敵に囲まれている状況で詩人は助けを求めている。一見神による報復を求める祈りに思えるが、それよりも神の義と恵みが表されることを求めている
「聖歌隊の指揮者」は4篇と同じ。
「笛に合わせて」は、4篇とは違う前置詞。曲に合わせて、楽器に合わせて、などの可能性が考えられる。前篇で「曲」としたのでここでは楽器。「笛」は複数形。
「ダビデの賛歌」も4篇と同じ。
「私の言うことにです」は通常の位置(2番目以降)ではなく文頭に置かれ、しかも詩全体の最初であるから、強く強調されている。日本語では文頭の位置の方が自然であるため、「私の言うことを」とすると強調のニュアンスが伝わらない。かといって「耳を傾けてください、私の言うことに」と倒置すると動詞の方に強調が置かれるため不可。ここでは文章としては破格だが、言い切りの形で表した。詩人の沈痛な叫びが聞き取れる。
「耳を傾けてください」は「耳」と同根の動詞の使役形命令で、「聞いてください」(シェマー)と同義、よく並行関係で用いられる。しかし、単純な「聞く」よりも、まず自分のほうに耳を向けて欲しいという切実さを表しているのかもしれない。
「理解してください」(ビーン)を「聞く」という動詞と組にして用いることは珍しい。「聞き分ける」とも訳せるので新共同訳は間違いではない。ここでは単に聞いて欲しいのではなく、理解し、聞き届けて欲しい、ということ。
「私の呻き」は「つぶやき」(ぶつぶつ言うこと)とも訳せるが、旧約では否定的意味でも使われるので、詩人の苦しみを表す「呻き」を訳語にした。最初の「言葉」が言葉になった詩人の祈りであるのに対し、「呻き」は言葉にならないものとも考えられる。だが、二種類の祈りを指し示すのではなく、どちらも心からの叫びとしての祈りである。
「良く聞いてください」は注意して聞くこと。
「叫び」は詩篇やヨブ記でよく使われ、苦しみの中からの叫び求め。
「私の王」は人間ではなく、「私の神」と並列されている。接続詞「そして」で繋がれているが、日本語としてはない方が自然。
「あなたに」には接続詞キイがついていて、「なぜなら」と理由を示すとも考えられるが、「まことに」「実に」と訳す方が良い。
「祈っています」は未完了形で、ここまでは全て命令形。現在の状況として語っている。
「朝」と書かれていることから、5篇を「早朝の祈り」と名付ける者もいるが、不明。あるいは夜通し祈ったあとの夜明けかも。
「聞かれる」は一般的な「聞く」(シェマー)だが、ここでは祈りを聞いてくださること。
「私の声」は前節の「(我が叫びの)声」と同じ。
「朝」が繰り返されていて、何らかの強調が意図されている。
「整え」は何かを並べること。ここでは目的語が明示されていないため、様々な推測がなされてきた。動物の犠牲を整える、と考えて、礼拝と結びつける説が多いが、礼拝用語としては主にレビ記などで使われる。詩人の訴えと用意する、と考え、神に自分の求めを訴え出ることと理解する者もいる。確実な答えは無いが、ここでは祈りそのものと理解する。
「並べる」は同音異義語で「見る」という語があるので、「仰ぎ望む」などと訳すものもある。新改訳の「見張る」は、礼拝の場所の見張りとして場所の準備か、心を見張る意味で内的な準備と理解できるが、やや苦しい。イザヤ21:5では「整える」と共に用いられ、目的語は宴会のテーブルあるいは敷物と明示されている。こちらも祈りを並べると理解する。神が朝聞いてくださるのだから、自分も朝、祈りの言葉を並べる。 4節から祈り(または訴え)の内容が並べられている。
「決して」はキイ、理由を表すこともできるが、ここは「まことに」と強調の意味。
「喜ぶ」は動詞ではないが、日本語らしくするため。直訳は「喜びの神」。
「悪」を人と考え悪人とすることもできる。新共同訳は「逆らう」と限定的に理解しているが、特にそうするべき証拠はない。
「あなた」は節前半の最後におかれ、やや強められている。
「宿らない」、寄留する、の意味。永住はおろか、寄留すらありえない。
「悪しき者」を抽象名詞と考え、新改訳では「わざわい」としている。しかし、ここでは倫理的な意味で「悪」。
「立てない」は直訳では「立たない」。神の前に立つとは僕としてか裁かれるものとして。ここは明らかに後者。
「高慢な者たち」は複数形。前節は単数形だったのから変化している。「高ぶる」はハーラル(賛美する)で、神に対して使えば賛美、自分に対してだと高慢となる。
