第十七篇
「神は我が救い!」
この詩篇とほぼ同じものがサムエル記下22章に出てくる。サムエル記においては、ダビデの生涯のまとめとして、またサムエル記自身の結論としての意味がある。(サムエル記は最初にハンナの歌が書かれていて、それがサムエル記全体の緒論のような意味を持っているのと対称的である。)しかし、詩篇においては違う意味を持たされている。17篇の祈りに対して神が答えて救ってくださったことに対しての応答であり、19篇の賛美へとつながっていく。また、サムエル記ではダビデ個人の賛美であったのが、詩篇では私たちを含めて全ての信仰者の心に共鳴する告白となって来ている。
私訳と注釈
表題
指揮者に。主の僕の、ダビデの。
彼の全ての敵の掌とサウルの腕から主が彼を救い出した日に彼がこの歌の言葉を主に語った。
「主の僕の、ダビデの」は、「主の僕、(すなわち)ダビデ」ということ。サムエル記の中でしばしば、ダビデが神に対して自分を「あなたの僕」と呼び、神も彼を「わが僕」と呼んでいる。当時の習慣として、目上の人に対して自分を僕と呼んでへりくだることがあったが、ダビデは王として思い上がるのではなく、神に対して僕であることを忘れなかった。「(ダビデ)の」は、「に属する」、「のために」など様々に訳すことができるが、普通は「ダビデの(歌)」と訳されている。
「日に」が何時であるかは不明。サウルが死んだ時には、ダビデはサウルとヨナタンのために悲しみの歌を歌った(サムエル記下1:17以下)。反逆した息子アブサロムの死の時も同様である。特定の「日」というよりも、神の救いを感謝して、と理解する方が良いだろう。「敵」をイスラエルの周りの敵国と理解して、ダビデが周辺国を平定した時と考えると、ダビデの生涯の後半であろう。
「掌」と「腕」はどちらも「手」と訳すことができるが別の言葉。しかし、大きな意味の違いは無い。
「救い出した」は、例えば獣が獲物を獲った時に、その獲物を獣の「手」から奪い取る、という意味の動詞が使われている。「掌」や「腕」によって捕らえられていたような状況から救われた。
「この歌」は単数形だが、「言葉」は複数形。「語った」は「言葉」と同じ語源の言葉。単純に理解すると、この歌(詩篇)の「歌詞」をダビデが語った、ということ。
1節
彼は言った、
私はあなたを慕います、
主よ、わが力よ。
「彼は言った」は詩文ではなく、表題の文章(散文)と詩そのもの(韻文)とを繋ぐ働きをしている。あるいは1節全体が、記述から詩文へのつなぎ目となっているのかもしれない。サムエル記下22章にはこの節が無い。
「慕います」は、普通、神が人(特に孤児など)を、あるいは親が子を、「憐れむ」という意味で使われる言葉。神に対して「憐れむ」はおかしいので、「愛する」の類義語と考えて「慕う」と訳した。
「主」と「わが力」は別々の対象ではなく、同格である。「主、すなわち我が力」との呼び掛けである。この呼び掛けが2節につながっていく。
2節
主はわが岩、またわが砦、またわが逃れ場、
わが神、わが大岩、私はそれに身を避ける、
わが盾、またわが救いの角笛、わが砦。
この節は、神がどのようなお方であるかを、直接的な言葉(「神」など)や、比喩的な言葉(「岩」など)を幾つも使って表現している。記述的に「主は我が岩、・・・・」と訳しても良いし、1節とつなげて、「主よ、我が岩よ、・・・・」と呼び掛けのように理解しても良い。全部で9つの表現を用いているが、それは詩人の神概念の豊かさを示し、おそらく彼の信仰体験を映し出しているのだろう。すなわち、一回ではなく何度も、そしていろいろな形で、神による救いを経験したことと思われる。また、当時、中近東諸国で王は複数の名前を持っていたが、神は王の中の王として多くの呼び名を持っていたこととも関係するかもしれない。(参考、イザヤ9:6、救い主である「みどりご」は四つ(一説によると5つ)の「名前」を持っている。)
「岩」は「突き出た岩」や「がけ」。敵が来た時に、その陰に隠れることができる(サムエル上13:6など)。ダビデも荒野を逃げたとき、岩陰に隠れただろう。
「砦」は口語訳では「城」と訳されているが、建物としての城ではなく、敵にたいする堅固な守りを意味する言葉。エルサレムは小高い山(丘)の上にあり、攻めにくい、自然の要害であったので、エルサレムの町そのものも「とりで」と呼ばれる。
