4篇には歴史的背景を示す表題は無いが、3篇と同時期と考える者もいる。内容的には特定の事件との結びつきは無い。3篇を朝の祈り(5節)、4篇を夕の祈り(8節)と呼ぶ。「確信の祈り」とも呼ばれる。
表題の中には正確な意味が分からない用語がある。「指揮者」は聖歌隊か礼拝のリーダーと推測される。「(のため)に」は「(ダビデ)の」と同じ語。指揮者に属するか、指揮者のために作ったのか、あるいは指揮者に対する指示(弦楽曲を伴奏とせよ?)か不明。この詩篇(第一巻)が礼拝で使われるようになった頃か編纂された頃かに付け加えられたのかもしれない。
「弦楽曲」は「音楽」もしくは「楽器を伴う曲」と思われる。
「賛歌」(ミズモール)は第3篇の表題を参照。
「呼ばわる」は神への呼びかけで、祈りのこと。自分の祈りを聴くように神に求めることは詩篇では珍しくはない。
「答えて」は応答するの意味、祈りに対して神が具体的に行動してくださることを願う。「呼ぶ」「答える」は3:4と同じ。
「我が義なる神」は直訳では「私の義、の神」だが、「私の、義なる神」の意味。神が自分に義(救い、勝利)を与えてくださる。
「解放する」は「広くする」で、苦難(ツァル)が「狭い」と同音異義語であることに掛けていて一種の言葉遊び。救って下さいの意味でつかわれている。「くつろがせる」(文語、口語)や「ゆとりをあたえる」(新改訳)も面白い意訳。文法的には完了形だが、動詞の完了形を命令形として使うことは詩文ではよくある。
「憐れむ」は「好意を示す」という意味で、「お恵み下さい」でも良い。
「聴いてください、私の祈りを」で1行目と同じ内容を言い換えている。
一行目は4語、二行目は3語、3行目は二つの文だが3語。段々短くなり、切迫した雰囲気を表現しているが、具体的な状況は語られていない。
1行目と2行目は同じ前置詞(時に)で始まり、同じ人称語尾(私の)で終わる点で関係している。1行目と3行目は類似する内容。各行の終わりは同じ(私の)で、1節が一つのまとまりになっている事を示す。
「人」は単数形だが、特定の人(アダム、アブラハム)ではなく一般的に「人間の」。「こら」と合わせて「人々よ」と同じこと。ただし通常の用語とは違うので、特別な人々(高貴な人々?)と考える学説もある。詩人の敵たちを指すが、ここは実際に敵に語りかけているのではなく、自分への励ましとなっている。あるいは、この節を神の語られる言葉と見ることも可能。
「栄光を侮辱に」は名詞節。栄光を侮辱にさらす、侮辱する、など動詞を補って捕らえる。「私の栄光」は詩人の社会的栄誉(王として?)よりも、彼の栄光である(3:3)神ご自身を指すとも考えられる。
「空しいもの」と「偽りもの」は並行していて、どちらも偶像を指す言葉。詩人を辱めること自体を指すとも考えられる。「愛する」と「探し求める」も並行。
「セラ」については第3篇参照。4篇では区切りとはなっていない。
「しかし」は前節での敵の侮辱に対して。
「敬虔な」は名詞ヘセドから出た形容詞で、神の愛を示すヘセド(前節の愛は一般的な愛)が「契約の愛」と呼ばれる、契約による神の民を愛し続ける愛に対して、その契約を正しく守る者を指す。
「聖め分かつ」は単に区別する(「見分ける」新共同訳)ことや区別して扱う(「特別に扱う」新改訳)ことを越えて、神の(働きの)ために分けられること。「聖別する」(口語)は通常カードシュが用いられるが、ここではパーラーが使われる。
「呼ぶ」ときに「聴かれる」ことは1節と同様。
この節も「知れ」と人々に語っているが、実際は自分自身への語りかけと考えられる。
「恐れおののく」は「震える」。神へのおそれだが、畏敬よりも、罪を犯す者の持つ神への恐れ。
「床の上で」は独りになる場所。神と一対一になって向き合うとき。
「自らの心に語る」は「考える」と同義。「黙せよ」も単に言葉を発しないことではなく、心の内で黙想すること。
2節から4節は主に二人称複数(「あなた達」)の動詞を使い、詩人の敵たちへの命令となっているが、4節では自分自身のデボーションが頭にある。敵に対する復讐ではなく反省を促す言葉と考える事もできる(小林)が、それと同時に、敵に語りかける形式を用いて、自分自身への戒め・励ましを語っており、さらには自分の仲間である信仰者たちへの奨励ともなる。
「義のいけにえ」は律法に沿って正しい方法でささげられた生け贄だが、正しい心をもって(つまり形だけではなく真心から)ささげる生け贄(詩篇51篇)、したがって神に立ち返り救いを願うこと。転じて正しい行いを指すのは後の解釈。
「そして」は時間的順序ではなく、二つが密接に結びついていることを示す。真心からささげる事は神への信頼と切り離せない。
「多くの者」は前節までの敵か、一般的な「人々」を指す。
「誰が」は明らかに神様以外にはいないので、「見せてください」と同じ事。
「良いことを見る」は神様の祝福に与ること。
「光」と「あなたの御顔」は並列されている。「御顔の光」としても間違いではない。
6節(前半?)は人々の言葉。それに対して詩人自身が語っているのが7節以下。「言う」は分詞形なので「語っている(が)」というニュアンスと考えられる。
「与えて下さった」は完了形。前節に続く命令形(「下さい」)と理解することも可能だが、6節とは主語が変わっている。「人々は(目に見える)祝福を求めている。しかし彼らの求める豊かな収穫に勝る喜びを神は私に与えて下さった」。
「葡萄酒」は「新しい葡萄酒」。
「それは」は本文には無いが理解を助けるために付け加えてある。
「共に」は誰と共にかが不明。神の共に、敵が共にいようと、か。
「平安」はシャローム(平和)。神が与えて下さる。争いや問題が無い状態ではなく、全てが充ち満ちている状態。健康、繁栄を意味することもある。
「臥し、そして眠る」は別々ではなく連続した動作。未完了形だが願望を意味することもある。その場合は「眠らせて下さい」。
2行目は「まことにあなたです、主よ、お一人です」と「あなた」が強調されている。詩人の心は神のみに向かっている。
「安心」は「信頼する」という動詞から出来ている名詞で、安心・安全などの意味。神に信頼するものは安心の内に住むことが出来る。「住む」は一時的ではなく永続的な平安があること。
1節 神への語りかけ−−苦難の中からの求め
2〜5節 人々への語りかけ−−信頼に向かっていく祈り
6〜8節 神への語りかけ−−信頼する者の平安
中盤は人々への語りかけだが、祈りの一部として神への言葉でもあり、また自分への励ましでもある。危急の祈りから人々への勧めに変わる中で、神への信頼に立ち返り、最後には信頼する者に神が平安を与えて下さると確信している。
敵への復讐を求めるのではなく、神への信頼を訴えるとき、詩人は確信に満たされた。まず自分自身が神に心を向けることが第一。その時に神からのシャロームが与えられる。目に見える祝福以上に神との交わりが豊かであることが恵み。