「救いへの叫び」
賛美ではあるが、祈りでもある。
「聞いてください」「み心を向けてください」「耳を傾けてください」と、三つの動詞の命令形が立て続いて出てくる。同じ意味で用いられ、意味上の違いは無い。
「義」は旧約聖書中100回以上、詩篇でも50回以上出てくる、重要な語だが、ここでの意味は曖昧。他の二つ(「私の叫び」と「私の祈り」)と違い、「私の」がついていないが、それを「聞く」のだから、詩人の語ることと考えて良い。2節に法廷用語が出てくるので、これを「(義しい)訴え」と解釈することが多い。並行法の使い方から考えると、2、3行目によってこの「義」が「私」のものであることが示唆され、逆に1行目によって「叫び」や「祈り」が「義しい」ものであることが表されている。また、このことは4行目によって再確認される。
「み心を向ける」は身を傾けるという意味の動詞で、耳を傾ける、注意を向ける、といった意味。ここでは「聞く」と同じ意味。
「叫び」は「大声で叫ぶ、喜び叫ぶ」という動詞から出来た名詞で、多くの場合、歓声を意味する。ここでは祈りと並行しているので、喜びの意味よりも叫びの意味が取られている。
「偽りの唇からでは無いのです」は苦しい訳。直訳では「偽りの唇ではない中で」と、意味が掴みにくい。「唇」はしばしば、そこから発せられる言葉を指す意味で使われるので、ここでは叫びや祈りと関連している。前置詞は「中で」であって「から」ではないのだが、「口(唇)の中の祈り、叫び」とするより、それが外に出ていることを考えて、「唇から出る」と理解することができる。したがって「偽りの唇ではないところから(出てくる言葉)」という意味で、日本語訳では「偽りのない唇から」として良い。
詩人は嘘偽りではない、心の底からの祈りの叫びを発している。そして、神にその祈りに耳を傾けるように必死に求めている。3行の並行法から、その緊急さ、切実さが伝わってくる。
「出る」と「見る」は、未完了形だが、命令(願望)を表す場合もあるので、「出ますように」や「ご覧下さい」と訳すこともできる。特に前節で三回も命令形を使っているので、その余韻から命令(願望)と考える翻訳が多い。詩人にとって神が祈り(叫び、あるいは訴え?)を聞くというのは、聞いて終わるのではなく、それに対して正しい裁きを下される結果となることを含んでいる。
「御顔(から)」はしばしば「御前(から)」と訳される。これは人間は神の顔を見ることは出来ないので、間接的に述べるため。宣告が発せられるのは(神の)「口から」だが、やはり直接的にならないように「顔(前)」としている。どちらにしても、これは目に見えない神を人間になぞらえて表現する擬人法であって、詩文では良く用いられるが、神が人間の体と同じような構造(顔や目があること)をしているのではない。
「裁き」や「公正」は法廷用語として用いられることが良くあり、預言書でも頻出している。「私の裁き」とは、詩人が裁かれる、ということよりも、詩人の訴えたことに対する裁き。そして、その裁きが公正であることを求めている。もちろん、神の御性格から、公正でない裁きをなさるはずはないので、その義なる神への信仰から発せられた訴えである。
1節と2節は「聞く」と「見る」の違いはあるが、共に詩人の現状を知って、正しい裁きを行って欲しいという嘆願であり、法廷の情景になぞらえての祈りの序文となっている。そのような枠組みの中で3節以降が語られている。
この節は前節と違って完了形の動詞が用いられ、口調が変化している。これは過去のことを述べているのではなく、詩人が確信をもって語っている表れである。
「試す」も「精錬する」も、詩人の心の中に罪や不純物があるかどうかを調べること。「夜訪れる」とは、急に夜中に訪問して、隠すことの出来ないありのままの姿を見る、ということ。どのように調べられても、「何も見いだす」ことはできない、と詩人は確信している。これは、それだけ詩人が神の前に誠実に生きている、ということであり、罪を平気で犯し続けながら厚かましく無実を主張しているのではない。
「見いださない」は目的語が省略されている。詩人の罪を見いださない、あるいは何も見いださない、ということ。
