いくつかの理由から、9篇と10篇はもともと一つの詩であったと考えられている。ヘブル語のアルファベットで各節が始まる「いろは歌」の一つだが、完全なものではない。内容よりも形式を優先させるため、詩としての流れが掴みにくい。9篇は感謝が、10篇は嘆きの側面が色濃いが、相反する内容ではない。
各節の訳の最初にヘブル語のアルファベットが書かれているのはその節がアルファベット詩の形に従っている場合。
「ムト・ラベン」の意味は不明だが、「息子の死」と理解することも可能なので、もしそうなら「息子の死に関して」。しかし、詩の内容とは関係ないように見える。
「感謝する」は「投げる」という動詞が変化したもので、「感謝する、賛美する」の意味。
「全て」が二度繰り返されている。「心を尽くして」でも良いが、私訳では「全て」を強調した。「数え上げる」は動詞「数える」の強意形で、「数え直す」が「列挙する、復唱する、宣言する」などの意味で使われる。前半が「感謝する」だから、その感謝の元となった出来事を列挙する意味で「数え上がる」とした。
「(あなたのされた)驚くべき事」は「する」という動詞が変化したもの。
「喜ぶ」と「歓喜する」はどちらも喜ぶ意味の動詞だが、日本語では同意語が無い。
「あなたによって」は二つ目の動詞の後に置かれているが、両方に掛かっていると考えて良い。
「誉め歌おう」は動詞ザーマルで、これが名詞となったのがミズモール、この詩篇の表題でも使われている「賛歌」である。
「いと高きお方」は「高い」という形容詞が名詞として使われていて、神の呼び名の一つとなっている。
「帰るとき」が節の最初に来ているが、これは強調ではなくアルファベットのベスで始めるため。「帰る」はどちら向きでも使うので、「背」を補って意味を明らかにしている。
「御前から」は直訳すると「あなたの顔から」。
「なぜなら」は接続詞キイで、この節は順序通りのアルファベットで始まっておらず、3節の続きとなっている。敵が逃げ去って滅びるのは、神が正しい裁きを詩人の為にしてくださるから。
「私の裁き」は、神が詩人を裁かれる、または神が詩人のために敵を裁かれる、のいずれにも取りうる。前後関係から後者であるのは明らか。「私の訴え」も「裁き」と同意語。二つを組み合わせて「私の正しい訴え」とする(口語、新改訳)ことも不可能ではないが、「裁き」(ミシュパト)の意味が弱まってしまう。
「行ってくださった」は完了形だが、必ずしも過去の動作と考える必要はなく、「行ってくださる」と未来形に取ることもできる。
「裁きを行われます」は前半の「裁き」の元となった動詞の分詞。動作と理解して「裁きを行う」と読むこともできるし、行為者と理解して「裁きを行われるお方」と読むこともできる。
「国々」は旧約聖書では異邦人のことを指す場合が多い。イスラエルを含む全国民と理解することもできるが。ここでは「悪しき者たち」と並行しているので、詩人の敵となっている国々。
「叱る」も「滅ぼす」も完了形だが、やはり過去か未来かは確定できない。
「名」を消し去るとは存在をまったく無くすこと。
「とこしえにいたるまで」は、「永遠に、そして永久に」。英語の"for ever and ever"。
順序から言うとギメルの次はダレトだが、次のヘイに飛んでいる。
「その」は定冠詞、これもヘイで始めるためで、詩文では定冠詞で始まることは少ない。
「敵」は単数形なのに動詞は複数形。そこで、(1)「敵」を集合名詞と考えて、形は単数だが意味は複数と見る、(2)「敵」を呼びかけ(「敵よ」)と理解する、ただし、動詞が三人称(「彼らは」)なのであまりなめらかではない、などの解釈がされている。次の「荒廃」が複数形なので、文法的には「その敵を絶え間ない荒廃が全うする(滅ぼす)」と読むことも可能。形式(アルファベット詩)のために意味が不明瞭になっているが、後半でそれが補われている。
「とこしえに」は5節とはまた別の言葉。「絶え間ない」とも訳せる。
