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詩篇16篇

「喜びの秘訣」

私訳と注釈

表題

ダビデのミクタム。

「ミクタム」の正確な意味は分からない。「黄金の歌」、「贖罪の歌」などの説がある。

1節

私を守ってください、神よ、
まことに私はあなたの内に避けどころを求めています。

「神よ」という呼び掛けは詩篇の中で珍しくはない。ここでは「エル」という一般名詞の「神」が用いられる。他に「エル」の複数形でもある「エロヒーム」を唯一の神に対して用いる場合もある。

「まことに」は理由を現す接続詞「なぜならば」と訳す事もできる。自分が神様に対して助けを求めているのだから、助けて(守って)下さい、と訴えている。ここには、神は助けを求める者を救われるお方である、とも神観がある。

「避けどころを求める」は一つの動詞で、詩篇ではその名詞形「避けどころ」と共に頻繁に用いられる。

2節

あなたは「主」に言う、
あなたは私の主、
私の幸いはあなた以外に無い。

2節から4節は様々な論議を巻き起こすほどに難解な箇所。正しい意味を決定するのは現時点では無理だろう。したがって、以下の説明も暫定的である。

「あなたは言う」は通常一人称単数「私は言う」と解釈される。写本の間違いか、古い文法か、いくつかの理由が挙げられる(後述)。ここでは原文通りとして理解に努めてみる。「あなた」は二人称単数女性形で、具体的に誰かは分からない。二人称単数男性形もほぼ同じ形(母音の違い)なので、その可能性もある。その場合、直前の「二人称単数男性」は1節後半の「あなた(の内に)」で、前半の「神」を指していることになる。しかし、「神」が誰かに対して「あなたは私の主」と言うのは理解しがたい。特にユダヤ教の理解(厳格な一神教)では、考えられない表現である。キリスト教的理解(三位一体)でも、子なる神が父なる神に「主」と呼びかけるのは考えられるが、それがここに当てはめられるかは疑問。具体的に誰であるかは不明のままにしておいて、ここでは詩人以外の誰か(女性?)が主に対して信仰告白をしている。

「主に」の「主」は固有名詞ヤハウェ。正式の読み方は不明となっており、通常は、ここに来るとヤハウェの代わりに「アドナイ(主、我が主)」と読む決まりになっているので、日本語訳でも「主」と訳している。新改訳は太文字の「主」として通常の「主(アドナイ)」と区別している。

「私の主」は「アドナイ」なので、単に「主」と訳しても良い。人間の主人に対しては「アドニイ」と呼ぶので、この「アドナイ」は真の神に対してのみ用いるべき用語。「あなたは」は強調的位置ではないので、新改訳のように「あなたこそ」とする必要は無い。

「幸い」は「良い」という形容詞を名詞として用いており、いろいろな意訳が出来る。

「あなた以外にない」と訳しているが、これも難解な部分。文法的には「(私の幸いは)あなたに無い」とも訳すことが可能。だが、それでは前半の信仰告白と矛盾する。「無い」という言葉は主に詩文でのみ用いられる否定詞で、いかようにも理解できるので、むしろその後の前置詞の解釈がカギとなる。前置詞「アル」は普通「上に」という意味なので、否定詞がなければ、「私の幸せはあなたの上にある」となるので、それを否定すると前述のような理解となってしまう。アルを「越えて」と読む、あるいは「わきに」と読むと、「あなたを越えては(あなたのわきには)無い」ということで、「あなた以外には無い」という理解が出来る。また、「さからって」という意味もあり、その場合は「あなたに逆らっては幸せはない」、つまり、「あなたを離れては幸せは無い」という事になる。

最初の動詞を二人称単数女性と理解すると、これは1節での呼び掛けとは別になり、その場合、1節で詩人自身の、神に対する信頼の祈りが掲げられ、それがこの詩篇全体の主題となっており、2節から(多分3節まで)は違う話題を述べていると思われる。

