第三十一篇
 
「罪を赦される幸い」
 
この詩篇はカトリックでは「懺悔の詩」の一つ。しかし、告白による罪の赦しというテーマと共に、赦しの神を教えるという要素も見られる。
 
私訳と注釈
 
表題
 ダビデに。マスキール
ダビデのマスキールの歌
 
「マスキール」は「悟る、分別がある」という動詞の分詞形。教訓の詩、という意味と考えられるが、正確な意味は不明。同じ動詞が8節に使われている。
 
1節
 幸いなるかな、背きを取り去られた者、
 罪を覆われた者は。
そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
 
 
 
 
「幸いなるかな」は1:1に出てくる。文頭(詩篇の最初でもある)に置かれていることで強調を受けているので、新共同訳のように「いかに」と意訳することも良いだろう。
「取り去られた者」は「持ち上げる、運ぶ、取る」という動詞の受動態の分詞形。(背きの罪を)取り去られるとは、その罪の結果である罰を取り去られること。従って、赦されたと同じ事。
「背き」(ペシャア)は罪を現す言葉の一つ。神に逆らうこと。全ての罪は本質的に神への背きでもある。
「覆われた」は犠牲の血によって罪が赦される儀式に関連する、赦しを表す言葉の一つ。やはり受動態の分詞形。
「罪」(ハタア)は最も一般的な「罪」。同じ言葉を罪のための犠牲の生け贄を表すために使うこともある。
この節の二行目は「幸いなるかな」が省略されていると考える。平行する二つの行は別々のことを述べているのではなく、同じ事を言葉を変えて言い直している。ここでは「背き」と「罪」は同じ事。「取り去る」は「覆う」に比べるとより一般的な意味だが、この節では同義語として使われる。二行は意味的に同義であるが、「背き」(男性名詞)に対して「罪」(女性名詞)を用いるなど、変化も持たせている。
 
2節
 幸いなるかな、その人、
 主が彼の事を有罪と考えない、
 また彼の霊の中には偽りが無い。
主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
 
 
 
 
「その人」は冠詞がないので「人」でも良いが、日本語としては変なので「その」をつけた。前の節で分詞を使って「〜者」としていたが、ここでは否定形(〜しない者)なので、分詞の代わりに「人」を用いた。散文ならば、その後に関係代名詞を用いるはずだが、詩文なので省略されている。「人」は「アダム」。
「有罪」も罪の用語の一つ。「咎」とも訳される。
「考えない」とは、実際には罪があるのだが、神が罪がないと認めること。この動詞は「数える」と訳されることもあり、「咎を数えない」とした新共同訳は秀訳。
「また」は接続詞だが、第二行と同じく、省略された関係代名詞に繋がっている。
 
3節
 私が黙っていたときは、
 私の骨は疲れ果てた、
 私の呻きの中で、一日中。
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、
ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
 
 
 
 
「黙っていた」内容を、口語訳は自分の罪としている。これは5節を考えての意訳。しかし、詩文では詳細を明らかにしないでおいて、徐々にそれを明かしていくことがある。
「疲れ果てた」は「古くなる、(着物が)すり切れる」という動詞。「骨」(原文は複数形、新改訳は「骨々」)はその人の肉体全体を代表しており、力の出所でもある。
 
4節
 なぜなら、昼も夜も、私の上にあなたの腕が重かったからです、
 私の骨髄は、夏の日照りの中で、変わってしまいました。(セラ)
あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。
わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
 
 
 
 
「なぜなら」は前節と同じ書き出し。ここは理由を示すと理解している。
「昼も夜も」は「一日中」と同じ意味。
「あなたの腕」が、黙っている罪の故に重くのし掛かってくるように感じている。良心のとがめ、という感じだろうか。
「骨髄」は「みずみずしさ」というニュアンスのようだ。民数記32:4では「油」と組み合わせて使われ、「濃いクリーム」とも訳されている。骨に、そして体全体に活力を与えるものとして骨髄が理解されているのだろう。
「変わってしまった」は具体的にはどういうことか分からないが、「夏の日照り」と関係させて、乾燥しきってしまった様子と考えられる。
「セラ」の正確な意味は不明だが、この詩篇ではちょうど内容の分け目にあたっているようで、休止符、あるいは黙想、のような使われかたをしている。
 
 
5節
 私の罪を、私はあなたに知らせ、また私の咎を覆いませんでした、
 私は言いました、「私の背きに関して主に告白しよう」と、
 その時、あなたは私の罪の罰を取り除かれました。(セラ)
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
 
 
 
 
 
「罪」と「背き」は1節と同じ語。「咎」と「罰」は2節の「有罪」と同じ語。
「知らせ」は「知る」という動詞の使役形。神は詩人が語るより前から知っているのだが、詩人が自ら神に知らせよう、ということ。
「覆い」は1節でも使われ、こちらは自分の罪を覆い隠す意味。神の前に自分の罪を覆い隠さずに告白するとき、神がその罪を(十字架の)贖いの血によって覆い隠してくださる。
「私は言いました」は完了形だが、その語尾の音(・・ティー)は1行目の最初と最後の語の語尾と同じ。さらに3行目の最後にも「私の罪」が再度使われ、やはり語尾が同じ音となる。最初と最後に同じ語(音)を使うことで、5節を一つの段落としている。
「告白する」は「投げる、放る」という動詞で、その使役形は通常「感謝する、賛美する」と訳される。この節では罪を述べる意味で使われるので、感謝や賛美にはならず、言葉を相手に投げかける意味で「告白する」と理解する。ヘブル語ではカギ括弧が無いのだが、「告白する」が未完了形なので、完了形の「言いました」と調子が変わることで、言った言葉の内容であることが分かる。
「その時、あなたは」は「しかしあなたは」とも訳すことが出来る。罪人であることを自ら告白した詩人に対し、それにもかかわらず神はそれを赦して下さる。状況が悪くても信仰によって「しかし私は」と宣言するように、罪人が悔い改めるときに神は十字架の贖いによって「しかし私は」と赦して下さる。
「取り除かれた」は1節と同じ動詞。
「罪の罰」は罪の結果として受けなければならない罰。私たちの代わりにキリストが受けて下さった。この節では、1行目に「罪」「咎」、二行目に「背き」、三行目に「罰(=咎)」「罪」と並んでいる。最後の行で罪の赦しが語られることで、1節の始めのテーマに戻り、ここまでが前半となる。
 
