今週のBGMは「Messiah 36」(Hendel)。
音楽の素材屋さんの作品です。(43.8kb 2'58")
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エペソ書からの説教(その11)

 

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テキストの範囲

前回、5:22−6:9というひとまとまりを敢えて二つに分けたので、今回は6:1−9か、あるいはさらに細かく分けて1−4と5−9とするか、になります。6:10は「最後に言う」という出だしで最後のメッセージとなる(ピリピ3:1の反例もあるが)ので、6:10以降は考えなくて良いと思います。

では6:1−4が一回の説教テキストとして妥当かどうかを考えます。親子関係ということを教える点では独立した単元ですが、それ以上の神学的発展が見受けられません。前回の「夫婦論」が「教会論」を巻き込んでいたのと違うようです。長さが短い、というだけでなく内容的にも広がりに欠けるようです。これを5節以降と組み合わせるならば、二種類の関係が共に上下関係であることより、夫婦関係が土台となるある程度同等の人間関係ではなく、主従を主とした社会的関係を含むことができそうです。つまり、クリスチャンが社会においてどのような生き方をすべきか、です。

もう一つ、5:22−6:9が全て5:21の「互いに従いなさい」というクリスチャン同士への命令の下にあることから、教会における人間関係を考える土台となりそうです。その中で、5:22−33が主に教会全体と主なるキリストとの関係を教えているのに対して、教会内部での構造における人間関係が必要となります。クリスチャンは兄弟姉妹として同格です。しかし、同時にその同等であり一体である教会内に、体が機能的に働くことができるように異なる賜物や奉仕が与えられていることを4:1−16で教えています。それを前提として、教会内でのリーダーシップについて考えるために、6:1−9が役立つように思います。

今回は、もう一つ事情があります。8月5日がエペソ書からの説教の最終となるため、そしてその前週の7/29は他の方に説教をお願いしており、実質的に今回と次回とでエペソ書を終わりとしなければなりません。基本的には聖書が示すとおりに説教を進めていくのが優先ですが、同時に受けてである教会の事情を無視するのではなく、それに配慮する必要もあり、今回は6:1−9、そして次回は6:10−24をテキストとすることにします。

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テキストの構造と説教のアウトライン

テキストの構造は一目瞭然です。1−4節が親子に関する勧め、5−9節が主従関係に関する勧めです。それぞれが二つに分けることが出来るのも明らかです。しかし、この構造はテキストを表面的に受け止めた場合、です。もちろん、ここで教えられていることは大原則です。しかし、この原則を当てはめていくときに様々な問題が生じます。その問題を背景にもう一度テキストと向き合うときに問題への解決が与えられていくように思います。従って、テキストの構造はこれで良しとして、説教のアウトラインを考えたいと思います。

まず、原則、あるいは神の求めておられる関係です。子は親に従う、僕は主人に従う。しかも、「主にあって」、あるいは「キリストに従うように」心から従うことが求められています。もちろん、子の従い方と奴隷の従い方には違いがありますが、従うことが積極的に薦められているだけでなく、祝福あるいは報いを期待させて、神の御旨であることを示しています。対して、親(父)、および主人にも神を意識して相手を扱うことが求められています。

問題となるのは、片方がクリスチャンではない場合です。特に上の身分の者がそうでない場合は、下の者は厳しい状況に置かれます。実際、当時の教会では奴隷の者がクリスチャンとなる事が多かったと推測されます。また現代でも、親が未信者の場合、また職場で上司がそうである場合は少なくありません。それでも神様の基準に沿って従うことは大変なことでしょう。さらに、奴隷制度という根本的な問題もあります。テキストはこのような問題にどう答えているのでしょうか。この事に対する考察は後にします。

最後に教会においての人間関係にテキストを当てはめてます。クリスチャンホームを別とすれば、教会内の関係は兄弟姉妹です。しかし同時に教え教えられるという関係も必要です。4:11のリストが主に御言葉を教える職務を上げていることからもそういえると思います。また、さらに具体的な部分では使徒6:3のように御言葉の働き以外にも教会の役割があります。これらの務めは仕えるものであると同時に、リードする働きでもあります。主人と奴隷の関係ではありませんが、役割としての上下(前後?)関係にテキストが適用できます。キリストの体である教会を御心に沿って形成していくことを具体的に学びたいと思います。

今回はテキストの構造よりもテキストの適用を考えながら、3つのポイントを上げていきます。まず、聖書の示す上下関係、次に、社会におけるクリスチャン、最後にキリストの教会を建てあげる、です。

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テキストの分析(エペソ6:1−9)


1節 「従え」は、ここでは位の上下ではなく「聞き従う」。「主にあって」は含んでいない写本があるが、前後(妻、僕)に記述からあって不自然ではない。

2節 「第一」は適訳ではない。先に立つ、という意味だろう。「伴う」も直訳ではなく、意味をおぎなうためのもの。「これは以下の約束に先立つ戒め」。

3節 旧約(出エジプト)のヘブル語では「しあわせになる」は無いがギリシャ語訳にある。ヘブル人にとっては長生きこそ幸福の条件だったことをギリシャ文化に翻訳するときに説明として加えたのだろう。

4節 「怒らせる」はローマ10:19で申命記32:11からの引用として現れるが、ここの文脈での意味は不確か。むしろ、後半から意味を考えるほうがよい。主の教育と訓戒ではなく、人間的な歪んだ接し方により、子どもが理不尽さを怒ることをさせないように、ということだろうか。前節までで従おうとしている子を怒らせるような間違った態度を戒めている。 「主の教育と訓戒」は、前半が訓練、後半が警告といったニュアンスもある。「主の」は親自身が主から「教育と訓戒」を受けていることが前提。

5節 「奴隷」、または「僕」。「恐れおののいて」は「恐れる」と「ふるえる」。「地上の」は「肉の」の意訳。「従う」は1節と同じ。

6節 「上べだけの仕え方」は「目」と「僕」の合成語。見える範囲だけの仕え方。隠れた事を見ておられる「神のみこころ」を行う。

7節 「善意をもって」、あるいは「熱心に」。前節と同じこと。

8節 「主から」は奴隷の場合は自分の主人、自由人の場合は様々なことが考えられる。究極的には神から。

9節 「同じ事」は僕のように仕えることより、正しい行い、だろう。その反対が「脅かす」。「主」は単数形だから共通する「天の主」は一人。「差別されない」。身分の上下ではなく、その行為の正しさを見て判断することに違いはない。

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説教の中心とアウトライン

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