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今週のBGMは「Messiah 36」(Hendel)。
音楽の素材屋さんの作品です。(43.8kb 2'58")


エペソ書からの説教(その6)

 

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(6月6日)

テキストの範囲

今回の範囲はすごく簡単、そうです。14、15節で「祈ります」と始まり、21節で「アーメン」で終わってますから、14−21節で良いでしょう、............か?

ここで問題になるのは、一つの「完結した」単位が説教のテキストの範囲となるのか、です。例えば、一つの段落(これが本当に著者によるかは別として)や文(マルで区切られている、日本語なら)は全体の中で一つの単位となっています。また台詞(カギ括弧でくくられている)も完結した範囲です。しかし、例えばその台詞を著者がもう少し大きな範囲の中で前後と分離することのできない構成要素としてそこにおいている場合、その前後関係を無視してそれだけをテキストとするのは著者の意図に「反する」ことになり得ます。もちろん、前後関係を考えれば、エペソ書全体が一つの文章単位と考えなければならないかも知れません。

そこで、実際的には、その書(ここではエペソ人への手紙)が一回では扱うのが「自分の力量では難しい」という現実的な理由で区切らなければならないということを前提にして、あえて一つの文書を区切るわけです。そのとき、作者のメッセージが(内容的に)ある程度切り替わっていること、外面上も区切りがはっきりしている(つまり、著者もある種の区切りを意識していること)、そして自分が扱うのに長すぎず短すぎないこと、などの曖昧な基準で分けざるを得ません。また、その前後の流れの中で、問題の部分がどのような役割を果たしているかも大切な要素です。

以上から、テキストの範囲を決定する場合は、そのテキスト自体を見るだけではなく、前後の流れや関係、内容(主題など)、著者が読者に訴えようとしている事、なども視野に入れて行かなければならないわけです。最初の段階ではそれらの要素を全て取り上げるのは難しいので、いくつかのことを観察した上で、暫定的に「範囲を決定」し、後から変更することも可能としておくこと、と考えています。

では、今回はどうでしょうか。3章の前半までは救い、特に異邦人の救いというテーマで流れてきているように思います。4章からはいよいよエペソ書の教会論の中心です。ですから、14節から21節はそのつなぎとなっているようです。14節の「こういう訳で」はそれまでの流れを受けつつ、新しい事をまとめとして述べようとする接続詞です。4:1の「さて」は話題の転換を示すもので、実際、主題は新しいものに切り替わります。このようなことから考えて、3章14節から21節が一つの区分であることは確かでしょう。また、形式的には「祈り」の形式を用い、読者への直接のメッセージ(神にこうして欲しい、すなわち読者にこうなって欲しい)を語っており、その内容も「神を豊かに知る」という前後とは独立した話題と思えます。以上から、今回の説教のテキストを3:14−21としてよいと判断します。

(何だ、結局最初に言ったのと同じじゃないか。ながながと回り道をして (^^;) )

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(6月8日)

テキストの構造と説教のアウトライン

まず、形の上での構造を見てみます。14、15節は祈りの導入です。祈りそのものは16節から始まります。16節から21節までが祈り本文ですが、それは「....ますように」という定式句が何度も出てきます。この句によって区切るこのができそうですが、実際は翻訳によって区切り場所が違うので、ギリシャ語本文で確認しなければなりません。むしろ、「....ますように」が無いところでも補って考えるといくつのことを祈り求めているかを数えることができます。

第一に16節。次が17節前半。三番目が17節後半から18節(「理解する力を持つようになり」ますように)。19節前半が四番で、後半が五番目。最後が20節と21節です。これらは別々の事ではなく、何らかの接続詞で結ばれている(「また」や「こうして」など)ように関連あるものですから、理解の仕方によっては組み合わせてまとめることができるわけです。それが、いろいろな日本語訳での違いに表れていると思われます。

次に内容的な違いによって分けてみます。上の区分に従って、第一区分では「父(なる神)」が主語であり、「強くしてくださるように」が願いです。第二区分は「キリスト」が「住んでくださいますように」。第三から第五までは「あなたがた」が主語となっています。祈りの内容は、第三区分は「理解する力を持つようになり(ますように)」、第四では「キリストの愛をしることができますように」、第五が「満たされますように」となります。最後は神に栄光があるようにという祈りであり、これは讃美でもあり、祈りの結文ともなっていますので、内容的には最初の5つとは区別されます。

内容で分ける場合は、どのような基準で考えるかにより変わってきます。まず、「誰」という主語で分けるなら、第一、第二、第三から第五、という3つに分けられます。しかし、例えば第一は主語は神ですが、神が「あなたがた」の内なる人を強くしてくださるように、と言っていますから、主客を入れ替えて「あなた方が、神によって、強められますように」と近いかも知れませんし、逆に「あなた方」が主語の場合も神がそうしてくださるように、と考えることもできます。

願いの主題で分けると、第一が「(内なる人を)強く」、第二が「(キリストが)住んで」、第三と第四が「愛を理解」と「愛を知る」としてまとめられ、第五が「満たされる」ことを願っています。第一と第二は、「内なる人」と「心のうちに」ですから、読者の「内」に関することとしてまとめることも可能です。

次に、個々の部分の関係によって見ていきます。第一と第二区分は、並列の関係のように思えます。新改訳のように「こうして」と書いてあることから、結果や順番と考えると、神に強められなければキリストに住んでいただけない、ということになってしまいます。むしろ、両者は並行的なものと考える方が良さそうです。神に強められること、すなわちキリストが内住してくださること、です。第二と第三は、キリストの内住によって理解力が与えられると見るならば、原因と結果、と見ることができます。口語訳では16節前半(キリストの内住)と後半(愛に基づく生活)を平行させて、17節の原因としています。両方の見方は二者択一的に捕らえるのではなく、相補的に見たらよいでしょう。第三と第四、「キリストの愛の深さを理解する」ことと「キリストの愛を知る」は同義です。しかし、第三を「理解力が与えられ」、その結果として第四は「知るように」と見ることもできます。第五区分は「愛を知ること」によって「満たされる」という結果でしょうか。以上から第一と第二、第三と第四、そして第五、という3つに分けることができ、同時に「強められ」、それによって「愛を知り」、そして「満たされる」という順序で結ばれていると理解できます。

この最後の構造をもとに全体を見ますと、祈りの導入部分は「父(なる神)」に祈ることで、その父からの力を求めることにつながります。また、最後の頌栄は「満たされる」ことの結果と見て(ちょっと強引ですが)つなげることができ、したがって全体を三つに分けることができそうです。すなわち、14節から17節前半、17節後半から19節前半、19節後半から21節、です。

この構造をもとにアウトラインを組み立てると、「神によって強められる」、「キリストの愛を知る」、「神の栄光を表す」というような流れとなります。

しかし、後でこの祈りを通してパウロは何を述べようとしているのか、にまで考察を進めなければなりませんので、そのときに多少アウトラインが変わることになるかも知れません。

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