自分の受けている苦しみが神の怒りによるものだと思った時、詩人の嘆きは頂点に達した。そこからどのように神への信頼に立ち返ることが出来たのだろうか。
本篇はいわゆる「嘆きの詩篇」(個人の嘆願の詩)で、感謝や賛美は見受けられない。古い時代には「悔い改めの詩篇」と考えられたこともある。しかし、罪の懺悔というような要素は見られず、むしろ、詩人が神への信頼に立ち返ったことを歌っている。
「指揮者」、「弦楽曲と共に」、「ダビデの賛歌」は4篇と同じ。正確な意味は不明。
「第八」は数詞。口語訳は固有名詞として発音通りに「シェミニテ」と訳す。新改訳は「八弦の立琴」(文語も同様)、新共同訳は「第八調」と訳す。英訳の中には「オクターブ」の意味に理解するものもある。
「あなたの怒りをもって」に対する否定に強調点が置かれている。文法的には他の日本語訳のように「あなたの怒りをもって、私を責めず」(口語)が正しい。しかし神に叱られること自体を避けているのではない。教訓的な意味でそうされることなら受け入れられる。それは愛が背後にあるから。ここでは神の怒りが動機であることを恐れている。神の怒りによって死んだ(死にそうになった)例は旧約にいくつもある。
「怒り」は「鼻」、「憤り」は「熱」と関係する語で、どちらも怒りを意味する。
「叱る」と「懲らす」は、それぞれ「裁判を下す」、「訓練する」の意味もあるが、二つが並行して使われることで同類の意味として使われていることが分かる。
「憐れむ」は「好意を示す」「慈悲深い」こと、特に神が弱い者や貧しい者に対して。今の自分の弱さに対して、寡婦やみなしごに対するように憐れみをもって臨んで欲しいとこいねがっている。
「弱る」は草が萎れるようすにも用いられる。
「おののく」は恐れによって震えるようす。新改訳、新共同訳は「恐れおののく」。肉体的な病気ではなく、神の懲らしめによって弱っている姿を示す。
「私」と「私の骨」が行の最後に置かれているのは、強調であるよりも音声的に並行関係を強めるため。
どちらの行も接続詞「そして」で始まっているが、ヘブル詩としては異例。この場合、接続詞としてよりも、強調的に「〜もまた」と理解するほうが良い。
「私の魂」は前節の「私の骨」に対応して。「魂」は非物質的な霊魂ではなく、体の内部にあるもので、命、欲望、感情、自分自身などさまざまに訳される。「骨」も「魂」もその人の存在全てを示す意味で用いられている。「苦痛時における自己の表現」(小林師)
「おののく」は前節と同じだが、「ひどく」という語が付け加えられて前節よりも発展している。
「ああ」は原文にはないが付け加えた。後半は動詞もなく、意味も明確ではなくなって来ていることで、詩人が叫んでいるかのように見えるから。
「あなた」の前にも接続詞が置かれているが、意味が通るようには訳しようがない。「私の魂も」を受けて「あなたも」と言いかけ、言葉を失ったかのようである。
「いつまでですか」は詩篇によく使われる表現で、苦しみの中での叫び。苦難が何時までも続くような絶望感を表す。終わりが無いように思えることが詩人の苦しみを倍加させる。
「戻ってきてください」は「帰る」という語だが、神が遠く離れているから帰ってきて欲しい、そして怒っている状態から慈しみの神に戻って欲しいということ。
「助け出して」は「引き抜く」「脱ぐ」などの意味の動詞だが、詩文では「助ける」として使われることが多い。苦しみの状態から外に引き出す、というイメージ。
「救って」は「救う」「解放する」などの意味で使われ、救いを表す動詞では中心的な語。
「恵み」はヘセド、神の愛を示す語のひとつで「契約の愛」「変わることのない愛」と説明される。詩人は神の不変の愛に訴えて救いを願っている。
「からです」。この節は理由を示す接続詞で始まる。前節の救いの求めの理由を述べている。詩人がどのような苦難を受けていたかは不明だが、死ぬことも考えられるほどの苦しみであったようである。
「あなたを覚える」は「記憶する」というより賛美への前段階として神を思い起こすこと。