6節
 このゆえに、全ての敬虔な者はあなたに祈ります、ただお会いできる時まで、
 洪水に至っても、大水が彼に触れることがありません。
このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
 
 
 
「このゆえに」は前節までの内容を受ける。神が赦してくださるお方なので、神の前に進み出て祈ることが出来る。
「経験な者」(ハシード)は神の恵み(ヘセド)に応じる生き方。人に対して用いるときは「親切」、神に対しては「経験な、献身的な愛」となる。
「ただお会いできる」の意味が掴みにくいので、一部を読み替えて「悩みの時」(口語訳)と読む考えがある。神と目と目を合わせてお会いできるときまで祈る、ということか、神にお会いできる「あいだに」神に祈るか、いくつかの可能性がある。
「洪水に至っても」は唐突だが、どんな恐ろしい事態になっても、神が守っていて下さると、証をしている。
 
7節
 あなたこそ私にとっての隠れ場、
 苦難からあなたは私を守ってくださり、
 救いの喜びをもって私を囲まれます。(セラ)
あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
 
 
 
 
「あなたこそ」は強調的な「あなた」が文頭に置かれてさらに強められている。他の誰(何)でもなく、神が本当の隠れ場であるゆえ、6節のように守られる。
「守って」は「見張る」という動詞。見張り台の上から町を守るために見ている。
「救い」は助け、救出を意味する用語。
 
8節
 私はあなたを悟らせ、あなたを教える、あなたが歩く、その道の中で、
 私はあなたに助言をし、私の目をあなたの上に置こう。
わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、
わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
 
この節(と次の節)で、「あなた」と「わたし」が誰であるかが問題である。前節までのままだと、詩人が神を教える、ということになる。そこで、(1)主客が逆になり、神からの言葉として理解する、(2)詩人は他の者に向かって述べる、の可能性が考えられる。後者の場合、「あなた」が特定の誰か(例えば、息子)か、あるいは人々を全体として一人と見るかに分けられる。(2)であったとしても、その教えは神から出ていると理解すれば、(1)の意味も加わってくる。
「悟らせ」はマスキールの元となる動詞。
「その道の中で」の前置詞を目的を示すものと理解して「行くべき道を教える」とする訳がある。しかし、「その」(原文は「この」)道と言っているのは、既に歩いている、と考えられ、これから歩むべき道とは理解しにくい。神は、私たちが今歩いている、その道のただ中で教え導いていてくださる。
「私の目をあなたの上に置こう」は動詞が無いので補って訳している。
 
 
 
 
 
9節
 あなたは馬や騾馬のようであってはならない、それは分別が無い、
 くつわや手綱をそれに纏わせて押さえなければならない、あなたに近づけるな。
あなたはさとりのない馬のようであってはならない。
また騾馬のようであってはならない。
彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、
あなたに従わないであろう。
 
 
前半は分別のない家畜のようになるな、と理解できるが、後半は分かりづらい。「分別が無い」以降は動詞の不定詞が使われ、前後とは区別している。この動物たちに関して述べているのは確かである。口語訳や新改訳は「くつわで押さえなければ、従わない(近づかない)」と二行目前半を後半の条件と見ているが、それを示す言葉は使われていないので意訳である。新共同訳は最後の部分を命令形と見ている。8節で「教える」と言われ、その内容が10節にあると見れば、9節は8節の教えを無駄にしないようにとの警告と考えられる。
 
10節
 悪しき者には多くの痛み、
 しかし主に信頼する者は、恵みが彼を取り囲む。
悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
 
 
 
 
「悪しき者」は邪悪な者、という意味。
「取り囲む」は7節でも使われている動詞。主に信頼する時に、神からの救いと恵みに取り囲まれる。
 
11節
 主にあって喜べ、また楽しめ、義しき者たちよ、
 喜びの声を上げよ、全て心の正しい者たちよ。
正しき者よ、主によって喜び楽しめ、
すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
 
 
 
 
「喜べ」と「楽しめ」は同じような意味で、たびたびペアで使われる。前節で主に信頼する正しい者は恵みで取り囲まれることが約束され、その故に喜びがわき起こってくる。詩人は自分の受けたこの喜びを他の人にも広げようとしている。
 
構造
   1〜2  主題、罪赦される幸い
   3〜5  罪の告白と赦し
    3〜4   罪を隠す者の苦しみ
      5   告白した者への赦し
   6〜7  赦された者の祈りと証し
      6   人々の祈り
      7   詩人の証し
   8〜10 神からの教え
      8   教えの宣言
      9   教えを無駄にしない警告
     10   教えの内容
   11   賛美への招き
 
メッセージ
本当なら罪の故にどんな罰をも受けなければならない自分が、神の前に進み出て心を砕き悔い改めるとき、神は赦して下さる。この救いをいつも確認し、信頼を増し加える時に、証と賛美が自然と生まれてくる。救いを風化させないように、いつも赦しの恵みを新たにしよう。