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第十二篇

歪んだ社会に生きる信仰者の苦悩と嘆き。

私訳と注釈

表題

聖歌隊の指揮者に。「第八」にあわせて。ダビデの賛歌。

6篇とほぼ同じ

1節

救ってください、主よ、愛に生きる人は絶えたからです、
人の子たちの中から、真実な人々は消え失せたからです。

「救ってください」はヤーシャーという動詞の命令形。この動詞から出来た、「主は救う」と言う意味の「ヨシュア」という名前がギリシャ語になったのが「イエス」。また、この「救ってください」(ホシィアー)に「どうか」という意味の語尾「ナー」がつき(ホシィアナー)、それがアラム語になったのが「ホサナ」(マタイ21:9など)。困難や罪悪から救って下さい、という意味。

「愛に生きる人」は形容詞で、「ヘセド」(愛、特に変わることのない忠実な愛)から派生した言葉。ここでは、そのような愛を行う人、という意味だろう。その意味からさらに転じて、「敬虔な人、神を敬う人」という意味と理解することも出来る。口語訳、新改訳は後者、新共同訳は前者。

「絶えた」は終わる、完了する、という意味。「消え失せた」は消える、という意味。ここではほぼ同じ意味で用いられ、並行関係をなしている。

「真実な人々」は動詞アムナー(堅く立つ、信頼する、信頼できる)の分詞形で、「愛に生きる人」が単数だったのが、複数に変わっている。この動詞から「アーメン」(真実)が生まれた。

「人の子たち」は人類一般のこと。

愛や真実に生きる人が地上からいなくなってしまった悲惨な状況から助け出されることを詩人は願っている。実際に「一人もいない」というよりも、それだけ悪意の人々に囲まれていることを詩的に表現している。しかし、ソドムのような状態を考えれば、単なる誇張ではない。次節では、さらにこの状況を詳しく叙述している。

2節

彼らはお互いにその友に空しいことを語り、
滑らかなくちびる、二心で語る。

「彼らは語り」は男性複数形で、文法的には前節の「人の子たち」を受けている。「お互いに」は「人」という名詞(単数形)で、これを主語とすることも出来るが、その場合は一人の人間ではなくて集合名詞的に理解する。

「その友」は直訳では「彼の友」。「友」は友人、あるいは仲間や同族の者。どれにしても、親しい、信頼関係で結ばれているはずの相手に、お互いがウソを言っている状態。

「空しいこと」は「空っぽ、空虚」の意味。言葉の中身が無い。それが「嘘」や「偽り」。

「滑らかなくちびる」は「へつらいのくちびる」とも訳される。おべっかを言うときは、流れるように言葉が出てくる。雄弁であることとは違う。さらに詳しく述べたのが「二心」で、これは大変良い訳。原語では「心と心で」、つまり「二つの心で」。

二つ目の「語る」は最初の「語る」と同形(詳しくは、文末のため発音がわずかに変化しているが)で、「彼らは語る」が直訳。順番は変わるが前半と後半が並行関係にある。ヘブル語の語順では、
「空しいことを」      「彼らは語り」    「お互いに」+「その友に」、
「くちびる」+「滑らかな」 「心」と「心で」   「彼らは語る」
となっている。

3節

主が断ち切ってくださるように、全ての滑らかな唇を、
大きな事を語る舌を。

「断ち切ってくださるように」は三人称に対する命令、あるいは、願いを表す用法。滅ぼすという意味だが、対象が唇や舌なので「(断ち)切る」。

「滑らかな唇」は前節と同じだが、今度は単数形ではなく双数形(ペアになっているものをあらわす、特に人間の目や耳など)。

「舌」は単数形だが「大きな事」は複数形、一つではなく、いくつも大きな事を語る。「大言壮語」ということ。「語る」は前節と同じ動詞だが、こちらは分詞形で、関係代名詞的に用いられている。「大きな事々を語っているところの舌」。

2節では嘘とへつらいと二心だったのが、3節ではへつらいと大言壮語になり、内面的な偽り以上に外に出た言葉の虚構性を感じさせる。嘘の出所である舌や唇を断ち切ることを神に願っている。

