第二十篇
王のためのとりなし
「王の詩篇」の一つ(2篇も)。王による個人的な賛美というより、王のために民が祈っている。
私訳と注釈
表題
指揮者に。賛歌。ダビデの。
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
19編と同じ。
作者について。この詩篇は、詩人が「あなた」のために祈っている形で書かれている。誰が誰のために祈っているのだろうか。「あなた」に関しては、5節から戦争の指揮官と考えられ、6節からは「油注がれた者」、そして9節で王であると考えられる。従って戦いに出ていこうとする王のために神に祈り、勝利を得させるように願っている、と考えられる。だとすると、読み手はダビデなのだろうか。いくつかの可能性がある。(1)ダビデがほかの王のために祈っている場合。これは、サウル王か、ソロモン王。前者は2節でシオン(エルサレム)に神の幕屋が移転する前なので却下。後者は、ダビデの死の直前だが、そのころは戦争は無い時期。それ以外の王は考えられない。(2)ダビデ以外の者がダビデのために祈っている場合。この場合は、表題の「ダビデの」は、「ダビデのために」、あるいは「ダビデに関して」と理解する。(3)ダビデが自分のために。詩を作ったのはダビデであるが、それを家来の誰か(例えば、「指揮者」)に命じて戦いの前に読ませた。従って、作者はダビデで、読み手は別。自分のために祈らせる事や、自分を「あなた」と呼ぶのは、日本的には理解しにくいが、不可能ではない。(4)読み手が途中で変わる。これは作者(ダビデであってもほかの誰かであっても)が、何かの儀式を想定して作ったと考えると理解しやすい。例えば、出陣前に民が集まって王と軍隊のために祈る儀式。1節から5節までは民(あるいはその代表者、指揮者)に読ませ、6節は王自身が読み、残りはまた民が読む。6節の「油注がれた者」は一般的な意味で言及しているので三人称的に書いてあるが、自分の事と考えることは可能。詩文の中では読み手の立場が推移することは珍しくない。あるいは6節も代表者が読むと考えることもできるが、これは3番目と同じになる。どの場合も一長一短なので、現時点では一つに決められない。従って、「詩人」が「王」のために祈っている、という前提で解釈していくこととする。
1節
主が悩みの日にあなたに答え、
ヤコブの神の名があなたを高めるように。
主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。
「答える」とは、祈りに対して神が答えて、その願いを聞き入れてくださることを指している。1節から5節では、主に未完了形の動詞が使われているが、意味としては三人称に対する「命令」あるいは祈願として訳している。直説法で「答えられます」と訳すことも可能だが、詩篇全体としては祈りであることは9節などから明らか。
「悩みの日」は恐らく戦いの時、あるいはその中でも特に困難な時を指している。
「神の名」は神ご自身と同格で用いられる。つまり、神の名が助けるというのは神が助けるということと同じ意味で使われる表現。「ヤコブ」はイスラエルの別名だが、栄光ある名前イスラエルに対して、「ヤコブ」はへりくだった意味で使われる場合がある。
「高める」は、名誉を高める、すなわち勝利を得させる、という意味か、あるいは苦難の中から引き上げて、高く安全な場所に置くこと、すなわち助け守ること。詩文の中で用いられることの多い動詞。20回中、詩篇で7回、イザヤ書で7回、箴言で3回、ヨブ記で2回、いずれも詩文、例外は申命記に1回だけ。通常の「高い」とは別の動詞で、敵の手が届かない高さを現す。
2節
聖なる所からあなたの助けを送り、
シオンからあなたを支えるように。
主が聖所から助けをあなたにおくり、シオンからあなたをささえ、