3節

地にある聖なる者たちに、
彼らはまことに尊い者たちで、
私の喜びの全ては彼らの内にある。

この節を直訳することはほとんど不可能。どの翻訳も多少の変更や意訳がなされている。

「聖なる者たちに」は「聖い」という形容詞の複数形で、単数形(「聖なるお方」)は神に対して用いられる。複数形の場合、天使のような天的存在の場合も考えれるが、ここでは「地の上」なので、それ以外。伝統的には聖なる「人々」と理解される。神を信じ、従っている、敬虔な人々のこと。あるいは、(異教の)神々についても用いられる。「に」は「に対して」とも「に関して」とも解釈できる。前者とすると、2節で「ヤハウェに対して(あなたは)言う」があるので、それに続いて、今度は「聖なる者たちに対して」言っている、と考えられる。後者とすると、「地にある聖なる者たちに関して言えば、彼らは...」と読むことが出来る。

「彼らは」を前半と結びつけることも可能で、その場合、関係代名詞の理解が難しくなる。「彼らは地の上にいるところの聖なるものたちに」。すこし意訳して「聖なる者たちに、すなわち彼らは地の上になる」と読むこともできる。ここでは前半とは切り離している。

「まことに」は原文にはなく、代わりに接続詞がある。どの訳でもそれを接続詞(「そして」)としては訳していない。強調として「まことに」と読むか、翻訳では無視することが多い。

「貴い者たち」は形容詞の複数形で、最初の「聖なる者たち」とは違い、独立語ではなくて後半と結びついている。直訳では「彼らの内にある私の喜びの全ての貴い者たち」。日本語として理解し難いので、途中で区切った。「貴い」は自然(例えば、海)の大きさを現す場合にも使われ、王の威厳を指す場合もある。そこから貴族達をさすと理解することも出来る。「力強いものたち」として、「聖なる者たち」と同様に異教の神々と考えることも不可能ではない。

4節

彼らは彼らの痛みを増し加え、
他のものへと彼らは急ぐ、
私は彼らの血の注ぎものを注がず、
また彼らの名前を私の唇に上らせない。

この節もいくつかの困難がある。「彼らは」と「彼らの」が誰を指しているかが難しい。3節の「聖なる者たち」と考えると、4節では「彼ら」は悪い存在と考えられので、結びつけ難い。また、「彼らは彼らの」は「彼らは自分の」という意味か、あるいは「彼らは(別の)彼らの」なのかも不明。

「他のもの」は単数形。各日本語訳では「(他の)神」としている。そうだとすると、なぜ複数形(神々)としないのかが疑問。前の行を受けて、「(他の)痛み」と考えることもできる。その場合、複数から単数に代わるのは詩文として不自然ではないし、「痛みを増し加える」と「もう一つ痛みへと急ぐ」は意味的に並行している。では「痛み」とは何か。後半の内容から偶像礼拝を指すと思われる。それは、自分の身を傷つける宗教行為か、あるいは偶像礼拝者の心の傷を指すと意味している。

「急ぐ」は「急いで追いかける」ということだろう。

「注ぎもの」は動詞の「注ぐ」から出来た名詞。ヤコブが石に油を注いだこと、あるいは酒を神に捧げるとき、祭壇に注ぎかけること。ここでは「彼ら」の偶像礼拝の行為を指していると思われる。

「血の(注ぎもの)」は、酒ではなく自分身を傷つけ血を流す宗教行為。そのような異教の行為に加わらない。「(彼らの)名前」は、彼らが誰であるかによって決まる。偶像礼拝の神々か、そのような異教の習慣を行っている人々。前者なら、礼拝行為として、祈りのなかで神(々)の名前を呼ぶことだろう。後者なら、そのような人々と関係を持たない、ということ。

2〜4節

ここにはいくつかの難しい問題があり、完全な解決はまだ出来ていない。

疑問1. 2節最初の動詞の主語は「あなた」か、「わたし」か?

疑問2. 3節の「聖なる者たち」は、人間(聖徒たち)か、神々か?

疑問3. 3節後半は、前半と結びついているか、切り離すべきか?

疑問4. 4節の「彼ら」は誰を指すか?

疑問5. 4節の「他のもの」は、「ほかの神」か、「他の痛み」か?