1〜3節の構造

1節前半は主に助けを求めている。後半は助けの必要な状況として真実が消えたことを述べている。2節では、その真実な人がいなくなったということを、さらに具体化して、偽りが満ちているさまを叙述している。3節は再び(間接的だが)主に問題の解決を求めている。

A  主に助けを求める
  B  人間から真実が消えた
  B’ 人間は偽りで満ちている
A’ 主が偽りを滅ぼしてくださるように

4節

彼らは言う、我々の舌によって我々は強い、
我々の唇は我々のものだ、誰が我々の主であろうか。

「彼ら」は関係代名詞(これで分が始まるのは詩文ではごくまれ)だが、先行する名詞が「舌」で、しかも単数であり、「彼ら」と数が一致しない。ここでは名詞的に訳している。

「我々の舌によって」の前置詞は「によって」と訳されることは少ない。次の「我々は強い」を名詞的に理解して、「我々の舌は我々に属する」としても良いかも。自分の言葉で自分を強くするのが偽りの世界。弁が立つ者が強いとされる。

「(我々の)唇」は、また双数形。「我々のもの」と訳したが、動詞はなく、形の上では目的語となっている。つまり、直訳すると「我々の唇、我々を」。この後の「主人」ということと関連して、自分自身が自分の舌の所有者、つまり自分が自分の主であるということ。

「主」は神の名前としての「主」ではなく、一般の名詞。「誰が」と疑問文の形を取っているが修辞的疑問文であり、実際は「(我々の主人は)誰もいない、(我々自身が)我々の主人だ」ということ。神が主であることを否定し、自分が神になろうとするのが、人間の罪性。アダムの罪がこれである。

4節は関係代名詞によって前節までとつながっており、テーマとしても人間の偽りの言葉が続いている。しかし、主語が三人称から一人称複数に移行していることから、1〜3節とは異なる区分でもある。

5節

弱い者たちへの暴力のゆえに、貧しい者たちの嘆きのゆえに、
私は今、立ち上がる、と主は言われる、
私は彼を、彼が喘ぎ望む救いのなかに置こう。

「ゆえに」は前置詞ミン(〜から)が理由を示すと理解して。

「弱い者たち」は弱く、貧しい者。形容詞の複数形を名詞として用いている。「貧しい者たち」も同様。人間を表す場合は男性形を使う。「暴力」と「嘆き」はそれぞれ男性形と女性形を使って、変化をつけている。形の上ではどちらも、前置詞+名詞+形容詞、だが、一つ目は暴力を受けている対象が弱い者たちであり、二つ目では嘆いている主格が貧しい者たち。

「立ち上がる」は、ここでは彼らを救うため。

「主は言われる」を台詞の途中に挟むことは、特に預言書ではよくある形式。

「置く」は「与える」の意味で用いることもあるが、その場合は目的語である「救い」に前置詞をつけない。そこで「救いのなかに置く」としたが、意味としては彼らを救うということで「救いを与える」と同じこと。

「喘ぎ望む」は息をするという動詞で、苦しみの中で息を切らして助けを求めている様子を表している。

前節とともに、「言う」という動詞を用いた「台詞」であるが、両者とも、詩人がそれを直接に聞いた、と考える必要はない。偽る者たちが言うであろう言葉(4節)と、弱い者を顧みられる神が言うであろう言葉(5節)を、詩人が想像している。貧しいものたちの味方をする神は、律法にも預言書にもよく出てくる。

4節、5節は、「彼らは言う」と「主は言う」という形で対照的である。

6節

主の言葉は清い言葉、
地の上の炉で融かした、七たび浄めた、銀。

前半、後半とも、主動詞が無い名詞節。「である」を補っても良い。

「言葉」は「言う」という動詞から出来た名詞で、言うこと。「清い」は清く、純粋なこと。この純粋さを例えて表しているのが後半。

「(地の)上に」は「対して、属する」とも訳せる前置詞。口語訳の「地に設けた」が良い意訳。「土」の意味は無いが、おそらく土で作ったものだろう。

「融かす」も「浄める」も、精錬するという意味の違う動詞。炉で融かして不純物を取り除いて浄められた銀のように、主の言葉は清く、不純物が無い。4節の彼らの言葉が不純な罪に満ちているのと比べている。

