第三十篇
 
「祈りに応えられた喜び」
 
私訳と注釈
 
表題
 賛歌、かの家の奉献の歌、ダビデに
宮をささげるときにうたったダビデの歌
 
「賛歌」は29篇と同じ。「歌」は違う語で、より一般的な意味。
「奉献」の元となる動詞は(祭壇、家、城壁を)「奉献する」の意味で、主の家(神殿)についても使われる。民数記7章に祭壇を奉献する記事があるが、他の場合も何らかの儀式をして祝ったようである。家などが完成した喜びと神への感謝を伴うはずだが、この詩篇の内容は表題と一致していないように見える。
「かの家」は冠詞付き。具体的にどの「家」かは明らかではない。神殿、あるいはエルサレムに持ち込まれた「会見の幕屋」と考えられている。ただ、神殿はダビデ時代には出来ていないし、幕屋を「家」と呼ぶ可能性は低い。ダビデが将来の神殿を夢見て歌った、あるいは神殿が完成したとき、それを渇望したダビデのために捧げられた歌、と考えることも出来る。ダビデの宮殿、あるいは「ダビデの家」(ダビデ王家)の可能性も考え得る。
ヘブル語原文ではこの表題を1節とするため、以下、口語訳の節の数字とは一つずつずれる。新共同訳はヘブル語の節に従っている。
 
1節
 あなたを崇めます、主よ、私を引き上げて下さったからです、
 また私に関して私の敵たちを喜ばせなかったからです。
主よ、わたしはあなたをあがめます。
あなたはわたしを引きあげ、敵がわたしの事によって喜ぶのを、
ゆるされなかったからです。
 
「崇めます」は「高い」という動詞の使役(正しくは強意の使役)形。相手を持ち上げ、高く上げることから、崇めるという意味で使われる。神が人を「高くする」(3:3、「頭をもたげる」)場合にも使われる。
「引き上げて下さったからです」の動詞は「引く、引き出す」の意味で、特に井戸で水を引き上げる場合に使う。神が自分を「引き上げて下さった」から、自分も神を「崇める(高く上げる)」という関連が見られる。「からです」は後半にも続いているが、前後半のバランスを考えると、ここで切るほうが良いと思う。
「また」は単に二つの動作を並べているのではなく、「から」という理由を示す接続詞を含めて並べている。さらに前半の「あなたを崇めます」も含んでいると考えられ、後半では「崇めます」と「から」(と「主よ」も)省略することで最後の二語を付け加える余裕を産み出し、前半で述べられていなかった「どこから引き上げられたのか」ということを取り上げることができるようにしている。
「私に関して」は詩文としては良い訳ではない。「私」が「落ちる」ことによって敵が喜ぶということ。
「私の敵たち」は、詩篇の他の場合と同様に具体的に誰であるかは書かれていない。次節で「癒し」が出てくるので、病気のことを擬人化しているのかもしれない。たとえ誰であっても、誰が敵であるか、よりも、敵に囲まれている「状況」を問題としている。
「喜ばせ」は「喜ぶ」の強意形だが使役の意味で使われている。口語訳の「ゆるされなかった」は意訳。神が敵を喜ばす、という事自体が受け入れがたい表現であるので、「喜ぶのをゆるされなかった」と表現を和らげているのだろう。
 
 
 
2節
 主、我が神よ、
 私はあなたに叫びました、
 するとあなたは私を癒されました。
わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、
あなたはわたしをいやしてくださいました。
 
「主よ」との呼び掛けがこの詩篇では何度も用いられていて(1、2、3、7、8、10二回、13節)、祈りの危急性を強めている。「我が神」と共に使われるのはここと13節。
「私はあなたに叫びました」を前行とひとつにまとめることもできるが、前後半のバランスが悪くなる。むしろ、短い行を畳みかけることで危急性を表すようにした。三行は、単語としては2、2、1となっているが、音節としては6(もしくは5)、6、5となって長さが揃っている感じがする。ここで使われている「叫ぶ」は主にか神への祈りの意味で使われる動詞である。
「すると」と接続詞を用いている。前行との強い関係を示し、ここでは時間的・論理的順序と理解している。時間的と考えると、祈りへの応答の早さを感じさせるが、物理的な時間よりも、両者が密接な関係にあると考える方がよ良いだろう。単に「叫んだ、だから癒された」だけでなく、「私はあなたに」から「あなたは私を」という関係も対称的である。
「癒されました」は良く使われる語。これから1節の「引き上げる」をより具体的に示している。ただ、何の病気からの癒しかは分からない。次節でそれが死ぬほどのものであったことがほのめかされている。ダビデがそのような病にかかったことは列王記、歴代誌には出てこないが、全くなかったとは断定できない。病気の具体的様子は述べられておらず、むしろ死との関係が3節と9節に述べられているので、実際の病以外のこと(敵に追われる状況、罪による苦しみ)を指すと考えることも不可能ではない。
 