「彼らの記憶でさえも」は「彼らの記憶を、彼ら」となっていて、文法的には破格である。ここでは二つ目の「彼ら」を強調と考えている。「彼ら」を読み替えて「音を立てて」とギリシャ語訳は理解している。
「そして」(ワウ)で始まることも通常ではないが、形式のため。前節の内容と反意(滅びに対し永遠)と考えて「しかし」と訳すことも可能。どちらも神の裁きという主題は同じなので、ここでは順接(「そして」)としている。
「座に着かれ」は「座る」という動詞で、「座」を補っている。「王座」は4節と同じ言葉。
「裁き」は4節と同じ。
この節も「そして」(ワウ)で始まる。10節まで続く。
二つの「裁く」は4節の「私の裁きと私の訴え」のそれぞれの名詞の元となる動詞なので、一つは「裁く」、もう一つは「訴えを裁く」とした。
「世界」と「諸国民」、「義」と「公正」が並行関係にある。
「でありますように」は直説法にして「です」あるいは「となりました」と訳すこともできる。新改訳は名詞構文にしている。
「砦」は二度同じ言葉を重ねている。詩篇でよく使われる言葉で、詩篇の中ではここで始めて現れる。私たちを守ってくださる神の力強さを示す表現。
「御名を知る」は神様を知識ではなく自分の神として知っていること。神が砦であるので、その神の名(御本質)を知る者は心から信頼する。
ここからザインになる。前節までと違い、命令形が繰り返される。
「誉め歌え」は2節でも使われている動詞。
「シオン」はエルサレムの別名で、イスラエル(ユダヤ)の代表。
「住む者よ」は単数だが、命令形の動詞は複数形。「住む者」を集合名詞としている。「シオンに住む者」を神殿におられる神と考えることもできる。「シオンに住たもう主を」。
この節はアルファベット順から外れて、接続詞キイで始まり、11節と結びついている。前節の賛美の理由を述べている。
「血の責任を求める」は直訳では「血を求める」。しかし、神が血を求める、つまり殺人を好むという事ではない。後半で貧しい、すなわち苦しめられている者たちの叫びが出てくるように、悪しき者たちが弱い者を殺して流した血の責任を神は求められる。これは神が正しい裁きを行われ、悪しき者の命を取られることを意味する。
「彼ら」は前節の「諸国民」であり、それは「悪者」の国々(5節)。あるいは後半の「貧しい者たち」を指すと考え、彼らの訴え(祈り)を覚えている、ということか。
この節から次のアルファベット、ヘイトに入る。11節の命令形が他者に対してだったのが、この節は主に対する命令(すなわち祈願)であり、救いの対象が一般的な弱者(12節)から詩人本人になっている。
「(私の)苦しみ」は前節の「貧しい者たち」と同じ語源。神は貧しく苦しめられている者たちの祈りを聞かれるお方なのだから、今度は自分の苦しみも見てください、との意味。
「来る」は原文にはなく、「私を憎む者たちからの私の苦しみ」。
「引き上げてください」は命令形ではなく分詞形なので、直接法と理解して「(主は)引き上げて下される」、あるいは名詞にとって「私を引き上げて下さるお方」、すなわち「主よ」と並行させる、といった解釈も出来る。ここでは、分詞を命令の意味にとっている。
「死の門」は死の国(シェオル)の入り口を指す詩的表現だが、詩人が文字通り死にかけたか、あるいは死に直面するような危機にあったかは不明。
この節もアルファベット順ではなく、結果を表す接続詞で始まり、前節と結びついている。
「そうすれば」、すなわち13節のように詩人を助けてくれたら。
「数え上げる」は1節と同じ。「復唱する、宣言する」の意味。
「あなたへの賛美」は直訳では「あなたの賛美(複数形)」。
「シオンの娘」はシオン(エルサレム)の住民を指し、通常は複数形。あるいは町自体を指すのかもしれない。「門」は人々が集まる場所だから、町の門で喜ぶとは神による救いを人々に知らせることと同じ。
「喜ぶ」は2節とは違う言葉だが、この節が1、2節と関連しているのは確か。
この節からテイト。神の悪しき者たちへの裁きを描写する。
「穴」は死の国を指すこともあるが、ここでは彼らが掘った落とし穴。そこに自分が落ち込む。