1、2に関しては、日本語訳はどれも伝統的な立場(「わたし」、「聖徒」)をとっている。ただし、新共同訳は主語(わたし)を省略している。

3についても、各日本語訳は前半と後半を結びつけている。しかし、新共同訳は最初の「聖なる人々」の前置詞を2節の「言う」と結びつけている(「人々に申します」)。

4、5は、どの訳も「ほかの神を選ぶ(へ走る、を追う)者」としている。

他の可能性を考えると、次のような訳もありうる。

2節 あなたは主に言う、「あなたは私の主」
3節 (あなたは)神々に言う、「私の喜びは彼らの中にある」
4節 (しかし)私は偶像を拝まない

この場合、「あなた」はヤハウェを主と呼びながら偶像をも拝む人であり、詩人はその立場に反対している。

2節 「あなた(わたし)」は主に言う、「あなたは私の主」
3節 聖徒たち、貴い人々に言う、
4節 「私は偶像を拝まない」

この場合、「あなた(もしくは、わたし)」は主に対して信仰告白をし、人々に対して偶像礼拝を否定する勧めをしている。語っているのが「あなた」であっても、その立場は詩人と一致している。

5節

主は私の嗣業の分け前、また私の杯、
あなたは私の受ける分を支えられる。

「嗣業」はイスラエルの民が神から与えられた土地で、先祖代々受け継ぐべきもの。最初(ヨシュアの時代)にクジで公平に分けられた。レビ族だけは土地を与えられず、「主が彼らの嗣業」となった。それは、彼らが主に仕え、主への捧げ物の内から日々の糧を受けること。ここでは、詩人の、主への忠誠と、神の特別な配慮と守りを表している。

「杯」も嗣業と同じく、受けるべき物を意味する。

「受ける分」は「くじ」という意味で、くじによって分けられる取り分。戦いの時のぶんどり物の場合も用いられる。また、くじそのものと考えて、「運命」(新共同訳)と訳すこともできる。くじ引きの結果を支配しておられるのも主である。当時の人々は、クジを引くのは偶然に委ねるのではなく、神に決定を委ねることであると考えた。

4節の偶像礼拝に対して、詩人は「嗣業」に例えて主のみに従うことを述べている。

6節

測り縄は私のために喜ばしいところに落ちた、
まことに私の受けた地所は美しい。

「測り縄」は、普通の縄の意味でも使われるが、特に土地の大きさを測るために使われるもの。あるいは、それによって測られた土地。

「落ちた」という表現も、前節の「くじ」同様に、神が支配しておられることが前提。

「喜ばしいところ」は「好ましい、喜ばしい」という形容詞を名詞として用いている。ここでは「測り縄」と結びついて、土地を指している。

「まことに」は「また」とも訳せる接続詞。

「私の受けた」は動詞ではなく前置詞プラス「私」で、直訳すると「地所もまた私の上に美しい」。前半では「測り縄」と「喜ばしい所」が複数形で、後半では「地所」が単数形になっているのは、詩文において変化をつけるための表現法。

この節は5節と結びつけて考えるべきであり、詩人が受けたのは実は実際の土地ではなく、彼の嗣業となって下さった主のことを指して言っている。主こそ何より「喜ばしいところ」であり、「美しい地所」である。この節の「喜ばしいところ、地所」を神から切り離して理解すると、何でも自分の都合の良いようになる、という間違いに陥りやすい。

7節

私を諭してくださる主を私は誉め称える、
また夜ごとに私の心が私を訓練する。

「誉め称える」は、「ひざまずく」が原意で、神の前でひざまずき崇めること。転じて、神が人を、あるいは人が人を祝福する意味でも用いられ、さらに挨拶の意味でも使われる。ここでは人間から神に対してだから「誉め称える」が良い。

「諭す」は「助言する」で、名詞化すると「はかりごと」(14:6など)。

「訓練する」は「教える」の類義語として使われている。その意味で「諭す」と並行している。

「心」は「内臓」、特に「腎臓」を意味する言葉で、人間の感情を動かしていると考えられていた。「心」といったときに「心臓」を指さすのと似た考え方。ここでは「(諭される)神」と「(訓練する)私の心」が対立しているのではなく、「私の心」を通して語ってくださる神を考えている。

詩人が主を「我が嗣業、喜ばしきところ」と感じたのは、苦難の中で主が心に語りかけてくださったから。その意味で、7節(から9節)は5、6節の告白と結びついた賛美の言葉である。

8節

私は主を私の前に常に置く、
まことに私の右から私は動かされない。

「主を置く」とは、実際は自分が主の前にいること、主の臨在の前に座すること。神が嗣業となって下さるとともに、自分も神の前にいることを決心している。ここの「主」も前節の「諭してくださる主」である。そのお方を常に前に置くのだから、動かされることはない。

