第二十三篇
「主は我が牧者」
時代を超えて最も愛された詩篇。また最もメッセージが取り次がれた詩篇。賛美歌も多く作られた。神への絶対的信頼と豊かな恵みを美しく謳っている。
私訳と注釈
表題
賛歌。ダビデの。
ダビデの歌
「ダビデの」作であることを疑う理由はない。だが、個人的体験を越えて、全ての人に神への信頼の素晴らしさを味わわせてくれる。
1節
主は私の羊飼い、私は乏しくなりません。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
羊飼いというと、どんなイメージがありますか。
羊飼いから連想する御言葉は?
自分にとって不足していることは何でしょうか
「私の羊飼い」と、たった一言(原文では一語)で神との親しい、信頼に満ちた関係を見事に表現している。それは、聖書全体を通して受ける羊飼いのイメージの故だろう。逆に、この詩篇の与える「羊飼い」像が新約聖書の「羊飼い」観に大きな影響を与えている。現代の私たちは、キリストの姿と、ルカ書の「99匹と1匹の羊」とが重なって、羊のために命を捨てる愛に満ちた羊飼いを考える。あるいは、羊飼い一般に関する自分の知識によって理解する(故に、その知識が豊かであればあるほど、この1節からくみ取るイメージはより豊かになる)。ダビデにとっては自分自身の羊飼い体験がベースであろう。羊を守るために猛獣とも戦った勇敢な羊飼い、羊にとって信頼できる主人、羊への細やかな配慮に現れる愛情。彼は自分の姿を通して、それを遙かに越えた「完全な羊飼い」を思い描いている。
「乏しくない」は「欠けがある、不足する、減る」という動詞。ここは本節前半と次節から、羊を念頭に置いている言葉。水や青草に不足することが無い、という状態で、明らかに主である「牧者」のゆえ。この羊(羊飼い)のイメージの中で表現しつつ、自分自身の体験を表現し、どんなに困難なことがあっても主が羊飼いでいて下さるので「欠けがある」状態には留まらない、ということを述べようとしてる。これによって、人生の様々な経験をこの詩篇に結びつけることができる。
2節
彼は草茂る野原で私を休ませ、静かな水のほとりに私を導かれる。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
「緑の牧場、いこいのみぎわ」からどのようなイメージが湧いてきますか
「草茂る野原」は直訳すると「草の野」。「みどりの」は意訳だが、日本語では同じ意味。「青々とした野原」でも同じ。ユダ族の地域はどちらかというと乾燥地帯に近く、緑の草原というのは想像上のものかもしれない。もちろん、将軍として、あるいは王となって戦いに出ていったときにガリラヤ地方の緑豊かな地域を見たのかも知れない。少なくともダビデが逃げまどった岩砂漠地帯とは正反対の風景だったろう。どのような苦難にあっても、彼の心は主の故に「みどりの牧場」にあった。
「私を休ませ」の主語は「彼」すなわち主である。「休む」は「伏す」とも訳せる。「緑の牧場」は単に豊富な食料を意味するのではなく、そこで平安に過ごすことを「休ませ」は表している。
「静かな水」は直訳すると「休みの水」あるいは「休み場の水」。水が「休んでいる」状態として「静かな水」。「水」は湖を意味していると思われ、「鏡のような湖面」をイメージできるが、ここも前半同様、美しい風景や飲料水ではなく、安らかさが表現されていると考える方が良い。「ほとり」は「上に」という前置詞だが、水の場合は「ほとり」で良い。
「導く」は、羊たちを羊飼いが連れて行く様。「伴う」と訳されるが、「同行する」というより、前に立って「導く」ほうが羊と羊飼いのイメージに合っている。
3節
私の魂を彼は引き帰らせ、
正しい小道に私を導く、彼の名のゆえに。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
「御名の故に」
