第二十七篇
「信頼の中の叫び」
私訳と注釈
表題
ダビデに
ダビデの歌
1節
主は私の光、また私の救い、誰を私は恐れましょう、
主は私の命の砦、誰を私は怖がりましょうか。
主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。
主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
「主は」が最初に来る。詩人の、神への信頼の告白だが、自分への励ましにもなっている。読者も同じ告白をするとき、励ましを受ける。
「私の光」は何らかの闇を想起させる。例えどのような闇であっても、主の光はそれより遙かに強い。「世の光」であり「まことの光」であるお方を「私の光」と呼ぶ関係を持つとき、闇を恐れることはない。
「誰を」は質問ではなく修辞的疑問文で、「いや、誰も恐れる必要はない」ということを強調して述べる表現。
「恐れ」は、ここでは恐怖としての恐れ。同じ動詞で畏敬としての「畏れ」も表現する。どちらであるかは文脈から判断する。並行している「怖がる」は恐怖の意味で使われる動詞。
「命の砦」は命をも失うような危険から守ってくれる存在。ここは「砦」だけでも同じような意味を持たせる事が出来るのだが、「命」をいれることで前半と後半の長さのバランスをとることができる。
2節
悪を行う者たちが私に向かって近づいて、私の肉を食らおうとしたとき、
私の仇たち、また私の敵たちが私に、その彼らが躓き、また倒れたのです。
わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、
わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
「私の肉を食らおうと」は比喩的表現で、「私を滅ぼそうと」と同じ意味。
後半の「私に」は不必要な一語のように思われる。「私の」と所有格に理解することも出来るが、「仇たち」と「敵たち」の両方とも「私に」が付いている。方向を表し、動詞(「近づく」の類義語)が省略されているとも考えられる。例えば、「私に襲いかかろうと」と続くのが、突然に「彼らは躓き倒れた」と意表をついているのだろうか。「躓く」の目的語と見るのは難しい(前置詞が異なるため)。
「その彼らが」は、強調的な代名詞。襲おうとした彼らの方が、という意味。
3節
たとい私に向かって陣営が敷かれても、私の心は恐れない、
たとい私に向かって戦が起こっても、これを私は信頼する。
たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。
たといいくさが起って、わたしを攻めても、
なおわたしはみずから頼むところがある。
「陣営が敷かれて」は、直訳では「陣営が陣を敷いても」と、擬人法を使っている。
「これを」は具体的に何を指すのかは書いていない。1節全体を指していると考えるのが良い。「主」と考えるのは文法的に難しい。しかし、詩人が主を信頼しているので恐れていないのは明らか。
4節
一つのことを私は主に願った、それを私は求める、
私の命の日々の全て、主の家に住むことを、
主の麗しさを見るために、また彼の宮の中に探し求めるために。
わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。
わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、
その宮で尋ねきわめることを。
「一つのこと」、「それ」は同じものを指す。それは主の家に「住むこと」。「それを」は強調されているので、新共同訳の「それだけを求めよう」は上手な訳。
「私の命の日々の全て」は直訳で、「生きる限り」(口語)、「命の日の限り」(新改訳)が美しい。
「彼の宮の中に探し求める」は「主の宮を探し求める」と読めるが、すでに神の家に住んでいるとすると理解しにくい。口語訳は「探し求める」の目的語を「主の麗しさ」と理解し、前置詞を「の中で」と場所を意味すると解釈している。新改訳はこの動詞を「(探し求めて)深く考える」と理解して「思いにふける」(神の言葉を思う)と訳す。新共同訳は「探し求める」が「朝」と似ているのに着目し「朝を迎える」と読む。「主の麗しさ」も主御自身を指すことを考えると、詩人が求めているのは主であり、主の家も主と共にいること。従って、神の宮の中で主を求め続けることをを意味すると考えられる。その意味で、口語訳の「その宮で尋ねきわめる」は適訳だろう。神は人間の「もの」とすることは出来ないので、神を求め続けることこそ神に一番近いところである。
5節
まことに災いの日に彼は私を隠れ場に隠し、
彼の幕屋の覆われた所に私を覆い隠し、
岩の内に私を育て上げる。
それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、
その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
「災いの日」、直訳では「悪い日」、「悪の日」。
「隠れ場」はライオンなどの住みか。いくつかの写本や訳では「彼の」を付け加えてあるが、必要ではない。