「聖なる所から」は直訳すると「聖から」。聖所を指して使われる事が多い。その中心の至聖所は「聖の中の聖」と呼ばれる。神殿が建てられるまでは神の幕屋が聖所であった。「聖」は神の属性の重要な一つで、分離していること、すなわち超越者なる神を現す言葉で、「俗」なる者が近づくと罰せられ滅ぼされる。
「あなたの助け」は直訳で、日本語としては「あなたに助けを」とするほうが普通。「送る」、あるいは「遣わす」は、「神自身は動かないで、天使か何かを送ってすます」という意味ではなく、エルサレムでのとりなしの祈りと戦いの場とを結びつけている表現。三人称単数男性形で、主語は明記されていないが、前節と同じ「主」であることは明らか。
「シオン」はエルサレムの別称。
3節
あなたの全ての供えものを覚え、
あなたの捧げものを受け入れられますように。(セラ)
あなたのもろもろの供え物をみ心にとめ、
あなたの燔祭をうけられるように。〔セラ
神への供えものを指す言葉には様々なものがある。「供えもの」は主に穀物の捧げものを指す意味で使われるが、一般的な意味でも使われる。「捧げもの」は「全焼のいけにえ」とも呼ばれ(新改訳)、祭壇の上で焼き尽くされた。これらの捧げものは、礼拝の行為の中心であり、祈りの代名詞でもある。ここでは、特に戦争の前の祈りを指している。戦いの前に民の代表が神に捧げものをし、勝利を祈る。主催者は王だが、実際に捧げるのは必ずしも王ではなく祭司の務め。
「覚え」は暗記するということではなく「御心にとめる」ということ。神に捧げる姿勢を評価し、その祈りを聞き届けることを願っている。
「受け入れる」は「太る、肥える」という動詞で、その名詞形は動物の「脂肪」を意味する。脂身の部分は最も良い部分とされ、捧げる時はこの部分を焼き尽くして煙りとし、それが神のもとへと昇っていく。この動詞の強意形は「脂肪を灰にする(焼き尽くす)」という意味もあり、捧げた動物の生け贄の脂肪が完全に焼けて灰となったのは、神がその供えものを受け入れてくださったことを意味する。
「セラ」は3篇参照。正確な意味は分かっていない。何かを意味する「記号」。
4節
あなたの内なる人に従ってあなたに与え、
あなたの全てのはかりごとを成就させるように。
主があなたの心の願いをゆるし、
あなたのはかりごとをことごとく遂げさせられるように。
「内なる人」は人の内面を指し、「心、思い」など様々に訳される。「内なる人に従って」とは願ったとおりに神が与えて下さることで、すなわち願いを適えて下さること。
「はかりごと」は1:1に出てくる言葉と同じ。政治における助言者のアドバイスや、この節では戦争における戦いの作戦を指す。
「成就する」は「満たす」という動詞で、例えば預言がその通りになることに使われる。1、3節では祈りが聞かれることを願い、2節では「助け」を願っているが、この節では具体的に戦争における作戦が成功することを取り上げている。
5節
あなたの救いによって喜び叫び、
我らの神の名において旗を揚げよう。
主があなたの全ての願いを成就させるように。
われらがあなたの勝利を喜びうたい、
われらの神のみ名によって旗を揚げるように。
主があなたの求めをすべて遂げさせられるように。
「あなたの救い」は、ここでは「あなたの勝利」と同じ事。ただし、ここでは二行目の「神の名」と並行しているので、救い主である神ご自身を指すと理解することもできる。
「喜び叫ぶ」は賛美の意味でも用いられる。必ずしも「歌」でなくても良い。この詩篇では始めて未完了形(ただし、意味の上では三人称に対する命令)ではなく、一人称に対する命令形で、これは英語のレッツと同じような意味で、「〜しよう」と訳される。
「我らの神の名において」は、この勝利が神によって与えられたことを宣言すること。
「旗を掲げよう」は未完了形だが、直前の動詞の意味を引き継いで「掲げよう」となる。「旗を掲げる」とは戦いで軍旗を揚げることをここでは意味している。「喜び叫ぶ」と共に勝利の喜びを表している。
そのような勝利を得るために、王に指揮された戦いが勝利することを再び願う。「願い」は「尋ねる、願う、求める」という動詞の名詞形。単なる願い事ではなく、戦いにおける願い、すなわち勝利である。4節の「はかりごと」と同じ意味で使われている。