「この(網)」は日本語では余分だが原文にはついている。
「足」は、彼らが男性複数なのに女性単数形。詩文なので必ずしも具体的に数が合わなくても問題ではない。単数の「愛」で全員分を指す。彼ら(男性複数)と文法的にコントラストとなっている。
神の悪しきものたちへの裁きは、時に彼らが自分の手で自分の首を締めるようにされる形でなされる場合がある。彼らが弱者にしたように彼らもされる。
この節もアルファベット順では無いが、接続詞によって結びつけられてもいない。内容においては関係している。
「知らされ」は「知る」の受け身なので「知られる」が直訳だが、神が人々に知られるのは神の行う裁きによって。
「自分の手の業」は「彼の...」なので、「神の手の業」と読むことも可能。しかし、「手の業」は何か作ったものを想起させるので、前節の「穴」や「網」のことと考えられる。
「捕らえられる」は分詞形。
「ヒガヨン」はここだけに使われる言葉で、「セラ」同様に音楽記号と考えられるが、意味は不明。何らかの区切りになっているのは確か。
この節のみがヨッド。前節の「私」が消えて再び三人称になる。
「悪しき者たち」は前節と同じ言葉だが、単数形から複数形に変化している。
「シェオル」は死者の国。
「帰る」は元々属していた場所に戻ること、「シェオルに帰る」は死ぬこと。
「諸国」は5節と同じ。
「神」は「主」ではなく、単に「神」。
「忘れる」は動詞ではなく形容詞。
この節は接続詞キイで始まるが、前節の理由を表す内容ではない。この場合、「まことに」と訳すのが良い。内容的には前節の「神は忘れる」が本節の「忘れられるのではない」と対比されている。
「乏しい者」は12節とは違う言葉。貧しい者を表す普通の言葉。
「とこしえに忘れられるのではない」は、(1)一瞬たりとも忘れられない、か、(2)忘れられることもあるがそれはいつまででもではない。人間の実感から言えば、後者が妥当。しかし、神の目から見れば前者とも考えられる。ここは詩人の言葉なので後者としている。
「貧しい者」は12節と同じ。ただし、厳密には小さな違いがあるのだが、ここでは問題とはしないことにする。
「滅びることはない」は原文では否定詞を伴わない。前半の否定詞が後半にも及ぶのは平行法では良くあること。
「立ち上がって下さい」で神への命令(祈り)となり、内容的にも雰囲気も新しい区分であることを示す。しかしアルファベット順とは関係せず、前節とのつながりも薄い。独立した区分と考えられる。
「人間」は、弱い、息有る存在。
「勝ち誇らないように」の否定詞は前節とは異なるもの。発音(ユダヤ教の伝統的発音ん)では直後の動詞(「勝ち誇る」)と強く結びついており、位置的にも最初ではないので後半には及ばない。
この節もアルファベット順とは関係ない。
「諸国」は前節の「諸国民」ではなく5節と同じ言葉。しかし、意味的には同義に使われている。前節との関係が強い。
「人であること」は動詞を伴わない名詞節。19節と同じ言葉を使っている。
「人であることを知る」とは自分が神の前に小さな存在で有ることを知り、恐れを抱く、ということ。
10篇には表題が無く、9篇の最後がセラで終わっていることからも9篇と10篇が一つの詩であったことが推測される。第1巻では表題が無いのは序文である1篇、2篇と、33篇だけ。またセラが最後に来るのは72回のうち3回のみ。共通する語句もいくつかある。ただしどれも決定的な証拠ではない。
新しいアルファベットに入る。疑問詞ラメドで始まることで内容だけでなく口調も変わるため9篇とは異なる詩篇として読まれたのだろう。
後半には疑問詞が無いが、最初の「なぜ」は前半だけでなく後半にもかかっていると考えて良い。
「苦しみの時」は9篇9節の最後と同じだが、そこでは神が砦となって守って下さるはずだったのが、ここでは隠れておられる、と詩人は感じている。この節から信仰と目に見える現実とのギャップに詩人は悩み始める。
