が否定詞を伴って用いられている。接続詞は用いられていないが、元々詩文では接続詞は使わないのが普通。三行の並行法で、前節が肯定的側面を描いていたのに対して、この節は否定的側面を取り上げている。
「彼の舌の上では」は口に出して言わない事。「中傷(する)」は「足」と関係する動詞で、「偵察する」(敵国の弱点を探る)の意味もある。「揚げ足を取る」とは無関係。
「彼の友人」は、日本語としては「自分の」としたほうが自然だろう。「友人」と「悪」は、語源は別だが、同じアルファベットを用いており、同音異義語のようなもの。仲間とか同国人を指すこともあり、異性なら恋人や配偶者を意味する場合もある。「に対して」は、前後の前置詞「アル」とは違う前置詞を用いている。
「隣人」は「近い」という形容詞の名詞化。「ついて」は「上に」と同じ前置詞。
「非難」は「恥辱、汚名、そしり」などの意味。
「取り上げる」は、「持ち上げる」という動詞で、他者が語った第三者の悪口を聞いても受け付けない、ということか、あるいは、それを人の前で取り上げない、すなわち言及しない。どちらにしても悪口はあっという間に広まっていくのは、聞いた事を次の人に語るから。自分のところで留めれば、その先には伝わらない。
第一行だけが短い短いが、第三行は倒置してセクションの終わりを示している。直訳すると、「非難を、持ち上げない、彼の隣人の上に」と、動詞(否定形)が二番目に来ている。
 
4節
 拒否された者は彼の両目に蔑まれ、
 主を畏れる者を重んじ、
 誓って危うくなっても、変えたりしない。
     口語<その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、
誓った事は自分の損害になっても変えることなく、>
 
「拒否された」
 
 
 
信仰者の価値基準は、
 
 
 
2〜3節のように明確ではないが、4節と5節(途中まで)は呼応していると考えられる。並行関係も弱いが、これは前節までで節内部および節間の関係が確立されているので、ここからは結びつきがあることを前提として話を続けることができるから。このように詩の最初(と最後)の部分でははっきりとした並行法が用いられ、詩篇の中程に進むにつれて弱い並行法となることがよくある。
「拒否された者」と「蔑まれ」は、共に分詞形なので、文法的にはどちらが主語にもなりうるが、文脈から前者が主語、後者は述語と考えられる。「拒否された」は次の行にはある「主から」が省略されている。この「拒否する」という動詞は、神が人を拒む場合と、人が他者を(人間、あるいは神)拒む場合がある。神がご自分を頼ってくるものを拒むことはあり得ないので、これは神を拒む者を神も拒む、ということ。また、並行している次の行の「主を畏れる者」の反対である。
「彼の(両)目」がないと、「(神に)拒否された者は(一般的に)蔑まれ」となるが、ここでは「彼」との関係で述べられている。「目」は双数形なので「両目」のこと。
「蔑む」も次の行の「重んじ」の反意語。
「主」が前行に無いのは、長くなりすぎるため。第二行は軽くならないように「主」を入れてある。「畏れる」は恐怖ではなく、畏れ敬うこと。
「重んじ」は「重い」という形容詞と同じ語源の動詞。「重んじる」から「尊ぶ」という意味にも用いられ、名詞では「栄光」(カーボード)になる。神を畏れ敬うことは、箴言では「知恵」であり、ここでは「栄誉」を受けること。逆に主を拒否して、神として敬わないことは、軽蔑に値する。これが詩人の価値観である。人間的な価値観で人を評価していないのである。
「危うくなっても」は前置詞プラス不定詞を用いており、誓った結果として損害を被っても、ということ。つまり、やると言ったことは例え思わぬ結果になろうとも必ず実行する、ということ。ここで「誓い」は神の前に誓うのであり、単に他者に対する約束ということだけではなく、神の前における真実な言動を意味している。
 
5節
 金銭を利息と一緒に貸し与えず、
 また賄賂を無実の者に逆らって受け取らない。
 これらを行う者は、永遠に揺るがされない。
  口語<利息をとって金銭を貸すことなく、
 まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。
 これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。>
 
「金銭」
 
「利息」
 
「賄賂」
 
 
「これらを行う」
 
 
「揺るがされない」
 
 
 
 
「金銭」は「銀」という名詞。金よりもよく用いられる。日本語では「金銀」だが、ヘブル語では「銀金」の順で出てくることが多い。
「貸し与え」は直訳では「与える」で、「利息」を伴うことから「貸す」ニュアンスが加わる。同胞から利息を取らないのは律法による。
「賄賂」は良いことのために受け取ることはあり得ず、不正が目的。ここでは無実の者を有罪にするための賄賂、すなわち偽証のためだろう。もちろん十戒に違反している。
「受け取る」は前行の「与える」と対応しており、どちらも否定詞を伴っている。他者との金銭のやりとりに関して、神の御心に反したことは行わない、ということ。
最後の行は全体の結論にもなっている。「これらのこと」は2節から5節までのこと全て。「行う」は、2節、4節に関しては「行い」、3節と5節前半に関しては「行わない」こと。
「揺るがされない」はその人の生き方が揺るがないこと。それは1節にあるように、神と共に歩む生き方だから。「揺るぐ」は「足」と共に用いられると「滑る」とも訳される。御心に従って生きるなら、悪路にあっても滑って転んだり、あるいは悪しきものに足をすくわれて揺るぐことが無い。これこそ確かな生き方である。
 
 
 
構造
  1節  問題提起、「神と共に生きる人」
2〜3節    全般的生き方、真実に関わって
          2節  肯定的描写  (神の)義に関して
          3節  否定的描写   他者に関する言葉
4〜5節b   具体的生き方、損得に関わって
          4節  肯定的描写   神との関わりにおいて
          5節前 否定的描写   人との関わりにおいて
  5節c 結論、「揺るがない生き方」
 
 
メッセージ
 
この詩篇をリトマス試験紙として読んではいけない、誰も合格できないから。しかしクリスチャン(信仰者)は恵みによってすでに神の家に住む、すなわち礼拝する者とされている。だから、神の御心に沿った生き方をしたいと願うのである。でもどうしたら御心に適った生き方を送れるのだろうか。
14編は神を否定する生き方の愚かさを描き、神を避け所とすることが救いである。15編はそれに対し、御心に従うことを描いている。そして16編(1節)で再び神に助けを求め、神を避け所としている。神への信頼がカギである。1節の個人的呼び掛けは、それを示している。