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第十一篇

この詩篇は、敵のあからさまな攻撃や苦難ではなく、世の考えによる見えない影響という誘惑の中に置かれた詩人の内面での戦いを描いている。

私訳と注釈

表題

指揮者に。ダビデに。

ヘブル語聖書では表題は1節に組み入れられている。同じ前置詞が「指揮者」と「ダビデ」にそれぞれつけられているので、「ダビデの(詩篇)」と訳して良いのなら「指揮者の(詩篇)」と訳すことも出来うる。この前置詞は、(1)所属を表し、作者を示す、(2)目的語を表し、対象に対する指示を示す、(3)関係を表し、「〜に関して、〜にちなんで、〜のために」と言う意味、のいずれにも訳詞得る。伝統的にはダビデの作。

1節

主に、私は身を避けているのだ。
なにゆえあなたたちは私の魂に言うのか、
鳥よ、お前たちの山に逃げよ。

「主に」が最初に置かれ、強調されている。詩人が自分の避け所としているのは創造主であり全能の神である、他でもない主、そのお方である。それなのに何故、と第二行に続く。

「身を避ける」は「避け所」(46:1参照。5:11、7:1)の動詞形。その中にいれば嵐の時でも安らかに過ごせる。

「なにゆえ」は疑問詞だが、理由を尋ねている(何故、どうして)よりも驚きや悲観を示すために用いられていると考えられる。

「あなたたち」が誰であるかは内容からも分からない。敵か、あるいは友人か。どちらであっても、『彼ら』の言葉によって詩人の心は乱されている。その意味では「敵」である。

「(私の)魂」は様々に訳しうるが、ここでは詩人の内面的存在を意味すると理解した。『彼ら』が第3行以降のように語っているのは彼の外面的な「耳」以上に、その言葉が詩人の心の奥にまで忍び込んで来ている。だとするならば、『彼ら』が何を言おうと神に信頼しているなら気にすることはないはずなのに、詩人が動揺していることを示唆し、その意味で、この疑問詞は『彼ら』に対してと同時に、実は自分自身に向けられている。詩篇42:5参照。

「言うのか」は未完了形。「避けている」が完了形なので、「(主に身を)避けた」(過去)のにどうして「言うのか」(現在の継続、もしくは仮定的な未来)、と理解することも出来るが、詩文においては時間的順序は文法(時制)よりも文脈に依存するので、単に対象的動作と考えても良い。

「鳥よ」は言語では文末に置かれている。単数形だが、集合名詞と考えることも出来、「お前達の」と矛盾はしない。むしろ、敵の台詞(現実であれ、想像であれ)が詩人個人ではなく詩人を含む共同体に向けられていることに注目したい。詩人の苦しみは彼だけのものではなく、同じ信仰に立つもの全てに共通するものである。

「(お前たちの)山」は鳥のすみかを意味するのだろう。あるいは山を逃れ場とする考え方(創世記19:17、参照マタイ24:16)があったのかもしれない(小林師)。

「逃げよ」は「言ったり来たりする」という意味の動詞で、彷徨いながら逃げまどう様子を指す場合と、鳥が羽ばたく様子にも使われる。ここでは両者を掛けてこの動詞を選んでいるのかもしれない。

2節

ああ、見よ、悪しき者たちが弓を張り、
彼らの矢を弦に堅くつがえ、
心の正しき者たちを暗闇の中で射ようとしている。

最初の接続詞キィは前節の「逃げろ」と言う理由が述べられていると考えることもできる。あるいは、1節の「言う」を受けて、その内容を示す関係詞と見ることもできるが、詩文ではそのような用法は考えにくい。どちらの場合も、2節および3節は一節の「敵」(あなたたち)の言葉と理解される。口語訳、新改訳、新共同訳はどれもキィを訳さずに、2、3節を敵の台詞としている。しかし、2、3節を詩人自身の言葉として考えることも可能で、その場合は強調として「まことに」と訳す方が良い。文語は、キィを訳してはいないが、2、3節を詩人の言葉としているようである。ここでは特定の意味を持たせずに訳している。

「見よ」は命令ではなく、注意を引く間投詞。

「悪しき者」は詩篇の中では良く用いられる表現。「心の正しき者」は自己義認ではなく、神に従う者を表す言葉として使われており、「悪しき者」が神に逆らう者であるのと対象的である(新共同訳、3節参照)。