「魂」は「命、自身、欲望」などとも訳される。前半では「私の魂」だったのが後半では「私」となっているから、意味の上では「自身」を指すと考えられる。しかし、「魂」であっても主眼点は肉体に対する「魂」ではなく、自分自身の代表としての魂。
「引き帰らせ」は「帰る」という動詞。「生き返らせ」と訳されるのは、「帰る」のが「どこから」であるかという疑問を、次節の「死の陰の民」と照らし合わせて、魂が戻って来るのが死からであると理解している。ここではより一般的な意味の「困難」のなかで、主が詩人の魂を(どこからか、ではなく)、前節の平安へと引き戻すことを意味すると考えた。
「正しい小道」は間違った道ではなく、正しい道、ということ。「正しい」は「義」の意味で使われる場合が多く、その場合は「律法にかなった生活をする生き方」だろう。ただ、この節は前後が羊飼いをモチーフとしているので、「律法..」よりも「間違っていない」ほうが良い。ただし、後者を主としていながら、暗に前者を示唆させているとも考えられる。小道は「みぞ、塹壕」とも訳せる。大路ではないが、牧場につながっている正しい道。
「導く」は前節とは違う動詞。
「彼の名のゆえに」の分だけ後半が長すぎる。前半にも同じ節がつくべきなのを省略しているからだろう。ではなぜ「彼の名のゆえに」正しい道に導くのか。「名」が名声であると考えると、私たちが間違った道を進み滅んでしまうのは、羊飼いとしての名声に傷が付く。言い方を変えると、神様はご自分のプライドに賭けて、必ず私たちを正しい道へと導かれる。
4節
暗黒の谷を私が歩く時も、私は災いを恐れません、あなたが私と共におられる故に。
あなたの鞭とあなたの杖、それらこそ私を慰めるものです。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
ダビデにとっての「死の陰の谷」は?
どうして杖と鞭が慰めとなるのでしょう
「暗黒」は「死の陰」と訳されることもあるが、「死」のイメージよりも「暗闇」の意味の方が原意である。一歩先が見えない暗闇だから死が付きまとう。そのような時でも主を信頼する者は恐れる必要は無い。
「時も」は、「例え」と仮定法に訳して実際には起こらないことを述べていると考える事も可能であるが、実際には信仰者であっても「死の陰」に陥る事はあり得る。
「災い」は「悪いこと、悪」という意味。暗闇の中で私たちはあらゆる悪い結果を考えるが、それに怯えるのは主への信頼を忘れたとき。
「あなたが私と共におられる」は動詞は含んでおらず、「あなた」(強調的代名詞)と「私と共に」だけからなる短い句。
「鞭」も「杖」もどちらも杖を意味するが前者の方がより多くの訳語がある。羊飼いが持つもので、羊を敵から守るため、あるいは羊が間違ったほうに進まないように羊を撃つために用いられただろう。どちらのケースも羊を救うために使っている。
「それらこそ」も強調されている。それを「こそ」を付け加えることで表現した。本来慰めとは考えにくい「鞭」や「杖」が、それを用いなさる主の意図を思うときに、慰めとなる。表面的なイメージ(武器)や、感覚(痛み)だけで判断するのではなく、正しい道を導いておられる神の愛に信頼して状況を受け止めることが大切。
5節
私に敵対する者たちの面前で、あなたは私の前に祝宴を整え、
私の頭に油を注ぎ、私の杯は溢れています。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
4節までと5節では何が変わったでしょう
神様はどのような宴席を設けておられるでしょうか
「油を注ぐ」
「敵対する者たち」には二つの可能性がある。一つは「敵意を見せる」という動詞の分詞(男性複数)とみて私訳のように訳す。もう一つは、同音異義語で「縛り付ける」という動詞があるので、「私を縛り付けている者たち」と訳せる。どちらにしても敵であることは間違いない。前者の方が良いと思われる。