「ものはない」は「者」と考えて死者の中にはそのような者はいない、という意味。「覚える」は名詞(『死の中にあなたの「記憶」は無い』)であるので、「こと」と訳すこともできる。その場合、「死においてはあなたを覚えることはない」。後半で「誰」としているので、抽象名詞よりも人格的に訳すほうが良いだろう。
「陰府」は「シェオル」で、死者が行く場所。この時代は天国・地獄という考えはまだなく、死んだものは一律にシェオルに行くと考えられていた。暗く寂しい場所で、そこから生きる者の地へ戻ることは出来ない、希望のない所。
「誉め称える」は「感謝する」とも訳され、元々は「投げる」の意味で、神に感謝や賛美を投げかけること。
「死んでしまったら神を賛美することはできない」という言い回しは詩篇の中でよく使われ、「だから死なないように助けてください」という、救いを求める根拠とされている。詩人はそこに救いの可能性を求めたが、彼の嘆きはなおも続く。
「疲れ果てる」は「苦労して働く」、またその結果「弱くなる」ことだが、詩人は苦難の故に夜通し嘆き、弱り果てている。
「ふしど」、「しとね」はどちらも寝具を意味する。他にも「寝る」という動詞から派生した名詞もあり、具体的にどれが何を意味するかは文脈による。
「漂わせ」は「泳ぐ」の使役形で「泳がす」。涙が川のように流れてベッドが漂っている、という詩的な誇張表現。
「私の涙」は直接は「濡らす」にかかっているが、「漂う」にも「私の涙で」がかかっていると考えて良い。省略することで冗長にならないようにするのはヘブル詩の特徴の一つ。
「私の目は憂いによって衰え」は同じ表現が詩篇31:10にある。「憂い」は通常「腹立ち、怒り」と訳される語だが、詩文では「憂い」と訳されることもある。前節までの流れから、ここは「憂い」とするほうが良い。
「苦しめる者たち」は「縛る、狭くする」という動詞の分詞形(男性複数)。「敵」を意味するのは明らか。この節で始めて敵の存在が言及される。
「さらに衰える」は原文では「動く、前に進む」。
「離れ去れ」は「向きを変える」。今までは詩人に害を与えるために近づいてきた向きを変えて、離れ去るように命じている。
「聞く」は、人間が神に「聞く」場合は聞き従うの意だが、神が人間に聞かれるのは祈りを聞き入れてくださること。1節では怒りの神と感じていたのが、ここでは祈りを聞いてくださるお方、と信頼を取り戻している。
「聞いてくださった」は前節と同じ動詞。こちらは完了形だが、時間的違いを強調しているのではなく、この節の最後で「受け入れてくださる」が未完了形であるのとバランスを取っている。
「願い」は2節の「憐れみ」と関係する語で、憐れみを持って好意を示す、あるいはそれを求めること。
「敵」は8節とは違い、敵を意味する普通の名詞。
「ひどく恥じておののく」は、「恥じて、ひどくおののく」と訳しても良いが、「恥じる」と「おののく」がセットで使われているのでひとまとめに訳した。(「打つ」と「叩く」から「打ち叩く」)。「ひどくおののく」は3節と同じ表現。これまでは詩人がおののいていたのが、今度は敵がおののくようになる。神が祈りを聞かれて彼らに対して怒られるから。さらに高慢であったが故に「恥じる」ことが加えられる。
「たちどころに退いて恥じる」も「退いて、たちどころに恥じる」としても良いが、ひとまとめとした。「退く」は4節で「戻ってきてください」と訳しているのと同じ語で、敵が下の所に帰っていくこと。
1〜3節 神の怒りによる苦しみ
4〜5節 救いの願い
6〜7節 詩人の嘆き
8〜11節 神による救いの確信
苦しみが神の怒りによるのではと思うとき、私たちの心は絶望に陥る。憐れみを願い求めつつも苦難が永遠に続くかと思いこむ。遠くにおられる(と思っている)神に救いを求めても問題はなかなか解決しない。詩人は涙のただ中で、本当の敵は神ではないことに気が付く。そのとき、神の恵みにもどって祈りが聞かれる確信を取り戻した。
私たちにとって敵とは、目に見える誰かや何かではなく、私を縛り付けるもの(7節)であり、神から目を引き離そうとしている。それは「罪」であり「悪魔」である。それを振り払い、祈りを聞かれる神に目をとめよう。