「(弓を)張り」は単独では「歩く、足踏みする」という動詞だが、「弓」と共に用いられる場合は「弓を張る」と訳される。同様に「堅くつがえ」は「堅くする」という動詞だが、弓矢に対して使う場合は弓を弦につがえ、堅く弓を引き、今にも射ようとしている様子を表している。人称代名詞は複数だが、弓、矢、弦は単数形。

「射ようと」は前置詞レに不定詞で、目的などを示す。

「暗闇の中で」は明るい所ではない、つまり見えない状態で。不安感を沸き立てる。

3節

まことに基は壊された、
義なる者は何ができよう。

この節の最初のキィは、2節と同様に、理由あるいは間接話法の導入と見ることもできるが、強調(「まことに」)と考えるか、条件節(「もし」、あるいは「〜ときに」)と考えることも可能。いずれの場合でも、話者は『彼ら』でも詩人でもあり得る。

「基」は意味不明。「置く、据える」という動詞から派生した名詞なので、土台、基盤、という意味だと考えられるが、具体的にここで何を意味するかは分からない。新共同訳のように「世の秩序」とするのはかなり意訳。新改訳の「よりどころ」も面白いが、通常「よりどころ」と訳される動詞あるいは名詞(1節)と違うので無理がある。正しい者がよって立つところ、ということだろう。

「義なる者」は前節の「正しい」(あるいは「真っ直ぐ」)と違う語。元来形容詞なので人と理解する必要性は無いが、文脈からは一番自然な訳。2節では複数(正しい者たち)だったのが単数形となっている。表現の変化のためと考えられるが、この節が格言のようなことだったのかもしれない。

「何ができよう」は、正しい者が拠って立つべき基準が破壊された、つまり義の基準が崩れてしまうという混乱の中では義人は無力であるということ。すなわち、正しく生きることを無意味としている。この点で、この考え方は御心に反している。

4節

主は、彼の聖なる宮にいまし、主は彼の御座なる天におられる。
彼の両目は見ておられ、彼の両まぶたは人の子らを調べる。

「主は」と主語が転換することで、新しい部分を導入している。二回目の「主」は通常詩文では省略されるのであるが、敢えて二回書くことで強調している。2、3節で主の存在が無視される言葉が書かれて射いるのに対して、「しかし、主は」と述べている。

「聖なる宮」は、直訳すると、「彼の聖の宮にて」。これと次の部分は名詞節。「います、おられる」は原文には無いが補っている。

「(彼の)御座」は形容詞ではないので、「聖なる宮」のようにはできないが、ここでは天と御座が同格であると見て、日本語訳で一行目の前半と後半が並行関係であることを示した。

「目」も「まぶた」も双数形(二つで一組)。日本語訳では「両」は省略しても良い。「目」と「まぶた」はここでは別のもの(一方は見えて、他方は見えない)ではなく、同じ事をいっている。10編にもあったように、神は見ていないのではなく、見ておられる。10:14とは違う動詞。ここでは単に「見る」のではなく、「調べる」ようにじっと見ている。

「人の子」は人間全体のこと。神が人を見る(調べる)ことの意味は次節でさらに詳しく述べられている。

5節

主は、義なる者を調べ、また悪しき者も。
そして暴力を愛する者を、彼の魂は憎まれる。

「主は」で始まることで、前節とのつながりをもたせている。動詞も3節後半と同じ動詞を再び使っている。「義なる者」と「悪しき者」との対比もここでは明確に示されている。

「また悪しき者も」では動詞「調べる」が省略されている。

「暴力を愛する者」が後半の最初に置かれ語順を倒置している。「愛する者」には接続詞「そして」がついている。これは前半の「調べ」たことの結果であるとの関係があるから。「暴力」は「ハマース」。

「憎む」は女性形名詞で、主語は「(彼の)魂」(女性名詞)。「彼は憎む」でも意味は同じなのに、「魂」を入れることで、前半後半の動詞を変化させて並行関係を産み出し、名詞を一つ増やす事で前半後半の長さを整えている。後半の内部でも「愛する」と「憎む」とがコントラストとなっている。3節同様、強い並行関係が作られている。