「前に」と「面前に」は同じような意味だが違う言葉。前者は「顔」という意味の名詞が元だが、「誰々の前」という意味でよく用いられる言葉。後者は「前、反対側」という意味の前置詞。「敵と対峙する場所で、私の顔の前に」ということ。
「祝宴」は直訳は「テーブル」で、王の祝宴をも意味する。宴席を儲けることがおよそ出来そうもない状況で、神様は私たちを最高の恵みで満たすことが出来る。
「油を注ぎ」は語源の違う言葉を二つ用いている。「注ぐ」は、それ自体、油(脂肪)を意味する動詞で、油分を多くする、脂肪を肥やす、太らせる、などの意味がある。「油によって私の頭を太らせる」とも訳せるが意味が通らない。メシヤ(油注がれた者)に使われる動詞とは異なるので、この箇所からメシヤについて語るのはよろしくない。そうではなく、客人をもてなすように神様が私を取り扱ってくださることを意味している。
「溢れています」は動詞ではなく名詞(「飽和」)。「私の杯は飽和している」。
この節は、羊飼いのイメージは無く、敵、祝宴、などのモチーフが使われている。
6節
恵みと慈しみだけが、私の一生の間、私を追ってきます、
そして私は主の家に住みます、毎日が続くかぎり。
わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
「恵みと慈しみ『だけ』」だったでしょうか
恵みではないことが恵みに変わった経験はありますか
良いことを追う生涯と、良いことが追ってくる生涯
自分にとっての「主の家」は
「恵み」は「良いこと」で、「慈しみ」は神の愛を表すことばの一つ「ヘセド」。実際には良いことばかりでないと私たちは考える。しかし、神の変わらぬ愛を知るとき、苦難の中でも恵みを知ることができる。「恵み」も「慈しみ」も尽きることはない。
「追ってくる」、私たちが追いかけるのではなく、神から一方的に迫ってくる。
「私の一生の間」は、直訳すると「私の命の日々の全て」。「毎日が続く限り」は「日々の長さにわたって」だが、多くの翻訳では「永遠に、とこしえに、いつまでも」などの訳されている。
「主の家」はソロモン以降、神殿を指す意味で使われる言葉。(そこで、神殿はまだ建っていないダビデ時代の詩篇ではない、と考える者もいる) ダビデにとっては神の幕屋を意味した。時代と共に外見は変わるが、神の臨在のしるしであり、神はその中に収まるお方ではないので、外見よりも本質が重要。私たちにとっても、信仰も恵みも教会(会堂)の中だけに限るのではなく、神と共に生きる時にどこででも23篇の恵みは与えられる。そのような毎日の頂点が日曜の礼拝。
構造
1〜4 羊飼いへの信頼
1〜2 羊飼いによる豊かさと平安
3〜4 羊飼いによる救い
3 正しい道を歩める
4 苦難の中での守り
5〜6 恵みの生活
5 敵前での祝福
6 恵みに満ちた生涯
メッセージ
多くを語る必要は無い。繰り返して、じっくりと読むだけで、そのたびに豊かな恵みをいただける、そんな詩篇である。
なぜ、この素晴らしい詩篇が23篇に置かれているのだろう。
王のためのとりなしの祈りによってダビデは神の助けをいただきつつ敵に立ち向かう(20篇)。王のための祝福のいのりによって彼は勝利し感謝を捧げる(21篇)。しかし、絶望するような苦難が襲ってくることもある(22篇前半)。それでも彼は神への信頼を失わず、嘆きは賛美に変えられる(22篇後半)。そのような苦難のなかの救いの経験、また絶望の淵での神への信頼を通ったからこそ、23篇の絶対的な信頼の詩が生まれたのです。
22篇はダビデ個人の経験に基づく詩篇だが、これを十字架の預言と理解するとき、苦しみを受けるはずの私たちに代わってキリストが神に捨てられるという罪の罰を受けて下さり、それによって、羊飼いによる救いが与えられるようにしていただいた、という新約の恵みに繋がっている。23編は十字架(22篇)を土台とした救いの恵みを描いている。