「苦難から生まれる確信」
ヘブル語では表題を1節と数え、以下、1節ずつずれている。新共同訳はヘブル語聖書に準じている。
「あなたにです」と強調的な呼び掛けをもってこの詩篇は始まる。
「身を避けています」は「避け所」という名詞の元となる動詞。嵐の中で身を避ける洞穴や岩陰などの隠れ場。神様に身を避ける者を守らないのは、神様のご性格としてあり得ない、と詩人は考えている。神への信頼を示す。
「とこしえまでも」は誇張表現だが、「死に至るまで」と同じ事。神に助けを求めているのに助けが来ないという、信仰者にとっての「恥」が、死ぬまで来ないということが無いように、と願っている。
「どうか...恥じさせないでください」は命令形ではなく希求の表現。
「あなたの義をもって」の「義」は「救い」とほぼ同義で使われる。身を避ける者を救うというのが神にとって正しい行為であるから「神の義」と呼んでいる。
「助けてください」は命令形。救いを表す類義語の中では一般的な意味の動詞。次節以下で異なる類義語を用いて、様々な表現をもって神の救いを述べていく。
「傾ける」は「(手や身を)伸ばす」という動詞で、ここでは耳を自分の方に近づけて、よく聞いて欲しい、という意味。「耳を傾ける」はそれと対応する日本語の表現。
「急いで」、あるいは「すぐに、はやく」。危機が迫っている気持ちが隠しきれないでいる。
「救い出して」は、救いを表す言葉の一つで、動物の口から獲物を奪い取る動作。絶体絶命の危機に落ちいったとき、敵の手から奪い取るように助け出してくださる。
「避難の」は「強い」という形容詞と関係する名詞。新改訳は「力の岩」としているが、「力」そのものを表す言葉ではなく、力をもって助けとなる、安全な場所、守りの場所のこと。したがって、「避け所」や「とりで」の意味でも使われることがある。嵐の時に巨大な岩を見いだせば、その陰に入って守られる。そのような力強さを感じる岩。
「砦の家」は直訳。「要塞」、あるいは新共同訳のように「城塞」と訳しても良い。
「私を救うため」は動詞が不定詞として用いられ、目的を示す。「救う」は救いに関する言葉のうち、最も中心的な言葉。
「大岩」は、前節の「岩」とは異なる名詞。突き出た岩や崖を意味する。
「要塞」も前節の「砦」とは違う。ヘブル語の語彙と日本語の語彙とは違うため、一対一では対応しておらず、完全には訳せない場合が多い。
「御名のため」は直訳では「あなたの名のため」、神の名誉に賭けて、ということ。
「導き」と「連れて行って」は共に「導く」という意味だが、後者は羊を水辺に導く、休み場に連れて行く、という時に使われる。日本語での適語が見つからない。
「取り出してください」は命令形ではなく未完了形なので「あなたは取り出してくださる」と訳すことも可能。しかし、ここまでが命令形や希求法の流れであり、未完了形がしばしば直前の動詞に影響されることがあるので、命令形として訳される。
「これは」は関係代名詞として用いられる。「これ」すなわち「網」についての説明。
「彼らが...隠している」の主語(三人称複数)は突然出てくるため、誰であるかはこの時点では分からない。敢えて訳さないように「これは...隠されている」と受動態的に理解している訳が多い。
「逃れ場」は2節の「避難」と同じ語。同じ語を口語訳は「のがれ、避け所」と違う訳語を使い、新改訳と新共同訳はそれぞれ「力」、「砦」と同じ訳語を使っている。一つの詩篇の中でも、同じ単語がやや異なる意味で使われることは珍しくないので、違う訳語を用いること自体は間違ってはいない。
「委ねます」は「訪れる、顧みる、報いる」など様々な意味を持つ動詞の使役形で、「任命する、任せる、委ねる」などと訳される。
「霊」(ルーアハ)は「魂」(ネフェシュ)とは異なる語。後者が肉体も含む全存在を意味することもあるのに対し、前者は「神の霊」にも使われる言葉。
「贖い出されました」はルツ記などによく使われる「贖う」(ガーアル、「贖い主」すなわちゴーエールの元となる動詞)とは異なり、(エジプトや捕囚などから)救い出すという意味。