「逃れ場」は動詞の分詞形で、「逃げる」とか「安全な場所に連れて行く」という意味で、救いを表す言葉の一つである。接続詞「また」が使われているが、詩文では無くても良いはずなのに、これによって語調(リズム)を整えているのだろう。最初の三つ(岩、砦、逃れ場)は「また」で結ばれているが、次の三つは接続詞が無く、最後の三つでは一回だけ接続詞が使われていて、単調にならないように変化が付けられている。
「神」は、もっとも一般的な「エル」という言葉。これが「私の神」と変化すると「エリ」となる。マタイ27:46でイエスが「エリ、エリ」と呼んでいるのが同じ言葉。マルコではヘブル語ではなくアラム語で「エロイ」と記録している。
「大岩」は前出の「岩」とは別の名詞。普通の「岩」から、時には山のように大きな岩まで表す。当時の人々にとっては、よく見かけるものであり、堅い、動かされないものの代名詞であったので、神のことをしばしば「岩」と呼ぶことがあった。岩を神として祀る日本的な発想とは全く別である。
「身を避ける」は、詩篇の中でこれまでにも何度も出てきた「隠れ場を求める」という動詞。嵐や敵が押し寄せてきたときに隠れる場所と神がなってくださる。神への信頼を示す意味で「寄り頼む」と口語訳は訳している。「わが避け所」と名詞化して訳すことも不可能ではないが、後に「それに」という言葉が付属しているので、名詞ではなく動詞として訳すほうが良い。名詞が続いて来たところに突然動詞が入るが、これによって単調さを解消し、また2行目の終わりの区切りとなっている。
「盾」も「救いの角笛」も戦いの時に用いられただろう。後者は援軍が来たのを知らせるものかもしれない。「やぐら」は「高い」という動詞から出来た名詞で、高く安全な場所。
3節
誉め称えられるお方、主に私は呼ばわる、
そして私の敵から私は救われる。
「誉め称えられるお方」は分詞形で、前節で名詞が並べられていたのと似ているが、「わが」が付いていない点で異なる。「誉め称える」の受動態が使われている。「誉め称える」は「ハーラル」で、人間が自分に対して用いる場合は「高慢である、自慢をする」と訳される。神に対してが「誉め称える、賛美する」で、ヤァ(ヤハウェの短縮形)を誉め称える、がハレルヤ。
「主に」は、順番では「私は呼ばわる」の後なので、一見、「誉め称えられるお方」と並列していないが、意味の上では同格である。
「そして」は一行目の「呼ばわった」結果として、という意味。
「私の敵」は複数形。
「救われる」は受動態が用いられ、「彼(主)は私を救う」ではない。救ってくださるのは主であることは自明だが、二行目では「私」を主語として、「主」を出していない。それが4、5節の苦難へとつながっていく。まるで、神から目を離したときに苦難が襲ってくるかのように。
4節
死の綱は私を取り巻き、
滅びの奔流は私を恐れさせた。
「(死の)綱」も「(滅びの)奔流」も複数形。「死の綱」が具体的に何を指すかは分からないが、次節に描かれている「罠」と関連するかもしれない。あるいは、綱が周りを取り囲み、取り巻き、ついには縛り付けるように、死が迫ってくる状景を表現したのかもしれない。
「奔流」はワジと呼ばれる種類の川があり、乾季は枯れているが、雨季になると突然に激流が流れることがある。自分の周りでは雨が降っていなくても、上流で雨が降ったために、夜中などに突然に激流が押し寄せるので、宿営してはならない場所。
「滅び」は、「価値(がある)」と「無い」という言葉からできた複合名詞で、「無価値」という意味から「滅び」という意味で使われている。「死」の類義語。前半では人の手による罠のイメージを用い、後半では自然の驚異になぞらえ、どちらも死の迫ってくる恐怖を表現している。
5節
陰府(よみ)の綱は私を取り囲み、
死の罠が私に立ち向かった。
「陰府(よみ)」、「シェオル」は死の世界であり、死の同義語として用いられる。「綱」は前節と同じ語だが、「取り囲む」は前節の「取り巻く」とは別の語。しかし、明らかに4節と5節は並行関係にある。ただ、細かく言うと、4節は動詞、名詞、名詞、動詞、の順番であったが、5節は、名詞、動詞、動詞、名詞、と逆転している。