この節から11節まではアルファベット詩の形になっていない。かつてはアルファベット順になっていたのが書き写す間に変形してしまったと考えるものもいるが、むしろ内容(詩人の悩み)が形式を整えるのを妨げたと考えられる。
「追い迫る」は火が燃えて行く様子。
「彼らは彼らの」が誰を指すかはあいまい。前半の「悪しき者」も「貧しい者」も単数形なのでどちらでもありうる。「悪しき者」が「悪しき者」の企みに自ら陥る(9篇15、16節)のを願っている(口語訳、新改訳)のか、「貧しい者」が「悪しき者」の罠に陥る(新共同訳)のか。前後関係からは後者と考える方が良いだろう。
3節から11節は悪しき者の描写が続く。
「誇り」は「賛美する」(ハーラル)だが、人間が自分に対して使う場合は高慢を意味する。
後半は訳しにくいところ。「どん欲な者」を主語とすると、(1)「祝福する」を「呪う」と理解し、目的語を主にして、「主を呪い、かつ侮る」(新改訳、口語訳も)、(2)「祝福する」を表面的なことと捕らえ、「祝福しながら侮る」(新共同訳)、と解釈する。ここでは主語は前半と同じ「悪しき者」とし、「どん欲な者」を目的語としている。
「表し」は原文には無く、名詞節なので動詞を補っている。
「尋ね求め」の目的語が省略されているが、「神」であるのは明らか。
後半も名詞節。「彼の思い」は2節で「彼の企み」と訳されているのと同じ言葉で、悪い考えを意味する。
「彼」は前節の「悪しきもの」。
「どんな時でも」は直訳すると「全ての時に」。
「彼の前を離れて高く」は、目に入らないほど高い様子で、悪しき者は神の裁きなど気にも留めない。
「押さえつける者」は6篇7節で「敵」と訳されている言葉で、縛り付けている存在。
「心の中で言う」とは、そのように考えるだけでなく、無意識のうちにもそう思っていることもある。今の平安や繁栄がいつまでも続くと錯覚しやすいのが人間である。
「呪い」と「欺き」、「しえたげ」をひとまとめにして「彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち」(新改訳、口語と新共同も同様)としても良いが、節の最初に「のろい」が来ているインパクトが薄れてしまう。
「彼の舌の裏」は直訳すると「彼の舌の下」。前半と共に、言葉による罪を表現している。
「隠れて見る」は原意は「隠れる」で、目が主語であるので「見る」を補った。ただし、目は女性双数形(二つで一組)であるのに、動詞は男性複数形となっている。ルツ記の会話で同じような現象が見受けられ、古い時代の、会話や詩文での特殊な文法なのかもしれない。
同じ言葉が繰り返されている。「待ち伏せする」、「捕らえる」、「貧しい者」。「隠れた所」は複数形と単数形の違いがあるが前節にも出てくる。
「貧しい者」は2節にも出てくる。弱い者、苦しめられている者、などとも訳せる。形容詞が名詞として用いられており、同じ語源の名詞と共に9篇や10篇で何回か使われている。
語順では前半と後半が逆になっている。
「大勢のおびえた者」は「不幸な者たち」(8節)と読むことも出来るが、動詞がどれも単数形なので文法的には合わない。「大勢のおびえた者」の場合は「大勢」が単数形の名詞なので問題は無い。
6節と同じ始まり方。内容は4節と似ている。従って、4節(実際は3せつ)から始まる部分のまとめとなっている。
「神は忘れた」とか「神は見ない」は全能の神に対する不遜な思い。単なる否定(4節)よりもさらに高慢な思いである。
この節からアルファベット詩が再開する。ヘブル語のアルファベットの最後の4つが1節おきに使われている。コフは9編19節のカフとは別。
「立ち上がって下さい、主よ」は9篇20節と同じ。
「手を挙げる」は行動を起こすこと。
「忘れないで」は前節で悪しき者が「神は忘れた」と言っているのに対して。「貧しい者を忘れない」は9編17節に出てくる。11節の不遜な言葉に反発して、詩人は9篇の信仰に立ち返り、神に訴える。
「侮る」は3節に出てくる。3節から11節の悪しき者の言葉について神に訴えている。
