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第七篇

苦難の中で救いを求める切実な祈り。自己義認だと第三者がそれを批判するのは簡単だが、その真剣さに耳を傾けたい。

私訳と注釈

表題

ダビデのシガヨン、彼がベニヤミン人クシュの言葉について主に歌ったもの。

「シガヨン」はここだけに出てくる用語で、意味は不明。

「ベニヤミン人クシュ」も聖書の他の箇所には出てこない。サウル王(ベニヤミン族、キシの子)か、サウルの一族(少なくとも部族は同じ)でダビデに敵対する者か。内容からダビデがサウルに追われた時の事とする節が有力だが、確かではない。息子アブサロムに追われた時もサウル一族のシメイがダビデを呪いながら追いかけた(第二サムエル16章)。「クシュ」は普通エチオピア人を指す。

「言葉」は「こと」とも訳せる。「クシュ」が言ったか行ったかしたことに関して造られた詩。


1節

主、わが神よ、私はあなたのうちに身を避けます。
私を追い迫る全ての者から救ってください、そして私を救い出してください。

「身を避けます」は「避けどころ、隠れ家を求める」という意味で、危機における避難所とすること。神に対して用いられる事が多く、詩篇でよく使われる言葉。神に対する信頼の表現。

「救ってください」は救いに関して最も良く用いられる動詞。名詞化すると「救い主」。

「救い出してください」は「引っぱり出す」イメージの動詞。

「追い迫る全ての者」が具体的に誰のことかは分からない。必ずしも荒れ野で敵対者に追跡されているとは限らず、抽象的な意味で迫ってくる存在かも知れない。「から」は直接的には「救ってください」と結びついているが、「救い出してください」にも関わっているのは明らか。「追い迫る者」は複数形ではなく単数形なので、直訳すると「あらゆる追い迫る者」。次節ではこの単数形を受けて「彼ら」ではなく「彼」となる。


2節

さもないと彼はライオンのように私の魂をかき裂く、
取り去る者、しかし助けてくれる者はいない。

「さもないと」は前節とつながり、神が救ってくださらないと自分は滅んでしまう、と訴えている。

「かき裂く」は多くの場合動物のイメージを用いて敵(時には神)の恐ろしさを示す詩的表現。

「私の魂」は霊的・内面的存在だけでなく、全人格(私自身)を指す場合もある。ここではライオンのようにかき裂くのは抽象的表現だから、「魂」であっても問題はない。 「取り去る者」は分詞で、「彼は(私の魂を)取り去る」ということだが、主語も目的語も示さないことで緊迫感が感じられる。この動詞は「(動物などの口から)救い出す」という意味でも使われることがあるが、この後の「救う者ではない」というフレーズと結びついてその可能性は否定される。

「助けてくれる」は「助ける」という意味の一般的な動詞。これも分詞形で使われている。 1節、2節は詩人が緊迫した危機にいる姿を描き、この詩篇全体はそのような背景で理解されるべきである。


3節

主、わが神よ、もし私がこのことをしたのでしたら、
もし私の両手の内に不義なことがあるのでしたら、

「主、我が神よ」は1節と同じ。ここから新しい段落に入ると理解して良い。

「このこと」が何を意味するのか。前節にあるような残虐な行為を詩人自身がしたということか、前節の敵の行為が詩人に起因しているのか。むしろ、ここではまだ明示されていないが、徐々に示されていく、と考える方が良いことは、条件を示す言葉が次節まで続くことから分かる。

「両手」は「手のひら」の双数形(ペアになっている二つのものを示す形)。

「不義」は行いにも言葉にも使われるが、ここでは「手」と関連しているので正しくない行為。


4節

もし私に善をもって報いる者を悪をもって私があつかったのなら、
(まことに私は私に敵対する者を見返りを求めず救いました)、

「もし」は前節からの続き。

「善をもって報いる者」はシャーラムという動詞の分詞形だが、この動詞はシャローム(平和)の元となった語なので、「私と平和の契約を結んだ者」、すなわち「私の友」と理解する訳も多い。シャーラムの元々の意味は「完全にする」で、相手の行為に対し報いる、の意味で、良い場合にも(報いる)、悪い場合にも(しかえしをする)用いられる。この場合、相手の良い行為に対して悪いことをすると理解するのが文脈から言って正しい。

後半は「もし」がなく「そして」という接続詞で始まるので、この「そして」が「もし」の代わりに使われていると理解して、詩人が(仮定的に)悪いことをしたと考え、「ゆえなく敵のものを略奪した」(口語訳)と理解されることが多い。英語の欽定訳のように良い意味で理解することも可能で、その場合、挿入的に訳す。「そして」は「まことに」と訳することもできるし、「しかし」としても良い。

「救いました」は(文法的にはワウ継続未完了という)詩文よりも韻文でよく使われる形なので、ここだけトーンが変わったように感じられる。6:5に同じ動詞が使われる。「救う」という動詞のひとつ。

「敵対する者」は単数形で、サウルに対するダビデの行為のことか。6:8で使われている語。

「見返りを求めず」は否定的に訳すと「空しく」と訳される。ここでは良い行為に対してだから報いが無いさまを表すと考える。


6節

敵に私の魂を追わせてください、
そして追いつかせ、私の命を地に踏みつけさせ、
わたしの誉れを塵に伏せさせてください。
[セラ]

4、5節の「もし」に対する帰結。4つの動詞はどれも「(彼に)させてください」という三人称に対する命令形。神に対して語っているので、神が詩人をそのように扱って構いませんという意味。

