個人的な苦難(敵など)の歌ではなく、おそらく夜空を見ながら歌われたであろう賛美。創造主への賛美と人間の神学的考察からなる。
「ギテトに合わせて」、ギテトは意味不明。酒ぶねと関係があるという説もあるが不確か。「合わせて」は6篇の表題で「(『第八』)に合わせて」とあるのと同じ前置詞で、楽器もしくは曲風を示すと思われる。
「主、我らの主よ」の、最初の主は固有名詞ヤハウェのこと、次のは一般名詞の「主」。賛美の最初に神に語りかけている。詩人の信仰は個人的(3節)であると同時に共同体的。使徒信条を参照。
「名」は神ご自身を指す。神の名が全地において知られ、誉め称えられているのは、すなわち神ご自身が崇められていること。
「なんと」は感動詞。原文では呼びかけの後に、これが最初に来る。直訳すると、「なんと大いなる事でしょう、あなたの名は、全地において」。
「大いなる」は大きく、威厳がある様子。自然(大波や大木)、人間(王、王国)にも使われるが、神の威厳は全地に広がっている。
「あなたは」は代名詞ではなく、関係詞が使われているが、詩文では珍しい。
「天の」は前半の「地」と並行な関係に置かれている。天においても地においても、すなわち全世界において神の偉大さが現れている、ということ。
「置かれました」は原文では命令形もしくは不定詞。一見文脈と合わないため、古代訳に合わせて変更が試みられてきた。しかし、詩文においては時制は散文よりも自由に用いられること、人称も一つの文の中でさえ変化する場合があること、などを考えれば、関係詞の中で周りと違う時制が用いられるのは不自然ではない。
難解な箇所。各邦訳も苦労している。口語訳は「みどりごと、ちのみごとの口によって」を前節と結びつけ、「誉め称える」という動詞を補っている。新共同訳も似ている。新改訳は直訳に近い。前半と後半を切り離すのではなく、子どもの賛美と様々な敵とのコントラストが意識されている、と考える方が良い。
「幼子と乳飲み子」はどちらも子どもを指す言葉だが、後者は「(母の乳を)吸う」という動詞から出来た名詞。もっとも弱い存在の声によってさえ、神は御力を確立し得る。天地に表された神の栄光を見た子どもたちの素直な賛美の声に打ち勝つことは出来ない。
「力」は「砦」と訳すこともあるが(詩篇59:18)、通常は「力」でよい。子どもの賛美(あるいは乳飲み子なら賛美ではなく泣き声)をもって敵を打ち破る力を発するのは、人間的には不可解だが、弱い者を用いることで神の栄光が表されることを考えればあり得ないことではない。
「あだ」、「敵」、「復讐する者」はどれも敵を意味する語彙。「あだ」は6:8の「縛り付ける者」で、7章でも2度出てくる。「敵」も3章、7章で使われているが、「復讐する者」は詩篇では始めて現れる。
「絶ち滅ぼす」は「安息日」の語源となった動詞。「止める、休む」と訳すことができるが、敵に対してなので「絶ち滅ぼす」。
マタイ21:16でキリストが引用されているのは、この節のギリシャ語訳から。敵(律法学者達)の批判を子どもの心からの賛美の声によって封じ込めた。
「まことに」は理由を表す「なぜならば」や時間を表す「時に」と訳すこともできる。口語訳はこれを「(見る時に」と理解し、原文にはない「思います」を補っている。
「わたし」によって、これまでの三人称から一人称に代わって、新しい段落に入ったことがわかる。2節までが祈りの前提としての賛美で、3節からが祈りの本題。
「(あなたの指の業なる)天」は正確には「(あなたの指の業なる)あなたの天」。
前節までで神の作られた全世界を見ての賛美がポイントであったが、ここから特に天の星に注目する。
「人間」と「人(の子)」は違う言葉。前者はエノシュ、後者はアダムで、ほとんど同じ意味で使われるが、エノシュは「弱い」という動詞から、アダムは「土」という名詞から派生した名詞。どちらにしても人間の弱さ・はかなさが天地を作られた神と対比されている。