「心の中で言う」も6節、11節の悪しき者の言葉を取り上げて訴えている。
「罰しない」は9篇12節で、「(血の責任を)求める」と訳されている言葉。悪しき者のしたことに対する罰を追い求めない、ということ。「なぜ」は後半では省略されている。
この節は2節分の長さがある。
「見ておられます」も11節の「見ない」に対して。さらに「じっと見る」も付け加えて反論している。
「災いも悲しみも」は、災いは悪しき者の、悲しみは貧しい者の。
「身を任せます」は「(あなたの上に)置きます」が直訳。
「みなしご」は寡婦とともに旧約聖書の中では寄る辺のない者の代表。神はそのような者を助けられるお方であると何度も述べられている。「不幸な者」が女性形なので、寡婦のことを意識しているのかも知れない。
「腕」は力の象徴。彼らが誇っている力をうち砕くことを求めている。
「一つも残らないように」は原文では「捜さないように」で、しかも女性形が使われている。正確な意味はつかめない。
「とこしえに」は9篇5節で同様の表現が使われている。「国々を滅ぼす」というのも同じ箇所に出てきて、両篇の始めと終わりを示している。
「王です」は名詞節で動詞は無い。
「彼の地」は神の所有している土地だが、それは本来一部ではなく、全地がそうである。しかし、ここでは物理的範囲ではなく、神が支配しておられるところから悪しき国々が滅ぼされることを述べている。
「望み」で最後の節が始まっている。神に望みを置く者たちへの祝福の約束が述べられている。
「強く立たせ」は9篇6節の「(神の王座が)堅くされる」と同じ動詞。弱い者の心を強くして下さることができるのも神の力である。神に祈ることが出来るようにしてくださり、その祈りに耳を傾けて下さる。
「耳を傾け」の対象が明記されていないためこの部分を次節につなげる解釈(新改訳)もあるが、ここままでも17節と18節の結びつきから、ここでは明示されていないことを次節で補っていると考えれば良い。
「ために裁きを行い」は直訳では「みなしご...を裁かれる」。日本語では裁くというのは罰を与えるイメージが強いため、そのままでは訳せない。ここでは弱い者のために裁きを行って、悪しき者を罰する、ということ。
「地上の人」は字義通りには「地からの人」。地面から生まれた人、あるいは(悪に満ちた)地上に属する人。
「彼らを脅かす」は「彼ら」を補っている。
アルファベットに基づいての構造。?はアルファベットが欠けている部分。
第一部 神への賛美と助けを求める祈り(9:1〜14)
アレフ 主に感謝し、誉め称えます。
ベス 神の正しい裁きによって敵は滅び去ります
ギメル 神は悪しき者を滅ぼされる
ヘイ 神は敵を滅ぼし消し去る
ワウ 世界を正しく裁く神をしえたげられた者たちは信頼します
ザイン 弱い者の叫びを聞かれる神を賛美せよ
ヘイト 私を助けてください、そうしたら賛美します。
第二部 悪しき者を裁かれる神への信仰告白と裁きの求め (9:15〜20)
テイト 悪人が自分の罠にかかるのは神の裁きによる
ヨッド 悪人は神に忘れさられる
カフ 弱い者は神に忘れられることは無い
? 主よ、悪人を裁いてください
第三部 苦悩の告白と助けを求める叫び (10:1〜18)
ラメド なぜ苦しみの時に隠れられるのですか、主よ
?? 悪しき者は高慢になり、神を否定する
コフ 主よ立ち上がってください (ターニングポイント)
レシ 神は見て、弱い者を助けられる
シン 神は悪しき者を砕かれる
タウ 神は弱い者のために裁きを行ってくださる
神への賛美と信仰告白で始まった9篇も、現実の苦難の中で絶望感を味わうようになる(10篇)。しかし、悪しき者の言葉を考えたとき、詩人の中にそれに反発しもう一度神に信頼する心が生まれて来た。
信仰は、微動だにしないものではなく、苦悩の中での戦いである(小林師)。苦難の中で私たちが倒れそうになったとき、悪魔が勝ち誇っている。それに対し、「いや、神がそのままでおられるはずはない」と、信仰によって戦おう。神は弱い者にそうする力を与えて下さるお方である。