「罪」と訳しているのは前節とは別の、アーベン。違うことではなく、同じものを表現を変えている。
前節よりも神のすることは強まっている。
「血を流し、だます者」は直訳すると「血の人、そして偽りの」、単数形。血の人は殺人者の意味。
「忌み嫌う」は宗教的用語。
「主は」と主語が前半の二人称から三人称に切り替わっている。詩篇では珍しくない現象。
4から6節は復讐の準備ではなく、神に呪いを求めているのでもない。むしろ、義なる神ならば、こうなる、という詩人の信仰(信念)からの言葉。
「しかし私は」は4〜6節の者たちと対比している。自分は正しいという主張ではなく、恵みによって近づくことが赦されている。「私」は強調形。
「慈しみ」はヘセドで、神の契約の愛。神の一方的な愛によって恵みを得ているのであり、自分の功績によってではない。
「あなたの家」は「あなたの聖なる宮」と同じこと。ソロモンの神殿が建てられる前はシロにあった聖所のこと。あるいは天にある神の住まい。
「伏し拝む」は「礼拝する」とも訳されるが、ここでは神の宮に向かってだからこのほうが良い。
「畏れ」は神への畏敬。口語の「かしこみ」も良い。
前半では「(豊かな慈しみ)によって」、後半では「(あなたへの畏れ)を持って」で同じ前置詞を使い、並行関係であることが分かる。神の慈しみに対して神への畏れを持つことが正しい関係。
「あなたの義によって」、あるいは「義の中を」。
「私を見張っている者たちがいるからです」は直訳では「私の敵たちの故に」。「敵」は詩篇の中だけで用いられ(5回)、新共同訳は「陥れようとする者」と訳す。「(注意して)見る」という動詞と関係があると推測されるので「見張る者」、恐らく悪意を持って見張っている。
「道をまっすぐにしてください」は「義の中に導いてください」と同じこと。
「なぜなら」と、詩人は8節の願いの理由として、敵たちの言葉によって惑わされそうであることを述べる。
「彼の」と単数形だが、詩文の中では単数と複数が交差することは珍しくない。
「堅く立つもの」は「真実」と訳されることが多い。
「喉は開いた墓」は、開かれた喉を通して出てくる言葉が死へと導く様。
「あり」は原文にはなく、「滅び」と「墓」は名詞節。
「なめらかに動く」は言葉巧みに偽りを言うことの表現。
「罪に定める」は悪人に対し有罪を宣告することで、正しい裁きを求めている。
「神よ」は珍しく、第一巻では「主よ」が多く用いられている。意味上の違いは無い。
「彼らを倒してください」はヘブル語独特の表現で三人称に対する命令形のような意味。「彼らをして倒らしめて下さい」。
「自らのはかりごと」は彼らが詩人に対して悪事を行おうと企んだこと。他の人にしたように神はその人にされるのは旧約聖書に見られる神の裁きの方法。
「追いやる」は例えば捕囚へと追われていくこと。
「反逆した」は親に対しては「反抗する」の意味で使われる。罪は、人に対する罪ではなく、神に対する反逆である。ここも復讐としてよりも神の義によるさばきを待ち望んでいる。「苦い」という言葉と同じ語源で、人の中にある苦々しい思い。
「しかし」は神に逆らう者への裁きに対して。
「避け所を求める」、神の内に非難する、つまり神を信頼して助けを求める者。
「喜ぶ」「喜び歌う」「喜びたたえる」は喜びを表現する様々な動詞。どれも三人称への命令形だが、普通の動詞として理解することもでき(新共同訳)、新改訳のように願望とすることも可能。
「守り覆う」は布を持って覆うこと。神の守りによってすっぽりと覆われる。
「御名を」愛するとは神御自身を愛すること。
「正しい」は義という言葉。「義しい」(文語)。
「盾」はいろいろな場面で用いられ正確な意味は分からない。
「好意」は意志、好意などを表す。「愛」(新改訳)は素敵な意訳。
「囲む」は盾によって四方を囲まれているイメージ。「冠をかぶせる」という意味もあるので、「恵みを持って冠とする」(詩篇65:11)と理解する者もいる。
1〜3節 祈りを聞いてください
4〜6節 義なる神は罪人を裁かれる
7〜8節 恵みによって導いてください
9〜10節 神に逆らう者たちを倒してください
11〜12節 神に信頼する者を守ってください
敵のただ中にあって怒りによる報復ではなく神の義が表されることを求める。かつ、自分が神に近寄らせて戴いたのは恵みによることを忘れない。神に信頼し避け所を求める時、神は守り覆ってくださる。