この節の前半「我が魂を御手に委ねます」(口語訳)は十字架上の最後の言葉と酷似している。新約聖書はギリシャ語で書かれているので確実かは分からないが、キリストが叫ばれたのはヘブル語(あるいは、それに近いアラム語)だったので、あるいは完全に同じだったかもしれない。もしキリストがこの詩篇を(詩篇22篇同様に)引用されたとすると、二行目の「あなたは私を贖い出されました」を暗に示して、罪の為の贖いの苦しみが「全て終わり」、神の平安へと救い出された、という確信を宣言された、と考えることができる。十字架という救済の業の最も重要な時、キリストの言葉の多くが旧約からの引用、あるいはそれに近いものであったので、この言葉が念頭に置かれていた可能性は高いと考えられる。
「私は」がいくつかの古代訳とひとつの写本で「あなたは」となっている。その場合、前半と後半で「あなたは」憎まれ、「私は」信頼する、という対比が見られる。しかし、多くの写本では「私は」となっており、後半の「私は」は「守る者たち」と対比されている、と考えられる。
「空しさ」は空虚や何も無いことを意味し、偶像を指す場合もある。「息」も空しい、あるいは儚いものを意味し、「空しい偶像」と訳すことも可能。
「守る」は様々な場合に使われ、「守る、見守る、見る、待ち望む、頼る」と訳されることがある。ここでは無意味なもの(恐らく偶像)を守る、頼る、ということから、「頼る」と訳しても良い。
「信頼します」はバータハ(信頼する、頼る)。前半の「守る(頼る)」と対比されている。
「慈しみの中で」の前置詞を、手段もしくは目的語を表すと理解して「慈しみを」と口語訳は訳している。「慈しみ」はヘセドで、神の愛を表す言葉の一つ。イスラエルが苦難の中にあるときに契約の故に救ってくださる愛。
「喜び、また楽しみます」は「喜ぶ」という意味の類義語を二つ並べている。前者は「小躍りして喜ぶ、歓声をあげる」という意味で、身体的な動作を伴い、後者はどちらかというと一般的な意味で「喜ぶ」あるいは「楽しむ」。
「それは」は関係代名詞で、「慈しみ」を指していると考えられる。口語訳で「からです」と理由を示すように訳されているが、特に強い意味は無いと思う。詩文では関係代名詞が使われるのは珍しく、ここではリズムを整えるために使われているのだろう。
「苦しみ」と「悩み」も類義語で、どちらも苦難や困窮などを意味する。また「ご覧になり」(原意は「見る」)と「知ってくださり」(知る)もここでは近い意味で使われており、2行目の前半と後半が平行関係にある。後半の長さを整えるために「私の悩み」とするかわりに「魂」を付け加えている。
二行目では神が詩人の悩みを知ってくださった(口語訳の「みこころをとめ」は良い訳)が、それに留まらず、その悩みから具体的に救い出してくださるのが三行目(8節)。この二行は接続詞「また」で結びつけられている。
「引き渡す」は「閉じる」という動詞であり、直訳では「敵の手の中に閉じこめる」ということだが、慣用句として「敵の手に引き渡す」と訳される。「敵」がどのような存在かはここでは述べられておらず、11節以降に出てくる。
「広い所」は牧場などの広い場所を意味し、苦難からの解放を意味する。
「私の足を」は「私を」と同じことだが、一語加えてリズムを整えている。あるいは、「足」を用いることで、しっかりと立たせてくださる、というニュアンスを含めているかも知れない。
この節からリズムが替わり、短い言葉での必死の訴えとなる。
「憐れむ」は苦難の中にいるもの、特に貧しい者や孤児へに対して好意を示す愛。詩人は自分が「苦しんでいる」故に憐れみを求めている。
「私は苦しんでいるのです」は名詞構文なので「私の苦しみ」となるが、理由を表す接続詞を伴っているので、動詞を補っている。
「いらだち」は、不当な扱いを受けた者の怒りや悲しみを表す言葉。
「目」が衰えるだけでなく、「魂」も「はらわた」(腹や胎を意味する)も衰え、心身共に苦しんでいる様子を描いている。
