第二十六篇
 
「滅びからの救いを求める必死の祈り」
 
私訳と注釈
 
表題
 ダビデに
ダビデの歌
 
1節
 私を裁いてください、主よ、まことに私は、私の完全のうちに歩みました、
 主に、私は信頼し、揺れ動くことはありません。
主よ、わたしをさばいてください。
わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。
 
「裁いてください」
 
「私の完全」
 
 
「揺れ動かない」
 
「裁いて」は裁判だけでなく統治する場合も用いられる動詞。士師記の時代の「裁きつかさ」は裁判官であると共に政治的・軍事的リーダーにもなった。「私を治めてください」と訳すことも可能。
「まことに私は」は二重の強調形。次の二語(私の完全、歩みました)も「私」という語尾を持ち、しつこいほどに「私」が繰り返されている。
「私の完全のうちに」は、「正直、完全、全体、整合性、成熟」などの意味を持つ。もともとは「満ちている状態」で、肉体ならば「健康である」こと。「完全」については後述。ダビデの純粋さは、(何らかの意味で)自分の完全さを主張しえた。
「主に」が後半の最初に置かれ、強調されている。信頼は、自己完結ではなく、信頼する相手が中心である時に揺るがない。
「揺れ動く」は「滑る、揺すぶられる」の意味。「信頼する」と「揺れ動かない」は同じことの裏表。この最後の動詞だけ未完了形で他は完了形及び命令形なのは、時制の違いではなく、節の最後であるため。
 
2節
 私を試してください、主よ、そして私を調べてください、
 精錬してください、私の思いを、また私の心を。
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 
 
「試してください」と「調べてください」は類義語で、違いは分からない。二つ目が強意形なのも特に意味はない。細かいニュアンスの違いがあるのかもしれないが、全体としては、徹底して調べてください、ということ。自分は神の試験に自信があるのか、あるいは神の裁きの前に全面的に身を委ねているのか。あるいは、後半のように試され、精錬されることで、なお純粋にしていただくためか。
「思い」は腎臓を意味する言葉で、ここに人間の感情の座があると考えられたらしい。女性複数形の名詞で、「心」が男性単数形なのと対をなす。
3節
 実に、あなたの慈しみは、私の目の前にあり、
 私はあなたの真実のうちを歩み続けました。
あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、
わたしはあなたのまことによって歩みました。
 
 
詩人の「自信」の源泉は、自分ではなく、神の慈しみとまことにある。「目の前にある」も「うちを」も、いつも側にいて離れないこと。
「慈しみ」(ヘセド)がある故に人は神に受け入れられている。その慈しみを目の前に見るときに神の前に立つことが出来る。
「真実」(エメス、アーメンと関係)、特に神の真実さの中を歩む。具体的には、神の真実な御言葉によって生きる。
「歩み続けました」は「歩く」という動詞の再帰形で、ここでは繰り返しとして理解する。
 
4節
 私は偽りの人たちと共に座りません、
 また裏表のある者たちとは共に行きません。
わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、
 
 
「偽り」は「空しい、空虚」であること。
「裏表のある」は「隠す」という動詞の受動形で、自分自身を隠すということ。罪を隠している、と理解して「偽善者」と訳すか、本意を隠しているとして「欺く者」と訳される。
 
5節
 私は悪を行う者たちの集会を憎みます、
 また邪悪な者たちと共には座りません。
悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。
 
 
「悪を行う者たち」と「邪悪な者たち」も類義語を用いている。前者の方が一般的な意味で、後者は犯罪に近いが、ここでは同じ意味。
「共に座らない」や「共に行かない」は詩篇1:1を思い出させる。正しい生き方の一つの側面が悪を嫌うこと。最後の「座る」は4節最初の「座る」と同じ動詞。
 
6節
 私は、無実をもって私の手を洗い、
 またあなたの祭壇の周りを歩き廻ります、ああ、主よ、
主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
 
 
 
「無実をもって」洗うとは、血(殺人により流した血)で手を洗うことの正反対。手を洗ったら犯した罪が清められる(いわゆる、禊ぎ)ではない。
「歩き廻る」は、大勢ならば「取り囲む」と訳される。ここでは主語が「私」なので、祭壇の周囲を歩くこと。礼拝の行為を示す。
7節
 感謝の声を聞かせるために、
 またあなたの驚くべき御業を語り伝えるために。
感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
 
 
前節で祭壇の周りを歩き回る理由(目的)がこの節で表される。それは人々に詩人の感謝の声を聞かせ、それによって神の救いの御業を語り伝えるため。二つの動詞はどちらも前置詞「レ」と動詞の不定詞で、目的を表す。
「語り伝える」は「数える」という動詞がもとで、感謝なことを一つずつ数え上げていく。「...御業」も複数形である。
「驚くべき御業」は「難しい、力を越えている」という意味で、人間の力・理解を遙かに越えた神の業。特に、救いの御業をここでは謳っている。
 