「私は考えますが、私の口は罪を犯しません」は意味が掴みにくい。「考える」と「口」から、思いにおいても言葉においても罪を犯さない、と理解する訳が多い。「私の口は罪を犯しません」が未完了形動詞に戻るので、「口で罪を犯さない」と心で考えた、つまり決心した、と理解する訳もある(文語は「わが口はつみを犯すことなからん」)。「罪を犯しません」としているが、直訳では「私の口は越えません」で、定めを踏み越えて罪を犯す、ということだろう。どのような罪も人間の努力では克服し難いが、言葉の過ちは特に難しい。「舌を制する者は完全な者」(ヤコブ書)である。
この「人」は自分の行いのことではなく、一般的な意味での「人」。「行い」は前節の「言葉」に関する罪に対して、行いに関する罪を取り上げる。
「あなたの唇の言葉」は「あなたの言葉」、「御言葉」と同じことだが、前半と後半の長さを合わせて、リズムを整えるためだろう。
「見張りました」は「守る」という意味もあるが、悪い道を守る、では文脈に合わないので、「見張る」とした。見張って何をするかと言えば、その道に入るのではなく、入らないようにするのは明らか。御言葉によって罪を犯さない、という考えは第119篇にも見られる。ここでは一行目の後半と二行目の「見張る」とを結びつけて訳しているが、以下の用に訳すことも可能。すなわち: 「あなたの唇の言葉にある人の行いに関して、私は守って、暴虐な者の道を避けました」
「暴虐な者の道」は、そのような行い、あるいは生き方のこと。「守る」という動詞と結びつけにくいので、新共同訳は次節と結びつけているが、詩のリズムを崩さないほうが良い。
「堅く保ち」は、しっかりと握る、という意味だが、ここでは「歩み」に関してなので「堅く立つ」とする訳もあるが、「立つ」だと「歩む」ではなくなるので、ここでは「(道を)保つ」、つまり道を離れない、という意味と考える。
「道筋」は、「車、戦車」と関連する言葉で、車ならば「轍」のこと、あるいは、神の通られたあとの道筋、という意味で、神の定められた道を歩むことだろう。「塹壕、野営」とも訳されるが、ここでは「道(筋)」のほうが良い。前節の「道」とは別の言葉である。
「滑る」は「よろめく」とも訳され、安全でない、安定していない状態を意味する表現。「足」は普通使われる「足」ではなく、主に詩文で使われる言葉。
「私は」は強い強調形(強調の代名詞を文頭に置いている)。前節でも「私」に関して述べているので、他の人はどうであれ自分は、という意味の強調ではなく、ここから新しい区分に入って、強い口調で訴えを述べていると考えられる。
「答えられるから」は、接続詞「キィ」を理由を表すと理解して。強調と理解して「まことに(あなたは私に答えられます)」としても良いが、意味はほぼ同じ。神が答えてくださるという信仰によって、詩人は神に訴えている。
「傾け」は1節とは異なる表現で、「(手を)伸ばす」、「(身を)乗り出す」といった意味の動詞を用いている。ちょっと傾けるのではなく、身を乗り出して近づけるように耳を向けること。 1節と同様に「聞いてください」と語り、今度はより具体的な願いに入っていく。
「驚くばかりにしめして下さい」は「目立つ、区別される」という意味の動詞で、少しだけ示すのではなく、目立つように表すこと。「素晴らしい」とも訳される。
「慈しみ」は「ヘセド」というヘブル語。神の愛の現れの一つで、善意・慈愛などの意味。ここでは救いを必要としている弱い者に対して示される愛。
「避け所を求める」は詩篇でよく使われる言葉。嵐の中で身を避ける場所、苦難や危険の時にかくまってくれるところを求める意味。神は、ご自分を頼って来る者を必ず助けられる、という信仰に立って、詩人は呼びかけている。「救うお方」は救い主を指す言葉。この動詞と神の名前(ヤハウェ)を結びつけて、「主は救う」という意味の名前がヨシュアで、そのギリシャ語読みがイエス。
「右の手をもって」を救うと結びつけて、神の力ある右手で救う、と理解している。「立ち上がる」は神に逆らって立ち上がること。
「目の瞳」は奇妙な表現だが、原文では「目の娘の瞳」で、「目の娘」自体が瞳を表すので、「瞳の瞳」となってしまう。第一に守るべき所、という意味。
