詩篇の多くは「嘆きの歌」。苦難の中での神への祈り。窮状を訴え、助けを求める。
3編から41編はダビデ集(第一集)。音楽家でもあったダビデ王の作った詩が中心。ただし、「ダビデのために」作られた歌とも考えられる詩も含むかもしれない。
表題は小さい字で書かれ、本文とは異なると考える説もある。歴史的説明を加える表題もあり理解の助けとなるが、詩そのものの内容が主役で表題は脇役。
「賛歌」は「(楽器を伴って)歌う」という言葉と関係する。一般的な「歌」とは異なるが、正確な意味は不明。
「アブサロムの前から」はサムエル下15〜17章が背景。ただ、ダビデはその生涯のほとんどの時、敵に囲まれていた。
「主よ」、苦難の中で『詩人』(この場合ダビデ)は何度も神に呼びかける。
「増えた」「多い」「多い」(2節)、敵の多さが不安の原因となっている。
1行目と2行目(さらに次節1行目)は並行関係。同じ事をさらに詳しく述べる。
「私に逆らって」は2:2の「(主と、油注がれた者に)逆らって」と同じ語。2篇の一般的な状況から3編は具体的な苦境。
「魂」は「霊」とは異なる語で、人間の内面もしくは全体を指す。
「(私の魂に)言う」は、敵が詩人に直接語りかけたのではなく(「彼の」と三人称)、彼らが陰で言っているであろうことを詩人が感じ取っている。新改訳・口語訳のように「私(のたましい)について」と訳すこともできる。
「救い」は苦難からの救い。「救いは無い」は、神の存在、神の救う力を否定するのではなく、救う神が詩人を見捨てたと嘲笑している。実際の苦難(敵対行為)だけでなく、神との関係までも否定される苦難。
「セラ」の正確な意味はまだ解明されていない。推測では、「休符」「(調子を、声を)上げる」などの音楽記号、「主を崇める」か「黙想」を示す礼拝用語、なんらかの「区切り」、古い伝承では「永遠に」。
「しかしあなたは」、敵が何と言おうと主は、という強い信頼を強調する。新共同訳の「それでも」は秀訳。
「私のための」は「私の周りの」という位置関係とも読める。「私の」(新共)でも良い。
「私の栄光」は神の栄光が私に付与されることで、2節に対する「名誉回復」。
「頭をもたげる」は、苦難・嘲笑の中で低くなった頭を高く上げてくださること、すなわち救いを示す。
3節は神への直接の語りかけだが、4節は再度三人称になる。
「呼ばわる」、叫ぶ。信頼しているからこそ声を上げて具体的に助けを求める。ここまでは完了形か分詞形だったが、ここでは未完了形が遣われる。習慣的行為としての過去の体験よりも「呼ばわる」ならば(必ずこたえてくださる)ということ。
「彼(主)の聖なる山」は、ダビデ以降はエルサレム(神殿)を指すが、地上よりも天上の御座を指す。
「呼ばわる」ならば「答え(て下さ)る」という絶対的な信頼関係。
「私」は強調、敵がいようと「私は」
主への信頼は敵に囲まれていても「寝る」ことができる平安な状態に現れている。
さらに「目覚め」も力に満ちている。「眠り」と共に肉体的もしくは霊的な状態を示す。
「から」は理由を表す。「まことに」と強調にも訳せる。
「主が私を支えられる」ことが平安の根源。
「幾万」は文字通りの数であるよりも詩的な表現。不安をもたらす「多い」(1、2節)よりも具体的だが、「主の支え」がある故に恐れの対象では無くなっている。
この節の終わりにも「セラ」があれば、区切り記号と考えられるのだが。
「主」と「我が神」が並行関係にあり、「立ち上がる」と「救い出す」も。二行目で「私」と救いの対象を特定している。一般的な救いから「私」の個人的救いの体験へ。
「立ち上がって下さい」は前節までの信頼に基づく求め(この詩篇で最初の命令形)。主が寝ている(列王上18:27)のではなく、早い実行を求めている。民数記10:35では戦いの歌。
「平手打ち」は直訳では「顎を」「打つ」。「顎」は単数なので、個々の敵の顎(複数)ではなく、「打つ」と一続きと考えている。辱めを与える行為。詩人に対する敵の辱め(2節)に対する神の裁き
3行目と4行目も並行関係だが、「平手打ち」から「(歯を)砕く」と神の敵への攻撃が強くなる。
この節は動詞を含まない。簡潔な叫び求めで祈りが閉じている。
「救い」は「勝利」とも訳される。
「もの」は日本語訳のためのつけたし。直訳は「救いは主に」。「に」は所属を示す。救いは主の主権による。
「(神の)恵み」は人間に対して与えられるが、「あなたの」恵みゆえ「あなたの」民に与えられる。詩人の神への信頼は個人に留まらず民全体に及ぶと信じている。
「セラ」が詩の最後にも出てくるので、途中の状態を示す言葉とは考え難い。
1〜2節 困難の訴え
3〜4節 神への信頼の告白
5〜6節 信頼による平安
7〜8節 確信に基づく祈り
1〜2節と7〜8節は互いに呼応している。詩人に逆らって「立つ」者たちを倒すために主が「立ち」上がって下さる。「救いは無い」という言葉に対し「救いは主にある」と反論する。全体の中心は「彼の聖なる山から私に答えられる」、祈りの確信である。
賛美は苦難の中で生まれる。どのような逆境であっても神に信頼するときに平安と希望が与えられるから。