「隠し」と「覆い隠し」はほぼ同じ意味。前者は宝物を隠す、後者は覆って隠す、秘密にする、という意味でも使われるが、特に違いは強調されていない。苦難の中での神の守りを表現している。
「覆われたところ」は「覆い隠し」と同じ語源の名詞で、ここでは神の幕屋のさらに隠された場所。それが至聖所を意味するのか、あるいは後の神殿の中に大切なものをしまう部屋があったので、そのような場所を意図しているかは不明。ただ、至聖所の中に入ることは許されないことなので、後者の方が自然だが、前者とすると人間の常識を越えて神が詩人を愛しておられるということになる。
「岩の内に私を育て上げる」は文脈に当てはめにくい。「育て上げる」は「高くする」という動詞なので、「岩の上に」と口語訳のように訳すことが多いが、前置詞は「上に」ではなく「中に」。前二行の「隠れ場」「覆われた所」と関連させて、岩の裂け目の隠れた場所ということだろうか。岩自体が神の守りを意味することもある。ただ、隠すのではなく「育て上げる」というのが唐突である。口語訳や新改訳の理解では、岩の上に高く上げられる、ということだが、前二行との関連が見つけにくい。また神殿(あるいは幕屋)のあった場所は山と呼ばれることはあっても岩の上とは呼ばれない。ただ、神殿のあった場所に現在立てられているイスラム教のモスクの中に大きな岩があり、もし同じ岩が古代の神殿、あるいはエルサレムの幕屋の中にあったとすれば、それを指すことになるが、岩の上に上げるという行為と、前二行の隠すこととの関係が分からない。新共同訳は三行目を切り離して次の節と結びつけてしまっている。もし、「上げる」ことが何らかの意味があって、文脈と一致するなら、同じ動詞を次の節で使うことで、本節の「隠れ家」から次節の「勝利」へと主題が転換していくためのつなぎ目となっている。今のところ、正確な意味は分からない。
6節
しかし今、私の頭は、私を取り囲んでいる私の敵たちの上に、高くなり、
そして私は喜びのいけにえを捧げよう、
私は歌い、そして主に向かって歌を歌おう。
今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。
それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、
歌って、主をほめたたえるであろう。
「しかし今」は前節との強い対比を意味する。敵に追われ隠れている状況から一転して、敵を下にして勝利と感謝の賛美を捧げている。
「高くなる」は、自分でそうなるのではなく、神がして下さるので「高く上げられ」でも良い。守って下さるのも勝利させて下さるのも神である。
「いけにえ」と「捧げよう」は同じ語源の名詞と動詞。動物の犠牲の血を流すことを意味する。命が救われたことを感謝するために大切な羊の命を捧げる。それは支払わなければいけない代価ではなく、「喜び」から生まれるささげものである。
「歌い」と「歌を歌おう」は類義語。日本語では違いを出しにくい。後半の三つの動詞はどれも「しよう」というニュアンスを持つ。
7節
聞いて下さい、主よ、私の声を、
私は叫んでいます、私を憐れみ、私に答えてください。
主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、
わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
「聞いてください」(命令形)、と前節までの絶対的信頼から必死の訴えに変わっている。これは矛盾することではなく、信頼しているからこそ、隠すことなく助けを求めるのである。
「私は叫んでいます」を、「私の声」と結びつけることもできるが、切り離す方がリズムが良い。
「私を憐れみ」も次の語も接続詞が付いているので「そして」を訳に入れても良いが、少ししつこいのと、せっぱ詰まって叫び求める様子を損なってしまう。後半は動詞の三連発となっている。
8節
あなたに私の心は言います、「我が顔を求めよ」、
主よ、私はあなたの御顔を求めます。
あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。
あなたにむかって、わたしの心は言います、
「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
この節の前半は解釈が難しい。最初の「あなたに」から神に対して何かを行っているのだが、それが「我が顔を求めよ」は逆になる。そこで、口語訳は動詞「言う」を分詞として考え、その主語を前置詞を使って表すと考えて、「あなたは言う」としている(が、「私の心」を次の行に移動してしまっている)。新改訳は「あなたに」を「あなたに代わって」と解釈する。新共同訳は「あなた」は「私の心」の擬人化であると解釈し、「私の心よ、(主は)お前に言われる」と動詞の三人称男性単数主語を神であるとしている。どの訳も一長一短だが、全体として言おうとしていることは、神ご自身が「私の顔を求めよ」と言っておられることを理由として、後半で「私は求めます」、そして次の節で、そのような御心に適った求めに対して答えることを神に求めている。「我が顔を求めよ」は二人称男性複数に対する命令形なので、詩人個人に対する言葉ではなく、会衆に対して言われた言葉を引用しているのかもしれない。だとすると、「我が顔を求めよ」は神に対する命令ではなく、神の言葉を復唱していると理解でき、上の訳でも不可能では無い。