「命」は「生きている」という形容詞の複数形で「命、生涯」を意味する。
「終わりを迎え」は「全うする」という動詞。
「咎」が文脈に合わないと考えて、一字変更することで「苦しみ」とする訳がある。「咎」は罪、あるいは罪の結果として受ける罰を意味し、どのような罪であるかは明らかにしていないが、自分の受けている苦しみが自分の咎の故であると考えるとき、その苦しみは倍増し、立ち向かう「力」も失ってしまう。
「衰えた」は前節と同じ動詞。
「敵対者」は「敵意を見せる」という動詞の分詞形。直訳すると「私に敵意を見せる者たち」。
「嘲りとなり」は嘲り、軽蔑などを受ける存在ということ。
「隣人」はそばに住む者たち。「特に」は「非常に」と訳される副詞で、ここでは前行と結びつけて「特に嘲りとなり」と考えるか、「非常に悪い」というニュアンスと考えて「恐れ」と結びつけるかで理解が異なってくる。ここでは全体のバランスを考えて後者を取っている。
「恐れとなり」の動詞は二行目にはないのを一行目から借りて補っている。原文は名詞のみ。
「敵対者」から始まり、「隣人、知人」、そして「外で会う者」すなわち他人。あらゆる人との関係が失われていく。
「死者」は死ぬという動詞の分詞形で、死んだ存在。男性形なので、「死んだ男」あるいは「死んだ人」。死んだ人が人々の心から徐々に忘れ去られていくことを念頭に置いている。
「人々の心から」は原文では単に「心から」。しかし、日本語では「心から忘れられ」と訳すと意味が変わってしまうので、「人々」あるいは「人」を補う。
「壊れた器」も捨てられ、忘れられるべき存在。
「多くの人のささやき」は直訳では「多くのささやき」だが、「多くの」が複数形で「ささやき」が単数形なので、形容詩的に「多くのささやき」と訳すことは出来ない。多くの人が囁いているが、その囁きは一つである。
「周囲からの恐れ」を囁きの内容と見る訳が多い。ここでは囁きの内容は説きに問わず、多くの人が敵対している様子を「周囲からのおそれ」と考えた。
「私に対して」は敵対する意味で。「座り」は普通の意味で座るのではなく、何か話し合うために集まる様子で、会議を意味する。
「命」はネフェシュで、前の方では「魂」と訳される。
「しかし私は」は強い強調で、前節までの状況にも拘わらず、というニュアンス。どれほど敵が多くても、苦しみが続いても、それでも神に信頼する、という信仰の告白。
「あなたに信頼します」は「信じる」とも訳される動詞だが、ここで使われている前置詞から「信頼する、頼る」という意味となる。
「時」は複数形であり、今の苦しみの時だけでなく、人生の全ての時が神の支配の内にある。
「救い出してください」は2節でも使われている動詞。
「敵たちの手から」では手が単数となっている。敵は多くても、個々の敵について考えるのではなく、その全体を一つとして見ている。「敵」の手から神の手に移されることを願っている。
「御顔」は「あなたの顔」。神の顔を輝かせるとは、神の好意を示すこと。
「あなたの僕」と自分を位置づけている。自分を「王」とするのではなく、神の前に「僕」となる。 前半では抽象的な訴えだったのが、「救ってください」と、ストレートな訴えになる。しかも、神の慈しみ(ヘセド)に訴えている。
「恥じさせないでください」は1節に出てきたことを再述している。
「悪しき者たち」は11、13、15節の者たちだろう。単に敵であるだけでなく、彼らが悪しきことを行っている故に神の裁きを求めている。神の僕である詩人が苦しめられ、黙らされ、彼らは悪意を持って「囁き」、また企むために話し合っている。それを神が「彼らを黙らせてくださ」るように、と願っている。
「黄泉」は死者の世界を示す用語。
「沈黙させる」は前節の「黙らせる」の類義語。人間の口は偽りを語るためでなく神を賛美するために作られたのだから。
「くちびる」は双数形で、常に二つで1セットとして使われる。
「義に逆らって」は「義人(正しい者たち)に逆らって」とも訳せるが、どちらにしても人ではなく、神を根源とするところの義に対する反逆である。