6節
私のその悩みの中で私は主を呼び、
私の神に叫び求めた、
彼は彼の宮から私の声を聞き、
御顔への私の叫びが彼の耳に入った。
「私のその悩み」は4、5節の状況を指すと考えられる。単純な「私の悩み」ではなく、「私にとっての、その悩み」という言い回しを使っている。「中で」は、「時に」と時間を表す意味ともとれるが、ただ単に「悩んだ時に」ではなく、詩人が大変な苦境(4、5節)の中に置かれている、そのただ中にあって主に呼びかけている。
「声」は「呼び」と同じ語源ではないが音的に一部共通しており、一緒に使われることが少なくない。また「叫び」と「叫び求めた」は同じ語源の言葉で、6節全体を結びつけている。
「宮」は王の宮殿を指す言葉だが、神が王であるとの信仰から神殿を意味することもある。ダビデ時代には神殿は出来ていないので、幕屋か、天にある神の宮殿を指すと考えられる。どちらにしても、この場所に向かって人々は祈った。(神殿は神の「住む」ところではなく、神の名が置かれ、そこに向かって祈りが向けられる所。)
「御顔への」は神ご自身に向かってと同じ事。「耳に入る」と同様、神を人間の姿に例えている表現。
7節
すると地は動き、また揺れ、
山々の基もまた震え、また動いた、
彼がお怒りになったからだ。
接続詞「すると」で始まり、6節と結びつけている。神が祈り(叫び)を聞かれ、立ち上がった結果が7節。
「動き」や「震え」は、地面が揺れる様を表現しているが、特に、神の顕現の時に地面や山々が揺れ動くことを表している。「基」は山々や地面を支えている土台。「揺れ」と「震え」はしばしばセットで使われるが、ここでは「動く」(実際は、これも「揺れ動く」であって、類義語)と組み合わせて用いられている。二つの言葉がペアとして使い古されて来たときに、それを新しい組み合わせてで使うのも詩文のテクニック。
一行目と二行目は、名詞と二つの動詞から成っており、それぞれの単語も並行している。それだけでなく、一行目は女性単数形、二行目は男性複数形の名詞・動詞になっており、対称的でもある。二行目は「山々」ではなく「山々の基」として、一行目より一語増やし、その分、三行目は短くなっているが、それによって神の怒りを簡潔な表現で表し、恐ろしさを増し加えている。
三行目は、直訳すると、「なぜなら彼のために彼が熱くなった」。「熱い」は怒りを表す場合にも使われる。二つの「彼」がなにを指すかは二通りの理解がある。第一は、「彼(敵?)のゆえに彼(神)が怒られた」。第二は、「彼(神)のそれ(怒り=男性名詞)が燃え上がった」。後者は「怒り」という単語が自明として省略されている(次節で明示されている)と解釈される。どちらにしても神がお怒りになった、その故に地面や山々が震えている。
8節
煙は彼の鼻の中から立ち上り、
彼の口からの火は焼き尽くす、
炭はそれによって燃え上がった。
「彼(神)の鼻」や「口」も擬人化表現。「(鼻)の中から」と「(口)から」は違う前置詞。前者は「鼻の中で」とも訳せる。
「焼き尽くす」は直訳すると「食べる」だが、火事が森を焼き尽くす場合に「食べる」が使われるので、この場合は「火」に対応して「焼き尽くす」。ここでは目的語が省略されている。地面や山々ではなく、詩人の敵と考えられるが、それを敢えて述べないで、三行目まで恐怖を積み上げている。
「炭」に敵を例えて、神の怒りによって敵がどれだけ容易く滅ぼされるかを表現している。
9節
彼は天を伸ばして下られ、
暗雲をその足の下に置かれる。
「天を伸ばして」は奇妙な表現だが、例えば、竜巻が起こって、雲が地面に向かって伸びてくるようなイメージ。「伸ばして」を「曲げる」と訳すこともできるが、それでも理解が難しい。
「暗雲」は「濃い雲」とも訳され、暗闇を示す場合もある。嵐の時に雲が黒くなり、地上も暗くなる。
10節
彼はケルブに乗って飛び、
風の翼の上で飛びかける。
「ケルブ」は天使の一種(複数形はケルビム)で、エデンの園を守り、神の玉座となっている。契約の箱の上に飾りとして置かれている。ここでは神の乗り物となっている。実際に神が天使の上に乗って飛ぶのではないが、戦いの時に王が戦車に乗って走るように、神がやって来られる様子を表すのだろう。
