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詩篇14篇

「我が民を救え」

私訳と注釈

表題

聖歌隊の指揮者に。ダビデの。

コメントは特になし

1節

愚かな者はその心の内に言う、神はいない、と。
彼らは破壊し、行いを忌み嫌われるものにし、善を行う者はいない。

「愚かな者」とは、旧約聖書の中では知的な愚かさよりも、神を認めない、畏れない者のこと。その結果、倫理的に堕落する。人間としての「愚かさ」。

「その心」は直訳では「彼の心」。

「神はいない」というのは、哲学的に熟考したうえで「神は存在しない」といっているのではなく、いたとしても何もしない神であり、自分を裁くことはしない、ということ。ユダヤ人訳の英語では、例え愚か者の発言であるにせよ、「神はいない」と書くことすら畏れ多いためか、他の訳(英語も日本語も)では「神はいない」とされているのに対し、「神は気に留めていない」と訳す。

「彼らは破壊し」では主語が三人称単数から複数形にシフトする。「破壊し」は壊す、腐らせる、と意味の動詞。ここでは受動態(「腐る、壊される」)ではなく使役形が使われている。動作の対象となる目的語は、(1)自分自身と考え(自分を破壊し、腐らせ)、それを訳では自動詞に変える(彼らは腐り)。多くの訳がこれを採用しているが、動詞の形が再帰形でも単純形でもないのが難。(2)社会あるいはそこに住む人々、と考える。対象よりも行為そのものに強調が置かれていると理解する。他者を破壊するような行動、生き方をすること。(3)次の動詞の目的語と共通すると考える。この場合、(彼らの)行いが対象となり、「(彼らの)行いを腐らせ」だから、「彼ら(の行い)は腐っている」。次の動詞の前に接続詞が無いので目的語が共有されるかは分からないが、詩文では接続詞や目的語を省略するのは一般的。一部の英訳が採用。

「行いを忌み嫌われるものにし」は変な日本語で、「忌み嫌われることを行い」のほうが分かり易い。

「行い」には「彼らの」をしめす語が付いていない。また複数形ではなく単数形。愚かな人々と行いを全体的に捕らえて単数の「行い」としたのだろうか。

「善」は直訳すると「良い事」。善行というより、正しいこと、であり、詳しくは詩篇15篇に出てくるような行い。

「いない」は前半の「神はいない」に呼応している。「善を行い者はいない」というのは、一義的には、人類全体の中に「いない」という神学的真理をのべるのが目的ではなく、愚かな者達の中には「いない」ということを示している。その意味で15篇と矛盾するのではない。

2節

主は天から人の子らを見下ろされ、
神を探し求める賢い者がいるかをご覧になる。

「天から」は前節で「神はいない」と言っている事に対し、人の力の及ばない天に神がおられることを示す。

「人の子ら」はヘブル語では「アダムの子ら、子孫たち」で、人類全てを指す。

「見下ろす」は身を乗り出して下を見ること。

「ご覧になる」は前半の動詞と結びついており、目的を示す。神が天から見下ろされるのは、賢い者がいるかいないかを見るため。

「賢い者」は前節の「愚かな者」と対比するための訳。原意は「注意深い者」で、様子をよく見て深く考える人。

「探し求める」は分詞形で、「賢い者」と同じ形。接続詞は省かれているが、「賢い者、すなわち(神を)探し求める者」ということ。

「いるか」は、存在するのを確認するというより、「いるだろうか、いやいない」という反語的なニュアンスを感じる。

3節

全ての者は背き、彼らは共に汚れた。
善を行う者はいない、ただの一人もいない。

「背き」は向きを変えるという意味の動詞で幅広い用いられ方をし、文脈によって様々に訳される。ここでは神様から離れるという意味で「背く」とした。

最初の「全ての者」が集合名詞的に単数形だったのが、「彼らは」と複数形になる。詩文では珍しくないこと。日本語では気にならないが、「背き」と「汚れた」もそれぞれ単数形、複数形の動詞。

「共に」「汚れた」は一人一人がばらばらに「汚れた」のではなく、ある意味では一緒に「汚れた」こと。「汚れた」は倫理的に壊れた、堕落したという意味。「腐った」と訳しても良いが、1節の「腐った」(私訳では「破壊する」)とは違う動詞。様々な用語を用いることで人間の罪の状態を描き出している。

「善を行う者はいない」は1節と全く同じ。これによって1〜3節がひとまとまりであることを示す手法。

「ただの」は原文にはないが、「いない」を二度繰り返すことで「一人もいない」が強調されていることを示すために付け加えた。

4節

彼らは知らないのか、全て悪をなす者たちは我が民を食う者たち、
彼らはパンを食べ、主を呼ぶことをしない。

この節は理解しにくい。直訳すると「彼らは知らないのか。全て悪をなす者たち。我が民を食う者たち。彼らはパンを食う。主を彼らは呼ばない」。2番目と3番目の動詞は分詞形で、その他は完了形。各文節の間には接続関係を示す語はない。したがって、どのように組み合わせるかによって訳が変わる。1番目と2番目の文節を組み合わせ、3番目と4番目の間に「ように」を補っているのが多くの訳で、「全て悪を行う者たちは知らないのか、彼らはパンを食うように我が民を食う、彼らは主を呼ばない。」となる。上の私訳では2番目と3番目が同じ分詞を用いているのでひとくくりにしている。