「人の子」はアダムの子孫、すなわち人類一般を指し、特定の意味はない。後にダニエル書の中で「人の子のようなもの」がメシアを意味するようになる。キリストは御自分をダニエル書の意味で「人の子」と呼ばれた。ヘブル書2章では4〜6節を引用して、キリスト論に結びつけている。
「御心を留められる」は「覚える」という動詞で、私のような小さな存在を忘れることなく覚えていてくださるということ。「これ」は字義通りには「彼」。
この節は答えを求める意味での疑問文ではなく、驚きを表す表現。その驚きが賛美の元となっている。
「そして」で始まるのは詩文としてはまれ。前節とのつながりが強いことを示し、前節の驚きの原因が述べられている。
「神」はエロヒームで、神々とも訳せる。人間が神よりも少し低い、つまり神が人間より少し高いだけ、というのは神に対する冒涜につながると考え、ユダヤ教の伝統ではこれを神的な存在、すなわち天使と解釈することもある。しかし、創世記で「神のかたち」につくられたことを意味すると考えれば「神」とすることは無理ではない。また、そのほうが前節の驚きが増し加わる。
「かぶらせました」は「冠をかぶらせる」と言う動詞で、日本語になりにくいため、新改訳は「栄光と誉れの冠をかぶらせ」と名詞を補っている。
どの訳も大差ない。文法的にも問題は無い。神学的な問題はヘブル2:8参照。 「あなたの手のわざ」の「わざ」は3節と同じだが、「あなたの指」と「あなたの手」が違う。意味は同じ事。
「足の下におく」は「支配させる」と同義。「あなたの手のわざ」と「全てのもの」も同じ事。前半、後半は明らかな並行関係。
「自然界の支配」は創世記1:26、28に由来し、人間全般について語られていることだが、特に王は国を支配することを通して神がその支配を委託しておられることを考えさせられる。神は小さな人間を、忘れないばかりでなく、自然界の支配を託される、これが4節の驚きの原因である。
6節で神が人間に治めさせる全てのものを具体的にあげている。
「羊の群」は単数形で群れを表す。「雄牛たち」は男性単数形。
「その全て」は羊と雄牛を受けて男性形(彼らの全て)だが、羊や牛に代表される家畜全般を指し、後半の「野の獣たち」と対比されている。
「鳥」は単数形だが、しばしば複数を表すことがある。英語でも魚や羊は単複同形。
「海の道を通うもの」は何であるかは不明。レビヤタンのような伝説上の存在か。
1節前半と全く同じ。賛美歌の「くりかえし」のような用い方。詩文において、最初と最後に同じもの(単語、あるいは文節)をおいて全体をひとくくりに結びつけるのはヘブル詩ではよくある技法(エンベロープ)。ここでは神を崇めて始まり、神を崇めて終わる、賛美の歌に相応しい。
1〜2 神への賛美 (合唱)
3〜8 人間とは何か (独唱)
9 神への賛美 (合唱)
括弧書きのように、合唱・独唱ととらえる(グンケル)のも面白い理解で、後の時代にこの詩篇が集会において用いられるようになったときにそうであった可能性もあり得る。
「人は」を「私は」に置き換えて読む。取るに足らない小さな存在である私を神様は覚えていて下さり、大切な使命を託しておられる。だから、決して無意味な存在ではなく、神の前に素晴らしい存在とされている。
ダビデは敵に追われ、困難の中にいたとき(3〜7篇)、夜中に野宿していて、星空を見上げ、「この偉大な神が自分に目を留めてくださった」と、慰められ、力づけられただろう。それがこの詩篇がこの位置に置かれている意義である。気落ちするとき、星空を見上げ、この詩篇を口ずさみたい。この広大な宇宙を作られた神様が私を愛し、目を留めていてくださることを覚えよう。