「あなたの翼」は、神に翼があるのではなく、神の守りを表す詩文独特の表現。親鳥が雛を翼で隠して守るように、神は守ってくださる。
8節に続いている。
「しえたげる」は「破壊する」という動詞。これから派生した形容詞は、例えば戦争によって荒廃した町を表す場合に使う。
「肉欲のうちにある」を理解するのは難しい。ヘブル語「ネフェシュ」は「魂、命、自身、肉欲、食欲」など、様々に訳される。「どん欲な」、「命のある(あるいは、死すべき)」などの理解があるが、明らかではない。10節でさらに明らかにされる、敵の恐ろしさをさす何らかの表現と考えられる。
具体的に誰かは分からないが、詩人が助けを求めているのは、このような敵によるしえたげ、圧迫からだった。
「心を」は「脂肪」という意味の言葉で、理解しにくい。口語訳は「心」と解釈し、新改訳は「鈍い心」に考える。新共同訳は「肥え太った心」と理解して、「閉ざされ」と受動態にして「とりことなり」と訳している。どれにしても、これは敵たちの心の状態であり、閉ざされた心に対して、口は開いて高慢に語っている。
「私たちの歩み」は、前後の動詞と結びついていない。恐らく、「追いかける」、「追いつめる」などの動作が省略されているのだろう。その動きの最後に、「今や」取り囲んでいる状況である。「私」から「私たち」に変化している。詩人一人ではなく、詩人を含む者たち全てを敵は追いつめていく。自分だけでも大変だが、自分の愛する者達までも危険にさらされるのは、もっと大きな苦痛である。
「目を定めて」はねらい・照準を合わせて。今にも襲いかかろうと狙っている様子。それを猛獣に例えているのが次節。
「獅子」「若獅子」と、敵をライオンに例えている。獅子と若獅子は並行法で並べられるが、同じ事の言い換えであって、特に違いは無い。
「狙っている」は「慕い求める」という動詞。口語は「いらだつ」、新共同訳は「あえぐ」としている。
「隠れた所」は「隠れ場」とは違う言葉、秘密の場所の意味。知られていないところで、卑怯に隠れて狙う様子。
「立ち上がってください」と再び命令形になり、この節では4回命令形が出てくる。前節まで敵の様子を叙述していたのが、口調が変化し、新しい区分に入る。
「主」は「ヤハウェ」で、この節と次節、二回呼びかけている。
「彼に立ち向かい」は「彼の顔の前に立つ」が原文。この節では敵が単数になっている。単数と複数が入れ替わるのは詩文では珍しくない。敵の中の特定の者と考える必要はない。流れを妨げないように口語訳は複数形(彼ら)にしている。
「(私の)命」は9節の「ネフェシュ」と同じ言葉。同じ詩のなかでも様々に訳される。
原文でも長い節で、特に前半は動詞が無いため、訳し難い。前節の「救ってください」と結びつけて考える。
「あの者たちから」は直訳では「男たちから」。二行目の「あの者たち」も同じ言葉。三つの「から」が出てくるが、それらを「救ってください」と結びつける。「彼らの分け前は生きている間だけ」は「あの者たち」の説明と理解している。あるいはそのような「世界から」。
「宝」は「隠されたもの」が原意。敵である者たちも、神のものによって養われ、支配の下にある。「子らに飽き足り」は多産を意味し、本来は祝福の現れと考えられた。「隠されたもの」を神のもとに隠された人々と理解し、「そして」を「しかし」と訳すと、後半は神の宝である人々への祝福となる。新共同訳はそのように理解している。どちらであるかは判断が難しい。
前節で人々(敵?)がこの世での祝福で満足しているのに対し、詩人は神の顔を見ることで満ち足りる。「義」は「救い」の意味もあるので、「救われて」と理解しても良い。もちろん、旧約の人々にとって神の御顔は直接に見ることのできないものだが、恵みによって神と会うことが赦されている。新約の救い(義認)をいただいた者にとっては、信仰によって神とお会いする時であり、死から目覚めるとき、天国で神のお姿を見ることができる。
1節 「聞いてください」、神への呼び掛け
2〜5節 正しい生き方と信頼
6節 「聞いてください」、神への呼び掛け
7〜13節 敵からの救い
7〜8節 救いの願い
9〜12節 敵の描写
13節 救いの願い
14〜15節 世の人の満足と救われた者の満足
(現在修復中)