8節
 主よ、あなたの家の住まいを私は愛します、
 またあなたの栄光の幕屋の場所を。
主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、
あなたの栄光のとどまる所とを愛します。
 
 
「住まい」は「隠れ場」という意味で、動物が隠れて住む場所。神の、隠された住まいの意味で使われる。天にある住まいも、地上の幕屋の中心(至聖所)も人の目から隠されている。「あなたの家の住まい」を「あなたの住まわれる家」とするほうが日本語としては自然。同様に「あなたの栄光の幕屋の場所」も「あなたの栄光の宿る場所」とするほうが自然だが、ここでは直訳にしている。
後半は動詞が無いが、前半と同じ動詞が省略されている。
 
9節
 どうか罪人たちと共に私の魂を集めないでください、
 また私のいのちを血を流す者たちと一緒に。
どうか、わたしを罪びとと共に、
わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。
 
 
「集めないでください」は未完了形だが命令形として理解する。「集める」のは、束にして脱穀する、あるいは捨て去るため。神の裁きを表している。
「罪人たちと共に」は、自分だけが助かれば良い、という利己的な意味ではなく、神が罪人を裁くことの恐ろしさを知っているから、切実に助けを求めている訴え。罪の恐ろしさが分かった時に、切実な求めが始まる。
「血を流す者たち」は「血の男たち」で、殺人の血を流すことを意味する。
 
10節
 彼らの手には企みがあり、
 彼らの右の手は賄賂で満ちています。
彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。
 
 
節全体が関係詞で始まり、前節の罪人たちの説明となっている。
「企み」は計画を意味するが、悪い意味で使われる。それが「手に」あるとは、考えるだけでなく、実行の準備がされていること。「賄賂」も悪い計画の一旦。
「手」と「右の手」は並行関係で用いられ、左右の違いではない。
 
11節
 しかし、私は、私の完全のうちに歩みます、
 私を贖ってください、そして私を憐れんでください。
しかしわたしは誠実に歩みます。
わたしをあがない、わたしをあわれんでください。
 
 
「しかし、わたしは」と、前節の悪人たちの描写との対比が強調されている。
「完全のうちを歩む」は1節と同じ言葉。
「贖う」は身代金を払って救い出すこと。悪人たちの手の中から救い出されることを求めている。後半は2つの、短い言葉で、危急の願いを感じさせる。
 
12節
 私の足は平らな場所に立っています、
 私は数々の会衆の中で、主を誉め称えます。
わたしの足は平らかな所に立っています。
わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。
 
 
「私の足」が最初に来て、強調されている。私人が、今、自分の足(自分の置かれている場所)を見たとき、安全な場所に置かれていることに気が付いたからか。
「平らな場所」は地面が平らである、すなわち安全であることを意味するが、政治に関して公正であることも意味する。
「数々の会衆」は複数形が使われているため。たくさんの会衆があちこちにあるというよりも、人々が集まるたびに、という意味だろう。
「誉め称えます」は「祝福する」という動詞。人が神に対して使うときだけ「誉め称える」となり、神が人、あるいは人が人に使うときは「祝福する」となる。
 
構造
 1〜2 主への訴え
   3〜5 正しい生き方   (倫理的きよさ)
     3   神を目の前に置く (肯定的側面)
     4〜5 罪から離れる   (否定的側面)
   6〜8 礼拝を愛する生き方(信仰的きよさ)
 9〜11 救いへの訴え
   9  滅びからの救いの求め
   10〜11  罪人との違い
 12  救いの感謝
 
メッセージ
正しさを主張する詩篇は傲慢であるかのように誤解されやすい。しかし、罪に対する神の裁きの恐ろしさを知るとき、救いを求めて必死に祈る詩人の姿勢は、決して批判すべきものではない。むしろ、彼の真剣な信仰に教わることが多い。
 
「完全」についての補足
 
 1節、11節。口語訳では「誠実」と訳されている。いろいろな可能な訳(正直、完全、全体、整合性、成熟)の中で、最も受け入れにくいのが「完全」の訳語。それは、人間は完全ではあり得ない、という前提があるから。同じ理由でウェスレーの「キリスト者の完全」も批判された。しかし、神は「私が完全であるようにあなたがたも完全であれ」と命じられる。人間が神の完全さ、天使の完全さを持つことはできない。では人間としての完全さは何か。「成熟」というのも一つの完全である。「何一つ欠点がない」という状態ではなくても、「成熟した」人間であることは可能。あるいは「自分のベストを尽くす」というのも考えられる。
 
 11節に「贖い」という語が出てくるが、救われた者は身代金を神が払ってくださった。十字架という代価を払って買い取られている。だから、もし、救われた者が「自分は自分のもの」と考えているなら、「不完全な」状態であり、「自分は主のもの」であるのがあるべき状態。その意味でキリストを心の王座にお迎えすることが、クリスチャンとして一つの基準を全うすることである。神のものとされたときに、直すべき欠点は神が「精錬して」くださる。