「風の翼」は具体的には分からないが、前節のような、雲か、何かの自然現象をイメージして表現しているのだろう。
11節
彼は暗闇を彼の覆いとして彼の周りに置き、
水の闇、雲の濃き雲を彼の幕屋とされる。
「暗闇」と「闇」は同義語の男性形と女性形。「水の闇、(すなわち)雲の濃き雲」という意味だろう。「濃き雲」は9節の「暗雲」とは別の語。どれも嵐の時の雲をイメージしていると思われる。「幕屋」は「仮庵」とも訳され、嵐の時に家畜を守るため使われるテントのようなもの、あるいは戦いの時に兵士達が寝泊まりするテント。出エジプト後に荒野でイスラエルが寝泊まりしたのもこれで、後にそれを記念して「仮いおの祭り」が行われる。ここでは神が戦いに出てこられたことを表現していると考えられる。「水の闇、雲の濃き雲」を新共同訳は思い切って意訳し「暗い雨雲、立ちこめる霧」としている。
12節
御前の輝きから、彼の濃き雲を破って、
雹と、火の炭が。
「御前の輝き」は神の御顔を指す表現だろう。「濃き雲」は前節にも出てくる言葉。「火の炭」は、モーセはエジプトで行った“燃える雹”か、雷を指すと思われる。
一行目の動詞の主語が二行目の名詞と考えられるが、一行目でそれを出さずに二行目で始めて、しかも簡潔な言葉で述べることで、恐ろしさを演出している。
13節
主は天で雷鳴をとどろかせ、
いと高きお方は彼の声を出される、
雹と、火の炭!
1節、3節で主(ヤハウェ)が使われて以来、ここで神の名前が出てくる。その間は代名詞(彼)だけが用いられていた。「いと高きお方」は神の呼び名の一つ。別々のことを述べているのではなく、一つのことを表現を変えて述べている。「雷鳴をとどろかせる」、すなわち「彼の声を出される」。三行目は前節と同じだが、イメージとしては、前節が稲妻(輝き)、この節が音(雷鳴)で、それらと「雹と、火の炭」が組み合わされて使われ、雷、雹を伴った嵐の様子である。
14節
彼は彼の矢を送って、それらを散らし、
稲妻を放って、それらを轟かせる。
「矢」は、すなわち「稲妻」のこと。光と音とがミックスしている。「それら」は「矢」と「稲妻」(共に複数形)を指すとして訳しているが、「敵」とすることも可能。ただ、前後では敵をうち負かす様子よりも嵐のイメージが強く出ているので、ここもそれに倣って解釈した。
15節
すると水の底が現れ、
世界の基があらわにされた、
主よ、あなたのとがめと
あなたの怒りの息の息吹で。
「水の底」は前出のワジか、同じ語が意味する川の、川底を指すとも考えられるが、出エジプトで紅海が分かれて海の底が現れたことを念頭に置いているのかもしれない。「世界の基」とペアになっているので、陸地に対する水を指す。「水」は複数形が使われ、「世界」は通常の「地」ではなく、詩的な表現。
「とがめ」は怒りの一表現。それを最後の行では「息」で表している。「怒り」と「鼻」は同じ言葉。「息」はルーァハで、霊、風、息、などと訳される言葉。前節の雷から暴風にイメージが移っている。
16節
彼は高い所から遣わして私を捕らえ、
大水から私を引き上げた。
「高い所」は天、すなわち神のおられる所。「遣わし」は何を遣わすのか不明。「手」と考えて、「御手を伸ばし」と理解するか、天使を送ることと考えるか。
「引き上げ」はモーセの名前の元となった動詞で、「(大)水から」というのも一致する。だが、ここでは特にモーセが水から引き上げられて救われたことを考えているとは限らない。もっと当たり前の意味で、前節までの嵐と、荒れ狂う水(奔流)から救ってくださったことを指すとも考えられる。
17節
彼は私の強い敵と私を憎む者どもから私を救う、
まことに彼らは私よりも強い。
「私の強い敵」は直訳すると「強い、私の敵」で、「強い」は「私」ではなく「敵」にかかるので、上のように訳す。「助け出す」は表題で用いられた動詞と同じ。「敵」は単数だが特定の人ではない。「憎む者ども」が複数なのと対称させているのかもしれない。
18節
彼らは私の悩みの日に私に立ち向かった、
しかし主は私の支えとなった。
「立ち向かった」は悪意を持って前に立つこと。詩人が苦しんでいるときにつけ込んで戦いを挑む、敵の卑劣さを述べている。それに対して、主が支えとなって下さる。「なった」は散文ではよく用いられる表現だが、詩文ではごくまれ。