「成就」も4節と同じ言葉。
6節
今、私は知る、
まことに主は彼の油注がれた者を救われる。
彼の聖なる天から彼に答えられる、
その右の手の、救いの力をもって。
今わたしは知る、主はその油そそがれた者を助けられることを。
主はその右の手による大いなる勝利をもって
その聖なる天から彼に答えられるであろう。
「今」は時間的な意味ではなく、強調の意味で使われ、新しい段落の始まりを示す場合もある。
「私は知る」は、この詩篇で始めての完了形で、口調の変化を感じさせる。「知る」は単なる知識ではなく、経験的に知ることで、戦いにおける神の助けを見てきての結論が次の行である。
「まことに」は、関係詞として用いられ「(救われる)ことを」と訳すこともできるが、ここでは今と併せて強意と理解する。
「油注がれた者」は「メシア」、ここでは王を指す。神が立てた王だから神は必ず困難から救い出すことを確信している。ここの「私」が王自身だとすると、神から油を注がれた者としての自分を神が救って下さることを確信している。
「救う」は前節の名詞と同根。
「聖なる天」は単なる天ではなく神のおられたもう場所としての天。2節では地上の住まいである聖所から答えてくださったのが、ここにきて本当の住まいである、天の聖所から神が祈りに応えてくださることを言っている。
「右の手」は力ある手。「救い」は前節の名詞と同じ意味だが女性形ではなく男性形。
7節
この者たちは戦車を、またあの者たちは戦馬を、
しかし我々は、我らの神、主の御名を思い起こす。
ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。
しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。
「この者たち、あの者たち」は、直訳すると「これらは、またこれらは」という慣用表現。
「戦車」も「戦馬」(直訳は「馬」)も、イスラエルの周囲の敵国の強力な戦力だった。この行には動詞が無い。二行目と同じ動詞を持ってくることもできる。
「しかし我々は」は、接続詞を用い、また通常は不必要な代名詞を使って、強意的な比較を現している。
「思い起こす」は「覚える」という動詞。苦難の時に思い起こす、すなわち頼みの綱としていること。思い起こすことから「口に唱える」という意味でも用いられ、時には賛美の意味でも用いられる。「誇る」というのは意訳。
8節
彼らは屈み、そして倒れる、
しかし我々は起き、再び立ち上がる。
彼らはかがみ、また倒れる。しかしわれらは起きて、まっすぐに立つ。
「彼ら」と「我々」はどちらも強意の代名詞で、強い対称を示している。
「屈み、そして倒れる」は単なる二つの動作の並列では無く、ビジュアルに連続する動作を現している。新改訳の「ひざをつき、そして倒れた」は良い訳。
「再び立ち上がる」は「繰り返す」という動詞で、自分自身が繰り返す、すなわち、倒れても倒れても力強く立ち上がる様子。「回復する」と訳すこともできる。戦いの場面を思わせる。
9節
主よ、王を救ってください、
我らが呼ばわる日に我らに答えてください。
主よ、王に勝利をおさずけください。
われらが呼ばわる時、われらにお答えください。
「救う」は勝利の意味でも用いられるので「勝利を授ける」は可能な訳。命令形だが、神に対してだから願いとして訳す。
「呼ばわる」は神に対する祈りの意。
構造
1〜5節 王のためのとりなし
6節 救いの確信
7〜8節 信仰の告白
9節 救いを求める祈り
メッセージ
ダビデの勝利は祈り、特にとりなしの祈りに支えられていた。祈りの中で、神が油注ぎをしたのだから必ず助けてくださる、との確信に導かれた。クリスチャン一人一人は十字架の血の注ぎを受け救われた者である。どんな時でも神の助けを期待できる。それは、祈っていてくれる神の民が支えていてくれるから。