6節

彼は悪しき者たちの上に網を降らせ、
火と硫黄、そして燃える風が、彼らの杯の分け前。

「彼は降らせ」の主語は明らかに前節の「主」。「降らせ」は雨を降らせる場合に使う動詞だが、ここでは裁きを「降らせる」。

「網」が直後の「火と硫黄」にそぐわないので、他のものに読み替えるものもいるが、前半では神の裁きを鳥の網という譬えで語り、後半ではもっと具体的なものとして「火と硫黄」という直接に神の裁きを意味する用語に進展させている、と考えれば原文のままで良い。1節で詩人が「鳥」に譬えられているに対し、ここでは悪しき者たちが鳥のように取り扱われている。

「火と硫黄」はワンセットで用いられることが多く、神の裁きを示す用語である。「降らせ」の目的語になることも多く、前半の動詞が後半に及んでいる。後半自身は名詞節である。

「燃える風」は「火と硫黄」のように頻度の高い表現ではないが、やはり神の裁きを示すと考えて良い。両者は、詩文では多用されない接続詞「そして」を連続して用いることで結びつけている。また、「風」が単数形であるのに、「燃える」が複数形の形容詞であるのも、この形容詞が三つの名詞を修飾しているためかもしれない。「火」と「風」はどちらも男女同形なので、三つとも女性名詞として使われているのかも知れない。しかし、「燃える火と硫黄と風」と訳すと、「風」が燃える風であることが薄れるので、翻訳では風にのみかかるように訳している。「風」は通常単数形で用いられるので、集合名詞として使われているのかもしれない。

「杯の分け前」も悪しき者への裁きとして使われる。「受けるべき杯」と同じ事。

この節は、5節の「調べる」の結果として、悪しき者であることが判明した場合、神はそれを「憎む」だけでなく、具体的に裁きを下されることを述べている。次節の、正しい者への恵みとコントラストになっており、神の秩序が描かれている。その意味で、後半は3節へのアンチテーゼである。

神の裁きについては、新約時代以降、神は忍耐して待っておられる。もし今すぐ神が裁きを「降らせる」としたら、私たちの身の周りの人々はほとんど滅んでしまう。彼らに救いの福音を伝えるつとめは私たちに委ねられている。

7節

まことに主は義しく、義なる事を愛される。
正しい者は彼の御顔を見る。

「まことに」は強調の意味。また前節とのつながりを強める接続詞でもある。

「義しい」は「義」という形容詞の男性単数形で、「主」を主語とする名詞節。

「義なる事」は女性形名詞で、複数形である。「義なる者たち」と人間であると考えることも可能だが、ここでは義であること全てと考えている。「正しい」は「真っ直ぐ」(2節)と同じ。こちらは男性単数形の形容詞。集合名詞として、「正しい」人間達をさすと考える。普通は定冠詞プラス形容詞であるが、詩文のためか定冠詞は省略されているようである。動詞「見る」は複数形である。

「見る」は4節後半の「見る」と同じ。「(主の)御顔を見る」のは、物理的意味ではない。神は例であるから肉眼では見ることはできないし、見た者は死ぬ。ここでは神の恵みを受けることを示す表現。人から神への行為なので、口語訳、新改訳のように「仰ぎ見る」とするのも良い訳。心のきよい者が神を「見る」のはマタイ5:8。

構造

     1〜3 無秩序における悩み
     4〜7 神の秩序への信頼

1節の最初で神への信頼が述べられているのは、その後の無秩序の中での不安感との対比のため。善悪の基準が乱れたのだから正しい生き方をするのは無意味、という主張は神の御心とは決して相容れない。だが状況があまりに乱れてくるとき、信仰者でさえも疑問を持ち、信仰が揺り動かされる。

後半ではその神への信頼に戻る。それは神こそが善悪の基準であることを主張している。神は動かされることのない御座に座して正しい者も悪しき者も裁かれる。

メッセージ

世の基準が乱れている時、信仰者は逃げ隠れするしかないのであろうか。そのような不信仰への誘惑を、詩人は正しい裁きをされる神への信頼によって打ち勝っている。現状を神の目で見ることが必要である。神への信頼が、神が正しいお方であることに根ざしているのなら、揺るぐことがない。



(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/09
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