19節
彼は私を広い所に連れだし、私を助け出される、
彼は私を喜ばれたから。
「広いところ」は、悩みによって狭いところに押し込められたような状態であった詩人を救い出し、安全な、過ごしやすい場所へと連れて行く様子で、羊が広い牧場に連れて行かれる様子。
詩人が助け出されたのは、神が彼を喜ばれたから。
20節
主は私の義にしたがって私を扱い、
私の手の清さにしたがって私に報い返されれる。
「扱う」は良い意味でも悪い意味でも使い、後者は悪意を持って扱うこと。ここでは、「義」に従ってだから、良い扱いかたで接してくださる。
ここで詩人が自分が正しいと主張しているだけではない。彼の「義、清さ」の程度に応じて神が報われるお方だとのべ、神の義なる裁きが正しいことを述べる。
21節
まことに私は主の道を守った、
私の神に背かなかった。
「背く」は「邪悪なことをする」。「主の道」は、具体的には次節の「主のおきて」。ダビデは真摯に主のおきてを守ろうとし、悪意を持って意図的に神に背かなかった。
22節
まことに、彼のすべての裁きは私の前にあり、
彼のさだめを私から私は動かさなかった。
「さだめ」「裁き」はどちらも律法の関連語。「裁き」は「裁く」という動詞の名詞化で、同じ動詞を分詞にして「裁く者」とすると士師を意味する。「(私の)前」は12節の「(御)前」と同じ語。「私から」は日本語としては変だが、「私の前から」の意味。
23節
私は主と共に全くあり、
私の咎から自らを守った。
この節は自分が完全であるとの主張と解されているが、実は微妙な違いがある。「主の前に」と日本語訳ではなっているが、「主と共に」であって、神と共にいるのでなければ、「全く」あることはできない。神から離れての完全は、それこそ神に対する高慢、冒涜である。神と共に生きることで人間として本来あるべき姿、すなわち「全き」状態でありうる。また彼は自分に罪が無くて、外の罪から離れている、と述べているのではなく、自分の内に罪(咎=罪の類義語)があることを知り、神と共に歩むことによって、その罪が行為となることで罰(咎には両方の意味がある)を受けることから守られることが可能となった。
24節
そして、主は私の義にしたがって私に、
彼の目の前にある、私の手の清さにしたがって、報い返される。
これも自分のもっている義、自分の手が行った行為の清さにしたがって、神は正しく報われる、という意味に理解できる。また、「義」を「救い」という意味に取ると、神の与えて下さった救い(新約では義認)が前提となり、それに応答する生き方が問われる。どちらにしても詩人は、精一杯に神のおきてに従って義しく生きようとしている。「彼(神)の目の前」とあるように、決して表面だけ、あるいは人前だけ取り繕うのではなく、神の前で正しく、清く歩もうとしている。
25、26節
慈しみある者と共にあって、あなたはご自分を慈しみ深い者とされ、
全き人と共にあって、あなたはご自分を全き者とされ、
清い者と共にあって、あなたはご自分を清い者とされる、
しかし、ひねくれた者と共にあっては、あなたはご自分の背を向けられる。
人間に対する神のとる態度を原則が述べられている。「共にあって」は「には」と訳されるが、「共に」というニュアンスがある。「ご自分を・・・とされ」はどれも動詞の再帰形が用いられている。神は常に慈しみ深く、完全で、清いお方だが、清い者にはご自分を清い者として示される、ということ。人間の側から言えば、神の清さを知った者は清くされる、神に愛された者は愛する者になる(ヨハネ第一の手紙)。
三行目までは人間を描写する動詞と神に関する動詞は同じものが用いられているが、最後の行だけは類義語ではあるが異なる動詞を用いている。口語訳の「(神は)ひがんだ者」は適切ではない。新共同訳の「心の曲がった者には背を向けられる」が良い。
27節
まことにあなたは苦しむ民を救われ、
また高ぶる目を低くされる。
これも神の人間に対する原則。「あなたは」は強調されている。苦しむ民は直訳では「苦しみの民」。「(高ぶる)目」は両目を表す表現。
28節
まことにあなたは私の灯を明るくされ、
主、わが神は、私の闇を照らされる。