「知らないのか」は預言書ではよく用いられる表現で、修辞的疑問文と呼ばれるもの。「知らないのか」と尋ねているのではなく、「知らないのか、いや全く知らない」と反語的に否定の意味を強調している。悪を行っている愚かな者たちは、本当のことが全く分かっていない。だからこそ「愚か者」なのである。また、この表現は、新しい区分の最初によく用いられる。

「(悪を)なす者たち」は「(善を)行う者」とは違う動詞を用いている。意味の違いはほとんど無いが、1節、3節とは違う部分に入ったことを示している。

「我が民」と言っているのは、王としてのダビデであるが、王は神の代理者として民を守るのであるから、神ご自身の言葉と考えることもできる。

「パン」は文字通りの食物ではない。「主を呼ぶ」は祈りのことであるが、ここは食前の祈りの話ではない。「食う」という動詞から食べ物の代表としてパンをあげ、「我が民」を食い物にしていることを比喩的に表現している。その意味で多くの訳がしているように、「ように」を補うのは間違っていない。「彼らは我が民をパンのように食うが、人が食事の時主に祈るのに対して、彼らは祈ることをしない」という意味だろうか。

(「パン」はヘブル語で「レヘム」。家は「ベト」(または「ベイト」)で、ベトレヘムと言ったら「パンの家」の意味。)

5節

そこで、彼らは恐れに恐れる。
神が義しい人々の中におられるからである。

「そこで」は場所を示す副詞。しかし、前節なのでそれが意味する「場所」は出てこないので、多くの訳は時間的な「場所」と理解して「そのとき」とする。4節では、「彼らがパンのように我が民を食っている」、ちょうどその場所/時。

「恐れに恐れる」のように同じ動詞、あるいは同じ動詞から生まれた名詞を続けることで強い強調を示すことはヘブル語の特徴である。「大いに」とか「非常に」と訳すこともできる。

「中におられる」の「おられる」は原文にはないが補うのが妥当。「中に」という前置詞は「共に」という意味でも使われるので、「共におられる」でも問題はない。ここでは「一緒にいる」のはもちろんだが、「彼ら」が「我が民」のなかに入り込んで食い物にしている、ちょうどその場所に、というニュアンスを表すために、敢えて「中に」と訳した。

「義しい人々」で、「義しい」は1、3節の「善」(原意は「良い」)とは違う語で、「義、正義」(ツァディーク)という語。神に従う者たちもしばしば「義しい」と呼ばれる。また「義」は「救い」の意味でも使われ、新約では救われた者とは神に義としていただいた者である。その意味で、これは1〜3節まで(善を行う者は一人もいない)と矛盾するのではない。「人々」は直訳では「世代」という意味で、同じ世代の人々、という意味でも使われる。

「神が」と、前節の「主」(固有名詞)ではなく一般名詞の「神」を使っている。驚き恐れている「彼ら」が出会ったのは「主」だが、彼らはその名前を知らず、一般的な意味で「神」と読んでいる。

6節

貧しい者のはかりごとをお前たちは辱めようとしている。
しかし、主が彼の避け所である。

「貧しい者」とは前節の「義しい者」のこと。詩篇や預言書ではしばしばこのようなパターンが見られる。経済的に貧しいだけでなく、弱い存在。悪意のある強者から苦しめられている。

「はかりごと」は13:2にも出てくる語。貧しい者が生きるために考えた計画。それを「辱める」とは、邪魔をして挫折させること。そのような危機においても神の助けがある。「辱める」は未完了形が用いられている。

「しかし」は「まことに」という接続詞。普通は強調の意味で用いられる。

「避けどころ」は名詞としては詩篇ではここで最初に用いられる。

7節

誰がシオンからイスラエルの救いを与えられるのか。 主がその民の繁栄を返されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむ。

「誰が」と疑問詞で始まることで、新しい区分に入る。これも疑問文ではなく、答えは明らかである。「誰」、それは主である。「シオン」はエルサレムのある丘の名前であるが、後には神殿を指す意味でも用いられる。ダビデの時代はまだ神殿の建物は出来ていないが、彼がそこを首都としたときに神の契約の箱を携え登り、主の住まわれる場所となった。「シオンから」とは、すなわち「神から」と同じ意味。

「与えられるのか」は疑問文の形であるが、これを願望・祈りの意味と理解する訳が多い。しかし、それでは最初の「誰」の意味が薄れてしまう。

「繁栄」は「帰る」という動詞から派生した名詞。「回復」とも訳される。後の時代にイスラエル・ユダが捕囚となった時、その捕虜の状態から回復することの意味で用いられるようになる。ここでは6節までの苦しめられている状態からの救いのこと。「返される」も同じ動詞。

「喜び」と「楽しみ」は類義語。新共同訳の「喜び躍り、喜び祝う」も良い訳。「ヤコブ」は「イスラエル」の別名だから、最後の部分は同じ意味を繰り返している。

構造

1〜3節  善を行う者はいない、愚かな者だけである
4〜6節  義なる貧しい者は悪を行う者に苦しめられる
  7節  しかし神は彼らを救われる

メッセージ

前半は新約にも引用され、神の目から見て、正しい者は誰もいない。しかし、その中で、貧しいながらも神に頼る人々は「義」と呼ばれている。神に従うが故に苦しめられている人々を、神は「我が民」と呼ばれ、彼らの避け所、救いとなって下さる。私たちも、決して自分の行いによっては救われない罪人・愚かな者であるが、恵みによって救われ、義なる者、神の民をしていただいた。その私たちを神はいかなる時でも見捨てず、「我が民」として守ってくださる。



(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/11
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