3節
 主よ、あなたは私の魂を黄泉から持ち上げ、
 穴に下る者たちの中から私を生き返らせてくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、
墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。
 
 
 
 
「持ち上げ」が「上がる、登る」の使役形。1節の「引き上げ」とは別の動詞。死の世界が下にあるとの理解から、救いが上向きの動作で述べられている。
「黄泉」(シェオル)は死の世界を示す代表的な用語。ここは実際に死んだ者を生き返らせたと考える必要はなく、死んだも当然の者を元気にした、と言う意味で用いられる詩的な表現である。
「穴に下る者たちの中から」も、やはり詩的表現。「穴」は実際の地面の穴にも使われるが、ここでは死の世界を表現している。「下る者たち」は動詞の分詞形だが、マソラが採用している異読では分詞でなく不定詞となり、その場合「穴に下ることから」と表現が軟らかくなる。だが、詩的表現であることを考えると、特にそうする必要は無い。時にこのような一見誇張とも思える叙述を通して新約にも通じる霊的真理を表すことがあり、ここも復活思想の芽生え、あるいは前・原型と見る事もできる。
「生き返らせ」は「生きる」という動詞の強意形を使役的に用いている。単に「生きる」のではなく、神によって命を与えられる。
 
4節
 誉め歌え、主に、彼の信心深い者たちよ、
 そして感謝せよ、彼の聖なる記憶に。
主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。
 
 
「誉め歌え」は表題の「賛歌」の元となる動詞。時には楽器を伴って賛美すること。
「信心深い者たち」は形容詞を用いた表現。恵み(ヘセド)から派生した言葉で、「親切、信心深い」などと訳される。信心深い、すなわち「聖徒たち」と訳しているのが口語訳と新改訳。新共同訳はヘセド(恵み、慈愛)と関連させて「主の慈しみに生きる人々」と訳しているが、「信心深い」が陳腐化した表現となっているので、良い訳かもしれない。
「そして」も前後半の関係を強調している。
「聖なる記憶」は奇妙。「記憶」はしばしば「覚えるべき名前」と理解され、「聖なる名」と訳されることもある。主による救いの記憶をしめす。動詞的に訳すと「感謝せよ、彼の聖を覚えて」とすることもできる。「聖」は倫理的な意味ではなく、救いによって示された神の超越性を意味する。
突然に第三者への訴えがでてくるようだが、神の救い(3節)を思ったとき、自然と賛美と感謝に導かれ、聞いている会衆に賛美への賛歌を呼びかけている。詩篇は決して一本調子なレポートでは無いので、自由に人称を変化させることは無理なことではない。
 
5節
 まことに彼の怒りの内には一瞬、
 彼の恩寵の内には多くの命がある、
 夕暮れには嘆きが宿る、
 しかし喜びの叫びは朝にまで。
その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。
夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。
 
 
「まことに」は接続詞を強調の意味で訳した。前節の理由を表すとして「からです」と訳すことも可能。
「怒り」は「鼻」という名詞。「怒りの内に」は分かりにくい表現、「怒りの内には一瞬」とは神の怒りは短い時間で終わることを意味する。「怒るに遅く」と似たようなこと。
「一瞬」は短い時間を表す言葉。「多くの命」とは、単数形なら「一生」と訳すのが良く、長い時間を示し、複数形なので多くの人生を含むほどの長い時間。両者の対比は、「わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に」と似ている。
「恩寵」は恵み、慈しみ、あるいは好意を意味する名詞。「喜ぶ、愛する、受け入れる」という動詞から派生した言葉。
「夕暮れ」は「夜」とは異なる語で日没時を意味する。「朝」(日の出時)の反対語で、「昼」と「夜」は別のペア。創世記1:5で「夕となり、また朝となった」と使われている。ユダヤ教では一日は日没で始まる。
「嘆きが宿る」は「嘆き」を擬人的に考えたもので、「宿る」は「夕」に始まる一晩をそこで過ごすこと。嘆きが夜中続いたとしても、朝までは続かない、という意味。
「しかし」で三行目とのコントラストであることを示す。四行目には動詞がないが、適当に補って理解する。
「喜びの叫び」は一語で、喜びによる叫びを表す。
「朝まで」は前置詞を直訳したものだが、意訳して「朝には」としたほうが日本語としては分かりやすいだろう。夜の間は嘆きが続いていても、朝になったら嘆きが止んで喜びが始まる、ということ。ただし、もっと正確には、「夜」=「嘆き」、「昼」=「よろこび」なのではなく、例え嘆きが長く続いても朝までは続かず、朝になるまでには喜びになる、ということで、朝になる前に喜びに替わることもあり得る。
 