「求めよ」は4節の「求める」と同じ動詞。尋ね求める、慕い求める、と訳すことも出来る。
9節
あなたの顔を私から隠さないでください、
あなたの僕を怒りの内に入れないで下さい、あなたは私の助けです、
私を捨てないで下さい、私をうち捨てないで下さい、私の救いの神よ。
み顔をわたしに隠さないでください。
怒ってあなたのしもべを退けないでください。
あなたはわたしの助けです。
わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。
最初の行は前節からの続き。求める者に顔を隠すのは拒絶を意味する。
「怒りのうちに入れないで」は分かりづらい。「入れる」は「のばす、曲げる」という動詞の使役形で、「伸ばさないで」か「曲げないで」が直訳。しかし、「怒りの中」が結びつかない。神の怒りの炎の中に、突っ込まないで下さい、ということだろうか。
「捨てる」と「うち捨てる」も同義語で、違った言葉で訳すのが難しい。
10節
もし私の父と私の母が私を捨てても、
しかし、主が私を加え入れて下さる。
たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。
「もし」は「まことに」とも訳される接続詞。実際に詩人は父母から捨てられた経験があるのかもしれないが、ここではあり得ないことの例として父母に捨てられることがあげられ、それでも主が受け入れて下さるというコントラストが中心であるので、「もし」が良い。「私の父、私の母」と自分との強い結びつきを表現し、その両親に捨てられるという異常さを産み出している。
「加え入れる」は「加える」という動詞。どこに加えるかというと、神の家族。その意味で「迎えられる」は間違っていない。
11節
主よ、あなたの道を私に教えて下さい、
私を平らな小道に導いて下さい、
私を見張っている者たちのゆえに。
主よ、あなたの道をわたしに教え、
わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
「教える」は「投げる」という動詞で、投げて道を指し示す、から、「教える、指示する」の意味でよく使われる。特に父が子に人生の道を教える、という場合がある。
「小道」は「道」とは違う言葉が使われているが、類義語。「平らな」は躓くことのない、安全な。特に、敵が待ち伏せしているので。
12節
私の仇たちの魂の中に私を置かないで下さい、
実に、私に逆らって、偽りと、暴力の息の証人たちが立ち上がっています。
わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。
偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。
「魂の中に置く」とは、彼らの望みのままにさせること。
「暴力の息」は、証言の背後に暴虐が待っている、その鼻息が聞こえてくる様か、あるいは言葉(息)による暴力。前者の方が危機が強い。
13節
もし私が、生けるものたちの地で主の恵みを見ることを堅く信じなかったなら。
わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
最初の言葉は「もし・・・・でなかったら」という意味。もし神を信じなかったら、がどこに続くのか。前節に続くと考えて、神に信頼していないと敵に倒される、と理解するか、あるいは、後に続けようとして省略した(新改訳)か。どちらにしても、神への信頼無しには決して置かれている困難を生き延びることは出来ない。訳すのが難しいので、多くの翻訳が最初の語を直訳せず、文脈から判断して強い肯定として訳している。
「生けるものたちの地」は今、生きている間に、ということで、詩人の時代には死後の世界での救い(天国)はまだ考えていなかった。
「堅く信じる」は動詞アーマン(アーメンの語源)だが、信じて堅く立つという意味で使われている。
14節
主を待ち望め、強く、あなたの心を勇敢にせよ、そして主を待ち望め。
主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
「待ち望め」、「あなたの心を」と、二人称に対する命令になっているが、自分に対して語っている。
「心を勇敢にせよ」は日本語としては変。「心を強くせよ」が普通だろう。
構造
1〜6 信頼の確信
1 恐れないとの宣言
2〜3 敵の中でも信頼できる
4 主を求める願い
5〜6 敵からの守りと勝利の確信
7〜14 信頼と祈り
7〜9 助けを求める
10〜11 神への信頼
12 危急の求め
13 不信仰の否定
14 結論
メッセージ
神への信頼を持ちつつも、心が揺れ動く。これは人間の現実の姿。しかし、神は取り繕った姿ではなく、ありのままの祈りを受け入れて下さる。イエス様でさえ、ゲッセマネで苦しみの祈りを捧げられた。息子を心配する父親は「信じます、不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。理屈ではなく、しかし、真実な叫びである。どのような時でも「主は私の光」と宣言しよう。