「私の右から」は通常、「主が私の右におられる」と訳される。「右」は「右手」として用いられ、力のある手、助け手などの意味を持つ。主従関係では主人が右に立つと考えて、自分の右手におられる神を指している。したがって、「私の右手、私の主であり、私の助け手である神の前から動かされない」ということ。

9節

それゆえ、私の心は喜び、私の栄光も楽しむ、
私の体もまた、安心して住まう。

「それゆえ」は詩的であるよりも論理的な言葉だが、それだけ詩人の喜びが強調される。その喜びの源泉は、主が共にいて下さること。

「喜び」と「楽しみ」は、どちらも「喜ぶ」という類義語。

「(私の)栄光」は直訳で、日本語訳では「たましい」と訳して「心」と並行させている。詩文においてのみ使われる用法。

「安心して」は、直訳すると「セキュリティーへと」。「住む」ことが安心に至っている、ということ。神による喜びに満たされているので、肉体も安心に過ごせる。「安心」は「信じる、信頼する」という動詞から派生した名詞。信頼しきっている姿。

10節

まことにあなたは私の魂を黄泉に捨て置かない、
あなたに忠信な者に滅びを見るようにされない。

「黄泉」(ヘブル語で「シェオル」)は死の世界。しかし、ここでは実際の死ではなく、前節までの喜びと安心の生活、動かされることの無い生き方と対極にある、死のような苦しみに満たされ、恐れおののく状況を指すと考えられる。

「捨て置かない」は、そのような状況に置いたままにしておかない、ということで、信仰者は一時的には苦難を受けるとしても、永遠ではない。

「あなたに忠信な者」は、「あなたにヘセドな者」であり、「ヘセド」とは神の愛。したがって、神の愛に生きる、あるいは神の愛を実践する人のこと。「聖徒」と訳されることもあるが、3節の「聖」とは違う意味。

「滅び」も死の類義語として「シェオル」と共に用いられる語。「滅びる」という動詞から出来た名詞で、「(滅びの)穴」とも訳される。

☆この箇所は使徒行伝2:25〜28と13:35で引用され、キリストの復活を預言していると説明されている。詩篇の中では、ダビデを含めた信仰者に関して、神の守りがあることを表現している言葉であり、直接は死者の復活を語っているのではない。しかし、旧約時代の常識によって制限されていた詩人(と、この詩を聞いた人々)の理解を超えて、神は詩人の口(筆)を通して、来るべきメシヤについて語られたのである。詩的表現を用いることで、人間的な限界を超えて神的な真理に触れることができたのである。

11節

あなたは私に命の道を知らしめ、
あなたの御前には充ち満ちた喜びが、
あなたの右の手には楽しみが永遠にある。

「知らしめ」は「知る」の使役形。教えてくださる、ということ。7節と結びついている。

「命の道」は10節の「黄泉、滅び」の反対語。しかし、単に「死ではなく生」ということではなく、神と共に生きる、生命に充ち満ちた生き方であり、忠信な者の生き方。

「御前」は直訳すると「あなたの顔」。ただ、神の顔が喜びに満ちている(つまり神が喜んでいる)のではなく、神の前に生きるとき、喜びに満たされる。

「喜び」は9節と同じだが、「楽しみ」は9節のとは違う類義語。

「(あなたの)右の手」は8節と同じ語だが、神より上位の存在はないので、ここでは神の力ある手ということ。神の手にある楽しみや喜びを、神と共に生きる者は与えていただくことが出来る。

構造

    1節  祈りと信頼の告白
  2〜4節  信仰の告白(あるいは、偶像礼拝者の言葉)
  5〜6節  神こそ私の嗣業
  7〜9節  神と共に生きる喜び
10〜11節  神が与えて下さる祝福

メッセージ

神を主としながら他のものに喜びを求めるのは偶像礼拝の生き方である。主こそが喜びの源泉となるとき、死のような状況にあっても命の道を歩む祝福に与ることができる。主を前に置く日々こそが喜びの生活のカギである。

この詩篇は復活を預言するメシヤ詩篇にもなっている。復活とは単に肉体的に死から命に帰ることではなく、神との関係において生きることの究極的な表れであり、つねに主と共に生きるとき、すでに復活の命に生きているのである。その喜びの延長線上に天国の(永遠の)命がある。

(c) Tomomichi Chiyozaki 千代崎備道 2003/12

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