6節
 実に私は、平安な時に言った、
 「とこしえに私は揺るがされない」と。
わたしは安らかな時に言った、「わたしは決して動かされることはない」と。
 
 
「実に」は接続詞「そして、しかし」だが、前節と密接に繋がっているというのではなく、強調の意味で使われているのだろう。
「平安」は「穏やかである、栄える」という動詞から派生した名詞で、「平安、安心」などの意味がある。「シャローム」のような全てが満たされた状態ではなく、何も問題がない状態。無風状態での信仰を嵐の時にも持つことは難しいことが多い。
「とこしえに揺るがされない」は、一面では大変強い信仰の告白とも考えられるが、他面では現在の平穏な状態を絶対化してしまっている。
 
7節
 主よ、あなたは恩寵をもって、私の山に力を据えられました、
 あなたは御顔を隠され、私は慌てふためきました。
主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。
あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。
 
 
「恩寵」は5節と同じ語。
「私の山」は具体的にはエルサレムを指す。神がエルサレムに力を据え、揺るがないものとしてくださった。
「据えられました」は「絶える」という動詞の使役形。
「あなたは御顔を隠され」は、接続詞も無しに、突然に始まり、詩人が受けたショックを想像させる。この「御顔」は好意を意味する。新改訳は「私はおじまどっていましたが」と挿入句のように訳しているが、それでは流れを弱めてしまう。
 
8節
 あなたにです、主よ、私は呼ばわります、
 また私の主に、私は憐れみを請い求めます。
主よ、わたしはあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました、
 
「あなたにです」と順序を入れ替えることで、必死の呼び掛けであることを表している。7節後半のような状況に陥ったとき、詩人は必死で願い求めた。
「呼ばわります」は未完了形で、一回限りの動作であるよりも、それが続いている印象を与える。
「私の主」は前半で使われている通常の「主」(神の固有名詞を読み替えたもの)ではなく、「主人」という言葉。もっとも読むときは同じになる。
「憐れみを請い求める」は一つの動詞。その内容は次節。
9節
 私が墓に下るとき、私の血に何の益がありましょうか、
 塵はあなたを誉めたたえるでしょうか、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか、
「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。
 ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。
 あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。
 
 
 
 
 
「墓」は「穴」や「黄泉」と類義語。死の世界への入り口であり、その代名詞である。
「下るとき」は仮定法のように理解して「下るならば」とすることもできるが、詩文なので多少誇張であっても良いと思う。
「血」は命を表し、ここでは命が流される、すなわち死ぬことを意味する。死んでしまって、流れ出した血、ということ。
「ありましょうか」は原文にはないが日本語とするために付け加えた。修辞的疑問文で、答えは「否、何の益もない」。死んでしまっては無意味なので、そうならないうちに救ってください、という、婉曲的な求めである。
「塵は...」も同様で、死んで塵になったら神を賛美することは出来ない、だからそうならないように救って欲しい、という求めである。
「告げ知らせる」は主語が省略されているが、文法的に「塵」が主語であると考えられる。後半は二つに分けられ、それが並行関係にある。主語を省くことで一語減らし、その分、「あなたの真実」という言葉を付け加えている。
 
10節
 お聞き下さい、主よ、そして私を憐れんでください、
 主よ、私にとって助けとなって下さい。
主よ、聞いてください、わたしをあわれんでください。
主よ、わたしの助けとなってください」と。
 
 
 
 
 
10節は「主よ」が二度使われ、8節で導入された祈りのクライマックスである。全体を三つに分けることも出来るが、二つに分ける方がそれぞれの行の最後が同じ発音で終わり、「私を」が強調される。
「お聞き下さい」は自分の祈りを聞いてください。「憐れんでください」は、聞くだけでなく、憐れみをもって祈りに応えてください、ということ。「そして」によって二つの動作を結びつけている。
「助けとなってください」は「助けてください」ということだが、単に今の苦しい状況から助け出してください、ということに留まらず、「私の助け」、つまり助け主となって、いつでも助けてくれる存在になって欲しい、という願い。
 
