終わりのない苦しみからの解放。
11篇とほぼ同じ
「いつまでですか」という句が4回も続けて使われるのはここだけ。詩人は今自分が受けている苦しみが永遠に続くかのような思いを持った。何時終わるかが分かっていれば忍耐ができる。終わるのか分からない時に辛さは倍増する。「いつまでですか」は詩人の心の叫び。日本語としては「主よ、いつまで...ですか」とするほうが良いが、ここでは敢えて「いつまでですか」を強調した。
「永遠に」は永続性や連続性を示す言葉。忍耐する場合にも使う。「栄光」と言う意味もあり、「聖歌隊の指揮者」と同じ語源。
「忘れる」と言っても神がうっかりと忘れる、ということはあり得ない。長く続く苦難の中で、自分が忘れられた、すなわち見捨てられた、と詩人が感じているということ。疑問形にしているのは「いつまでですか」という句に対応して。原文では未完了形。
「御顔」(直訳は、あなたの顔)は、良い意味(神の恵みが向けられる)でも悪い意味(神の怒りが向けられる)にも使われる。ここでは良い意味の「御顔」が失われている状態。
「思い悩み」は意訳。原意は「相談、助言」(カウンセラー)あるいは「計画」(第1篇で「はかりごと」)だが、そのままでは文脈に合わない。直訳すると「私は私の魂に相談を置く」。シリヤ語訳やアラビア語からの類推で「痛み」と読む訳もあるが(口語)、むしろ自分の心の中であれこれと自問自答する、と考えれば、「思い悩み」という意味になる。どれにしても詩人の内向的な苦痛を示している。前節が神との関係における悩みであったのに対し、この節の前半は自分の内側についての吐露。「魂」と「心」は別の語ではあるが、ここでは同義語的に並行して用いられている。
「日々」は単数形で、夜という語と一緒に使えば「昼も夜も」訳される。「毎日」というより「ひねもす」(文語、口語)と訳しても良い。「心に悲しみ」には動詞がつけられていないが、直前と同じ動詞が省略されていると考えられる。原文の順序では、「私は置きます、相談を、私の魂の中に、悲しみを、私の心の中に、日々」。
「私の敵」は単数形。個人名はあげられておらず、内容からも特定されない。集合名詞的な意味かもしれない。本節の後半は対人(対外)関係。詩人の苦しみは、外面的には敵が勝ち誇っている状況、内面的には悩みや悲しみ。それらは1節の対神関係の行き詰まりの故に解決の道を失っている。「敵」を人間ではなく、「死」や「悪魔」と考えることもできる。
「高められて」は実際は受動態ではなく状態を表す能動態。誰かが敵を「高くする」のではなく、敵が「高い」状態にいることに強調点がある。「高さ」を栄誉や名声と理解して「あがめられる」(口語)とするのも良い。「勝ちおごる」(新改訳)や「誇る」(新共同訳)は意訳。
「見て」は目的語が省略されているが、次の語の目的語「私」と共通していると考えられる。「見る」は詩人の苦難の状況を見て救って欲しい、ということ。「答える」は彼の助けを求める祈りに対してで、救うこと。「見て」も「答えて」も命令形だが、二つの動詞の間には接続詞が無い。神が「見る」ことと「答える」ことは別々の事ではなく、詩人を救うという意味で一つのこと。私たちの状態を「見て」いながら祈りに「答えて」くださらないようなお方では無い。
「我が神」とは詩人の、神との個人的な結びつきを示し、利己的な意味(自分だけの神)ではない。切実に助けを求めるときに「私の神」と呼ぶのは自然なこと。
「光を与えて」は一つの動詞。「目に光を」は、暗闇のような状況に光が差し込むという意味ではなく、目が輝くこと、すなわち命の光に溢れている状態にしていただくこと。「目」は「両目」。
「さもないと」は次節にも出てくる。嘆願に続けて用いられることは少なくない。神様が助けて下さらないならもっと酷い状態になってしまうので、そうならないように救って下さい、ということ。取引や脅しではなく、必死の説得。
「死の眠りに就く」は直訳では「死を眠る」。「目」という言葉に対応して「眠る」という表現を用いた。実際の死が迫っている(病気などの)危機的な状況か、あるいは死に例えられるような深い苦難を指すかもしれない。
「私は彼を負かした」は、ヘブル語ではカギ括弧は無いが、文脈から誰が「私」かは明らか。「負かす」は「勝つ、圧倒する」。
「仇たち」は「(私の)敵」とは違う語で、単数ではなく複数形。詩文の並行関係では単数複数が入れ替わることは珍しくないし、同じ語を繰り返さないようにするのも普通。特に誰であるかは書かれていない。
「こと」は理由を表す場合も使われる接続詞。その場合は「ので」と訳す。強調(「まことに」)ではない。
「動かされる」は詩人の動揺を示す。
敵が詩人に対し、勝ち誇ったり喜んだりすること自体は、神への訴えの根拠ではないように思えるが、詩人が神に従う者であれば、神の僕が負かされることは、すなわち神がそうされることでもある。前節のような神との密接な関係があることが前提。したがって、1節に見られる神との断絶は、助けを求める祈りの中で修復されている。
ヘブル語聖書では5節、6節は一続き。
「しかし私は」は、代名詞が強調形であるとともに、詩文では頻度が低い接続詞「そして、しかし」を文頭に置く、という非常に強い語調で用いられている。どんなに敵が言おうとも、それでも「私は」と、詩人の信仰が宣言されている。何らかの理由に基づく信仰告白ではなく、信仰にによる決断に基づいて苦悩を断ち切っている。
「いつくしみ」(ヘセド)と「救い」(イェシュアー)は並行関係にあり同義語として用いられている。前者は男性形、後者は女性形で、ともに同じ前置詞と代名詞(人称語尾)がつけられている。この組み合わせは12篇1節でも用いられ、つながりを感じる。
「喜ぶ」は4節と同じ語が用いられ、敵の喜びと対照的である。敵は詩人の動揺を喜び、詩人は神からの救いを喜ぶ。
「歌う」は7篇の表題を除けば、詩篇ではここに始めて出てくる。単なる歌ではなく神への賛美の意味。
「と」は理由を表す(ゆえに)と理解することもできる。ただ、この訳と、動詞が完了形であることから、詩人がすでに救いを受けたと考えて良いかは分からない。未来の行為を、その時点ではすでになされたと言う意味での完了形とも理解できる。あるいは、詩人がこの歌を作った時点では救いは過去に受けたものであっても、詩はその苦しみの最中の姿を述べており、その意味では来るべき救いとして語っている。
1〜2節 苦しみの吐露
3〜4節 神への願いと訴え
5〜6節 信仰による宣言
何時終わるか分からないような長い苦しみの中で、神との関係が断絶したかのように感じることがある。詩人はその思いをそのまま神に述べた。「ことばの上のきれいな祈りよりも、かえって真実な悲嘆を神は受納される」(小林師)。祈りは一方通行のように思えても、祈りの中で信仰が生まれ、心が変えられることがある。直接の答えが直ちに与えられないとしても、祈り続けるときに確かに神は働いていてくださる。その信仰によって、目に見える状況はなお暗くても、「それでも私は信じます」と宣言するとき、永遠に続くと思われた苦難は打ち破られるのである。