7節

あなたです、主よ、あなたは彼らを保ち、彼を守られます、
この時代から、永遠にいたるまで。

文の最初に強調形の「あなた」が置かれているので、整った日本語ではなくなるが、「あなたです」と始めた。

「保ち」と「守り」はどちらも「見守る」という意味で、同義語。同じような意味の、違う動詞を重ねて意味を強めるのは良くある表現。「彼らを」と「彼を」は文法的に変化をつけるためで、別々の対象ではなく同じ人々を指す。具体的には5節の「貧しい者たち、弱い者たち」だろう。1節では詩人自身が助けを求めている(ただし、「私を」とは書かれていないが)ので、ここを「私たち」と読む理解もある。いくつかの写本や古代訳では実際に「我々を」と書かれている。確かに詩の出だしとしては詩人の嘆きとして描かれてはいるが、詩が進むにつれて偽り者たちと弱い者たちとの対比が中心となり、ここでも詩人が自分自身を入れずに助けを求めても、流れとしてはおかしくはない。「彼ら」を前節の言葉(複数形)を指すと理解し、約束の言葉(4節)を必ず守られる、と解釈することも不可能ではない。

「守られます」は未完了形で、命令的な意味とすると「守ってください」と訳すこともできる。

「この時代から」を「永遠に」と結びつけて、今からとこしえまで、と理解している。「この時代」を、「この時代の人々」と理解することもでき、その場合は、「この邪悪な時代(の人々)から守ってくださる」という意味になる。

1〜7節の構造

1節  A  主に助けを求める
      B  人間から真実が消えた(偽りの言葉の描写)
2節    B’ 人間は偽りで満ちている(偽りの言葉の描写)
3節  A’ 主が偽りを滅ぼしてくださるように

4節      C  偽る者たちの傲慢な言葉
5節      C’ 主の救いの約束の言葉

6節    B” 主の言葉の純粋さ(神の言葉の描写)
7節  A” 主は助けてくださる(助けてください?)

1〜4節は偽りの言葉が中心、5〜7節は主の言葉が中心。前半と後半を結びつけているのが、4節5節のコントラスト。
ここで終わると、主の言葉への信頼で閉じることが出来るのだが、詩人はもう一度世の悲惨な状況に目を向ける。

8節

悪しき者たちが歩き回っています、
人の子たちの間では無価値なものが崇められているのです。

「歩き回る」は、「歩く」という動詞と「回って」という副詞だが、後者が強調されているので、口語訳のように「いたるところで」と訳すのも良いが「ほしいままに」は原文には無い意訳。

後半は前置詞ケで始まるが、この意味は難しい。時間を表すと考えて「ときに」とできるが、普通は動詞の不定詞を伴う。理由として「ので」とも訳せるが、これもあまり例がない。ここではもう少し軽い意味で、前半後半を併記させるに留めている。

「無価値なもの」は2節の「空しいこと」と同義語。神の目には無価値なものを罪ある人間は価値あるものと考えてもてはやす。価値観の歪んだ社会では悪人が大手を振って歩き回っている。 この節を、5〜7節の神への信頼に基づいて現状を見つめ直していると理解することもできるが、詩の流れとしては最後に一般的な状況を述べるのは珍しいことで、7節の約束あるいは願いを弱めることになりかねない。

構造

     1〜4節  偽りの言葉
     5〜7節  神の真実な言葉
     8節    偽りの世界

メッセージ

価値観の歪んだ社会では悪しき者がほしいままに歩き、正しい者が迫害される。信仰者がその価値観を土台として生きるなら、信仰と現状との板挟みになり、常に揺らいでしまう。純粋な、変わることのない神の御言葉によって生きるならば、どんな苦境でも揺るがされない。神への信頼によって目の前のことを受け止められるかが鍵である。

もし、祈りにおいて、信仰によって立ち上がるのでないと、困難が続く。そのような理解のもとでは12篇は解決のないものになる。しかし、13篇が続くことによって救われる。私たちの祈りも時には絶望のような日がある。しかし、それでも祈り続けるなら、恵みによって道が開かれて行く。



(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/09
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