 
 
 
 
11節
 あなたは私の嘆きを私のために踊りに変えました、
 あなたは私の荒布を脱がせ、喜びを纏わせられました。
あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、
荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。
 
 
 
 
 
「変えました」は「ひっくり返す」という動詞で、物事を変えるという意味でも使われる。8、9説は未完了、10節は命令形が支配的であったのが、11節でまた完了形になり、トーンが変化したことがわかる。ヘブル語ではカギ括弧がないので、8節で始まった祈りがどこで終わるのかはっきりしないが、このように動詞の使い方で分かるようになっている。
「嘆き」は苦しみや、あるいは誰かが死んだ時の悲しみを表す。「荒布」はそのような感情を表す装い。
「喜びを纏わせられました」は「守る」という動詞で、鎧のようなものを着せて守るということ。ここでは荒布を脱がせ、代わりに「喜び」を着せている様子。「ひっくり返す」と合わせ、神が状況を一変してくださったことを衣服に例えて表現している。
 
12節
 これは栄光があなたを誉め称え、そして黙ることがないためにです、
 主、我が神よ、永遠に私はあなたに感謝します。
これはわたしの魂があなたをほめたたえて、口をつぐむことのないためです。
わが神、主よ、わたしはとこしえにあなたに感謝します。
 
 
 
 
 
「これは...ためです」は、この節が前節の理由となっていることを示し、「これは」は原文には無いが補っている。
<ここは読まないで良い>「栄光があなたを誉め称え」は理解が難しい。ギリシャ語訳では代名詞を付け加え「私の栄光」としている。日本語訳では「私の魂」と訳し、多くの英語訳でも「私の心」、「私の全存在」としているのは、どれも「栄光」の代わりに「魂」(ネフェシュ)を当てはめているため。これは、詩篇7:5なので「栄光」と「魂」が並行して用いられているので、両者が同義語的な意味を持っていると考えている。例えどのような意味であろうと、救われて神を誉めたたえるのは誰よりも詩人自身であるのは明らか。ここでは9節で「塵」が「誉め称えるでしょうか」と言っているのに対比して、最も価値の無い存在である塵から、最も価値のある存在である「栄光」へと賛美する主語が替わっていることに注目したい。<少し専門的な話でした>
「感謝します」では主語がはっきりと「私」となっている。この動詞は「放る、投げる」という意味で、使役形で用いるときは「感謝する、賛美する」という意味になる。ここでは「賛美する」を前半で使っているので、「感謝する」と訳している。
 
構造
 
  1〜3  主への感謝
    1a   感謝の宣言
    1b〜3 感謝の理由(敵からの救い、癒し、死からの救い)
  4〜5  賛美への招き
    4    人々への呼び掛け
    5    賛美の理由
  6〜10 助けを求める祈り
    6〜7a  平穏な時の信仰の宣言
    7b〜10 混乱の時の祈りの訴え
      7b    苦難の原因
      8     祈りの言葉の導入
      9〜10  祈りの言葉
        9    訴えの根拠
        10   訴えの内容
 11〜12 祈りに対する応えと感謝
    11   祈りに対する救いの応答
    12   賛美と感謝の宣言
 
 
メッセージ
詩人は単に救われたから賛美をしているだけではない。神の御顔が背けられたと感じるような苦難の中で、祈り求めたときに神が応えてくださった、ということを覚えて賛美と感謝をささげ、またそれを会衆にも呼びかけている。祈りが応えられるというのは信仰者にとって大切なことである。あなた任せの信仰ではなく、神の前に主体的に生きる、それが祈りである。また、そのような大胆な祈りを喜んで受け入れてくださる神様こそ、賛美を受けるに相応しいお方である。
 
ところで、この詩篇は病気(?)からの救いを主題としており、表題とは関係ないように見える。この詩が作られた時は病気からの救いが主題であったのかもしれないが、やがてこれが家(恐らく神殿)の完成の時に歌われるようになり、意味が深められたのかも知れない。その場合、「私」は個人ではなく、イスラエル全体であり、敵によって侵略され「瀕死の病」であった国が、民の祈りに応えて神がイスラエルの中(神殿)に住んでくださり、救いが与えられた、という意味で歌われたのだろう。ダビデ個人の救いの経験は、一人で終わるのではなく、証と賛美によって多くの人の共感を産み、会衆(教会)全体の賛美へと広まっていくことができる。