最初の部分は前節と同じ。「主、わが神」は呼び掛けと考えても良いが、後半は動詞の主語が三人称なので、上の訳のようにするのが良い。二人称から三人称への移動は詩文では珍しくはない。神は人間の弱い「灯」に光を与え、また心の闇に光を照らして下さる。
29節
まことにあなたによって私は敵軍を駆け抜け、
また私の神によって壁を飛び越える。
前後の、倫理的とも受け取れる内容と比べ、この節は軍事的な内容なので、若干の違和感を覚えるが、倫理と行為を切り離すのではなく、敵との戦いにおける救い(勝利)と神の前の正しい生き方は密接に結びついていた。律法の中では、戦っている兵士に身を清めるようにと命じられている。
「敵軍」は原意は「軍隊」だが、この詩篇全体では敵について述べられているので、ここも敵の軍隊と理解し、次行の「壁」も敵の城(陣地)を囲む壁。「駆け抜け」は「走る」という動詞。「(敵陣を)走る」から「駆け抜け」、「打ち破る」の意味が浮かび上がる。どちらの行も神の力によってそれが可能であることが大切。「によって」と訳されているのは「にあって」とも訳せる。直訳は「の内に」。
30節
この神は、その道は完全、
主の仰せは純粋、
全て彼に身を避ける者にとって
彼は盾。
最初に「この神は」と、前節の「私の神」を受けて始まり、神について語ろうとする。「完全」は前出の「全き」と同じ言葉。神こそ完全なお方。人間の「完全」は神から与えられるもの。「仰せ」は、通常の「言葉」ではなく、詩文で用いられる用語で、「言う」という動詞の名詞形。「純粋」は火で精錬された純粋さ。「身を避ける」は「避け所」の元の動詞。原文の順番では「彼は盾」が三行目に来る。
31節
まことに主のほかに誰が神であろうか、
また我らの神を除いて誰が岩であろうか。
「誰」は答えが自明な修辞的疑問文で、強い強調(主のほかには「いない」)。ここでの「神」は珍しい形が使われている(詩篇全体で4回だけ)。「岩」は前に出てきた「大岩」と同じ。ここで始めて詩人は「我らの神」と述べ、彼の言葉を聞いている人々を意識している。恐らく(修辞的疑問文とは言え)疑問形を用いたためだろう。
32節
この神は私に力をまとわせ、
また私の道を全くされる。
「この神」は30節と同じ出だし。「まとわせ」は「守る」の意味もあり、ここでは鎧のように神の力を纏わせるという意味に理解した。「全く」はこれまでにも出てきた言葉。信仰者の道が「全く」されるのは神による。抽象的な意味で使われている「道」を具体的にとらえて、「全く」を道としての完全、すなわち安全な道と理解するのは間違いではないが、今までの議論を弱めてしまう。
33節
彼は私の足を雌鹿のようにされ、
また私の高いところの上に私を立たせられる。
「ようにされ」は「似せる」という動詞。「雌鹿のような」とは素早さ。道を完全にしてくださるだけでなく、足も強く早くしてくださる。「私の(高い所)」の意味は不明。比較級と考えて「私よりも高いところ」か、目的語と考えて「私を」。しかし、後者は最後の動詞(立たせる)に目的語派が含まれているので不適切。
34節
彼は私の手を戦いのために教え、
私の腕は青銅の弓を引く。
「教え」は、ここでは戦いに備えて訓練すること。「習う」という動詞の強意形は「学ぶ」となる。「青銅の弓」は強い弓、それを引くことができるほどに強められる。「引く」は「(引き)下ろす」の意味で、遠くに飛ばすために矢をやや上向きに放つ、つまり弓はやや下向きに引く、ということだろうか。
35節
またあなたは私にあなたの救いの盾を与え、
またあなたの右の手は私を支え、
またあなたが下られたので私は大きくされる。
「盾」は、30節では神ご自身が「盾」であるだけでなく、神の救いという「盾」と与えて下さる。「下られた」は「謙遜」をも意味するが、神がへりくだるという発想がし難い(旧訳時代は)ので、「(神の)助け」と理解する訳がある。しかし、9節にあるように、詩人を助けるために神ご自身が「下って」来られ、それによって「大きく」(原意は「多く」)つまり「強く」される、と考えれば無理ではない。これが新約に行くと、十字架という「キリストの謙遜」(ピリピ書)によって人が救われるという福音になる。詩的な表現によって旧約の限界を超えて新約の奥義を表す、これが詩篇における「預言」である。