「高慢と...蔑み」は、神に対しては高慢、他者に対しては蔑みとなる罪。
「恵み」は「良いこと」という意味で、善行を指す。神がして下さる良いこと、それが恵みである。 「多い」を「大きい」と訳すことは不可能ではないが、ここでは恵みの豊かさを述べている。
「それを」は関係代名詞で、「その恵みを」。
「蓄え」は「隠す」という動詞だが、それだと恵みが与えられないことになる。「大切に隠す、隠れた場所に蓄える」という意味だと理解している。蓄えて隠すことが中心的な意味ではなく、次行の「行う」とセットになっている。すなわち、「蓄えて行う」。いつ神が恵みを与えてくださるかは、神の時だが、それまでは「蓄えて」おらえる。
「身を避ける」は1節でも使われている動詞。
「人の子ら」は人々の事。行うときは隠れてではなく、皆から見えるように、という意味。
「彼ら」は前節の「(神を)恐れる者たち」、「(神に)避け所を求める者たち」。
「御前」は直訳では「御顔」。
「隠れ場に隠し」は同じ語源の動詞と名詞を使っている。前節の「蓄える」とは異なる語。
「中傷」と訳してあるが、聖書の中に一回しか出てこない名詞なので、正確な意味は分からない。「結びつける」という動詞と関係していると思われる。ここでは「舌の争い」と平行させた。「共謀」と訳されることもある。
「隠れ場」は闇や茂みなど隠れる場所。またその目的で立てられた小屋など。
「潜ませ」は前節の「蓄える、隠す」と同じ動詞。
「舌の争い」は言葉による争い。悪意の囁きや中傷などがどれほど多くても、神に信頼する者は、神の前に身を避け、そこで守られる。
「驚くべき事を行われた」は一つの動詞で、困難なこと、素晴らしいことをする、という意味。神の救いの業は人間の理解を超えたことである。
後半は動詞が無く、前半の動詞の目的語と考えられる。
「包囲された町」は実際に敵軍に包囲された時をさしているのか、あるいはそのような絶体絶命の状況を意味するのかは分からない。たとえどんな苦境であっても、神の慈しみが示される。
「それなのに私は」は14節と同じ表現だが、こちらは不信仰の叫び。神が必ず助けて下さるはずなのに、慌ててしまって「もうダメだ」と言った。
「(神の)目の前から断たれる」とは「もうお終いだ、助けがない」という表現。
「実に」は「まことに」とは違う言葉だが、強い肯定を意味する言葉。前半で不信仰に陥ったように述べているが、後半で神が祈りに聞いて下さった宣言をすることで、さらに逆転して、もっと強い信仰告白となっている。一時的な不信仰を神は非難されない。
「愛せよ」はアーハブという動詞で一般的な意味の「愛」。
「聖徒」は「聖い」という形容詞ではなく、「慈しみ」(ヘセド)から派生した語で、神の慈しみの応える人々、敬虔な人々を意味する。
「報いを与えられる」はシャーラムという動詞で、シャローム(平和)の元となる言葉。しかし、ここでは平和の意味ではなく、「全うする」という意味で、悪い行いに対して神がそれに報いられるということを表している。
前節までをふまえて、同じように苦しみの中にいる人々を励ましている。
「堅く立て」と「強くせよ」はどちらも同じような意味。
「待ち望む」は、主に希望を置き、救いの実現がまだ来なくても信じて待っていること。
1〜4 助けを求める祈り
5〜9 神の救いへの信頼
10〜13 苦境からの助けを求める
14〜16 救いの神への信頼
17〜18 救いの訴え
19〜22 神の救いの賛美
23〜24 救いの証しと賛美への招き
苦難の中で詩人は叫び祈ることと、神に信頼して賛美することとを、行ったり来たりしている。無理をして賛美をすることは出来ない。しかし、祈るときに暗闇の中にいつまでも留まることも無い。弱さを持って生きている限りは、揺れ動くこともあるだろう。しかし、そのような体験こそ、信仰者を成長させ、より確かな信頼を産み出していく。そして、そのような経験の証は、他の人にも励ましとなる。