「敵」は前節とは違う語。分詞形だが、多くの場合名詞として用いられる。

「私の魂を追う」は1節、2節の表現をコンパクトにまとめている。

「追いつかせ」は目的語が書かれていないが「私の魂」であるのは自明。

「踏みつけさせ」は「追う」、「追いつく」につづいてさらに酷いことをされるという段階的に進んでいく表現。「命を」は詩人が敵に殺されることだろう。

「わたしの誉れ」を、「名誉の座する人間の内部」の「もっとも貴い部分」と解釈して「魂」とする訳もいくつかあるが、前半の「魂」とは別の言葉。

「塵に伏せさせて」は、日本流には「泥を塗る」と理解することもできるが、直前の「命を地に踏みつけ」からさらに一歩進み、生前に持っていた名誉すらも踏みにじらせる、という事。

「セラ」は意味不明だが、ここでは区切りとなっている。


6節

立って下さい、主よ、御怒りをもって、
私の敵の憤りに向かって立ち上がってください。
私のために目覚めてください、
さばきを命じて下さい。

前節までの仮定的表現は、もちろん事実はそうではないことを意味し、ここからは、「もし何々ならばこうなっても構わない」から「そうではないのだからこうしてください」と本当の求めを述べている。

「立って」と「立ち上がる」は別の動詞だが、大きな違いは無い。

「御怒りをもって」は敵の「憤りに向かって」に対抗する意味で。

神の「さばき」、すなわち正しいさばきを求めている。

「命じてください」は他の動詞のような命令形ではなく完了形だが、おそらく強調のために語尾に置いたので形も変えられてのであって、命令的な意味は同じである。


7節

そして民の会衆をあなたの周りに集わせ、
その上の高き御座に帰って来てください。

「民」は異邦人を指す場合もあるが、ここではイスラエルの民。「会衆」は民の中でも聖なる集いに参加したり、戦いに出ていく者たち。ここでは神の裁きの場に集められている。

「帰ってきてください」は、神の正しいさばきを行ってください、という求め。


8節

主よ、もろもろの民を裁いてください、
私を裁いてください、主よ、
私の義と私の誠実とに従って、私を。

「もろもろの民」はイスラエルだけでなく全ての国民。

「裁いてください」が二回出てくるが、違う言葉を使っている。詩文における豊富な語彙で単調にならないようにしている。

「私をさばいてください」は、自分だけをさばきから免除するのではなく、神の正しいさばきによって、現在受けている不当な処遇、すなわち正しく生きているにも関わらず苦しめられている状態を裁いて欲しいと願っている。

「誠実」は「完全、全体、健康、傷の無いこと」を意味する言葉。「キリスト者の完全」の概念にも用いられ、完全無欠ではなく、成熟した姿。「全き」と訳したい。


8節

どうか邪悪な者たちの悪を終わらせ、義なる者を堅く立たせてください、
心と思いとを吟味してください、義なる神よ。

「邪悪な者たち」が複数形で「義なる者」が単数形だが、これは詩人の敵たちと詩人(一人)のことを言っていると考える必要は無い。詩文におけるリズムを整え、並行関係を強めるための技法。

「吟味する」は調べ、試験すること。

「心と思い」は共に複数形だが、前者は男性形、後者は女性形で、バランスをとっている。「思い」は本来内臓の意味だが、そこに感情の座があると考えられていた。神は人の心の奥底までメスを入れ調べるお方である。

「義なる神」は、名詞節として「神は義である」と訳することもできる。


10節

私の盾は神にある、心の正しい者を救われるお方に。

「盾」は戦いにおける守りであり、神は苦難に置いて、また神の裁きの座において、自分を守ってくださるお方だと、詩人の信仰が表明されている。

「正しい」は真っ直ぐであること。


11節

神は義をもって裁かれるお方、また日ごとに憤る神。

「憤り」は「義によるさばき」と結びついた、罪に対する怒り、義憤。


12節

もし悔い改めないならば、
彼はその剣を研ぎ、その弓を張って、それを構え、

この節では主語が曖昧だが、前後関係から理解できる。

「悔い改めない」のは一般的な「人」。その他の「彼」は神を表す。


13節

その者に向かって、死の武器を構え、その矢を燃えるものとされる。

ここでも最初の「彼」は前節の悔い改めない人で、他の「彼」は神。

「構え」は前節の終わりと同じ動詞だが形を変えてある。

「死の武器」は具体的には分からないが、確実に死に至らせる武器か。


14節

見よ、彼は邪悪をみごもり、災いをはらみ、偽りを生む。

「みごもり」は「身をよじる」が直訳だが、後の二つの動詞と合わせて、悔い改めない者が罪を犯していく様を描いている。


15節

彼は穴を掘って、それを深くし、自ら掘った穴に落ちる。

次の節と合わせ、人間の罪は自分自身に害を及ぼすことを描いている。


16節

彼の災いは彼の頭に帰り、彼の暴虐は彼の首(こうべ)に下る。

ここでも同じ意味を違った言葉で述べている。


17節

私は主を彼の義に相応しく賛美し、
いと高きお方、主の御名を誉め歌おう。


構造

1〜2 詩人の苦難:迫り来る敵
	3〜5 詩人の訴え:もし罪があるなら
	6〜9 詩人の願い:神の正しいさばき
		10〜11 神は正しいものを守られる
		12〜13 神は悪しきものを倒される
			14〜16 悔い改めない者の災い
17 神への賛美

メッセージ

敵が迫り死を感じる中で、詩人は神に必死で訴える。それは傲慢な自己義認ではなく、神に対して真剣に生きてきた詩人の、義なる神への信頼。また罪を犯し続ける者を悔い改めに促している。

誰も神の前には正しいとは言えない。でも、だからと言って罪に甘んじる生き方は御旨ではない。救いとは神が義と認めてくださったことだから、その義に堅く立って、正しさを求める者でありたい。神の義はさばきであると同時に、私たちの救いでもある。



(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/09
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