三行目は、「あなたの下られたことが私を大きくする」と訳すこともできそうだが、動詞(大きくする)が二人称男性単数形なので、「下られたこと」(女性形)が主語にはなり得ず、「ので」、あるいは「によって」と補って訳す。
36節
あなたは私の下で私の歩みを広くされ、
そして私のくるぶしは滑らない。
「(歩みを)広くする」とは道を広くし、歩きやすくすることと思われる。新改訳(新共同訳)は歩幅を広くすると理解しているが、「私の下で」という語句が生きてこない。ここでも前節同様、神が下って下さり、私の歩む所に手を伸ばして下さっている。
37節
私は私の敵どもを追って、彼らに追いつき、
また彼らを滅ぼしつくすまで私は帰らない。
前節で道を広くされ、敵を追跡する。当時の戦いでは、逃げる敵を追跡することは重要なことであった。その時に滅ぼしつくさないと、後で力を盛り返して反撃されるから。
38節
私は彼らを貫き、彼らは立つことが出来ず、
彼らは私の足下に倒れた。
「貫き」は士師記5:26でヤエルがシセラの頭を杭で刺し通した時に使われている動詞。矢か剣で刺し通すことを描いているのだろう。(ここのところで、キリストの両手両足が「貫かれた」ことを読むのは多分行き過ぎだろう。)
39節
またあなたは私に戦いのために力を纏わせ、
私の敵たちを私の下に平伏させられました。
前半は32節の「私に力を纏わせ」と34節の「戦いのために」を結びつけている。
40節
またあなたは私の敵たちの背を私に向け、
私を憎む者たちを、私は彼らを滅ぼす。
17節に出てきた「敵」と「憎む者たち」が再び取り上げられている。「(敵の)背を向け(させる)」は珍しい表現。敵が敗走するようにしてくださることを意味する。後半では目的語が二重になっている。
41節
彼らが叫んでも、助ける者はいない、
主に叫んでも、彼は彼らに答えられない。
「叫んでも」は6節で詩人が神に叫び求めているのと同じ動詞、しかし、敵の叫びに応えて助けに来る者はいない点で、詩人のケースと異なる。また、「主に(叫んでも)」は動詞が無いので補っている。敵が例え主に祈っても答えられない。
42節
そして私は彼らを風の前にある塵のように粉々にし、
道の泥のように彼らを空しくする。
「風の前にある塵」は、そこに風がやってきて吹き付けると、ちりぢりになってしまう様子。また「空しくする」は泥のように無価値な状態にすることで、滅ぼすことと同じ。「道」は家の外側を意味する言葉で、町中では人の歩き回るところ、ちまた、あるいは道を指す。町の城壁の外と考えれば、新共同訳の「野の」も理解できる。
43節
あなたは私を民の争いから助け出し、
あなたは私を諸国民の頭とされた、
私の知らなかった民が私に仕える。
「民」は単数で「争い」は複数形なので、民と民の間の戦争ではないかもしれない。「民」を人間一般として戦争と考えることもできる。どちらにしても神が詩人を助け出して下さり、被害を受けない。「私の知らなかった民」は普通なら関係代名詞を使って表現するが、詩文なので省略されており、「民、私は知らなかった(完了形)、彼らは私に仕える(未完了形)」が直訳。神の助けによって、苦境から救い出されるに留まらず、ダビデは諸国を平定し、治めるようにされる。
44節
耳で聞いて、彼らは私に聞き従う、
異邦の子らは私にへつらう。
「耳で聞いて」は変わった表現だが、聞いたら直ぐに、という意味だろう。「聞き従う」は「聞く」という動詞で、ただ聞くだけでなく、聞いたことを行うことも含む。「異邦の子ら」は異邦の人々。「へつらう」は「騙す」とも訳せるが、ここでは「聞き従う」と併せて理解する。
45節
異邦の子らは萎れて、
彼らの砦から震えて出てくる。
「異邦の子ら」は前節と同じ。「萎れて」は植物がしおれて葉が落ちる様で、人間ならば疲れ果てている様子。「震えて出てくる」は動詞は「震える」だけだが、「(砦)から」と結びつけて「出てくる」を補っている。「砦」は詩篇ではここだけで用いられている言葉。
46節
主は生きておられる、また誉められるべきお方、わが岩、
わが救いの神が崇められるように。
「主は生きておられる」はサムエル記や列王記で頻繁に出てくる表現。不信仰な者が口癖のように使うこともあるが、信仰者の告白としても用いられている。「べき」は付け足しで、直訳は「誉められるお方」。「わが岩」は2節。「崇められるように」は「彼は高められる」が原意だが、三人称に対する命令形と考えて、他の人に対する命令の意味となる。2節のように神に対する賛美の言葉が並べられている。ここから最後までは、この詩篇のまとめとしての賛美。
47節
この神は私のために復讐をされる方、
また彼は諸国の民を私の下に服従させる。
前半は「復讐をされる方」が分詞なので名詞構文。「この神は」は30、32節に出てくる。「復讐」は神への行為に対するものではなく、詩人への行為に対するもの。神が彼のために復讐をするのであるから自分で私怨によって復讐すべきではない。「服従させる」は直訳では「語らせる」、ここと詩篇47編3節に出てくる数少ない使い方。
48節
私の敵どもから私を助け出されるお方、
また私に立ち向かう者たちよりもあなたは私を高く上げられ、
暴虐な人から私を救い出される。
今までに出てきた言葉を多く用い、敵からの救いというテーマをまとめている。「暴虐な人」は単数形。
49節
それゆえ、諸国民の中で私はあなたを称える、主よ、
また私はあなたの御名を誉め歌う。
「それゆえ」は詩的な言葉ではなく論理的な言葉だが、詩篇では13回使われ、ヨブ記や箴言、また預言書でも多く用いられている。「称える」や「誉め歌う」は直接的な賛美の言葉で、この詩篇では始めて出てきた。「称える」は「投げる」という動詞で、感謝する、賛美する、などの意味で用いられる。「誉め歌う」は曲を作ったり歌ったりする音楽的な意味。「御名」を誉め称えるとは神ご自身を称えることと同じ。
50節
彼は彼の王に救いを大きくし、
また恵みを与える、
彼の油注がれた者、ダビデに、
また彼の子孫に、永遠まで。
「大きくし」は分詞形なので「(神は)大きくする者」とも訳せる。しかし、「救いを大きくする」は理解し難い。救い、あるいは勝利を、増し加えるという意味だろう。ぜんはんの「彼の王」と後半の「彼の油注がれた者」が並行している。「油注がれた者」は「メシア」。ここではダビデを指している。「子孫」は単数形で、「ダビデの子孫」として王になる者は各時代に一人ずつだからだろう(例外はあるが)。しかし、究極的には本当のメシアであるイエスキリストを指し示している。
構造
1節 導入
2〜3節 救いの神への賛美
4〜6節 死の恐怖からの救い
7〜16節 神の怒り(嵐のイメージ)
17〜19節 敵からの救い
20〜31節 義なる者を救う神
32〜42節 神によって戦いに勝利する
43〜45節 神によって世界を治める
46〜51節 救いの神への賛美
メッセージ
ダビデほど神の救いを数多く体験した者は少ない。だから彼はこのように豊かな表現で神の救いと神への信頼を歌うことができた。しかし、実は私たちもそれに勝る救いをキリストを通して日々与えられている。その体験を味わい知るときに「苦難の中にあって」神に祈り、それが賛美に変えられている、という信仰に成長できる。詩篇を熟読することで、そのような詩人たちの信仰経験を「私」も追経験できるのが素晴らしい恵みである。
詩篇第18篇について
この詩篇はほぼ同じものがサムエル記下22章に出てくる。→ ページの無駄?
☆聖書の中に(ほぼ)同じことが繰り返し出てくる場合がある。
1 福音書、特にマタイ、マルコ、ルカ。
2 歴史書。 列王記と歴代誌。
3 散文と韻文(詩文) 士師記4章と5章
4 詩文 サムエル下22=詩篇18、
→ これによって
同じ出来事を違った面から見ることでより深く理解できる
違ったメッセージ(神学)を教える
置かれた場所によって意味が変わる
☆サムエル記では、
ダビデ個人の信仰告白
サムエル記の著者の神学
☆詩篇では、
全ての信仰者の信仰告白(普遍化)
17篇(祈り) 18篇(告白) 19篇(賛美)
☆救いの体験と告白(賛美)の豊かさ
神の多くの呼び名 ←→ それによって救われた者の告白
☆詩篇による追体験
詩人たちの救いの体験を読者も味わうことができる
自分の経験の意味を深められ、整理される
(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/12